人それぞれ

生への執着に気付く。死にたくないけど生きたくないのは普通かも

どうして生きたくないのか?
何年生きれば満足か?
なんで死にたくないのか?

世の中には早く死にたい人もいれば、死にたくない人もいます。
人それぞれですが、中でも、“死にたくない”と思っている人は多いかもしれず、そこには生への執着があるかもしれません。

自ら命を絶やす人を批判し、生き続けることを善とする世の中の生への執着ルールがあるのか、幸せになって自分の満足するタイミングでしか死にたくないのか。

私達は死を遠ざけ、死への恐怖と不安を感じながら生きていく社会にいます。
死は必ず訪れることなので、太陽が昇るようなものです。満月を観るようなものです。夕食にカレーライスを食べるようなものです。

それならば、少し気楽に生死について考えてみるとどうなるのか。

私の生死への考え方を、気楽に生活をしていくために役立つ考えの一助になることを願い、共有していきます。
生死について違う一面から捉えてみると、実はとても気楽で軽い命に気付き、それは生への執着への理解と解消を促します。

命に根付く、重く慎重に関わるべき堅物のイメージと社会の生への執着ルール。
少し取り払い、肩の荷をどこかにブンッと投げ飛ばしましょう。

 

生への執着 死にたくないけど生きたくない

命の授業

「命は大切にしましょう」
「はーい!」

私が小学生の時の道徳の授業です。

その際の題材となる話は、私の記憶ではほとんどが悲しいことです。
辛いことがあり、命を絶やす。悲しい気持ちになる老人と犬の話。人種を分けたことによる愁いの話。戦いをしたことによって失った気持ち。いじめられた鬼と暴力で正義を掴みとったちょんまげの話。貧乏によりご飯が食べられない不幸を広める話。可哀想だと想うマッチを売る謎の人の話。

そこで抜粋された大概の話は、辛く悲しく、可哀想だと想うものでした。

そこで伝えられたことは、「人の死は辛く悲しいこと」です。

先生:「みなさん、命は大切にしましょうね」
生徒:「はーい!」

私は授業を聞きつづける能力を持っていなかったので、ずっと道徳の教科書を読むか外を眺めているかをしていました。そして、最後の先生の決め台詞だけ耳に入って来て、キーンコーンカーンと授業終了です。

きっと、あの時先生が言いたかった「命は大切にしましょうね」は、「全ての命は大切にしましょうね」ではないかと思います。

命を大切にすることで、他人の命を奪ったりせず、辛い状況が他人にあれば命を落とさないように助けることが出来る。自分も他人も同じように大切に敬い、動物や虫や人間に線引きをしない、ましてや人種や特徴で区分けして違う目線で人を見比べることをせず、全ての命を尊い敬う。

人間は幼い頃は何も知らないので、生きる知識を周囲の助けによって学んでいきます。
生きることが出来る環境が整えば、次は社会性を学び、社会に順応して人と共存する術を学んでいきます。

「どうして生きているのか?」「何のために生きているのか?」ということは学びません。きっと知っている人が少ないので、教科書がないのかもしれません。
命に関しては知識量が社会には少ないので、まだ学校などでは誰も教えられないのかもしれません。

ですが、悲しいことや辛いこと、可哀想だと想う情動を駆使して、「命は失くしてはならない」「大切にしなければならない」ことは主張します。

「なんでかわからないけど、死ぬのは多分辛くて悲しいことだからさ、死ぬんじゃないぞ」
「人が死んだら悲しくなるんだぞ」「可哀想だと愁い嘆くんだぞ」「涙を流そうじゃないか」「若くして死ぬのは悲しいんだ、若くなければ、まぁみんなと同じだから仕方がないことだ」

子供は純粋なので、授業を聞いている子は、「なるほど」と頷くか、「なんでですか?」と疑問に思います。

小さな私も当時、先生に質問しました。
「先生、どうして私は生きているんですか?」「何のためですか?」「なんで先生は生きているんですか?」「なんで人が死んだら悲しくなるんですか?」「なんでみんなと同じ平均まで生きたならそんなに悲しくないんですか」

先生はわからないと言ってくれました。
その先生はとてもいい先生です。わからないと言ってくれることで、自分自身で答えを探す道を示してくれました。

大概の人は嘘をつきます。「わからない」ことをひた隠す努力をします。
そんな先生たちは、「お、難しいことを聞いてくるな、ははは」「そうだな、人が死ぬと辛く悲しくなるだろ、そんな気持ちを持ちたくないからだ」と言ったりします。

「人が死んだら辛く悲しい気持ちになるのはどうしてですか?」と聞くと、「大切な人がいなくなると悲しくなるもんなんだ」と答えのない答えを返します。

「その大切な人に依存していたことで、その人がいなくなることが自分にとって不利益になるから、自分を思って悲しいんだ」とは誰も教えてくれません。

小さな私は、一番大切なおじいちゃんが死んだ時の葬式でヘラヘラしていました。
ぼうずがモクモクと呪文を唱えている時に、ぼけーっとしながら「チョコボール食べたいな」「なんで正座しているんだ」と考えていました。
そして、仕舞には、「なんで泣かないの?!悲しくないの!」と怒られました。

若干のパニックです。
「えっ?!泣かなきゃいけないの??」と訳がわかりませんが、みんなの神妙な演技と、悲しい波動に包まれたその場では、何とか無理矢理に泣こうと頑張る小さな私がいました。

今思えば、その怒った人はストレス性精神疾患だったでしょう。自分の意見を押し付けて生きているので、自分の持っているルール通りにいかなければ人を攻撃してまで同じルールに当て込み、縛り付けます。

観念とはそういうものです。思い込みの常識やルールは要る?縛りつける人生を解放しませんか をぜひご覧ください。

価値観を押し付ける人の特徴と仕組み│同じ人間になる法則を打破この世には、さまざまな常識やルールがあります。 必要のある大切な常識やルールは文化や伝統という形で継承されています。その一方、物事...

 

生への執着

「死にたくない」と思う時、どうして死にたくないのか考えてみると、面白いことがわかります。

「どうして私は死にたくないのか?」

そこにあるのは、死への恐れと不安です。

「なんでかわからないけど、死にたくはない」という思いは、死への恐怖心や不安感を抱いていることから生まれ、生への執着を作ります。
「死んだら最高に幸せなことが待っている」という常識が世の中にあれば、生への執着を持つ人はそんなに多くはないかもしれません。

死ぬことにたいして恐れや不安を抱いている場合、それは作られた思いで、社会で作られています。

何か疑問が湧いてきた際に、「どうして?」と聞いてみて、それに対する答えがないものは、作られたものか知らないことです。
知らないことであれば信じることしかできないので、良いようにも悪いようにも解釈があり、解釈の仕方や内容は自分の性格と現状を表しています。

※作られた死への恐怖心と不安感についてをまとめていますので、作られている思い込み?!死への恐怖がないのは普通である事実 をぜひご覧ください。

https://nandemoii.com/death-is-familia/

「死にたくない」と同様に、「生きたい」という生への執着があります。

「どうして生きたいのでしょうか?」
それは、生きているからには命を大切にして、生き抜くように(自ら命を絶やさない)ルールとして教えられたのかもしれません。
教えられたので、その教えてくれた人の意見か、社会のルールかどちらかですが、どうして生き抜く必要があるのでしょうか。

現状が幸せな人であるならば、「もっと生きてこの幸福を味わっていたい」と想うかもしれません。
現状が幸せではない人に、「生きたい」と思う理由はあるのかどうか。

未来を予想して期待している場合、生きたい理由になります。活力になります。モチベーションになります。

幸せ、楽しい、嬉しい、心地良いなどのポジティブな気持ちは生きるモチベーションとなる。

※ポジティブな気持ちを持つことが生きたい理由になる。ポジティブな気持ちがなければ生きる理由はない。
※ネガティブな気持ちは死にたい理由になる。ネガティブであっても死にたくないのは、現状が改善された未来の幸福に期待しているか、社会のルールに従順する思いが死にたい思いより優先されているか、死への恐怖が死にたい思いより強いか。いずれにしろ全てが作られたルールによって生への執着となる。

「生きたい」「死にたくない」という2つの思いは、ポジティブな心地良い幸福感を味わっているか、ネガティブな心地悪い不幸感を味わっているかの現状の状態や状況によって生まれる。

※生きている意味については、つまらない人生はやめちゃう。全部放り投げてやめる方法 をご覧ください。

人生をやめると見える気楽さ│全部放り投げると気付く真意とやめる方法生きている人の中には人生が楽しいと感じる人もいれば、人生どうでもいいと思う人もいます、何も思わない人もいます。 その違いには何があ...

 

死にたくないけど生きたくない

この世にはさまざまルールがあります。
受け入れるかどうかは人それぞれですが、「これは常識」「常識はみんながすること」「みんながすることは正しいこと」と、ルールを重ね塗りすることで、「常識やルールは守らなければならないもの」と錯覚して、みんなと同じ考えを持ち、仲間外れにされない自己防衛の道を歩みます。

そんな常識やルールの1つに【死&自殺】があります。
社会の考え方を観てみましょう。

死&自殺へのルール

第一条項目【死】
第一項:命は尊く敬う存在だから、軽々しく死を受け入れてはならぬ
第二項:死ぬことは悲しいことだから、葬式では泣きなさい
第三項:人がいなくなることは辛く悲しいことだから、死んではなりません
補足追項※死んではならないが、病死と老死は仕方のないことです、受け入れましょう
第四項:命は大切なものだから、自ら命を絶ってはならぬ

第二条項目【自殺】
第一項:自ら命を絶つ行為は命への軽蔑であり悪である
第二項:自殺をする者は地獄行き
第三項:浮遊霊となって彷徨う苦難が待ち受ける行為が自殺

ルールである考え方は法律とは違うので、そのルールに従うかどうかは自由意志によるものです。
社会で生きる選択をする場合、法律が守るべくルールです。
法律は人々の生活向上と秩序を守る大切なものであり、幸せと安心を作るベースとなる先代の知恵の進歩的集結意識です。
そのため、他の命を奪うなどの行為や、自殺により他の人に迷惑をかける行為はルール違反です。

死と自殺に対する考え方は他にもたくさんあると思います。
死んだ際に火葬しなければならないのは法律ですが、葬式をするかどうかは自由意志です。

死へのルールを観てもらうと、“自分の命”ではなく、“他人の命”が対象で命を観ていることがわかります。

他人の死に対しての心持ちを重く慎重にして、軽はずみなことは言っても思ってもダメというルールを付けます。
それによって死への距離を遠くします。死に触れにくい重たい印象を付けてあまり深く考えないようになります。

人が死んだことを笑ったらダメ、喜んだらダメというルールは徹底しています。
長く付き添ったパートナーが無くなった時に、「保険金が入るよ、死んでくれてありがとう。好きでもないのに一緒に居たかいがあるってもんだね、感謝感謝」と葬式で公言したら、白い眼で見られます。

そこに矛盾はありませんが、ルールが徹底されている人からは冷たい軽蔑という攻撃をされます。ルールのない正直者の常識人は排他されます。

そして、自殺に関してはとても重たい雰囲気があります。

これまでお伝えした内容から言うと、ポジティブな想いがなければ生きている理由はありません。それであれば、「よし、じゃあ死のうかな」となりそうですが、なかなかスムースにはいきません。なぜならば、「死にたい」と思っても我々人間は死ねないんです。

【死ぬスイッチ】が鼻の穴の奥底にあって、専用のピンセットの裏側のエッジで、ピンっとはねることでスイッチが発動して死ぬ、みたいなものがあれば簡単なのですが、現実は死ぬのは大変です。

そこで寿命の概念があります。人間は寿命に到達しないと死ねません。
しかし、寿命も生活習慣を変えたり、健康を害する生活をしたり、病気になることで身体を痛めつけることで短くなっていきますので自分次第です。

自殺をする際、首を吊ったり、崖から飛び降りたり、大それたことをする必要はありません。人間は食べなければ死にます、寝なければ死にます。
しかし、それをするのはとても辛いことです。
食べなければ死んでいきますが、体は全力で拒否して、食欲を作り栄養素を取り込もうと必死にゆすってきます。

断食1ヶ月間水なしをしても、たぶん死にません。なぜならば人間はエネルギー体なので、自然からや宇宙からのエネルギーを体が吸収しています。なので、それも踏まえて耐え抜いて食べない結果、ついに死ねます。

私は2ヶ月間森に住んで、草や虫などを食べて生活をしていたことがあり、体中の骨は浮き出るほど痩せましたが、水を飲んでいるだけでも死ぬまでにはなかなか行きません。
気力も生気もないのですが、実際に死ぬには程遠い状態でしたので、人間の体はエネルギーを無意識に吸収していることを実感します。

自殺ができるのは人間だけです。動物はできず、虫もできません。
なぜならば、自殺をするには思考が必要であり、意志の強さが必要です。
なので、命を絶やす行為を自らする際も、出来るだけ辛くない方法を選びます。

結局、生への執着がなくとも、死にたいけど生きる道が残ります。その辛さに打ち勝つ強さがなければ死ぬことができないので、生きる道を歩みます。
それは同義で、死にたくないけど生きたくないという気持ちになります。

死のうとするとわかるのですが、体は死なせてくれません。そして心も許してくれません。脳の思考だけが、死にたいと主張していることを知ります。

脳 vs 体&心

※脳が勝利した際、死ねる
※体&心が勝利した際、生きる

自殺は自分との闘いです。闘いの行方は生きるか死ぬかの本気です。

※私の病気体験によって気付く、命の軽さについてをまとめた内容があります。
命の重さを考える意味や、幸せに繫がる考え方を共有しているので、心を軽く気楽に生きよう。病気から学ぶ命を軽く見る見方 をぜひ読んでみてください。

命の重さを知り気楽に生きる。病気から学ぶ命を軽く見る見方「死」とは、どれほどの距離感を持って関わるものか。 死は未知のことであり、死んでみないと自分がどう想うかはわからないことなので、予...

 

死への執着と恐怖心と不安感

死への執着

「死にたい」という思いは死への執着を作ります。

執着とは、自分がないことを表しており、自分自身がないことで、自分の意見や考え方がありません。自分で物事を考えられなければ、生きている意味を自分で見出すことはできません。

生きている意味は人それぞれにあり、大それたものでも何でもありません。
「体が呼吸をして、食欲を持ち、眠って休息をしているから体が生きたいことを表している、じゃあ生きる」というのも答えです。

体は無意識でも常に生きようとしています。1秒もその生きようとする行為を休めることはありません。常に全力で本気で生きようとします。
自分自身を脳を主体に捉えるのか、心を主体に捉えるのか、肉体を主体に捉えるのかによって生き方は変わります。

体は生きようとしていても、脳を主体に考えた時には、「なんかダルイから死のうかな」とか考えます。完全に体の言っていることを無視します。

また、心を主体に捉えても生きることを望むことになります。
心を主体に捉えた場合、スピリチュアルな概念の『魂としての成長と繁栄を望んで、物質世界で学び経験出来ることをしているのがこの世』という考え方となり、心と体は共存して共鳴していることから、生きることを強く望みます。

死への執着は、体と心を無視した状態となります。
その為、自殺をしたい時に、脳 vs 体&心の闘いが勃発します。

社会の常識やルールは脳がインプットしているので、脳が主体になると、社会の観念に揺さぶられて本質を見失う可能性があります。

自分がない人は、誰かの意見や考えを自分のものとして使用する必要があり、それらの意見は周囲の人やテレビや本が言っていることが元ネタなので、社会の観念によって出てきている情報であれば、社会の考え方次第で物事の判断や考え方の基準、生き方が決まります。
みんながどう思うか次第で生きることになります。

死への執着を持っても、自殺という行為をするかどうかで大きな線引きがあります。

自殺をするには、とてつもなく大きな恐怖に打ち勝つ強さが必要です。
その恐怖とは、“自分で自分を死ぬまで傷つける”という壁です。この壁を乗り越えるには、とてつもない強さが必要です。

しかし、その強さではなく、人に迷惑を掛けて電車を利用して死んだり、周囲の人間を巻き込むことで死んだりする行為は全くの別概念です。
そこに強さは微塵もなく、人への依存と執着、死への執着、エゴのみで他を利用する我欲による自己の存在意義の提示です。

 

死への恐怖心と不安感

死と自殺への観念を作る際のキーワードは、【恐怖心と不安感】です。別記事にもまとめていますが、恐怖心と不安感は人間の最も嫌う感情です。

不安感は真っ暗で何も見えない、何が起きるかもわからない、自分も見えない、居場所もわからない状態と同じ。何も予測・予想出来ないと、脳は何をしていいのかわからず対処が出来ないので、猛烈にその感情を嫌がる。自分のマインドを押し潰すか消すことをしないと不安感から逃れられないので、脳がパニックになる。

恐怖心と不安感を利用することで、我々の脳は言うことに従います。とにかくその感情を味合わないようにすることを脳が望むので、依存したりすがったり執着したり、何でもします。とにかく嫌な状態でなくなることに必死になります。
それによって、マインドをコントロールすることが容易になります。死への観念を植え付けやすくなります。
さらに、死への恐怖と不安を作ることで、経済的発展がしやすくなります。
恐怖と不安を拭う為のビジネスを生み出し、安心や安全、保障と言った言葉を重要視します。
命の保身に責任転嫁で、生への執着が生まれます。

※「死にたくないけど生きたくない」と思う方は、生に執着はしていません。
ネガティブな思いが先行している現状があり、“自分”を持っているので常識やルールとの差に矛盾を感じています。そこに、純粋な性格が影響し、“ルールを守らなければならない”と思う自分、生きている意味がない自分、死への恐怖心や不安感がある自分、によって死にたくはない状態になります。

 

生への執着 まとめ

生死への常識やルールを取り払ってみてください。
そこには、「生きている今の現実」と、「いつか来る死」のみがあります。
それらは透明です。良くも悪くもない、正解も不正解もありません。
そこに色を付けて意味を付けるのは自分自身で、人それぞれです。

「死にたい」と思うか、「生きたい」と思うかは自由です。
そこに自由度をなくしているのは社会で作られたルールが邪魔をしているからであり、周囲の眼や耳を気にするルール設定をした自分がいるからであり、それらが生への執着や死への執着を作ります。

命を考える際、対象は自分の命であって、他人の命ではありません。
しかし、自分の命に関しては死んでみないとわからないので、信じることしかできません。

死んだ人の気持ちはわからないので、死んだ人の周りの生きている人達の反応を観て、死ぬのは辛く悲しいと思い込みます。

結局死んだら死んだです。動物の命と人間の命、どうして重みが違うのでしょうか。
脳みそが多い方が尊いのか、命を大切にされるべきものが成り上がる階級制度があるのか。

隣の国の人が死んでも悲しくないのに、隣の家の人が死んだ方が悲しいのはなんででしょうか。
人の死に対する感情の入り込み具合は距離に比例しています。

死んだら死んだです。誰が死のうが死んだもんは死んだんです。それ以上もそれ以下もありません。
身近な人が死ぬことで我々はたくさんのことを学びます。その人は死んでもなお、残った人達に大切なことを教えてくれます。
結局は自分であり、主観は自分です。この人生の主人公は自分であり、自分のことを考えています。

他人の命の動向に揺さぶられるのは、ルールに揺さぶられていることが原因です。
自分の命のことは自分が決めることです。死のうが生きようが自由です。
他人の命は自分と同じ命として敬い大切なものであり、それ以外の常識やルールはありません。

何を信じるかは人それぞれですが、死んでみないとわからないことなので、気楽に幸せに繫がることを信じることをおすすめしたいです。

※死後の世界があるのかどうかは実にどうでもいいことなのですが、死後の世界があると信じることで少しでも気楽になるのであれば、あの世の暮らしは楽しい?!死後の世界に行ってきましたので詳細をどうぞ を参考にしてみてください。

あの世の暮らしぶりは今世で決まる|死後の世界が楽しいかは自分次第死後の世界のあの世には、死んでからのお楽しみとなる楽しい生活があります。 何度かあの世へ行ってきた経験があるので、あの世とはどうい...

それでは、「人生は気楽にいきましょう」というお話でした。
最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございます。

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