結婚や出産の報告は朗報、世間的には。
それはどうして朗報なのか、考えたことはありますか?
共存意識が強ければ強いほど、それは原始時代に遡ります…というのは話が長くなるのでしませんが、他と共存することで自分が成り立っていると思う人は、結婚や出産は全体のためになるので喜ぶ傾向があるかもしれません。
今の時代、共存意識は社会性にて抱きますが、その意識を強く持ち、全体のためになると考える人は少ないかも。
こんな話からわかる人間模様、私達は自分に利益がなければ喜ぶ理由がない、と冷ややかに思えるけど温かくなる事実があったりします。
ここでは、友達の結婚や出産に喜べない理由、特に喜びたいけど喜べない理由と改善を、自意識と人間性の観点から紐解いていきます。
喜べないことを問題視すると自己嫌悪や自己否定など、自らを苦しめてしまう可能性があるので、ご自身を見つめ直す機会となれば幸いです。
若干ややこしいおかしな話ですので、思い当たるところがあれば参考にしていただき、そうでなければ無視してくださいね。
Contents
友達の結婚・出産を喜べない

友達の結婚や出産は本当に嬉しい?
ジャンジャカジャーン、ジャンジャジャジャーン
「この度、私友人Aは結婚することになりました!」
煎餅食って、「ふーん、バリバリ」
「えっ、それだけ?嬉しくないの?」
「なんであんたの結婚を私が嬉しいのよ、相変わらず不思議なこと言うねー」
結婚や出産する当事者は嬉しいです、なんせ自ら望んだことが手に入ったので。
このように自分にとっての利益(喜びや楽しさ、不安や恐怖をあじわわないなどの納得や満足)があれば当然嬉しい。
が、当事者ではなく、実際に利益がない人は何が楽しくて嬉しくて、喜ぶのでしょう。
喜ぶ場合、結婚や出産はおめでたいと思います。
「喜びたい、祝いたい」と思いをはせる状態です。
全く知らない人の結婚報告、「インドガンジス川沿いの小さな集落の牛飼いがついに結婚したんだって」
「だからなんやねーん、よく知ってんなー」とツッコミたくなるほどの話、もはやボケの類だと思っちゃう。
ですが、幼馴染で大親友の栗田っちが結婚、「もう今直ぐにでも祝いたい、飲みに行こう」となるかもしれません。
喜び度の違いには距離感が考えられます。
距離感とは自分との距離、人間性や価値観や思想、性格や人格や気質の近さ=相手を理解・共感・同情できるか否か。
いわゆる、自分に接するかのごとく関われる人かどうか。
このように距離感によっておめでたいと思うか否かが変わり、大親友や最愛の人ほどでなければ誰もの距離が遠のくために、「喜びたい」と思わないのは自然かもしれません。
友達にとってはおめでたいとしても、他人が喜ぶかどうかは、喜びたいと思うか否か=自分が嬉しいと思える利益があるかがポイントになります。
他人のおめでたいことが、自分にとって利益があるかどうかは完全に人それぞれです。
それが距離感。
距離感とは仲良し度ではなく、如何に理解や共感や同情したいと思えるか否かであり、それはどれほど認識(自分という存在の範囲)が広いかで変わります。
少しわかりにくいので、詳細を紐解いていきたいと思います。
友達の結婚や出産を喜ぶ人
距離感、これはとても幅広い概念が含まれ、距離感が近いかどうかは、近くできるかどうかだったりします。
言い方を変えると、認識幅です。
私達は自我をもって生きているので、己が全ての中心として物事を認識します。
そのため、自分を最も愛し、大切にし、喜び、笑い、楽しみ、欲を持ち、願望を叶え、利益を求めます。
ボランティアで人々を救済するのは自分のため、それは助けることでの正義や道徳観の納得があり、助けた人の笑顔や喜びが自らの歓びであり幸福、生きがいであり使命など、慈悲でも慈愛でも、他者の喜びがあっても必ず自分の利益があります。
どれだけ近い存在が結婚しても、全く知らないウガンダの金持ちに10人目の奥さんができても、「自分にとっての何かしら利益」がないと喜ぶ理由がありません。
自分が結婚すれば最も喜ぶ状態、そこから距離が遠のくにつれて喜ぶ理由がなくなっていく、だけど認識を広げて距離感を自分から近くすれば喜ぶ理由を見つけられる、という話です。
ここでわかるのは、友達の結婚や出産を喜ぶ人は喜ぶ理由があるということです。
ウガンダの金持ち野郎でも、「10人目の奥さん超苦労人で、これで8人の子供を養えるんだ」なんて実情を知れば喜べたりします。
それが、自分にとっての何かしらの利益。
利益と言ってもお金の話ではありません。
利益とは、喜びや嬉しさ、不安や恐怖のなさ、いわゆる認めたいと思えることがあり、認めたくないことがない様。
他人の結婚や出産に対して、「喜びたい、祝いたい」と思っている人は、自分にとっての利益が友達にとってのおめでたい状態にある人です。
利益が他人のおめでたい状態にある人ってどんな人でしょうか?
- 喜ぶことが自分にとっての喜びになる人
- 自分で利益を増やそうと喜ぶ理由を探す人
言い方を変えると、自分を愛して大切にしている人です。
友達の結婚や出産を喜ぶ人は、自分のために喜びます。
これは結婚や出産に関係なく、他人の幸せ全般を喜ぶ人にも該当することでして、喜ぶために自分にとっての利益を見出す必要があり、認識幅を広くして喜ぶ理由を見つけ出すのが上手な人です。
友達の幸せを喜ぶ必要があるのか?
他人の幸せを喜ぶ人は喜ぶ理由を見つけ、自らの認識幅を広げて距離感を近くする努力をします。
「自分のために」を忘れてはなりません。
自分が喜ぶために相手のおめでたい所を一生懸命探すことで、他人も己も喜び、良い塩梅でみんなが喜びます。
慈悲でも博愛でも自分を忘れず、自己犠牲にならないことが喜ぶ意味を拡大させて相手も喜ばせます。
といってもガツガツして、「私が喜びたいから祝うんだ、ガハー」というモンスターもいるでしょう。
見返りを求めたり、マウント取り、褒められ認められたいなどの承認欲求と我欲を持つ人は、「このメチャクチャ高かったプレゼントあげるから、私の誕生日はよろしくね」という具合にお祝い時を利用します。
小さな集落や少人数環境、コミュニティの集団意識が生存にも係わって大事であれば、結婚や出産は誰しもの利益に自然となります。
集団を基準に自分を構成し、仲間や家族がいるからこそ自分が成り立つという、お互いの支え合いや相互関係があれば、そこには既に利益があるので、コミュニティでの行事や祭事、喜ぼうとするお祝い事は重要になります。
不安や恐怖、苦痛や危険などから身を守るためにコミュニティに属す場合には、その場を崩さず、保身や安泰を守る己の利益のために、コミュニティ内でのおめでたをもてはやすことも起きます。
何かしら自分にとっての利益があるからこそ、お祝いし、おめでたいと喜びます。
それでは、利益がなければどうなるでしょうか?
喜ぶ理由を探す必要があります。ですが、喜ぶ理由を探す意味がなければ喜ぶのは困難。
「結婚や出産はおめでたい」という常識に従うことが利益になる人もいます。他からの評価や判断など体裁が気になれば、不安や恐怖を感じる不利益がなくなります。
如何に自分を大切にするかは完全に人それぞれの価値観ですので、自らへの利益・不利益を鑑みて、結婚でも出産でも喜ぶか喜ばないかが決まります。
友達でも家族でも特段喜ぶことは必須ではなく、人間性を疑うものでもなく、自分のために喜ぶかどうかがこの話の焦点となります。
友達の幸せを喜べない理由
友達の幸せを喜べない理由
喜べないのは喜ぶ理由がないからであり、利益がないからです。
これは自然な状態かと思います。
ですが喜べないではなく、喜びたくない、不幸になればいい、嫉妬するなど、相手に攻撃性を持つ場合は話が一変します。
喜ぶ理由や利益がない場合と、攻撃性を持つ場合、大きくタイプが分かれます。
- 自意識が高い
- 自意識がない
一つずつ見ていきましょう。
1、自意識が高い人は友達の幸せを喜べない(喜ぶ必要がない)
自意識、これは自と他を区分けし、自分の存在に気づき、自らに向けられる意識です。
ややこしいですが簡単に言うと、「自分」という存在を自ら認知し、他と一線を引く自分です。
自意識が高い人は、「自分は自分」「他人は他人」と認識するため、他人の幸せを喜ぶ理由は探し出さないとありません。
一方、自分の幸せは最大限に感じます。
距離感が近くなくても、意識的に喜ぶ理由として自らの利益を見つければ、他人の幸せにも喜べます。
自意識が明確にあるので、望めば利益を見出して友人の幸せを喜び、望まなければそのまま、「常識だから従う」などの他律はなく、自律を持って選択します。
そのため、喜ぶ理由がなければそれまで、「喜ぶ必要がない」と自身の在り方を確立しています。
2、自意識がないと友達の幸せを喜べない
もう一つのタイプは自意識がないため、自己防衛意識が発達します。
すると、集団意識を強めて大衆的で他律になります。
自分の意見を持つ以上に、常識や大多数に従う傾向があり、物事や人を上下・勝ち負けで比較し、評価・判断します。
そのため、自らの見栄え、体裁、他からの評価や判断を気にかけ、気を使い、心配し、性格を外向けに作り、否定や排他されないように身を守る在り方をします。
エゴ意識の拡大です。
自意識がないことで起きるのは、自らを他によって認知し、認識材料を増やす他によって自分の存在や価値や意義を見出そうとするため、比較が必須となり、保身や安泰を求め、他からの評価が下がることを恐れます。
友人の結婚や出産などは自らを劣等、相手を優越にすると判断し、同じように周囲も考えていると思い込み、「自分と同じはずだったのに」と裏切られたように思う人もいます。
すると、嫉妬や恨みなどの攻撃性を持ち、大きな特徴として認めない拒否(否定や批判)が多くなります。
自意識がなくとも肉体や脳があることで自分の実体がありますが、心や精神も含めた存在であるために明確に認識できず、他を利用して着眼やフォーカスは常に自分の価値や存在になり、友人に幸せがあっても見る矛先は、「この人が幸せだと自分はどうなる?」というものです。
友人の結婚や出産を喜びたいけど喜べない人
自意識が高いかないかをお伝えしましたが、この狭間があります。
それがこの内容の主旨、喜びたいけど喜べない人です。
喜びたいのは友達だから、おめでたいと決まっているから、喜べない自分を認められないから…など、自意識がない様。
喜べないのは喜ぶ理由がないから、意味がわからないから、どうでもいいから、必要がないから…など、自意識が高い様。
両方が混在します。
自意識がなくなればなくなるほどに大衆的で他律、または、攻撃的になります。
自意識が高ければ高いほど過剰になり自律が強すぎて他律を抹消、自信過剰や決め付けになり得ます。
なにごともバランスが大事かと思いますが、喜びたいけど喜べない人はこれらの間に入ると考えられます。
いわば、他律と自律の狭間で行き交い、どっちつかず。
この状態、自らの利益を求めるために喜ぶ概念が減り、喜ぶ理由を自ら見出す認識が薄れます。
自分を敬っていない状態です。
すると、自己嫌悪や自己否定、または開き直りで他律に従うか、認めていない自律に従い、どうすればいいかわからなくなります。
一旦落ち着きましょう、スーハーピュー。
ピュー?
※自分を知る話は、本当の自分とは戻るとわかる無自覚のあなた│いつもいるけど直ぐに消えるよね をどうぞ。
友達の幸せを喜べない時の改善ポイント

「友達が結婚・出産しようが、他人の幸せで自分が喜ぶ理由はない」
これは開き直っている訳ではなく、自意識が高い人の通常と言いますか、普通。
「嬉しい?へぇー、で?」
ここで改善に重要なのが敬いです。
自意識が高いからと言って自分を敬っているか、他人を敬っているかどうかは全く別の話です。
自分を敬っていれば、利益を欲する時には、喜ぶ理由を見つけるために距離感を近付ける努力をします。
ですが、利益を欲していなければ(または自分でいくらでも作り出せれば)、喜ぶ理由を見つける動機はないので距離感は遠いまま。自然と距離感の近い親友やパートナーや家族などの幸せは喜びます。
自然、自分に正直です。
他人を敬っている場合、自然と距離感を近くしようとします、相手のために。
相手が喜ぶために距離感を近づけ、相手の感情や気持ちや思考を理解しようと他者認識に力を入れます。
すると「自」に対する認識幅が広がり、「自+他=自」になり、他人の幸せも自分のことのように喜べちゃう。
敬いがさらに強くなると、慈悲や博愛の精神が入ってきます。
この場合、他人の幸せに対するフォーカスを強め、「この人にとってどう嬉しくて、どんな幸せの具合を感じていて、何を言って欲しくて、どれほど喜んだら笑顔になるかな」と、完全に目の前の人にとっての幸せの理解に努め、相手のために喜びます。
相手が喜べば、それが自分の喜びになる状態です。
自意識の高低、自他への敬い、これらのバランスを含めて存在するのが私達人間です。
人それぞれの在り方に対する良い悪いは他人が決めることではなく、自らのみが決めます。
友達の幸せを喜びたいけど喜べない場合には、自意識の高低の狭間にいますが、自覚がないと浮く状態となり、高いも低いも、あるもないもないかもしれません。
初めは他律か自律か、自らの意見を持って喜びたいのか否か、自分のために喜んでいるか否かの自覚が大切です。
その後は、自らの敬いから始まり、喜びたければ喜び、喜びたくなければ喜ばないという自然な状態にしていきます。
自らへの敬いがあれば、自己嫌悪や自己否定はなくなります。地に足がつくように、自らの認識を自覚して選択・決定できるので、自分を大切に愛する状態になります。
そこで余裕が出てきた際には、友達を喜ばすように喜ぶ他への敬いを学び、経験と成長によって友達の幸せを喜ぶことが自他の利益になっていきます。
以上をまとめると、こんな具合です。
- 自意識に対する自覚をする
- 他律か自律かを自覚する
- 正直に自分の意見と認識をはっきりさせる
- 自らを敬う(敬うとは受け入れ、許すこと)
- 自分の思い感じた認識に従って選択して行動する
- 余裕が出てきたら他人を敬うと、喜ぶ行為が自他の利益を生み出す
※他人の幸せを喜べない心理と改善の詳細は、人の幸せを喜べない人は幸せにならない?心理と改善でエセ笑顔とさようなら をご覧ください。

友達の結婚や出産を喜べない まとめ
自分という存在をどこまで広げて認識できるかによって、他との距離感を自由自在に変え、友達や他人を理解・共感・同情して喜ぶ理由を見出せます。
ですが、「人間は個々に存在し、それぞれに生きている」という認識も大切で、自らを心置きなく敬い愛する在り方に自信や自尊を持つこともできます。
どんな人間性でも在り方でも人それぞれに大切ですが、喜びたいのに喜べない、喜べない自分を認めたくないとなる場合には、少し一呼吸したいところです。
まずはケーキ屋に行って、大好きなケーキを5個買って喜んで食べちゃう。
「そんなことしたら下痢しちゃう、けど気にしなーい」なんて、一呼吸話はどうでもいいですが、重要なのは己を拒否しないことです。
己を真に認められる人は、己のみです。
「結婚しました」
「出産しました」
実際に結婚式に行けば、赤ちゃんの顔を見れば、心から「おめでとう」と言えるかもしれません。
そこには、幸せを貰った利益があります。
利益がなければ喜べない。それならば喜ばないでいいか、喜べる理由を探すか。何が良いかは本人のみぞ知ります。
そのためにも、まずは自らを拒否せずに認めることから始まります。
現状の違和感の払拭には、行動と努力と継続が必要です。しかし、その前には常に自覚がある、そんな話です。
それじゃあ、ご祝儀は舌ペロの絵と500円玉でも入れとこうかな。
反応楽しみー、ってね。