プレゼントあげたのに…。
チョコあげたのに…。
相談に乗ってあげたのに…。
見返りを求める気持ち。
自ら見返りを求めるからこそ、心地悪さという不利益を作り、自己理解のなさ、余裕のなさが露呈し、「一体私はなにしてんだ、トホホ」と不甲斐なく思う。
見返りを求めてしまう時、私達の心理にはある大きな観念がありそうです。
「資本主義の縛り」
ここでは、見返りを求めてしまう根本原因と対処法を見ていかれてください。
- 見返りを求めてしまうのはなぜ?
- 見返りを求める心理にてわかる自分とは?
- 対処法とは?
これらを紐解き、「見返りを求めないのは難しいけど、対処法はある」と知っていただく内容となっております。
問題の核には人間同士の関係性が大きく関わります。自己理解によって深める対処法が、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。
Contents
見返りを求めてしまう原因

見返りを求めてしまう原因
「Shall we dance?先ほどは我慢して別の方に譲ったので、次は私と踊ってください」
「くれよ、くれくれ!こっちは与えたんだから!」
紳士で野蛮。表現方法は人それぞれですが、中身は同じ見返りを求める行為。
「こちらは与えたよ、何か貰ってもいいんじゃないの?」
見返りを求める行為には、自ら払った代償(または被害)へのフォーカスがありそうです。
フォーカスが自らの働きであることにポイントが潜みます。
実際に何か利益を得たい訳ではなく、自らの働きを清算したい気持ち。
こちらが与えた菓子折りと同等のバックが欲しいのではなく、菓子折りを与えた行為を終着させたい気持ち。
要約すると、自分の行為を終着させて欲しいという、責任を持って欲しい願望。
見返りを求めてしまう原因と考えられるのは、自分の与える行為をしているのではなく、させられているためです。
働かさせられる場合、見返りを求める
まるでしなければならない、した方がいいような。
私達はあらゆる観念に基づいて思考や行動を発動させます。
一体どんな観念があるのか。
常識フォローにて利益を与える、要望に応える、言うことに従う、いわゆる自分以外の他に従う観念。
他律と言います。
他律による行動には大きな特徴があり、「これは私のための行動だ!」とはならないことです。
「これが常識、ルール、しなければならない、男だから、女だから、日本人だから、都心部だから、田舎だから、そう躾されたから、世間体は守らなければならないから、教科書に書いてあったから‥‥」
私達はさまざまなルールに従う社会の中で生きていますので、知らぬ間に他律は強化され、自らの意志に基づいた思考や行動ではなく、させられる思考や行動になっていきます。
「誕生日にはプレゼントをあげるものだ」
「あげなければ自分の時に誰もくれないから」
「お祝いしないと当事者は寂しいというルールだから」
あらゆる他律行動には意志も意思もなく、自ら進んでしているように思えても、実際には観念によって他のルールや情報に従わさせられている事実があります。
「働かさせられている、あなたのために働いてあげてる、だから私の行為の責任を持って欲しい」
行為の始まりが自分発信ではないため、終わりを自分で作ることはできません。
行為は始めた人が終わらせる必要があり、責任感がある人ほど、「責任を持ちたい、けど持てない」という狭間の中で、終着を作るために見返りを求めます。
責任感がありながら他律が強まると、見返りを求めて行為を完結させる努力をしながら、自分では責任を持てないためにまるで他者にすがっているさまになり、「したくないのにしてしまう」
本当にしたいと思っていないことの見返りは求めたくなる
他律は社会的には欠かせない大切な在り方です。
しかし、自分の意見や覚悟が必要ない他への従いですので、本心や本音がパカッと閉じてしまいます。
社会ルールとして、「それは正解、間違い、良い、悪い、勝ち、負け」と型取り、ごく自然に本心かどうかわかりにくくなります。
「本当にしたいことではない、けれども相手に必要なことで、自分もそうするべきだと思う」と観念が言いますので、まるで本心だと思って行動する人もいるかもしれません。
本当にしたいと思っていないことを、さらに無意識にさせられる。
極端に言うと、嫌々やっている、仕方なくやる、やらないと困ることになる、やらざるを得ない、やるべきだ。
ストレス、疲れちゃう。
働き、もはや仕事。
見返りを求めたくなるのは当然です。
見返りを求めてしまう根本に「資本主義」
他律が原因になりますが、根本には他律の基盤である社会の仕組みが大きく関わると考えます。
日本は資本主義です。
「資本主義の浸透が人間関係にまで及んでる」
そんなお話になってきます。
資本主義によって経済が発展し、お金を軸にした価値観が主体になりました。
よかったです。生きるのが楽です。狙うのはお金です。
しかし、物事や人間同士の関わりは一方通行になっていったのかもしれません。
相互交流がなくなり、同じ空間共有ができなくなり、お互いに物事を考え、一緒に作る関係性が希薄に。
利益取得の功利主義、損得、恩徳勘定の電卓を片手に、人との関わりではポチポチ弾きながら関わることが増えたかもしれません。
「今日はあなたと一緒にご飯を食べてあげたから、ポチポチ、はい1万円ね」
「会話じゃなくて私が一方的に話した講演だったから、ポチポチ、はい5千円ちょうだい」
「一人じゃ恥ずかしいってことで付いてきてあげたから、ポチポチ、はい3千円なり~」
利益の行き来を主体にした人間関係を、友達や恋人(恋から愛に進展)や夫婦などの相互交流の関係性に挟み込む可能性が増えました。
ビジネス・上下・恋愛関係など、与えれば貰う、貰えば与える。
そんな自然な摂理は、「与えれば貰わなければ平等じゃない、貰えば与えなければならない」という異形の価値観となり、義務化と縛りを強めます。
まるでこれだけ働いたから、これだけ給料を貰うという“対価”。主体的な行動による相互認知の上での与え貰いの対価だと思えてしまう見返り。
見返りと対価がゴチャゴチャになります。
対価は責務、見返りはご自由に
対価は見返りと違い、主体的な行為による責務を果たし、与えた分に相応の返りとして対価を求めます。
対価は与えれば求めるのが当たり前です。
与えて求めなければ人間関係はおかしくなり、お互いに悪行カルマを積んでしまい、一方的な搾取、犯罪にもなりえます。
資本主義によるビジネスや価値観では、対価を基にした関わり合いが一般化し、お金を作り、合理的に、流れを作りやすくできます。
人間関係までもが資本主義的関わりになると、まるで責務として対価を払ったので、貰っていいと正当化しやすくなります。
これが他律です。
実際には責務を果たす対価ではなく、自らが相手のためにする一方的なものが見返りですが、一方的にしているとは思えないのが資本主義トラップ。
自分があげたいからバレンタインデーにチョコをあげたのに、自分が優しくしたいから彼女に手袋を貸したのに。
社会に対する自分の意見や、仕組みそのものを考え、俯瞰する目線がないと、資本主義的人間関係は自然と構築され、見返りを求めるのが当たり前(正当化)になる。という考え方です。
見返りを求める時にわかる関係性
資本主義の恒常化による自分の在り方、価値観や観念は幼い頃から自然と構築されていきます。
そのため、利益を考え、損得、恩徳を計算するのは当然です。
日本には資本主義だけでなく、文化・慣習・美徳精神がありますので、「貰ったら返す、与えたら貰う」と認識しやすいと思います。
ここで着目したいのは、他に従う大切さもありながら、自分で考えて取り込んでいない可能性です。
「どうして与えたら、お返しを求めるのだろう?」
そういうものだから?
与えたから返されるもの?
働いたから貰えるもの?
それはなぜ、どうして?
答えは人それぞれにあると思いますが、ここでお伝えしたいポイントはこちらです。
相互交流していない。
相互交流がないと見返りを求める
相互の概念は尊重、平等、調和、共有です。
同じ空間にいて、「無言が気まずい」と思えば一方通行同士の関わり合いだとわかります。
相互交流は両者が合致するように、お互いがお互いを認識し合うように、一つの物事を一緒に考え、作り、楽しみ、悲しみ、笑います。
プリンの作り方を知らない二人が、一緒に考えて、調べて、担当を決めて、作る。そんなイメージです。
※見返りを求める時、関係性が相互交流か否かがわかります。
- 見返りを求める :一方通行
- 見返りを求めない:相互交流
一方通行に何も悪いことはありません。ビジネス・上下・恋愛関係では、一方通行だからこそ関係性が構築されやすくなります。
友達や恋人や夫婦など、お互いを尊重し合う関係性の場合、一方通行では関係性が成り立ちにくくなります。
見返りを求めるか否かは、相手との関係性を見つめ、改善や変化を加えるための大切な気づきになります。
※相互交流の詳細は、【恋人作りより難しい】友達ができない人の理由と特徴は“大人ぶる” をどうぞ。
見返りを求めてしまう心理と対処法
見返りを求める心理が表す自分の正体
根底にある資本主義観念。その上にもたらされる他律。
二つの原因によるダブルパンチは、見返りを求める在り方を構築すると知っていただきました。
心理で着目したいのは、見返りを求めることではなく、「見返りを求めてしまう」と思う自らの行為に対する否定・嫌悪・罪悪感です。
※「求めてしまう」と思わない場合は別心理
自らの行為ですが、認めたくない拒否が生まれています。
見返りを求めることを良しとしない何かがありそうです。
この心理は、自分を見出したいのに見出せない抑圧です。
何かに縛られている。
縛りになるのが他律。資本主義など他のルールや常識、躾や教育や人です。
過去の経験や記憶に、自らの意見がありながらも肯定されず、無視された、違うことを強要されたなど、自己抑圧強化があると考えられます。
在り方として表れるのが、嘘と誤魔化しです。
自分に嘘をついて生きている、心を開いて人と関わっていない。
そんな可能性があります。
この場合、本来の人間性や能力や才能が隠れたままになっています。本当はもっともっと素晴らしい中身が眠っています。
嘘や誤魔化しは承認欲求を強める
自分の意見がなければ、初めから作ろうとしなければ、嘘や誤魔化す必要がありません。
人の言うことに従って、常識やルールを疑問視せずに、違和感なく生きていくのだと思います。
自分の意見がある人、作ろうとする人、持ちたい人は、抑圧されると自己愛を守るために嘘や誤魔化しが必要になります。
自分の意見を作れず、否定されることに直面すると、心が持たず、自尊が穢されます。
心を壊されないように、一旦心を心身深々へ仕舞いバタンと門を閉じて対処。一番大切なものは一番奥へ。
すると自分のことを尊重したり、認めたり、受け入れるのが難しくなり、自らの存在意義や価値を見出せなくなります。
他によって自分を見出す必要があり、エゴが増え、承認欲求が強まります。
見返りを求めて何かブツが欲しい訳ではなく、自らが与えた行為の意味を知りたくなり、行為によって起きた影響力を知りたくなり、反応を欲します。
「自分によってこれだけの影響があった」と他者を見ることは、自らを他によって認めて見出す最たる手法になり、「この私が私なんだ、ここに私はいるんだ」と認められます。
見返りを求めたくない思考があっても、相手が何も返さず、反応もしなければ、まるで無視されて、否定されて、利用されているように感じ、見返りを求めたくなります。
見返りを求めてしまう心理とは、自分のことを認めたいけど自分自身で認められないさまと考えます。
対処法ポイント:見返りを求めていい
見返りを求めてしまう対処法の着目は、見返りを求める行為以上に、自らの認識を認めない行為です。
他律でも自らの行為である以上、自分が認めないと誰も認められません。
他者に認めてもらうと一時の心地悪さを誤魔化せますが、承認欲求をより強くしていることを忘れてはなりません。
見返りを求める行為をしている自分を認める。これが一番初めに大切です。
「見返りを求めていい」
これは自らの行為に対する着目。実際に他者が見返りをしてくるか否かへの着目ではありません。
※自分を認めるのが難しい時は、【自分を認められない苦しさは心のサイン】認めるのが難しい時の自己理解 をどうぞ。
対処法:本当に自分がしたいことかどうか自問自答する
「見返りを求めてしまう」と自己行為の否定をやめ、「求めていい」と肯定した後は、自らが与える行為を自覚します。
相手に何か与え、何かしてあげる。
本当に自分がしたいことかどうか。与える前に明確にすると、他律がなくなり自律が強まります。
具体的な方法は、本当に自分がしたいかどうかを自問し、自答まで出します。
「したければしたいからする」
「したくなければしない」
「したくないけど、することで得られる利益が欲しいからする」
どんな答えでも、行為する場合には自分がしたいからする自覚がもたらされますので、行為の責任は完全に自分にあると認めやすくなります。
行為の発信がはっきり自分になるので、終わらせるのも自分になり、他者に終着させてもらったり、責任を持ってもらうために見返りを求めることがなくなります。
※行為における責任詳細は、【責任の哲学】責任の取り方は誰もわからない。だから意味がある をどうぞ。
見返りを求めないのは難しい
上述の自問自答を増やすと、自らの思考と行動に対する責任が徐々にもたらされ、見返りを求めなくなります。
しかし、根本的な問題があります。
その人間関係は一方通行?相互交流?
一方通行の場合、見返りを求めないと自己犠牲になり、ストレスを溜め、疲れ、エネルギーを消費し、老けます。
実際に見返りを求めないのは難しいです。理由は自分一人の問題ではないためです。
相手が相互交流してくれていたのであれば、こちらが相互交流にシフトすることで、友や恋人は愛を持った人間関係となり、見返りを求めることは自然となくなります。
相互交流を試みても、相手が一方通行であれば搾取される可能性もあり、人間関係を見つめ直す大切さがあります。
どちらかが一方通行の場合には、相手に何かを与えたならば、見返りは求めないとなりません。
と言っても、「くれくれ」という強要はあきません。自らが一方的に与えている認識に見合った求めが、丁度いい塩梅かと思います。
チョコボールあげたから、スマイルちょーだい。
※適当な人間関係の大切さは、人間関係はわからないから適当がいい│大切さを取り戻すいい加減 をご覧ください。
見返りを求めてしまう まとめ
見返り美人は振り返ってスラ~。
「よっ、美人」と言って行為が完結。
これが相互合致です。
見返りは一方的に与え、それに返すかどうかは相互交流があるかどうかであり、相手がこちらを認識してくれているかどうかが肝です。
見返りがない場合には求める以上に、「私達はどんな関係性を築いているの?」を見つめ直す大切さがあります。
気づけば知らぬ間に一方通行になっている。
そんなことになりやすい環境に生きているのが、私達の社会です。
物事の現実を認識するには、自ら捉え、考え、感じ、理解する必要がありますが、その大前提にあるのが自らを認め、嘘や誤魔化しをしなくていい状態にする責任です。
幼い頃の影響は今の在り方に反映します。
しかし、今を如何に工夫して、作っていくかは今の自分の選択であり、自由です。
私達は被害者ではありません。ぜひご自身を知ってみてください。
自己理解の先には人生の可能性が待っています。
自己開花の先には精神と経済的自立が待っています。
どうして利益を与えるのか?
どうして利益の返りを欲するのか?
自問自答による認識の深みを楽しまれる一助となれば幸いです。
それでは、見返りを求めてしまうお話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
お手紙でこのサイトを応援する『お気持ちを大切にします』
また一つ自分の中の、モヤモヤとしていた疑問が解けた感じがします。ありがとうございます!
ここに書かれている内容は、一般的にいう「愛」についてのものなのかなぁと思いました。少なくとも人の愛は相互作用で生まれるのだなぁと。
子供と関わっている時でも、反応が薄かったりして関係性が一方的になるほど、なかなか愛情が湧いてこなかったりします。これが負のループを生んでしまうのがツラいところです。
相互の交流そのものが大きな報酬になる事を自分自身、もっと自覚して生きていければとしみじみ思いました。
それは良かった!
そうですね。愛だと少し括りが広いので、「平等」「相互」をキーワードにしましたが、本質はまさに書いてくれていることです。