心理と特徴

「人を見た目で判断してしまう」と思うなら、それでいいのかもしれない

外見を基に評価、判断し、正否、上下、高低、良悪が決まっていく。

外見ばかり気にすると内面を疎かにしているようで、対象を対象としてしっかり見ていないと思えるかもしれません。

「人を見た目で判断してしまう」

これは正しいのか、間違っているのか?

「判断してしまう」と思うなら、もとい、思えるならそれでいい。という考え方があります。

ここでは、見た目で判断する正しさについて深掘りします。

  • 見た目で判断したくないのにしてしまう
  • 見た目で判断していいのか知りたい

理想と現実の狭間は、物事の真実を捉える最もわかりやすい場所です。

見た目で判断することには明確な正しさと間違いがありますので、ご自身の見方を知る一つの考え方となれば幸いです。

人を見た目で判断してしまう仕組み

人を見た目で判断する「人間のさが」

初めにはっきりさせたいことがあります。

現在社会の私達は、自然と人を見た目で判断します。

子孫繁栄による本能は、美しい人間を求めると知られています。

認知機能の主となる目があるため、視覚による外観情報に依存すると知られています。

対象を評価する際、外見の特徴に引きずられて全体の評価をくだすと知られています(ハロー効果)。

本能、身体機能、感情作用によって人を判断し、見た目の正・良・質を求める

このことが表す意味がこちら。

自分のこと(利益、生活、生命、過去、未来)を思えば思うほど、人を見た目で判断する。

「自分」にフォーカスしたければしたいほど、自分のみが生み出せるもの(本能、身体機能、感情)を見ますので、自分のために評価判断し、自分のために見た目の良いものを求めます。

自分のために生きている以上、過去のコンプレックスに執着し、希望ある未来のためにハンサムや綺麗な人を求め、喜びや楽しみを得るために清潔で面白い人を求め、不安や恐怖を得ないために危険がなく安心できる人を求めます。

日本は不安国家ですので、自分のための利益や防衛に意識が傾きやすく、人を見た目で判断する傾向が強くなります。

【自分へのフォーカス欲求度合が、見た目で判断する在り方のバロメーター】

「自らを喜ばしたい、嫌なことを味わいたくない」と思う心理、精神、環境であればあるほど、見た目で判断するのが人間のさがという考え方です。

生活や生存環境に余裕がない、自立する前の発達途上など、外的な要因によって自分のことに集中しなければならない年齢や国々や人々もいます。

 

どうして見た目で決められるの?

外見による評価、判断が自然に起きたとしても、引っかかる点があります。

どうやって判断するの?

人を評価、判断する際、上下左右に区分ける必要があります。

差作り、差別化です。

使用されるルールは、[優劣、良悪、正否、勝負]

これが社会的、常識的、誰かに言われたなど、他のルールに基づく場合、見た目だけで判断できます。

例えば、お金があればいい。それは資本主義という功利価値観と従順前提の他律によれば。

彼氏はハンサムであればいい。それは自分の欲求を外部ルールと照合して満たせると判断した短期的な見方であれば。

しかし、ルールが自分にとっての(自らに基づく)ものであれば、見た目だけでは判断したくてもできません

「あの人は綺麗だから…。あれ、綺麗だから何なんだ、むむむ?」

綺麗だから良いのか、悪いのか。社会によればグッド、本能によればグッド。

本能の赴くままに生きれば、「綺麗だから子孫を残すんだ!そっれ、わっしょいわっしょい!」とお祭りですが、実行すれば自我と我欲を押し付ける一方的行為ですので罪になる可能性もあり、そもそも判断も何もない無思考。

私達には社会的動物の側面があるので、本能に従って他者を巻き込むことはまかり通らず、自制、思考、制約を重んじます。

本能ではなく自分でルールを決め、考え、自制を持って自らの意志に従う場合、「綺麗だからwhat?笑える?冷める?引く?見惚れる?だから?」

自ら決めなければならず、決めるからには理由と目的を要し、眼力や洞察力を要し、なにより相手をしっかり捉える認識力が必要です。

さもなくば、判断しているのではなく、社会的にさせられている可能性(ルール通りの認識、思い込み、決め付け)があります。

 

見た目で判断できないのにしてしまうジレンマ

自らの考えで判断する場合、褒めるのも蔑むのも概念が一変します。

例えば、人を蔑む時はこうなります。

「バーカバーカ、やいやーい」

極端な例ですが、隣のトトロに出て来る少年みたいなものですね。

社会性である他のルールに基づくと、何を否定しているかわかるように他と比較、照合、差別化を図り、明確に否定ポイントを外的な理由と相関関係の基に示します。

褒める場合も同様です。

自分の子供が一番可愛いと思う親のように、自分にとっての考えやルールの場合には、目の前の対象と対峙する今この瞬間の気持ちが論より証拠。

「うちの子はあの子より鼻が1cm高くて、目元の角度がいい感じ。シャープネスがヨーロピアン的であり、ヨーロピアンの顔立ちは世間的に高評価だから良いと思う」なんてことにはなりません。

実際に自分の考えで判断する場合、浅い関係では判断できなくなり、対象の過去を知り、今を知り、相手のことを深く知ろうとする目的を持ち、初めて判断がくだります。

よほどの眼力がない限り、初対面で判断するのは至難の業、できない

しかし、社会的な善悪による区分けと差別化がインプットされていれば、何が世間的に良い悪いがおおよそわかるので、人間のさがによって自動的に判断がくだされます。

資本主義では欠かせない、損得勘定によって利益を得るための効率的で合理的な方法になります。

他のルールに基づくことで判断できないのに判断できている気持ちになり、当たり前になると自らを見た目で判断するようになり、他者にも見た目の良さを求めるようになります。

※見た目を気にしない人の詳細は、【周りを気にしない人の特徴は強いor迷惑】気にしない努力とコツがある をご覧ください。

 

「人を見た目で判断してしまう」と思う人の内情

外見至上主義[Lookism]になると人を見た目で判断し、見た目の良さを求めることに違和感がなくなり、見た目で判断する重要性と正当性をあらゆる角度から見出そうとします。

「人を見た目で判断してはならない」という言葉に強いひっかかりや違和感を抱くようになります。

「判断してしまう」と見た目で判断することに違和感がある場合、主義とは全く違う内情があると考えられます。

自分だけでなく、見る対象(他者)と見る媒体(自己の認識)も考えたい、または考えないことに違和感がある気持ち。

例えば、出会った人が何百万円もする高級腕時計をしているとします。

心理的なハロー効果では、「この人はきっと人間としても価値があるんだ」と思えてきます。

生活安定という自分のことにフォーカスしていれば、「この人ともっと関わりたい」と欲求も出てきます。

時計という物、時計をする価値観、時計をするに至った経緯を見て評価。

対象の付属物と過去を見ている状態ですので、今目の前にいる人を見ておらず、名前はもはや腕時計さんです。

実際に他者の過去を見ることはできないので、見ているのはその人の外観を作るに至った他(情報、生まれ、価値観、経歴、肩書き、実績、物etc)、今この時のみに存在するリアルではなくなります。

これに違和感がある人は、実際に存在する今目の前の対象を見ていないことを潜在的に理解しています

ちゃんと今存在する相手を見て、捉えて、評価、判断したい人ほど、「人を見た目で判断してしまう」と違和感や抵抗感が生まれます。

自分の利益だけでなく、関わる対象と捉える自分自身をしっかり認識したい、そんな人間関係の向き合い方を示していると考えられます。

 

人を見た目で判断するのは正しい

人を見た目で判断していいけれども…

見た目で判断しないことは、対象の内面も把握してから判断する、人を自分主観で評価しない、人間観察的な一方的判断を慎む無礼控え、他者への敬意など、人間として大切だと思います。

と言っても、見た目で判断したら悪いなんてことはありません

自分のことにフォーカスしたければしたいほど、相手を特定して利益になるかどうか判断したいので、資本主義に則る功利観念(損得、利益計算の癖)が根付くほど、見た目で判断しなければ利益性が下がり、不利益も出ます。

自分のことにフォーカスするのは生きるため、安心を得るため、防衛するために欠かせませんので、社会的動物として他者と共存する私達は、人を見た目で判断しなければ自分が苦しむ可能性がかなり高いです

人を見た目で判断していいんです。

しかし上述でお伝えしたように、自分の考えに基づく場合は深く関わらなければ判断できないので、できるのは初対面や関係の浅い人々に対する一時的、社会的判断になります

「自分で判断しているのではない」が前提の、社会的に人を見た目で判断するさま

あくまで社会的であることがポイントです。

 

注意:社会的判断だけでは失礼や差別になる可能性大

カミキリムシを見た時、「この子の動きは予測不能だ」と、「この子」という言葉を使った。

子供と関わる際に、「偉いねぇ、そんなこともわかるんだぁ」と、「子供=自分よりわかっていないもの」と決め付けた。

綺麗な女性を見た時、「綺麗だから見惚れる」と、「綺麗=いいね」と評価した。

日本で生きている以上、人を見る際に社会的判断が自然とされます。

しかし、それだけでは判断が欠けているので、もし口に出してしまうと失礼や差別になりかねません。

「最近太った?」
「ニキビ増えたね」
「色白でいいよね」
「髪が細くて羨ましい」

海外(特に欧州、北欧)で言うと驚かれますし、一方的に判断した外見的特徴を発言すると軽蔑される可能性もあります。

私が米国で出会ったあまりにもハンサムでクールな男性に、「なんてカッコイイんだ!」と伝えた時はとても驚かれました。

どうして驚かれたのか初めはわかりませんでしたが、社会的判断のみの一方的な見方を相手に伝えることは、自分の考えがない露呈であり、相手を自分の見方でしっかり見ていない露呈でもあり、とても失礼な行為だと知る苦い経験となりました。

場所や環境によっては差別になり、人によってはコンプレックスに触発する喧嘩売りになり、危険な行為にもなると教えてもらったのは忘れられません。

実際に経験してわかったのは、「正しい判断ができていないのにできたと思い込み、口に出したこと」でした。

 

[社会的判断+自分に基づく判断=正しい判断]

この内容で強くお伝えしたいのは、私達の住む環境や社会では人を見た目で判断する常識が無意識にインプットされている件です。

この大前提があると、社会的に判断をくだすのが癖になり、当たり前になります。

が、正しい判断にはなりません

※正しいとは、客観的で合理的でバランスの取れたさま(ゴータマ・ブッダの思想引用)

大前提の社会的枠組みがあっても、他者を判断するための媒体である自分自身がいますので、自らの考えや経験、相手をしっかり捉えるための眼力が組み合わさって、初めて正しい判断がくだされます。

例えば、清潔で顔の造形が整った男性を見た時に高評価がくだされ、第一次判断が終了。

これで終わってしまってはまだプロセス中。終わっていないのに関わって痛い目を見た方は多いかもしれません。

実際に見て、関わり、感じて、考えた、自分そのものの判断を組み合わせて第二次判断が終了し、本人のみが知る正しさが見出されます。

自分+他(社会)によるバランス取りが大切になり、どちらか一方でも欠けるとおかしくなります。

典型例が、人を見た目で判断するのが正しいという外見至上主義と、人を見た目で判断してはいけないという外見至上への反発主義。

どちらも両方大切なものです。

※判断するための見抜き方は、【特徴と見抜き方を厳選】人当たりがいい人の裏顔は信用できない をご参照ください。

 

まとめ:「人を見た目で判断してしまう」と思うなら、正しい判断ができる

見た目で判断するのが悪いなんてことはありません。

正しい判断なのかどうかがポイントです。

「人を見た目で判断してしまう」と思う場合、社会的判断と自分に基づく判断の間にいると思います。

自分に基づく判断が欠けていると考えられるので、付け足すと違和感も抵抗もなくなります。

初めにくだされる判断は社会的になりやすいので、重要なのはその後に付け足す自分のもの。

自らの考えや経験に基づき、相手をしっかり捉えて見出す先に、客観的で合理的でバランスの取れた正しさがあります。

その正しさは、相手をしっかり見ているかどうか、見る媒体である自分そのものが精査されているかどうか、自他両方を組み合わせる先の融合結果です。

正しさは関わる相手によって変化し、必要性も変わります。

深く関わる気のない人、利用し合う関係性、集中的に功利を取得するなどには、社会的判断が合理的であり、自らを苦しめず利益率を高める方法になります。

深く関わりたい人、お互いに育み合う関係性、自他共の利益を考慮するなどには、実際に関わり合いながら自分の判断を付け足す客観性が大切で、お互いのためになります。

時と場合によって使い分けも意味も変わるのが「正しさ」であり、自分に基づく判断の付け足しによって理解が深まります。

「~してしまう」と違和感や抵抗があるからこそ、現状を客観的に捉えられますので、卑下も肯定もせず、両方を付け足して答えを見出す一助となれば幸いです。

それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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