何のために生きているのか? 自分のためです。
これは非常識か常識か、正論か戯言か。何でもいいですよね。
生きているのは誰か。
死ぬのは誰か。
行動しているのは誰か。
認識しているのは誰か。
自分。
じゃあ自分のために生きる。
そんなシンプルな常識がここにあります。
自分のために生きる方法、それは何のために生きているかを知ることであり、生きる真意に気付くことです。
死ぬ間際、「何のために生きていたのか?」と天井を見ながら寝たきりで考える。そんな時があるかもしれません。
そしたらRAPミュージックでもMAX大音量でかけて、「Hey what’2 up man!go to the hell!yo!yo!yo!hey!」なんて言って、小鳥が様子を見に来てチュンチュン。
私はそんなおじいちゃんだったら良いなと思ったりします。
そんな人間の戯言として、一つの人生の常識をご覧になっていかれてください。
Contents
自分のために生きること

自分のために生きるとは生きている意味のこと
自分のために生きる理由は喜びを求めるということもあるかもしれませんが、それ以上に大切な理解として、「何のために生きているのか?」の答えであるためです。
幸福論ではなく基本、巣に帰る、素に戻る、なんかいろいろ邪魔だなと思うものをポイポイっと集めて焚火ボッ、天に舞う、空高く灰は不要物として浄化され、残ったのは何?という具合です。
ここでは、自分のために生きることがどれほど常識なのかをお伝えし、そんな生き方のために必要なことを気楽に見てください。
そんな本来の生きる姿に戻る紐解きをしていきましょう。
何のために生きているのか?
今この瞬間の自分を見て、「何のために生きているのか」と考える。
答えは一つ、自分のためです。
幸せのためも同じです。自分の幸せのためですので、自分のため。
自分の幸せや喜びが、誰か大切な人が喜ぶためであればそれも自分のため。他者の喜びが自分の喜びということです。
他者を苦しませることも自分のため、生きているのも自分のためです。
何のために生きているのか?
自分のために生きている
自分のためとは、自分の喜び、他者の喜び、幸せなどの華やかなものもありますが、それ以外にも恐怖を味わわない、嫌なことが起きない、心地悪さがないためなどの苦悩回避による安泰や安堵などもあります。
人それぞれの“自分のため”があり、愛の国ではちみつを舐め続ける日々もあれば、鍛錬にて成長を求める辛さもあれば、ヘドロをまといドブ臭く生きることから逃れることもあり、それら全てに共通することがあります。
それは、納得と満足です。
自分のために生きると何のために生きるかわかる
奴隷でも何でも環境には左右されず、自分のために生きることで起きるのは納得です。または満足です。
自分が納得や満足できるように生きていれば、そこには生きている意味や目的として、何のために生きているかの答えになります。
自分のために生きるとは、納得や満足すること
※納得や満足することが何のために生きているかの答えでもある
生かされる状態が生きる状態になります。
生かされている状態では“自分のため”と思うことは困難です。生かされているので自分らしさなく、納得も満足もありません。
すると活力が生まれません。それは行動動機がないためでして、そこには意志という己の認識から来るものがありません。
カレーを食べたいと思っていないのに、カレーが目の前にある状態でカレーを食べるということです。
わかりにくい。
カレーを食べたくなければ目の前にあっても食べません。でも食べている、それは食べたいんじゃん。または何も食べないよりましだから食べる、って食べたいんじゃんと。
生かされていることで、さまざまな選択の中で食べたいから食べているのに、食べたいとも食べたくないとも思っている自分を見ない状態が起きます。
すると、自分のために生きていてもそうは思わなくなります。
環境や状態は関係なく、自分のために生きることで“生かされる”ことはなくなり、“生きる”ことになります。
生きるも死ぬも本人の自由ですので、生きている今があればそれは生きたいから、または死にたくないからという、納得や満足を求めている自分自身が生きている答えがあります。
納得や満足は、疑問や悩みを一瞬で解決するほど強力な力があり、納得すれば自分のために生きるとか生きないとかも考えることがなくなります。
生きるか生かされるかの選択
私達は常に選択をして生きています。
生きようか死のうか、今日も生きていればそれは生き続けている結果ですので、毎日意識的でも無意識的でも生きることを選択していたりします。
ご飯を食べることも、水飲むことも、呼吸することも、睡眠も、シャワーも、やらされることも、言われたことに従うのも、それに逆らわないのも、うるせぇって言わないのも、会社辞めないのも、離婚しないのも、結婚するのも、愛するのも、敬うのも、何もかもが選択です。
そこには、顕在意識と潜在意識があり、自覚のない選択として肉体が勝手に呼吸する、睡眠を欲する、自己防衛で命を守ろうとする、心に傷つかないように守ろうするなどの選択もあります。
全て選択によって生きています。誰と関わるかも、誰とも関わらないのも、本当に何もかもです。
しかし、社会性の中で他者と共に生きていると、世の中の常識やルールが生きる基盤となり、己の常識になってしまうかもしれません。
常識ができれば、それに忠実に従うことに疑問を抱かなくなります。
ですが前提として、社会性を利用するかどうかも、生きるかどうかも何もかもは本人の意志次第です。
森にこもったり、無人島に行ったり、自給自足で社会との逸脱、これが逸脱か普通なのかは本人にしかわからないように全ては本人が決めます。
生まれたからには生きていなければならないかどうかも本人以外にはわかりません。
全ては己の選択にてこの世を生きているのが私達一人一人ですので、日本が合わなければ多くの方がしているように海外へ向かえます。それが日本人です。
生きるのか生かされるのかも自分の選択です。惑わされず活用する、または離れる、またはのめり込む、はまる、楽しむ、何でもいいのですが、人それぞれの意志や意見に基づいて常に選択することができます。
そのため、自分のために生きるとは選択していることを自覚することでして、常に自分のために生きていると気付くことだったりします。
自分のために生きるとは、常に選択によって自分のために生きていることへの気付き
言い方を変えると、生きるか生かされるかを選択することが自分のために生きる生き方です。
※生きている意味についての詳細は、生きている意味がわからない│そんな自分を観察するとわかる答え をご覧ください。

自分のために生きる方法

これまでの内容の主旨は、「本当は自分のために生きていませんか?」という気付きの提起です。
しかし私自身の経験から言いますと、生かされていると思って幼少期から生きていたので、私であればそのように思うことはできません。
「まぁ、そうかもしれないけど、そうは思えませんね」と。
ここから本題をお伝えしたいのですが、その主旨は、「今のままでも良くない?だって自分のために生きてんだもん」というものです。
気楽にご覧ください。
自分のために生きることの意味
自分で選択して生きていたとしても、選択させられているかもしれませんし、教育や洗脳にて自分の意志も意見もないかもしれません。
すると、生かされているので自分のために生きていると認識することはないと思います。
これまで何だか勝手なことを述べてきましたが、ここでお伝えしている“自分のために生きる”とは、喜び幸せになるためではなく、常識であり事実に気付くためのものですので、自分のために生きたところで幸せになるかどうかは完全に人それぞれです。
それは宗教のようであり、企業のようであり、家族のようであり、大きな枠組みの中でルールや規制にて制限することで幸せになる人もいれば、それを窮屈に感じて苦しむ人もいます。
突然荒野に投げ出されても困っちゃいます。でも、自由を感じて喜ぶ人もいます。
制限や抑制、規制や縛りは人によってとても大切なもので、それがなければ何をすればいいか、どうやって生きていけばいいかわからず朽ち果ててしまうかもしれません。
人それぞれに自分のために生きることが良くも悪くもあるのでは、どうしようもないし訳わからない。
そんなことにならないように明確にしておきたいのですが、自分のためとは=喜びや幸せのためではありません。
納得や満足のためです。この理解がとても重要ですので、再三伝えて耳をビリビリさせたい。
自分のために生きるとは、自分にとっての納得や満足すること。
何に納得するか、何に満足するか、完全に人それぞれです。
これを基盤にして、自分のために生きる方法を考えるとあることが見えてきます。
自分のために生きる方法
方法は、自分のために生きていない理由を理解してそれをなくすことです。
生きていないと認識している理由・原因・要因・起因材料、何でもいいのですが、全部取っ払ってポイポイっのポイ。捨てます、要らない、燃やす。
自分のために生きる方法:
自分のために生きていないと思えるものをなくす
自分のために生きる方法を付け足すのではなく、自分のために生きている状態に気付くために、周りにあるゴチャゴチャをなくしてシンプルにしていくことが大切です。
そのために、自分のために生きられない理由を紐解きましょう。
自分のために生きられない理由
自分のためとは自分のため、そのままでそれだけ。
他者のことを考えないとか、他者に迷惑だとか、自分勝手とか、わがままとかではなく“自分のため”、以上。
それは、自分を主観にすることでして、自分の目で見て、鼻で嗅いで、口で味わって、耳で聴いて、肌で感じて、頭で考えて、心で感じることです。
本当にそのまんま当たり前のことです。
これができなくなる状態、幼少期の生育環境や、周囲の影響、自分の思い通りにいかない人生、強制され否定されて自分を出せない、心の傷、トラウマ、認めない現実、拒否する認識、あらがう自分、反発する気持ち、怒り、悲しみ、空虚、孤独、むなしさ…。
過去を思い出すと、さまざまに教育という名の洗脳があり、強制や押し付け、否定にて恐怖を覚え、刷り込まれ人格形成、私物化され従い、言われたように生かされる原因があると思います。
あらゆる過去、生育後も含めた過去の出来事や環境にて、自分が主観ではなく他者が主観、または社会性の常識やルールが主観になり、主人公不在の人生に。
いろいろとありますが、これらによってある一つの重大なことが起きています。
自分のために生きられない理由:
誰も自分が生きていることを認識していない
※認める人がいないので空虚になる
他の影響によって自分がいなくなると同時に、自分自身で自分を認識しないということが発生します。
大切なことは、自分が自分を認識していないということです。
自分のことは自分にしか認識できません。他者が何をどう思おうが自由ですが、そこに本人のいない本人を認識してもそれは誰か、誰でもありません。
生きるとは肉体がそこにあることではなく、自分で認識して生きる意志を持つことです。
他者に認めてもらう必要などありません。生きている主観であり、身体を持っている自分が認めないことで、自分のために生きることができない状態を作ります。
さらに、生きている意味がわからなくなる理由になります。
自分が認識しなければ自分のために生きることはできない
他者はどうでもいいんです。他者をどう思おうがどう認識しようが、他者にどう思われようが何だろうが実にどうでもいいことです。
それがどうでもよくないと思うのは、自分で自分を認めてから経験して理解することですので、後々人それぞれに必要有無が分かれます。
自分のために生きない理由は自分という存在がいなくなるためでして、そこには空虚感、虚無感、孤独感、むなしさを感じます。
そこにいるのは、誰も認識していないというリアルを自覚した自分です。
自分という空が独り歩きしている状態で、幽体離脱したような自分がそれを知っている、けどそんな自分に入りたくない。なんせそんな自分を認めたくないから、その人生で生きていく自信と意味がない=そこに納得も満足もないから興味ないというものです。
操縦者がいないので“生きる”ことができず、行為は全て空虚としてコントロールされて“生かされる”状態になります。
入り、フワッと戻る。
自分のために生きていないと思えるものをなくす
さまざまに自分のために生きていない原因があります。
根底は過去の傷や幼少期の環境、過去の出来事など数知れず…。
しかし、ここではそこは見ません。着目は一番手前、直近で起きている自分の選択、自分で自分を認識していない状態です。
これをなくすことが自分のために生きる方法です。
自分のために生きる方法:
自分自身で自分が生きていることを認識する
※認識するとは、知る、思う、感じる、評価する、判断すること
自分で自分を認めます。生きていることを認めます。
認めるとは肯定ではありません。褒めたりする必要はありません。
「私は生きている、以上」
※新しく生きる始まりの話は、生まれ変わる意味と方法│自分を変える今世の輪廻転生がある をご覧ください。

自分のために生きるポイント
物事はとてもシンプルだったりします。
しかし、シンプルにしないように世の中があったりします。ですが世の中は世の中、他者は他者。
そこに足を踏み入れるとは利用であり活用、干渉であり押し付け、調和であり敬い。
社会性という全く違うものが入り混じり作られるカオスは日本もインドも同じです。
そこで生かされるのか、生きるのか。
あらゆる行為は選択によって起きており、そこには自分が納得できる状態があります。
自分のために生きていなければ、誰かや社会が決めたことに従いますが、それは従うことに納得があり、従わないで何をすればいいかわからない恐怖を味わわないことに満足があるのかもしれません。
それは既に自分のために生きている状態です。
それに気付くか気付かないかです。
気付いたところで、自分のためとは喜びのためではないので何も変わりません。
「なんも変わらないなら必要ない」と思う自分がいれば、喜びを自分で作る気がなく、他者に作ってもらう=生かされて変わる気がないことを表しますので、それを知る機会にもなります。
気付きは“自分として生きている常識”への気付きです。
気付いたら気付いただけです、常識なので。
しかし、気付くことで“認識する”という生きていることへの自覚を選択できます。
選択することで自分の意志と意見が生まれます。それは自分を知り、生きていることへの考えや感情や感覚や気持ちを体感することです。
認識を知ることは自分を知ることです。
自分のために生きることは、常識である自分の選択にて納得して生きていることへの気付き。そして、自覚を持って自分を認識することでの生きる選択です。
自分を認識する選択をした暁には、生かされる状態が生きる状態になります。
全ては自分の選択で生きていることを知るための生かされる時間
生かされる時間には生きる時間にするための意味があります。それを経験と言います。
経験することは物事を知ることであり認識を理解することであり、自分を知ることです。
経験によって生かされる時間を自覚すれば、自分の中でそれは良いのか悪いのか、心地良いのか心地悪いのかを選択できるようになります。
それがなければ選択肢が見えないのでとても大切な経験でして、苦しみを知るから喜びを知り、辛さを知るから幸せを知ることと同じです。
負があれば陽があるのではなく、負があれば陽が見えるというものです。それは、「これで選択できるじゃん!」ということです。
他者が、「そこにあるよ」と言ってもそれは他者の認識であり世界の話。本人は経験しないと見えません。
その際に無理矢理に見ようとすると、思い込みに誤魔化し、ないものをあるかのようにする空虚ができます。
それを続けるならそこに納得があるので、そんな自分を認識する。シンプルです。
生きている核を認知し、後は自分次第です。納得や満足をもっと喜びのあるものに変えるのは本人にのみ可能です。
嫌なことがない納得を、嬉しいことがある納得に。
恐怖がない満足を、楽しみがある満足に。
いくらでも調整できます、全て選択です。
そんな自分のために生きる人生があります。
※そんな人生をやめちゃう話は、どうでもいい人生はやめると楽。全部放り投げてやめる方法 をご覧ください。

自分のために生きる まとめ

「今のままでもいいじゃんね」ということです。
そこに納得があるからそうしている。それを自覚することで全てが始まります。
すると見え、「私の人生はこんなもんじゃない、ムムムー」と街を破壊する機動戦士ロボットのようにバリバリバリと起き上がる。
自分の現状が何であれ、環境が何であれ、「生きている、私」「これ、私あるね」と認識することで選択肢が見える。
それは向上と成長への道。それが光か真っ黒な光か、はたまたドロドロの抹茶色の光か。
「どのみち光ー!」と思いっ切り突っ込んでやりましょう。
今を否定するのではなく、生きている自分をそのまま認識することが大切です。
「太陽って温かいんだなぁ」「ブタって臭いんだなぁ」「水風呂の冷たいって身体が静かになることなんだなぁ」「サウナって何?」みたいな。
自分の目で見て、肌で感じて、頭で考えて、心で想う。疑問も意見も何もかも自分から発し、認識することが自分を認めることです。
言い方を変えると、今の自分を受け入れることであり心理用語では“自己受容”とも言います。
言葉は何でもいいですが、今生きていることにはたくさんの気付きと意味があります。
世の中は一緒くたではないため、生かされる時間は生きるために必ず要る重要な時です。すると、生かされる原因の過去の出来事も全て重要な材料になります。
「そんな経験、自分のために使わない手はない」と意気込む、そんな内容を共有できることを私は勝手に喜びます。なんせ自分のために生きているもんで。
何か少しでも役立つことがあれば、それは私の納得と満足に、さらにあなたの納得と満足に。こんな社会性も良いですね。
そんな具合で、自分のために生きる話を終了します。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。