生き方

人生修行の意味は苦しみも喜びも何でも良いこと|辛さもお気楽も共に良い

人生山あり谷あり、愛ありエゴあり、欲望あり煩悩あり。
山と捉えるか谷と捉えるかは人それぞれの認識と価値観によりますので、人生は修行なのか遊びなのか、他の何かなのかは人それぞれの意味合いが生まれます。

仏教にて使用される宗教的意味合いの“修行”を基に、「人生は修行」という言葉があります。

人生を修行と捉えるかどうかは、「人生には辛いことがあるのが常識」というルール設定があるかどうかの考え方かもしれません。

「人生は修行」に含まれる本当の意味によって、思考的な安泰や、恐怖心や不安感からの対処法とは別に、自分自身の人生の認識と喜びを知り、修行への印象が柔和になり、気楽に活用できる言葉となります。

人生は修行なのか、修行ではないのか、どちらが自分にとって見合っているか、考える一助となることを願い、人生は修行の本当の意味を共有します。

 

人生は修行

人生は修行とは

修行には宗教的な意味合いが強く含まれますが、私達が認識している“修行”とは、「忍耐や苦労を伴う行為」ではないでしょうか。

人生には辛いことや悲しいことが起き、その経験をする際には忍耐や苦労を伴います。

人生は修行だと思うことで、忍耐や苦労を体験している自分を見るのではなく、その先の未来を見て、総合的に人生を明るく捉えることになります。

それは、辛さのある時期を乗り越えるための対処法であり、現実を見ずに結果を見ようとする思考巡りとなります。

この世で存在する現実は、今この瞬間にしかありません。
過去と未来は、今現在に脳の思考にて作り出すことで存在し、それらも現在であることには変わりません。

しかし、過去と未来への思考優位にすることで、目の前の今ではなく脳内の今を認識することとなり、それは目を瞑って生活をしているような状態です。

人生は修行と考えることは目の前の現実ではなく、思考の中で生きる選択をして、辛さを克服する対処となる現実逃避にもなり、同時にポジティブ思考という言い方にもなります。

人生は修行 : ポジティブ思考、または現実逃避

目の前のことが辛いのでポジティブに考えることで、「辛いけど何とか乗り切る」というモチベーションになり、生きる希望になります。
同時に、辛さと対峙できないと判断した際の生きる術になります。

人生を修行とすることで辛い時間を自分のために活用することができず、辛さの克服ではなく、辛さを乗り切り逃げる対処となるので、成長や強さを求める行為へは進展せず、対処法や切り抜け方を理解することになります。

成長や強さを得ることによって、同じような辛いことがもし起きたとしても問題ではなくなります。

同時に、対処法や切り抜け方を理解することで、同じことが起きてもなんなく切り抜けられます。

何が良い悪いという概念はここにありません。
人それぞれに何を求めて生きているかによって価値観が違い、人生を修行とするかどうかの捉え方が変わる理由がここにあります。

辛いことが起きた際に、成長や強さを求めようとする行為が修行僧の方々で、そこに修行の意味が表れます。

 

修行とは人それぞれの成長

修行の意味を辞書で調べるとこのようになっています。

修行とは : 引用 Wikipedia

財産・名誉・性欲といった人間的な欲望(相対的幸福)から解放され、生きていること自体に満足感を得られる状態(絶対的幸福)を追求することを指す。

煩悩を鎮め、エゴとの分離や分別を意識的に行うことで、物事の認識をコントロールします。

そこには、自分の中での上下区分けのコントロール概念はなく、自我にある脳の思考と肉体活動と心の想いが共存した状態を表します。

煩悩とはエゴの欲望のことであり、エゴとは、脳内思考から生まれるネガティブな思いで、自分の心の傷を守り、存在価値を見出し、存在意義を見失わないように対処をするもう一人の自分です。

修行をする目的にはエゴによる苦しみの解消があり、その為に、対処をするのではなく、自らを成長させて自分を知ることを目指します。

修行を目的とする場合には、既に克服するべく自分を経験しているので、人生を辛いものとして捉える前提があり、自己の成長や強さを求めるために過酷な鍛錬としての苦行や荒行への意欲が生まれます。

苦しみがなく、克服を必要としなければ修行をする必要はなく、しようとも思いません。

しかし、修行には忍耐や鍛錬などの苦しみだけではありません。

例えば、日本の僧侶の正行として、日常生活が修行です。

荒行などは自らの意志が必要であり、普段の修行では物足りない=自分の成長や克服にはならない不調和や不満足がある=エゴが多く、意識的な成長幅がある状態を示すので、みんなに荒行が必要なことはありません。

日常生活を規則正しくすることが人生の修行の一環であり、規則的に掃除をして、ご飯を頂いて、身ぶり・作法・話し方・接し方などを整えることで心を静めて自分を見えやすくします。

作法や規則性には統一のものはなく、人それぞれの自己の成長や強さへの欲求があるので、みんなと同じにする必要はなく、自分の中での規則性を見出すことが大切になります。

しかし、集団生活での統一的思考やルール規範によって、自分の中での規則性や認識を見出す一助となるので大切なこととなり、全ての行為は認識して目的を持つことで、自分にとって必要な行為となるのが修行です。

そのため、修行とは忍耐や鍛錬のみならず、人それぞれにさまざまな修行の形があります。

修行とは : 自己の成長と強さを求め、自分にとっての不調和や苦しみの基となる違和感を解消するための行為

修行の意味合いを考える上で、“人それぞれ違う”ことが大切になります。

苦しみや辛さがなければ修行をすることも、修行という言葉を聞くこともありません。
そして、苦しみや辛さの価値観や認識は人それぞれで、苦行荒行が必要かどうかも人それぞれです。

修行僧や行者の方は世界中に存在し、インドでは多種多様な修行の道が存在します。

インドでの修行の意味合いには、悟りや真理の追究以外にも、未知なる自分の能力開花や、宇宙との繋がりや、プラーナであるエネルギーからの人間探究なども含まれ、それ以外にも、死後の世界や、蘇生や魔術などもあり、そこには遊びなる概念が含まれます。

そこから、人生は修行である本当の意味がわかります。

※インドでは日常生活が修行となる環境がありますので、インドで人生観が変わる理由9選|日常にある変人との修行に仕組み をご覧ください。

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生きていることが毎日修行

修行に苦行や荒行、辛いことや苦しいことが伴うかどうかは人それぞれです。

辛いことや苦しいことがあることで、自分を認識しやすくなります。

それは半ば強引な修行方法でもあり、外的に逃げられない環境を作ることで自分と直面せざるを得ない状態を作ります。

例えば滝行は、自ら必要だと思えばするもので、人に見せびらかせるものではありません。

滝行や行水をすることで体を冷やし、打ち付け痛むことで、肉体から自分を認識させます。

体を冷たい水に入れることで体が冷え、内臓の動きや血流やリンパの流れを感じやすくなります。

すると、今この瞬間に起きているこの世の唯一の存在である自分を認識しやすくなり、そこに集中します。

体の機能低下と共に脳機能が起きず、意識的な肉体の動きは感じなくなり、無意識での動きとしての心臓の動きや、肺、体内の空気の動きや、血流や呼吸、そして細胞の動きに意識が向くようになります。そして、今を感じ続けることで、心の存在を知ります。

このように外的な要因を作ることで、自分を認識させやすくするのが苦行や荒行です。

肉体を酷使して、真っ新で道具も取り繕いもない、肉体も心も裸の自分を作り、自分を知る環境となります。

実際に、修行をするかどうかは人それぞれであり、インドでは自己の探究のみならず、遊びの概念も含めた人間探究や宇宙との繋がりへの修行もあることから、人生は自分にとって喜びがあれば何でも修行になり、毎日が修行になります。

修行をしている人の、エゴの苦しみからの解消や強さを求める行為は、自分が喜ぶためであり、納得するためです。

インドのマスターやグルーのように、真理を悟って喜んでも、まだ知りたいと思えば、まだ先の自分の喜びと納得があります。

苦行や荒行を終えても、別のことで苦しみや忍耐があれば修行をしていきます。

人生は修行だと思うのも、人生は修行ではないと思うのも、そのように認識することで自分が喜び、納得します。

栴檀双葉(せんだんのふたば)や大器晩成という言葉があり、これも「人生は修行」という言葉と似ており、ポジティブ思考をして現状を対処する思考巡りです。それを言うことで自分が喜び、納得します。

人生は修行の意味 : 生きていることを認識する毎日が修行

※全ての行為の根底には自分の喜びと納得があり、自分のために生きていることを認識することが修行

栴檀双葉(せんだんのふたば)・・・優れた才能を持っている人は、子供の頃から優れている

大器晩成(たいきばんせい ・・・大物は遅れて頭角を現す

日本の僧侶の修行では毎日が修行です。日常生活が修行となります。

しかし、これは僧侶だからではなく、僧侶ではなくとも、誰でも毎日が修行です。

修行をするための外的な環境整備は人それぞれにあり、僧侶になったり、インドへ行ったり。日本でも日常生活をする際に、物事を意識的に認識することで修行となります。

苦しみや辛さを体験した時には、どうして自分が辛いと思っているかの認識をする機会になります。

それらは滝行のように外的な要因が作られたことと同じであり、成長や強さを求める機会になります。

辛いことや苦しいことが起きた際に、自分のためのことであり、自分を喜ばすためだと認識することで、「人生は修行だね」と心を安らかにし、自己の成長へのモチベーションにもなります。

そして、自分の喜びを尊重するので、泣きたい時には泣きます。

我慢することは自分の認識にはならず、ありのままの自分を思考にて隠してしまうので、怒る時は怒りを発散し、納得いかない時には納得いかないのです。

それによって、修行として自分を喜ばすための克服や成長の時間が始まります。

※人生を辛くする理由がありますので、修行前に、人生が辛い理由に大きな意志|辛さの糧は全てを良きことに変える をご覧ください。

人生が辛い理由に大きな意志|辛さの糧は全てを良きことに変える人生が辛いかどうかは本人のみが知る。本人が決めるなら、辛いと思っていたほうが自分のためになる。 辛いかどうかの尺度は人それぞれにあ...

 

人生は修行でも何でも良い

修行をしたくなる理由

「人生は修行」だと伝える人は、その修行となる過酷な時間を乗り越えた人です。

乗り越えた人は強い意志をもつので、自信を持って「人生は修行だ」ということができますが、苦しみや辛い状況を乗り越えるのは容易なことではありません。

自分に苦しみが生まれるのは、全て周囲の影響を利用したもので、お金がない貧乏生活や、容姿の不満足、家庭環境の荒れ、関わる人の負の影響、病気、抑圧や制限をかけられる所有化など、さまざまです。

それらの周囲の影響を基に、自分自身の認識にて辛さや苦しさを感じます。

その為、実際に辛いと思うか思わないかは思考によるもので、自由です。

さまざまな周囲の影響がありますが、自分のみしか存在しなければ、そこに苦しみを見出すことはできません。

そのため、悩みや辛さの全ての原因は“対人関係”しかありません。

どんな環境でも状態でも、自分と他者を比較することで苦しみを作り、または他者の発言やその際の感情を読み取ることで、「自分は可哀想なんだ」「哀れだ」「他の人とは違うんだ」と思い込みます。

そこに人それぞれの認識があり、苦しみにて人生は修行だと思い、幸せなことばかりで人生は修行ではないと思います。

苦しい環境がなく、生まれた時から楽しいことや幸せなことばかりの人もいます。
その際には、修行の概念もなく、修行をしようと思うこともないでしょう。

しかし、そこにも人それぞれの認識があります。

例えばお金持ちの家に生まれた場合には、お金に困ることはありません。何もかもを与えられ、生活に困るような現実を見ることもありません。さらにお金に困らないことが当たり前の常識となるので、貧困を引き寄せることはなく、将来的にもお金に困らない生活となる現実がその人の常識として生まれます。

それを捉え方を変えると、困る状況がないので強さを得る機会がなく、あらゆる困難からは逃げて逃避する生き方になり、周囲の人から与えられて生きる環境があれば、自発的に生み出す概念がなく、自分の意見を持たずに生かされる人生にもなります。

その為、自らの成長に、自分の環境を離れてお金に困る生活を求める人もいます。

修行をしたくなる理由 :

自分の喜びは周囲や他者が作るものではないことに気付くことで、自らの意志で物事を認識し、自分を知るための修行をする動機となる。
修行にて自分を認識することで、自分の喜びを追求した人生を目指す。

※人生は修行である考えにスピリチュアルな見方がありますので、辛いことは大切な機会。人生は修行であるスピリチュアルな見方 をぜひご覧ください。

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人生は修行であり、修行ではない理由

一昔前では情報の共有がなされないので、苦しみや自身の状況に対処することも困難でした。

しかし、今の時代は情報の共有社会で、自分が受け入れたいと思える情報は探せば多く存在しており、自らの努力で自分の認識に気付くことができます。

どのように物事を認識するかに修行の意味があり、人生を修行と捉える意味は人それぞれに作られ、人生は修行ではないと捉える意味も作られる。

忍耐や苦労を良しとすることでその場を対処し、報われる精神を努力の動機にするのは、自らの力では苦しみを切り抜けることが困難だった環境や時代背景があります。

今の時代では、困難かどうか、苦しいかどうかを作っている自分に気付ける環境があります。

幸せになることが自分の喜びであれば、強さや成長は必要ない認識も生まれます。

そして、とにかく自分の喜びを求めて、周囲に良き影響や波動を与えることが自分の成長となる考えも生まれ、人生は修行ではない捉え方となります。

言い方を変えると全てが修行であり、楽しむことも喜びのための修行であり、苦しむことも克服と強さを得る喜びの修行であり、本当に何でも良く、人それぞれの喜びに沿って生きることが大切な修行の意味となる。

 

人生は修行 まとめ

何を求めるかは人それぞれですが、苦しみや辛さがある場合は、強さを得る機会を貰ったと捉えることができます。

全てのことに意味が見出せるのが、毎日が修行である自分の喜びを求める人生です。

人生は修行だとすることで、自分の喜びのために自己の成長や強さを得るために生きるので、死ぬまで目的を持って生きることになります。

生きていて、何のために生きているのかの目的がないと、生きている意味がわからなくなり辛くなります。

その際には、ご飯も食べて家もあり、家族もあり、お金も仕事も何でもありますが、自分がないという空虚となります。

人生は修行とすることで、人それぞれに成長を求めて、楽しいことをしたり辛いことをしたり、自分が満足するための生き方を本気で取り組むことができます。

それは何を求めていても、生きる喜びとなり、幸せな日々を送ることに繋がります。

何といってもポジティブな思考に繋がり、辛いことこそ自分を成長させる機会となり、嬉しいことになってしまいます。

苦しい状況に意味を見出すのは、目の前のことから目を逸らさずに本気で生きる覚悟です。
その強い気持ちにて、自分を認識し、自分を喜ばす道を自ら広げます。

栴檀双葉も大器晩成も実際にはありません。
小さい頃から、顔立ちや容姿が綺麗で、才能が優れているという理由で喜ぶことが、自分の喜びかどうかは本人にしかわかりません。

ちやほやされることは、自分の意志も意見を持たなくなるから良いことなのか。
周囲から褒められることと、嫉まれることは同時並列で起きるのが人々との共存模様ですので、認識によって優先順位や周囲の見方も変わります。

年齢を重ねると共に人生が豊かになっていくのは、自分の意志と意見を持ち、自分として生きて来れた環境があったからであり、ちやほやされずに苦しい状況があったからこその今かもしれません。

エゴは人を成長させるための材料と、動機作りになります。

エゴがなければ悩み苦しむことはなく、それは考えないことと同義です。
考えないことは感覚的で蝶のように爺婆のように幸福をもたらすと同時に、動物的で本能的で他者への敬いは生まれません。

人生は修行である意味は人それぞれの喜びを求める姿であり、苦しみの克服と解放にある喜びを望む姿に、兆しと希望が輝きを放ちます。

自分の喜びのために行動をする方に少しでも役立つものであることを願い、「人生は修行なのか、修行ではないのか、うん、何でも良いよね」という話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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