人それぞれ

命の重さを知り気楽に生きる。病気から学ぶ命を軽く見る見方

「死」とは、どれほどの距離感を持って関わるものか。

死は未知のことであり、死んでみないと自分がどう想うかはわからないことなので、予想と憶測が広がります。

死後の世界を経験したことから、私は死をとても身近なものとして、命の重さを軽く気楽に見るようになりました。

命とは大切なものであり、生きている今の現実に意味があり、生死への執着とエゴを生み出す材料ではありません。

命は重いものでも軽いものでもあります。それは一人一人に自分にしかわからない命の見方や捉え方があるので、自分以外の人の命を重くしたり軽くしたりすることはできないことです。

自分の命の重さのみがわかり得るものであり、人それぞれに命への捉え方があります。

自分の命は自分のものです。他人のものでもなく、縛られるものでもなく、社会のルールに当てはめて小さくなるものでもありません。

命を大切に敬い、命の軽い見方や捉え方を持つことで縛られずに本気で自分の人生を生き、生きていることを感じる一助となることを願い共有します。

 

命の重さを作る死へのルール

死への常識やルール

命への考え方は死をとても重大なものとして捉え、距離を置いてなるべく見ないようにする対象とします。その為に、不安感と恐怖心を死に植え付けることで、常識やルールとして考え方を成立させて人々に植え込みます。

現在、私達の命は数連なる保障によって見守られ、安心と安全という名の基に、社会の枠に収まりながら安心して生活を送れるようになっています。それが日本です。

檻の中に入っても、1日3食あります。
この世の常識やルールは幅広いです。実際に何が良いかは自分が経験してみないとわかりません。

アフリカの子供は食費が1日100円以下の生活をしている貧困状態で可哀想だという情報が流れています。

私はアフリカの貧困国に居た際は、1日1円も使わずに1週間以上過ごしていました。食べるのは粘土のようなデンプンのみですが、お腹は膨れて不満なんか到底ありません。
アフリカの発展途上国に居る際は、食料をお店で購入する生活で1ヶ月以上1日50円ほどで過ごしていました。可哀想な状況ではなく、しっかりご飯も1日2食食べての満足した生活です。

思い込みの常識やルールは作られインプットされていきます。
死への常識やルールとなる命への考え方は、死んでみないとわからないので憶測で話が進みます。そして、人の命がなくなる様子から、悲壮感や悲しみ辛さ、苦しみを作り出しています。

実際、幸福な人生を送った人の死はどんなでしょう。
「メッチャ幸せだったなー♪」と安らかに清らかに死んでいった場合、そこにはポジティブな命への考えが作られ、死に対して恐怖や不安が植え付くことはないかもしれません。

死んだ人が、この世に物質的に伝言ができる仕組みは、霊媒師さんや霊能力によって執り行われていますが、それを信用しないのは、信用しないことに利益があるからです。

嘘臭くても何でも、信用することで気楽で幸福に生活を送る自分への助けになるのであれば、それは自分の利益なので、信用して受け入れることをするのが良いかもしれません。

死に関しては死んでみないと何もわからないので、「正しい、間違っている」と論評することはできません。

死んでみなければわからないのであれば、信じることができることです。自分の幸せに繫がるものを自分の判断で信じて受け入れるのが、自分のためになる生き方です。

お墓を作るのも、そこに先祖が宿り、還ってくる場所になると信じているから作ります。
そうでなければ骨は灰です。タバコの灰と変わりません。

死んだら恐ろしい世界が待っているのか。それとも、超絶に幸福な世界が待っているのか。地獄と天国はあるのか。全て死なないとわかりません。
それならば、死ぬことを気楽に捉えて自分への制限を外し、やりたいことをやって本気で生きる道は、自分の幸せに繫がります。

※死への恐怖心と不安感が作られる仕組みは、思い込みに気付く克服。死への恐怖はないのが普通である事実 をご覧ください。

https://nandemoii.com/death-is-familia/

生死への考え

生死への考えは死んでみないとわかりません。
目の前にある事実は、「生きている今の現実」と、「いつか来る死」のみ。
それらは透明で無色です。良くも悪くもない、正解も不正解もない。そこに色を付けて意味を付けるのは自分自身の認識次第であり、人それぞれです。
自分の命は自分のものであり、他の誰のものでもありません。

沖縄の葬式は明るいです。死んだ後も、年に1度親戚で集まってお墓の前でお酒を飲みながら宴会をして、とても楽しそうです。

神妙な顔をして高級寿司とビールを食べる。お墓の前でお酒を飲んでみんなで楽しむ。
正解も不正解もありません。どっちも良いです。お寿司食べたいし、楽しんでお酒飲みたいし。

日本のお祭りには意味があります。
日本は神様を見出す国であり、文化があり、それは自然やものも含めた万物が対象です。
神社はエネルギーが強く清い場所に作られています。エネルギーの高く強く清いものを“波動が高い”と言います。波動を重要視し、エネルギーや気の概念のある国が日本です。
そんな神の国日本のお祭りは、神様の楽しむ遊びの時間です。
神様はエネルギーであり、高い波動の存在なので、楽しいエネルギーが好きです。そのために、みんなで踊ったり演奏したり、食べたり飲んだりして楽しい波動を出して、神様に喜んでもらう時間です。みんなが楽しくすることで良い波動となり、その波動は神様の食事になり、神様は楽しいことが好きなので、お祭りでみんなで楽しんで良い波動を捧げようということで始まりました。

生きる上で波動の概念はとても重要です。「死への恐怖や不安」を感じることで低い波動を生み出し、低い波動に包まれて生きることになるので、同じ低い波動のネガティブなことや批判や否定、愚痴や弱音、泣き言、悲壮を引き寄せます。

「死への楽しい期待や高揚」などを作ることで、死ぬまで良いことを引き寄せて生きていけたら幸せです。

※波動についてまとめてありますので、自分を紐解くとブルブルブル。自分の波動を知ると高まるエネルギー を読んでみてください。

自分の波動を知る方法│波動とはエネルギーであり存在の源であり自己表現波動とはこの世の全ての存在を創り、存在を認識するエネルギーの源です。 そして、自分自身を創造しているエネルギーとの繋がりです。 ...

 

命の重さを知り命を軽く見る

病気から学ぶ命

重く遠く、治りかけのかさぶたのように扱う命の捉え方は何のためでしょうか。

命の重さを知ることは、自分の命を持つ本人のみ知り得ます。他の誰も命の重さを知ることはできません。

知っているのは、死んだ人の周りで悲しむ人達の様子です。死んだ人の気持ちは死んだ人にしかわかりません。

命の重さは経験できないので、誰かが言っていることを信じることになります。
信じる行為は、自分が喜び安心し、不安や恐怖や悲しみを感じない自分の利益のためです。
信じるのであれば命の重さを軽く捉えることで、生きることに辛さや苦労が伴う状態を、少し気楽にして心を軽くする考え方があるかもしれません。

私は、命の重さを軽く見ています。
その為、命に対する重い概念はありません。そして、肉体も心も脳も敬っているので、今生きている自分を一生懸命に受け入れて本気で生きていく道を選んでいます。

今生きている現実があり、体が生きようとしてくれているので私は本気で生きます。
それが答えで、それ以上考える必要はありません。

そして、単純に自ら死ぬことができないので死にません。

私は体が元々強くはない人間なのですが、最近病気になりました。
全身の免疫力がなくなり、体中が痛くなり皮膚は傷つきただれます。全身にやけどをしたような傷跡が次々に生まれて痛くて仕方がありません。動くことができないのですが、痛みに我慢すれば動ける状態です。

そこに神経痛が併発し、同時に頭痛、めまい、熱、吐き気を伴い、そこからの1週間は非常にいろんな想いをする時間でした。

体を動かすことが辛過ぎて、肺と肝臓が呼吸をすると痛いので叫ぶほどとなり、息がほとんどできなくもなりました。
全身がズキズキと傷むことに追加して神経痛が伴ったことで、左膝は少し動かすと叫ぶほど痛くなりました。

病気になってから20日間ほどした時から頭痛が4日間続き、1秒も頭の痛みがやまず、1日の24時間をひたすら味わいます。
熱が酷く、シャワーを浴びているように全身が常にビショビショです。シャワーも浴びれず15日間経ちました。
めまいが酷く吐き気があるので食欲もありません。
頭痛が酷すぎて、休まず常にハンマーで頭を叩かれているようです。
4日間一睡も出来ず、体が休まる態勢がないので、常に体が痛くて仕方がありません。
涙はもう出ません。呼吸が苦しく、浅く小刻みに空気を体が取り入れます。呼吸ができないことで、精神が崩壊しました。
頭痛が痛すぎて安らかになりたいです。体がずっと痛いので、休みたいです。そんな状態を経験していました。

病気自体は1ヶ月間で治まりました。その内の最後の10日間、頭痛が発生してからの一睡もできない耐える4日間から始まった10日間ではさまざまなことを想いました。

私は1人暮らしをしているので、1人で蟻のようにゆっくり、そして叫びながら、泣きながらお粥を作り、無理矢理に体に入れます。必死に生きようとする自分を観ます。
頭痛が発生してから、全員集合かのようにあらゆる苦痛が襲ってきます。頭痛、めまい、吐き気、食欲不振、熱、呼吸困難、全身の痛み。神経痛が揃った時に耐えることが難しくなり、生きることが辛くなりました。

この時、救急車も誰も呼ばない自分を観ました。
病院には行っていません。この話は全て自己解釈と自己満足と自己解決です笑
病院に行ってまで生きたいとは思っていない自分を知りました。

頭痛で眠れないある夜中、どの体勢でも辛いので横になることもできず、壁に背中を持たれながら、上を見上げた顔の角度の状態だった私はボケーっとしていました。痛みや苦しみにフォーカスをすると辛い思いを増長させる脳があるので、何にもフォーカスをせず考えることもせず、ただボケーっとあるがままの顔の角度で1点を観ていました。

その瞬間に私は想いました、言葉を発することもできないので心の中であることを心底想いました。
「死にたい」と。

 

生きたい自分を知る

私は、死に対して恐怖の観念を持っていないので、「死んでも生きてもどちらでも良い」と思って普段から生きています。

ただ、自分で自分の命を絶やす闘いをする意志が持てないので、死ぬことができないこと、そして生きようと呼吸する体、食欲を持ちエネルギーを欲する体、睡眠をとって休息を取ろうと試みる体があるので、普段は生きる選択を常にして全力で、本気で楽しく成長するために生きています。

病気を患った時は呼吸が難しくなり、食欲はなく、夜も眠れません。
そして、4日間一睡もしていない時の夜中です。

「あれ?生きている理由なくない?」と、ネガティブな感情ではなく「死にたいな、はは」と想いました。

「死にたい」とネガティブな思いなく感じたのは初めてでした。
そう想った時、少し口角が上がったような気がしました。

涙はもう出ませんが、「どうやったら死ねるのかな?」と体に聞きます。

すると、呼吸を一生懸命にしている体があります。
少ししか呼吸しないのではなく、少ししか呼吸できない状態でも本気で空気を吸って吐いてを繰り返してくれている体に気付きます。
無理矢理食べたお粥の二口分を栄養素としてエネルギーにしてくれている体を感じます。

傷みを味わっているのは脳を使用している私だけではなく、体も常に感じており、一緒に闘っていることに気付きます。頭をハンマーで叩かれ続けているような痛みの中でも、考えることができる脳を持ち、動いてくれる体があることに気付きます。

そして、死なない自分がいることに気付きます。

脳を使用している私は、考えても生きる理由を見出せず、「死にたい」と想ったのですが、体は同じように辛いのに闘い続け、治そうとしてくれて休まず動き続けていることに気付きます。

死にたいという想いはとてもポジティブなものでした。死んだら気楽で安らかになり、この辛さと苦しみから解放される。それは、死への恐怖や不安の観念を持っていない自分の姿と、死後の世界を体験していることで、死んだ後の世界に行けることの楽しみからの想いでした。

しかし、体さんはまだ死にたくないんです。
それが答えでした。

この物質世界では体という物質が基盤です。体が全てです。そこに心が宿り生きています。
「体が生きたい」と言っているならば、それが全てです。

私は、もっともっと体を敬い愛し、常に体の気持ちがわかるように一体となることを決めました。それが命の重さだと思いました。自分の命の重さは自分のみが知り得ます。

そして、「体が頑張っているのだから頑張ろう」と考え、痛みや辛さにはフォーカスせずに体のために生きる意志を持つことを決意しました。

ここからは信じてもらう必要はないのですが、事実です。

決意をした瞬間に何かが軽くなりました。自分の内側からの感覚です。
そして、その日の明け方、私は目を覚ましました。
寝ていたんです。

決意をした後に頭痛が少しずつなくなり、眠ることができていました。そして翌朝からみるみる内に体の痛みがなくなり、吐き気がなくなり、熱がなくなり、めまいがなくなりました。2日後にはゆっくり歩くようになり、シャワーも浴びました。

病院には行っていないので全て自己完結です。歩けるようになった時に完治と決めました。
そしてご飯も食べられるようになり、元の元気な状態になりました。チャンチャンです♪

ここで伝えたいのは、「死んでもいいし、生きてもいい」ということです。
そして、「今生きているのが答えであり、体が生きていたいことが全て」ということです。それ以外何もありません。

自分が死んだら誰かに迷惑を掛けることはありまえん。自分の存在にすがられているか、執着されているかは、死ぬ人が知ったことではありません。執着する側の問題です。
唯一迷惑を掛けるとしたら、日本は火葬が法律で決まっているので、火葬をする手間です。

脳は勝手なことを考えます。死にたいなら死にたい理由があります。そして本当に死にたいのかどうかは体と心が知っています。脳ではありません。

世の中にはいろいろな人がいます。生まれた時から病院の生活をする人もいれば、五体満足ではない人もいます。常に病気と闘い生きている人もいます。

それぞれの環境や条件でも生きているからには理由があります。
生きたい理由があります。それはとても気軽なものです。

「体が生きようとしているから生きる」。これよりもわかりやすい答えはないです。
命の重さは、命を持つ本人のみが知り得ます。

※命への執着とルール設定に関しては、死にたくないけど生きたくないのは普通かも?!命への思い込みに気付く をご覧ください。

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命の私物化

命を敬い大切に想った上で一生懸命に本気で生きることは、生きていることを感じ、生きている意味や、自分の使命や役割を見出す方法となります。

その反面で、社会的なルールで命を保護し、命を遠ざけて扱い、命をなるべく伸ばし、責任を自分に課さずにとにかく長く生きることに執着することで、安泰と保全と保障を得て、本気で生きることを忘れていきます。

そのためにお金を使用し、何をするのも保険と保障を第一に考え、怪我をしないように、被害のないように、命を落とさないように、「飛行機に乗ったら落ちるかもしれない」「南米に行ったら危ない目に遭うかもしれない」「車の運転をしたら事故に遭うかもしれない」……無限の保身と欲望です。家で大人しくしていれば、保全は自分で守られます。

もちろんそれが間違っていることではありません。本人が幸せで喜びがあるならば、それがその人にとって大切なことです。また、仕組みや制度を理解して活用することで、人のためにもなり自分のためにもなり、みんなが喜び幸せになる道にもなります。

物事を理解せず、活用ではなく利用をする考えの場合、人々は命の保全と保障をする考えから、命に執着して命を私物化し始める可能性があります。

・他人に自分の命は私物化できない

・自分の命は自分のものでしかない 

「私は親だから」「この子を産んだのは私だから」「この子は私のもの」
「この子の心配をして、この子の行動を抑制して、この子の将来を制限して、この子の人間性をコントロールして、この子の人生を縛り付けて私のものにするの」と聞こえます。
言い方を丁寧か優しくすることで、まるで意味が違うかのように思い込むことはできません。

誰かに自分の命や、自分の人生を私物化される必要はありません。
自分以外の命や人生を、自分のものかのように私物化することは絶対にできません。

「親だから」「これまで育ててあげたのだから」「私の世話をみなさい」「私の言うことを聞きなさい」
自分の利益のためだけに子供を育てたので、自分のお人形さんのように言うことを聞かせる、操り人間を作る作業をしていたのかもしれません。

その親がいけないという話ではありません。その親は同じことを自分の親からされています。その為、そういう育て方や関わり方しか知りません。悪意があってやっていることではありません。

ただ、自分の行動と認識には自分の責任があります。

 

命の重さを知り命を軽く見る まとめ

生きなければいけないということはありません。
生きるなら生きる、死ぬなら死ぬ。ここに違和感も矛盾もありません。

命の重さは自分にしかわかりません。自分の脳は知りません、自分の体と心は知っています。

ここに社会のルールを介入させると、矛盾が起きます。
「死にたくても頑張って生きろ」「命を軽く見るな」「命を何だと思っているんだ」と不思議なことを考え出します。これを押し付けと言います。

自分の命の重さは、自分の考えと同じように自分自身で自由に決められる“自由意志”が一人一人にあります。
他人のことに自分の意見を強制したり押し付けることはできません。
観念は法律ではないので、それに従うか、その考え方を受け入れるかは自分の意志次第です。

生きているからには意味があります。死ぬからには意味があります。
スピリチュアルな概念では、生まれる前に自分自身で生まれる環境や育つ環境や自分の容姿、宿命となる事柄を決めてくると考えます。
※死後の世界に興味のある方は、死後の世界は楽しい?!毎日通っているあの世とこの世 を読んでみてください。

あの世の暮らしぶりは今世で決まる|死後の世界が楽しいかは自分次第死後の世界のあの世には、死んでからのお楽しみとなる楽しい生活があります。 何度かあの世へ行ってきた経験があるので、あの世とはどうい...

生まれたことには意味があります。
生前どうだったか、死んだ後にどうなるかは今重要なことではありません。
大切なのは生きている今の自分を認識することです。

今生きている自分は目の前にいるので、生きていたいことを目の前で教えてくれています。

人生とは、生まれた瞬間に始まった死ぬまでの時間です。
肉体がある以上、必ず待ち受けているのは命の終わりであり、刻一刻とそこに向かって近づき続けているのが『生きる』ということです。それが答えです。

生まれたのであれば、必ず死にます。人間はいずれ死にます。
今、生きたいのか死にたいのかは、体に聞けばわかります。心に聞けばわかります。絶対にわかります。

魂(心)としての概念では、魂は死ぬことができません。死ぬと元居た世界に戻ります。これは死んでみないとわからないので、死んだ時のお楽しみにしてください。

死後の世界を踏まえた上では、この世で何を経験し成長するかを鍵として生きているので、「経験できるだけの経験をして、生きる理由となるポジティブな想いを味わえるだけ味わって死のうかな」という考え方もあります。

何を信じるかは人それぞれであり、信じるのであれば気楽で自分の幸せに繫がるものが、自分のために良いと想います。

「死んだらダメ、なぜならば恐いものだから」というのは、意味がわかりません。
また、「死なない、なぜならば家族が悲しむから」と、家族を想った考えで、それが自分にとって喜びであれば大切なことです。しかし、その考えによって自分を縛り苦しい思いをしているならば、一度そのルールを見直してみてもいいかもしれません。

自分の命は自分のものです。社会の常識やルールがあるからと、自分を縛り付けて生き方を抑制することで、考え方も窮屈になり呼吸が苦しくなり、自分の思い込んだルールで自分を苦しめます。そんなことをする必要はありません。

生きることはシンプルです。今が辛く苦しいならば、ネガティブな状態で本来の生き方との不調和があることを体と心が教えてくれています。
※不調和によって満たされない自分が作られますので、内なる存在は全てを伝える?!心が満たされない原因は明確に一つ をぜひご覧ください。

心を満たす方法は心の仕組みを知ること|満たされない理由は愛の喪失心が満たされないという気持ちは、脳が作る気持ちと心が感じる気持ちがあります。 虚無感や何をしたらいいのかわからない混沌感、寂しさに...

それでは、命の重さと命の軽い見方についての共有を終わります。
苦しい世界も楽しい世界も良い経験です。いろいろ味わいましょう。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

読まれたあなたにたくさんの幸が生まれることを願います。

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