頭があり心がある。人の愛とはどこから生まれ、どこへ向かうのか。
愛の定義とは幅広く、愛する行為も認識も人それぞれにあるために、何を持って人を愛することになるのかはわかりにくいものです。
愛の気持ちがあるのか、在り方があるのか。それは自分に対するものなのか、人に対するものなのか。人を愛することは自分を愛することなのか、自分は放っておくのか。
愛を考えると謎は深まるばかり。そして最終的には、「愛ってなに?!」と振り出しに戻る。
実際、事実はシンプルです。
人を愛することには明確な気持ちがあり、在り方があり、そこには一つの行為のみ存在します。
人を愛することの真意にある事実と、少しスピリチュアルを含めた意味をご覧ください。
Contents
人を愛するために

愛とは
愛、それは宇宙。
というのは冗談ですが、愛とは気持ちなのか、物体なのか、姿なのか、認識なのか、宇宙のように曖昧です。
目には見えないものですので、実際に自分で体感することで、「これが愛かしら…?」となります。
ですが、それは不確かなものではなく、明確で確実に認識してわかるもので、愛を体感すれば、「これが愛だ!」というほどのはっきりしたものです。
愛する対象を自分にすると、愛とは何かがわかりやすくなります。
この世で最も愛する存在は、今生きているのであれば誰しもが自分自身だと思います。そんな自分に向けた愛には、恐怖心やネガティブな感情がありません。
あるのは心豊かな気持ちであり、自分を大切にする認識です。
自分を愛すると、自分に嫌なことをしようとは思いません。ですが、辛いことが自分の成長になる認識であれば愛として受け入れます。
そこにあるのは、自分を受け入れる気持ちであり、敬いです。
愛とは受け入れること
愛は気持ちとしてワクワクしたり温かくなるような“心地良さ”を体感します。
同時に、行動や思考を作る認識として受け入れる姿や認識の在り方があります。
受け入れるとはあるものをそのままにすることで、拒否しないことです。事実として認めて、あるがままに認識することです。
そのままに認識することは、干渉せず、押し付けず、決め付けず、期待せず、自分の世界や意見を一切介入させずにそのままを尊重する意味になります。
そのため、受け入れる在り方である愛を気持ちとして表すと、尊重する“敬いの気持ち”だとわかります。
敬いとは : 相手を尊んで、礼を尽くす。尊敬する。
「尊ぶ」は対象の価値を認めて大切にする意
敬う気持ちが愛となり、人を敬うことで人を愛することができます。
愛があるかないかは敬いがあるかないかにて決まり、自分も人も敬う気持ちを持つことで愛することができます。
※愛についての詳細は、愛とは何かを紐解くスピリチュアルと哲学|想いに種類と意味がある をご覧ください。

自分を愛するとは
自分を愛するとはそのままを敬うことで、あるがままに受け入れる意味です。
それは自然体であることを受け入れることで、自分のしたいことや在りたいままに行動や思考することを許します。
自分を制止して抑制する抵抗がなく、お腹が空いた時にご飯を食べるように、自然体で好きなように好きなことをする自分を受け入れます。
そこには、敬い尊重する気持ちがあり、それが自分を愛するということになります。
自分を愛することに、自然に反することはありません。
自分が嫌がることや我慢や忍耐などを強制することはなく、好きなことを好きな時に好きなようにさせます。
しかし、頭をなでなでして、ナタデココとバームクーヘンを与え続けることとは違います。
そこで、人それぞれの愛の形が表れます。
愛する敬いは今の自分を作った全ての出来事を受け入れること
愛の敬う気持ちは完全なる自然の摂理です。
受け入れないという拒否はあるがままの現実を見ない行為となるので、嘘、偽り、誤魔化し、思い込み、決め付けにて事実を事実として認めない状態を作ります。
それは自分らしさの抵抗を作り、愛することをできなくします。しかし、自分を愛する場合、自然体な行動と思考のままに受け入れます。
すると、「どうして生きているのか?」もわかったりします。
身体が勝手に空気を吸うから生きているわけではありません。自分の肉体と脳と心があり、自我意識があるために生きている今という現実を、空気を吸ったり、ご飯を作ったり、食べたり、お金を稼いだりして作ります。
自分を愛するが故に生き続ける選択をして、そのために必要な行動と認識をして、人と関わり、自分と関わります。
自分を愛することは自分が認識する出来事も他の存在も関わりも影響も全ての周囲を愛する意味になります。
自分を愛することは自分だけではない
今の自分が作られる過程がありました。
過去があるから今があり、今があるから未来があるので、過去が欠けると現実は生まれず、過去の出来事で受け入れないことがあれば今作られている自分には何かしらの抵抗があり、完全に愛することはできません。
今の自分を愛するためには、過去の出来事も関わった他者も全てを敬って受け入れる気持ちが必要です。
出来事や他の影響にて自分が作られていると知ることは、“自分”、“他者”という区分けを失くすことに繋がります。
起きる出来事にも受け入れの敬いの気持ちが生まれ、過去の辛いことも嬉しいことも、全てが今の自分に必要な材料と記憶になり、意識となります。
それを受け入れると、ポジティブだけではなくネガティブもエゴも自分を作り、強く成長させるための出来事や、知識や経験を広げるための学びであり、“成長”として見る認識が人それぞれに生まれます。
人を愛するとは
敬いの気持ちを誰か人に対して持つことで、人を愛することになります。
人を愛する際、目の前の人をそのままに受け入れる自分が作られます。
人をそのままに敬うことで、「この人は変な顔だ」「この人のファッションはおかしい」「洋服に値札が付いている」という干渉が一切なくなります。
人を愛することは、自分の世界の押し付けをせずに、他者の世界に干渉しないことです。
他者を干渉する行為は全て愛ではありません。それは、自分への愛でもない意味です。
- 人を心配する思いやりは自分の心配のみが対象。人を心配することはエゴになる
※人を愛する際には応援やサポートとして見守る - 人に同情して、「可哀そう」などと思うことは自分の認識を押し付けている感想
※人を愛する際には共感して、相手を尊重する - 最愛の人と離れ離れになって悲しいのは自分の喜びのみを考えていたから
※人を愛する場合、相手を敬い喜ぶ - 人や自分を期待する場合、そこに決め付けや思い込みがあれば自他を敬う認識はない
※人や自分を愛するのであれば楽観になる
誰か人を愛する場合、自分の喜びだけを求める行為は成り立たなくなります。
人を愛する受け入れは、敬いの気持ちから始まる
愛には受け入れる在り方がありますが、人を受け入れるには、「はい、受け入れました」という言葉や外見は一切関係なく、必ず敬いの気持ちが必要になります。
そこに、自分を愛すると人を愛することの違いがあり、自分を愛する場合には受け入れが容易です。
生まれた時からの自分への敬いの愛があり、自分を喜ばすために生きている無意識の前提理解があります。
人をそのままに尊重することは時に難しいもので、あきらかに化粧がおかしいと思えば、「今日なんか、化粧の仕方がいつもと違うね」と言ってしまいそうなものです。
ましてや、「口紅の色はもう少し明るいといいんじゃない?」なんて言ったもんならもう、愛とは程遠い我の押し付け、エゴによる干渉、監視、押し付け、否定にピーピングトムと言った感じで勢揃いです。
受け入れには外見や取り繕いは通用せず、真意として心の意志を尊重する敬いの気持ちを持つことによって成立します。
それが人を愛することで、行動や在り方として人を愛しているように見せることはできますが、それが本当に愛なのかどうかは本人が知っており、相手も体感によって理解します。
それほどに愛とは体感してはっきりわかる心地良さがあり、自分から人を好きになってドキドキすることは人を愛することではなく、自分の喜びを主張することです。
人を愛するためには、自分、他者の区分けを失くす
人を確実に敬い、そのままを尊重する許容があることで人を愛することができるので、人のことを考えることが大事かと思いきや、“自分”、“他者”という区分けの認識をしている以上、実は敬うことはできません。
なぜならば、自分か他人かを分けると、優劣を作り優先順位を作ってしまうからです。
すると、人のことを第一に考えることはできません。そこには最愛の自分がいて、自分をおろそかにすることで人を愛する敬いの気持ちを持てなくなります。
人を敬うためには、“自分、他者”という区分けを失くす必要があり、それによって人を愛することができます。
自分を敬うことで人を愛することができる
「私は私」なので、その認識をなくすということはとても難しいことです。
しかし、物事をシンプルに考えると意外に簡単なことがわかります。
それは、何よりも愛する対象である自分だけを認識することです。
自分と他者という区分けをするのは、“自分”という存在が大きいためで、自分を特別視して愛していたり、我が強ければ強いほどに、「自分、それ以外」という見方に自然となります。
それを失くすことは不可能に近いので、自分だけにしちゃいます。
自分しか見ません。というのは、自分を完全なる主観にして、自分の人生のみに集中することで、自分で自分を認識することです。
“個”を尊重することで、“自分は自分、他者は他者”であることが当たり前となり、他に干渉する意識はなくなり、自分で自分の喜びを作り自分を敬う気持ちが強まります。
あるのは自分の世界のみで、他への干渉や依存や執着する必要性がなく、自分のことに責任を持つようになります。
人を差別せずに同じ見方をして、自分への敬いが他者にも同じようになり、人を愛することとなります。
- 人を愛することは、「その人だから、○○さんだから、家族だから」という区分けがあればあるほどにできない。
- 自分を敬うことで他への尊重が生まれ、それは他ではなく個としての敬いとして人を愛する。
- 敬いの愛とは自分の敬いであり、人を愛することとは自分を愛すること。
※極僅かの人が対象となる本当の愛については、本当の愛を持つ人の特徴とスピリチュアル|無関心と紙一重な親愛の真実 をご覧ください。

人を愛するスピリチュアルな意味

人を愛することには、自分や他者という区分けがありません。
それはスピリチュアルな“ワンネス”を知ることで、わかりやすくなります。
人を愛するスピリチュアルな“ワンネス”
ワンネスとは、“全ては一つ”という万物は一つの意識で繋がっていることです。
それは、隣の人も自分も同じ意識から派生していて、本当は同じということです。
「んなこたぁ」という感じですが、それが事実かどうかは重要ではありません。
スピリチュアルな理解にて“全ては一つ”である考えがあると、自分や他者の区分けがないことが前提で、そこに個々の認識としての“自我意識”が一人一人にあることになります。
自我意識があることで自分と他者を区分けしますが、全てが一つであることは自分もなければ他もなく、全体を一つとして見る俯瞰した捉え方になります。
人を愛することは見方を俯瞰して全体にすること
ワンネスの認知があることで全てを一つに捉えます。
それは、「私はあなたを愛しています」と目の前の人を敬うのではなく、「私もあなたも同じように捉えます」ということで、自分を中心点にして自分と同じように他者を愛せるようになる認識です。
俯瞰して見ることで、他者に何を言われても気にする概念はどこかへ行ってしまいます。
それは、「自分として個々の意識を持っているのに、相手に干渉するってどういうことですか?」という根本の疑問を浮き彫りにします。
ワンネスの考え方があることで、自分を自分で認識して、完全に自分と個を区分けする本来の自我意識の在り方ができます。
そこから、俯瞰性を上げて全ては一つという全体の見方をしたい場合には、自分を愛することから始まります。
自分を受け入れることで自分の意志を確立して、他者に干渉しない状態になります。
そして、敬える近しい人から順番に範囲を広げていくことで、他者に干渉しない俯瞰性が育まれます。
大切なことは、他者を愛するのではなく、自分を愛することで俯瞰するための見方を知ることです。
自分以外に主観はいないので、これが自然な形だったりします。
※ワンネスにて本当の愛がわかりますので、ワンネスにある本当の愛│全ては一つだからこそ生まれる真実と愛の意味 をご覧ください。

人を愛することと自分を愛することの違い

人を愛するのは自分のためか?人のためか?
人を愛することが受け入れの敬いであることから、人を愛する目的が明確になります。
それは、“自分のため”です。
「自分かーい」と、「人のためじゃないんかーい」と。
人のために人を愛することはできますが、自分のためであることが消えることはありません。
常に第一優先です。自分という認識がある以上、自分のためであることが変わることはなく、俯瞰性が高まることで、自分のためと人のための優先度が同じになるのが最終地点です。
そのため、ワンネスの認知を高めて誰しもが自分と同じだと認識することで、「人を愛することは人のためでもあり自分のためでもある」という状態になります。
自分の喜びのために人を愛する
「人を愛するので、人のためであってほしい」と思うかもしれません。
しかし、自分の喜びがなければ、私達は人を愛することはありません。
あらゆる行為の目的と動機は“自分のため”でして、それは自分の喜びのためです。
その喜びは人それぞれに、嬉しいことや楽しいこと、愛することや感謝すること、悲しまないことや苦しまないこと、恐怖心がないことやネガティブを味わわずに済むことなど様々です。
自分の喜びが主体にあることで人を敬うことができます。喜びがなければ義務や強制があり、愛するための敬いを持つことはできず、嘘や取り繕いの誤魔化しになります。
例えば、最愛の人がいます。その人を敬って愛しているということは、自分と同じように捉えています。
それはその人のためにすることが自分の喜びであり、人が喜ぶことが自分の喜びとなる認識で、どこまでも愛することができます。
しかし、自分と同じように認識できなければ敬いに加減が生まれ、調整することは嘘をつくことで、愛とは違う何かになります。
愛的な、愛のような、愛に似ている何か。思考であり思い込みです。
しかし、愛の形は人それぞれなので、どれが正しいとか間違っているということはありません。
ただ事実として、愛とは自分の喜びのためでないと生まれないということです。
自分を愛すると人を愛することができる
自分のために人を愛することが愛そのものですが、自分を愛することに集中すると、結果的に人を愛することができるようになります。
自分を愛することによって喜びを求める在り方となります。その愛を強めれば強めるほどに、あらゆることを受け入れる許容が大きくなることを意味します。
最終的には全てを受け入れることでワンネス一体化となり、自分も他者もない全体の捉え方となり、「自分のため、人のため」という認識すらもなくなります。
すると、自分への愛の行為が人のためになります。
自分を愛することに集中すると人を愛する結果が起きる
自分を愛することは自分で自分を認識して、敬いと喜びを与え、自然にそのままに受け入れる在り方を作ります。
それは認識の形を変えて、人が喜ぶことが自分の喜びになっていきます。
自分を愛することで受け入れが増え、拒否することが減っていきます。すると、目の前に人がいることで会話できることや、目の前の人が料理することでこの味付けを食べられることなど、全ては周囲の人や環境を含めた集大成として今が作られることを理解します。
すると愛は同時に、物事が起きることや他者が影響を与えてくれることへの感謝を生み、より出来事や人を敬う動機になります。
作為や思惑ない自然な形として、あらゆる物事の紐解きにて人を愛する気持ちが生まれ、最終的には自分も他者もなくなります。
そこまでいかずとも、より愛を認知して敬いを持つ基盤が作られていき、自分の喜びを求める敬いは結果として人を愛する認識をもたらします。
人を愛する場合、自分はいない
最後に、人を愛することの意味をお伝えして終了となります。
これまでの内容から、人を愛することは自分のためだとお伝えしました。
人を愛する場合、「自分のため」という事実はなくなりませんが、それを認識する源である自分がいなくなることで、“完全に人のために人を愛する”ことができます。
悲しい現実ですが、人のために人を愛することを理解する時、そこに自分はいません。
その自分は、自分のことを自分だと認識していません。
前提として、人を愛する際、愛されているかどうかを決めるのは愛される側です。
人を愛すると、「この人のために、この人に喜んでもらうために」と心から思うかもしれません。
それを思えば思うほどに自我が強いので、根底には“自分が喜ぶため”というのが消えません。
ですが、自分が確立され、自分で自分を認識して、どこまでも自分を喜ばした暁には、「私は」という主語がなくなるように、「この人を愛する」という行為の事実だけが残ります。
あとは、愛を受け取る側がどう認識するかです。
自分という主語がない敬いの行為は、相手に、「私のためなんだ」という体感をさせます。
命を懸けて誰かを守るなどの行為も自分のためです。しかし、命を落とすことを恐れず、恐れがあっても受け入れる許容を持つ人は俯瞰性があり、完全に目の前の人のために守ることができ、愛される人によってその事実が認識されます。
愛に一方通行はありません。愛を発する側は愛をお返しされます。それは、赤ん坊と母親のように愛は愛と繋がります。
そのため、人を愛することが自分のためなのか人のためなのかは重要なことではなく、愛と愛が繋がることが大切ではないかと思います。
そんな理解が人を愛することにはあります。愛はいつまでも、どこまでも広がります。
※自分を愛する話は、自分を愛する方法はスピリチュアルな自己中心|自分勝手とは違う認識 をご覧ください。

人を愛するために まとめ

愛とは何だか難しいような気がしますが、とてもシンプルなものです。
自分が全ての中心にあり、その自分を作るのは自分の周囲の人であり、自分が育った環境であり、地球でありと、あらゆるものが関わり構成されます。
すると、自分の中心というのは点ではなく空のように広がる円だとわかります。
全ての繋がりを知り、関わりを持つ全てを受け入れた時、敬いが生まれ、感謝を抱き、心からの愛を知ります。
それは関わった全てを愛することであり、人を愛することは自分を愛することです。
自分を敬うことが愛を知る全ての材料です。
それは自分の過去を受け入れ、関わってくれた人を受け入れることです。
すると気付きます。
自分は愛であり、他者は愛であり、自分を愛することで全てが繋がり、人を愛することでみんなが繋がることを。
自分をどこまでも大切に愛することは、全てを繋げ、全てを敬い、全てを愛します。
そんな、人を愛する意味があり、人の力があります。
人を愛し、敬いの気持ちを知る一助となれば幸いです。
それでは、人を愛することの話を終了します。最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。