対処・解消法

生きている意味がわからない│そんな自分を観察するとわかる答え

生きている意味はわからないから答えを出そうとするのか、ないから考え続けるのか。

生きている以上、その事実に答えや意味を求めたくなるものです。

生きている意味は、人それぞれの生育環境や生活環境にて、幼少期から生育後もなお考える人生への大きな疑問の一つだと思います。

ここでは、私の経験と知恵から、わかる範囲の生きている意味を共有させてください。

意味は人それぞれにありますが、確実に一つ、誰しも共通の意味が判明します。

あくまで私の小さな理解ですが、人間を紐解くことでわかる仕組みと認識も含めて、何か一つのフレーズでも役立てば幸いです。

生きている意味

生きている意味って何?

「なんで私って生きているんだろう?」

この疑問はこれと同じかもしれません。

「なんで私ってご飯を食べているんだろう?」

生きていることに意味を見出すのは、ご飯を食べていることに意味を見出すこと、寝ていることに意味を見出すことと同じ。

今、卵焼きを食べていて、「私は何で卵焼きを食べているんだろう?」

「食べたいからでしょ」となりそうですが、なりません。それは答えではないためです。

ご飯を食べているのは、寝ているのは。していることは何でもいいのですが、自分の今現在の行為に対して意味を求める場合の答えは、「その行為を選択したから」というものです。

それは、「その行為を選択した過去があるから今その結果がある」ということ。

「いきなり何の話?」という始まりです。

生きている意味は、考えれば考えるほど答えから遠ざかるという不思議な仕組みが潜みます。

そんな紐解きをこれからしていきましょう。

 

生きている意味とは現実のこと

“生きている”とは現在進行形の今起きていることです。

そのため、生きている以外にも、自分がしている行為も“生きている”という言葉の中に含まれ、さらに“自分”、“思考”、“感覚”、“気持ち”、“感情”などのあらゆる『認識』も含まれています。

食べたり寝たり生きたりと何か行為に及ぶ際には必ず認識があることで行為に及び、そこには動機と結果があります。

認識の中に、「今日の夜ご飯は卵焼きにしよう」と思える何かが動機となり、その結果として今この瞬間に卵焼きを食べて生きています。

要約します。

生きていることは認識によって動機作られ、選択によって結果が生まれるため、生きる選択をしたために今も生きている。

認識や選択(行為の始まりと終わり)をしているのは“自分”ですので、生きているとは自分そのものの表現になります。

少しわかりにくいかもしれませんが、自分という認識があって、選択する自分という土台があって、結果として今生きている状態が現実として作られるという、方程式のようなものが見えます。

自分という認識 +-×÷ 選択する自分 =生きている結果

ここでわかることは、今生きている意味は過去から今この瞬間までの自分の記憶によって作られているということです。

それは、記憶にある情報や知識、知恵や経験などの“過去の記憶”によって“認識”が作られ、全ての疑問を持つ始まりである“生きる動機”は過去の集大成によって完成するためです。

さらに、過去の集大成による認識(自分)にて選択することで“生きている結果”が完成するためです。

生きている意味とは、自分の認識によって作られた現実のこと

生きている意味は、生きているという行為を今なお続けている自分自身が答えということです。

卵焼きを食べるのは食べたいからですが、その食べたいからには動機と選択を作る過去の集大成の自分が今存在することが答えになります。

赤ん坊が、「これ食べたい」と思っていないけど、「食べる」という選択を無意識にしていることと同じで、そこには動機と選択する自分が居る=生きている意味を出すには自分が必ず要ります。

うーん、わかりにくい。

まだまだ先を行きましょう。

 

生きている意味を知るために大切なこと

“自分の認識によって作られた現実”が生きている意味。

何だかそれっぽいことを言っていますが、そういうことではないと。知りたいことはこういうことではないと。

「なんで生きているのかを知りたい、意味はあるのかないのか?」

これまでの内容で答えがわかる人はわかると思います。なぜならば、上記でお伝えしたことは、「自分で選択して生きているんだからそれが意味でしょ?」ということなので、生きている意味はそれを選択した自分のことを知っていればわかります。

しかし、生きている意味に疑問がある場合、自分が選択している自覚がない、または自覚したい=納得できていない状態が考えられます。

そもそも気付いたらオギャーオギャーと息し始めて、周囲の人が助けてくれることで生育して生きているので、赤ん坊の時は全て無意識に選択して、生きようとする自然な認識によって結果を作るけどそこに自覚がありません。

自我が芽生える幼少期頃には自覚していないことへの気付きとして、「なんで生きてんだろ、私」なんてことになると思います。

選択して行為している自分のことを知っていれば、それ自体が生きている意味になるので、意味を見出すことはありません(存在する自分が既に答えであるため)。

しかし選択の自覚なく、自分を知らないことで生きている意味を考えると、そこに答えはありません。

「これが生きている意味だ、わかったぞ!」という答えはなく、『わかったと思っていないけどわかっている』という答えが生きている意味です。

生きている意味がわかるのは、生きている意味を考えたり探していない自分

※言葉や思考による答えではなく、無意識の理解にて体感する答えがある

このことから、生きている意味は自分の認識と選択である行為そのものを自覚することで、体感として見出せることがわかります。

 

未来の自分に対して生きている意味は見出せない

生きている意味を知るためには、現実におけるものしか答えにならないと知っていることが大切になります。

そのため、現実ではない未来の自分である“将来の自分”を含めて生きている意味を出すことはできません。

現実として起きていないことに対して生きている意味を見出すのは、超能力者とか預言者でして、自分自身でそれができると意味を見出せます。

一人一人に過去があり経験があり認識が作られるので、他者が己の人生に対して答えを出すことはできず、その際は答えではなく信じたり、思い込んだりする材料です。

未来の起きていないことは空想に対する予想・予測ですので、存在しないことに生きている意味はなく、見出せるのは信憑性や思い込みできる思考情報です。頭をプクッとさせる時間。

生きている意味は現実に起きた“過去から今この瞬間までの人生”に対して見出せるものです。

※人生の目的にある生きている意味の話は、人生の目的とは何か│生きている意味からわかるシンプルな事実 をご覧ください。

人生の目的とは何か│生きている意味からわかるシンプルな事実人生には、生きている意味があることで目的を持つことができます。 そのため、意味と目的は全くの別物です。 ここでは、人生の目的...

 

生きている意味がわからない

これまでは“生きている意味”についてをお伝えしましたが、“生きている意味がわからない”ことへの答えは全く別にあります。

生きている意味に対する答えは、生きている意味がわからないことに対する答えを理解するために必要な前振りでしたので、ここからが本題です。

「長ー」

一旦休憩してください。あと5分くらいで読み終わりますので気楽に行きましょう。

 

生きている意味がわからない場合の答え

生きている意味は言語的、そして思考的にはわかりません。

これは、考えてみると当然のことかもしれません。私達は脳だけでなく、肉体があり心があります。

思考以外にも感覚があり、脳によって感情は作られますが、それ以外の心の気持ちがあり、さらに人によっては魂の認知にてぶっ飛びかっ飛び。

あらゆる認識にバランスがあり自分として答えを導き出すので、偏りなく生きている生き様にて理解するというイメージで、思考的でもいいのですが限ることなく過去の集大成としてわかるのが“生きている意味”です。

そこで、「生きている意味がわからない」と考える場合には、認識のバランスが崩れ、認識の自覚がなくなっていることが考えられます。

そんな時には、「どうして生きている意味を考えるのだろうか?」と自分自身に疑問を投げかけてみると、見えるものがあります。

 

生きている意味を考える自分を考えると見える答え

私自身、子供の頃に良く月を見ながらぼけーっとして、「なんだこの時間」と。
そんな自分も謎、考えていることもわからない、生きている時間も何なのか、「ってかなんで生きてんの?」「罰ゲームかーい」と雄叫び吠える、ワオワオーン。

「いや、ここ住宅街ですから」と一蹴。へっ、悲しい記憶です。

そこには、生かされている自分、認識の自覚がない、選択させられている状態、納得いかない、満足のない自分が居ました。

生きている意味を考えることは、生きていることに疑問があり、答えを求めます。

生きている自分に疑問がある状態では、誰しも共通の状態があると考えます。

生きている意味を考えるのは、納得いっていないから納得したい自分がいる。

なんか納得がない、または不納得ではないけど納得したい。それは、満足がない、または不満足ではないけど満足したいという状態。

何でもそうかもしれませんが、納得や満足がいけば思考も落ち着き、解決です。それが答えであるかどうかはもはやどうでもよくて、「そういうことか」となれば終了。

そこには誰しも共通の、生きている意味がわからないことへの答えが見えてきます。

それがこちらです。

自分の行為や認識に納得や満足することが生きている意味

“納得や満足”がキーワードです。

 

生きている意味は納得や満足することでわかる

生きている基盤の“自分”は一人一人千差万別であることから、納得や満足も一人一人にあります。

そんな納得や満足とは、言い方を変えると“喜び”のことです。

自分にとっての喜びがあり、満足や不満のないこと、嬉しいことや恐怖のないことなど、さまざまです。

そんな納得や満足による喜びによって生きている意味がわかります。

例えば、今生きている自分に納得があれば、生きている意味を考えることはおそらくないと思います。
「なんでもいいよ」みたいな。考えたこともなければ、「どうでもいいよ」みたいな。

それは、喜びのある時間を堪能することに集中している状態と同じで、好きな趣味のカラオケ熱唱中の真っ只中で、「ウーラーラーイエッ!あれっ、なんで生きているんだろ?」「ちょっとどうした!?」みたいなことはないと。

大食いチャレンジ最中の大盛牛丼ガツガツガツ!さぁ残り3分切ったぞ!「あれっ、なんで生きているの?」なんてこたぁねぇと。せめて、「何でこんなことしてんの?」にしてと。

自分にとっての喜びを認識している時は、行為を自覚して理解している=喜んでいる時には生きている意味の答えそのものになっている状態です。

これが初めにお伝えした、“生きている意味”のことです。

※生きている意味とは違う、自分の価値がわからない話は、誰しも自分の価値なんてわからない│改善方法は価値を知って共同創作 をご覧ください。

誰しも自分の価値なんてわからない│改善方法は価値を知って共同創作自分に価値なんてありません。 「えっ?!」 突然ショッキングな事実をお伝えしましたが、ここにはお伝えしたい真意があります。 ...

 

納得や納得するために生きている

生きている意味を考えたり探している状態は、自分に満足や納得がいかない現状を表します。

そのため、納得や満足する人生であれば生きている意味を考えることはなく、それを探して生きている状態が今であれば、納得や満足することが生きている意味であり目的になります。

納得や満足の喜びも人それぞれの認識である過去の記憶と経験によって作られるので、自分にとっての喜びを求めることが生きている意味という具合かと思います。

言い方を変えるとこうなります。

生きている意味とは、自分にとっての喜びを求めるため

※一人一人の認識によって見出される幸せ(満足や納得の喜び)を求める人生のこと

幸せになるためと言う方がシンプルですが、“納得”には喜びではない状態も人によっては含まれ、恐怖のない状態や、ネガティブでない、辛くないことが喜びということもあります。

そのため、人それぞれの“自分にとっての喜び”というのがわかりやすいかなと思います。

※生きている意味を知ると始まる人生の話は、自分のために生きる方法はあることの気付き│生きるのか生かされるのか をご覧ください。

自分のために生きる方法にある気付き│生きるのか生かされるのか何のために生きているのか? 自分のためです。 これは非常識か常識か、正論か戯言か。何でもいいですよね。 生きているのは誰か。...

 

生きている意味を知る経験と理解

最後に生きている意味を見出す際の経験と理解を聞いていただくと、少し生きている意味がわかりやすくなると思うので、それをお伝えして終了します。

私自身、生きている意味を見出しながら生きて、会社を退職して海外を旅して周り、さまざまな経験をとにかく増やしていた時があります。

そんな時に気付いたのは、“生きている意味は区分けして考えた方が良い”ということでした。

その際には、幸せ、苦悩、愛、エゴという具合に分け、それぞれの分野毎に「幸せってなんだ?お金は?」などの疑問を持ち、一つ一つを解決して理解することで最終的に“生きている意味”に辿り着くと考えました。

それはとても大切なことだと思っていますがかなり遠回りでした。

そして、最終的に辿り着いたのは生きている基盤の“自分”であり、紐解くと出てくる“認識”でした。

認識は過去の集大成によって作られているので、あらゆる人生観や価値観、人間性や在り方の基として、思考・感情・感覚・想いを作り、善悪や良悪や陰陽のように思想と感覚感受があり、認識が空に広がるように無限であることを知ります。

そんなことを体感として知っていく中で、大切な気付きが私なりにありました。

「生きている自分が今していることわかってる?」という自問自答です。

それは自問自答ですが、まるで他人が他人に話しかけるような感じでした。
「あなた、今していることわかってるの?」という具合に。

「はっ?わかってるよ、ただ辛いんじゃ」と、お金なく炎天下40℃のオーストラリアでヒッチハイクを続けている時に反吐を吐くように言います。

そういうことじゃありませんでした。

生きている意味を知る上で最もわかりやすく、最も身近で、最も頻繁に起きていることに、私の知りたいことの全てが集約されていました。

「呼吸です」

呼吸は生きている意味を知る最もわかりやすい理解の基です。

 

生きている意味の理解は呼吸の理解

呼吸には全てが詰まっています。

自分、生死、良し悪し、陰陽、光と闇、愛とエゴ、あらゆるものが含まれます。

吸って吐く、スーと、ハー。

これだけの行為に全部Inと。訳わかりませんが全部Inと。

呼吸は生きている動機として、生きていたい意志を教えます。
呼吸は生きている結果として、生きていたい選択を教えます。

自分の認識がそこにはあり、「私は生きていたんだね」とわかり、そこには思考だけでなく肉体の声、心の声があります。

そして、生きていたいから空気を吸い続けます、スーーーーと、さらにスーーーーーと。

死にかけます、ブハッッウエェッツ、ゼーゼーと。

吐き続けるのも同様です、ブワクッシャンビービー、モリコッチャンパーラーと。

吸い続けたり吐き続けると苦しみが生まれます。しかし、苦しみ出すと空気を吐く意志が出てきてハーと出す、吸う意志が出てきてスーと吸う。

そんな認識による行為にて、苦しみから解放されるように喜びを作ります。

これは喜びの仕組みでもあり、苦があるから喜びがあり、不幸を知るから幸を求められることの理解になり、欲とエゴと愛を知ることができます。

吸って吐いての狭間を行ったり来たりしてスーハーを適度に繰り返す。そこには常に苦しみが作られ、そこから喜びを作る認識があり、幸不幸の連動があり、生きている結果であり意味を作る源である自分がいます。

それは行為の自覚であり、自分を知ることでした。

自分を知ることに生きている意味があり、知ることで生きている意味を考えることがなくなるのは、自分の選択によって人生を創っていることを理解しているからでして、そこには紛れもない自分の意志があり、喜びを求めて認識を貫く自分がいるからです。

言い方を変えると、自分らしい状態で居られる自覚であり、常に満足と納得をしている自分です。

生きている意味とは、体感によって得られる自分らしい人生の認識であり、それは過去の集大成によって今この瞬間のみに存在する自分の行為と結果の“選択”です。

初めにお伝えした、「なんで卵焼きを食べているのか?」への答えはここに繋がります。

「その行為を選択した過去があるから今その結果がある」

そんな意味を求める方法として納得と満足があり、それらの喜びがあれば生きている意味を考えていない自分を知ることができます。

後は、自覚を増やすことで納得と満足の時間を増やし、常に生きている意味を体感する状態にすることで、生きている意味を考えない状態になります。

しかしそのためには、「生きている意味とは何か?」を考える今の時間が必ず必要で、それが呼吸を理解することと同じ仕組みです。

生きている意味を考えない人と、生きている意味を考えた上で考えなくなったことは全くの別概念でありながら、もたらされる状態は同じ自分にとっての喜びという誰しもに与えられる理解。

「なんでもいいね」と思っちゃいそうですが、そこには限りなく大きな違いとして、“成長するかしないか”、“変化するかしないか”の認識と結果があり、私個人的にはこう思います。

「絶対、生きている意味を考える人生が良い」

経験からわかる理解はこの一言だけだったりします。意味を考える状態があることで次に進んでいき、そこには成長や向上ももたらされ、ラッキーラッキーと。

今の自分最高といううぬぼれ、それも最高と。そんな感じです。

※人生どうでもいい話は、人生どうでもいいと思った時。それは実は大切な合図だった をご覧ください。

人生どうでもいいと思った時の対処法│それは大切な合図だった人生がどうでもよくないことがあるのでしょうか? 人生は、マヨネーズとソースの味がしていれば“おいしい”と思うお好み焼きと同じように...

 

生きている意味がわからない まとめ

生きている意味に対する答えと、生きている意味がわからないことに対する答えは別物です。

その際のキーとなるのが納得と満足でして、悩みがあるから答えを出せるように、疑問があれば疑問を持つ認識があり、意味を見出す認識があり、全て自分のことです。

生きていることは義務ではなく、一人一人に環境や状態があり、健常も障害も病気もさまざまにあり、いつか全員が死んでいきます。さらに自らの行為にて死ぬ認識も人それぞれにあり、人生や寿命という時間の概念も千差万別です。

そして、他者との共存環境では、自分の命の誕生も喪失も他者の記憶であり経験の一部となり、一人一人の行為や存在が誰かしらに影響を与え・与えられの関係性が作られます。

そのため、自分にとっての生きている意味があると同時に、他者との共存環境での生きている意味があり、そこには“自分が自分を見る目線”と“自分が他を見る目線”があり、納得と満足を求めると同時に“自分との育み”、“他者との育み”という成長があるのではないかと思います。

成長は人によっては納得と満足に含まれ、変化を望む意志があるか否かにて、喜びなのかどうかが人それぞれに分かれるのかと思います。

あらゆることが人それぞれですが、共通にある納得と満足。それが本当に喜びなのか、恐怖から逃げられることへの安泰なのか、言葉が共通なだけで中身は全く千差万別。

そんな、言葉ではなく中身として捉える“生きている意味”についての話でした。

だいぶわかりにくいかもしれませんが、何かご自身に役立つフレーズがあればお役立ていただければと思います。

それでは、生きている意味の話は終了です。最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

【忘れていた人生の合図を電子書籍にて販売中!】

ふざけた人生哲学 幸せはムニュムニュムニュ

サラリーマンだった人間がおかしくなる、とある森での変人化計画とその全貌。

一人での森生活、襲ってきた熊は忘れていた大事なことを思い出させ、そこで見つけたものはムニュムニュしていました。

一風変わった哲学書であり、森を舞台にした一人の元サラリーマンが自分を探し出す物語。

自分を見失い、人生に疑問を抱き、違和感を感じる時こそ、本当の自分という名のふざけた自分を見つけ出す変貌ストーリーが始まります。

忘れている大事なことを思い出し、自分らしく人生を生きるための経験と知恵を詰めた内容です。何か興味を感じた方は、ぜひ始まりの合図を受け取ってください。

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です