「言葉で自分を表現できないので絵を描く」
私が絵描きとして個展や共展をする際に、良く聞く言葉です。
私はあまり絵の説明や意味を伝えません。訪れた方には、絵を描いた場所やその時の情動、絵にある哲学思想を伝えます。
絵は自分を表現するもの。同時に、自分の能力を引き出す道具。それは最大限に遊びを楽しむための道具です。
そのため、自己表現を絵ですることは一つの表現方法。他にも方法がたくさんあります。
ここでは自己表現する真意と意味、そして方法について、私の考えをお伝えします。
その前提には、「なんのために自己表現するの?」という根本の人間心理や哲学がありますので、そちらも一緒にお伝えしたいと思います。
自己表現をする際の参考や、自己表現ができないことでお困りの方の一助となれば幸いです。
自己表現をする意味

自己表現とは
自分を表現することに何の必要性があるのか、自己表現の意味と共に見ていきましょう。
自己表現とは内側のものを外へ出すこと
自己表現の意味を辞書で調べるとこのようになっています。
何かある、内側に。それを外側に出すことで表現。
すると、内と外の境がある。おそらく皮膚かなんかでしょうか。
自分の内側を表すとは?
肉体を持ち、顔も体も臓器の特徴もあり、脳があるので記憶も思考も感情もある。さらに、心にて気持ちや意識がある。
これだけたくさんあると、生きている間は常に自己表現されているように思えます。
しかしそこで、「私の名前はサマンサ・ドゥブライ・チンタロスです」と言うと自己表現の意味がぶち壊れます。
「いや、なに人?!」というのは置いといて、名前で自分を認識することで、“自分を基に自己表現する”という基本的なことが吹っ飛びます。
名前は自分ではなく外側にあり、胸ポケットに付ける名札と同じで、“後付けのもの”です。
自分の外側にあるもので自分を表現しようとすることはできません。
この世に自分しかいない状態で、「これが私」と認識できるものが自分の内側の意味です。
それを外側に出すことで“自己表現”。
いろいろありますね。顔のパーツや、部分ごとの位置関係もそうですし、手や足なんかは両サイドにあるので、お互いを比較してより詳細に認識できます。
「右手薬指の爪の方が左手のより丸みがある」となれば、明確に認識できます。
肉体だけでなく脳の思考で、「私はよく雲が作る物語を観ている」と思えば、それも自分です。
感情があれば普段とは違う自分との比較があるので、これまた明確に自分が表れます。
そして、心の気持ちや波動認知があることで、ドキドキしたり心苦しく感じたりと、さまざまに自分を認識します。
それをどうするか、外側に出します。
自分の外側とは?
「外側?この内側の材料をどこに?」
“他”です。
他に自分の内側を出す=伝えることが表現です。
- 自分を自分に伝えることを“認識”
- 自分を他に伝えることを“表現”
自己表現の意味には他の存在がありませんが、自己表現をするには“他”の存在が絶対不可欠です。
自己表現は自己満足
一人では自己表現はできません。
伝えようとしなければ表現にならず、自己認識になります。
「私は今、蟻を観ている」とぼけーと頭の中で認識することと、「ねぇねぇ、今私は蟻を観ているんだよ」と近くにいたおばあちゃんに伝えることの違いがあります。
「これ、なんのために伝えるのでしょうか?」
自己満足。自分が喜ぶためです。
自分が喜ぶために自己表現する
嫌がるために自己表現をする場合、変態パンツです。意味わかりません。
強制をされて、「ほら、自分を表現してみなさい」と言われていれば別ですが、伝える行為とは自分の体を動かしてジェスチャーをしたり、口や脳を働かせて言葉を音として発したりと、必ず“自分の意志”が必要です。
行為して表現するので、お腹が空いているから何かを食べるように、喜びを求める動機があります。
喜びを求め、自分の意志で表現する。
自分の意志で自己表現する人で、自分の喜びを求めていない人はいません。
私の知っている範囲では会ったことがないので存在しないと思っています。
しかし、自己表現しながら苦しむ人がいます。
※自己表現することの真実の話があるので、自己表現することの意味にある真実│方法も手段もない常に現れている何か をどうぞ。
自己表現する際の唯一の条件
喜びのために他に伝える行為をしますが、一つだけ表現する上での条件があります。
それをクリアしていないと、自己表現をすることで苦しむ可能性があります。
“自分に嘘をつかないこと”です。
自分に嘘をつくと自己表現ではなくなる
嘘をつくことは、自分で自分を認識していないにも拘わらず、それを“自分”だと偽り、決め付けて他に伝えようとします。
それは、自分ではないものを自分ではない存在が他に伝えることとなり、主観がいなくなります。
中身がない状態。
すると、相手にも伝わりませんし、自分も伝えている気になりません。
嘘をついて誤魔化しができるのは他に対してのみです。嘘をつく張本人は嘘をついたことを自覚します。
例えば、絵で自分を表現する際に、他の絵を参考にしたり真似たりするとします。
それに何も問題はないのですが、「これは私の作品で、私自身が○○を表現しました」と言った場合、“私自身”という言葉に自分の内側がざわつきます。
「ざわざわ、えっ、あれって他の人の絵を真似たんだから“私自身”じゃないよね」と声が聞こえる。
ざわざわ、ざわざわ…
無視すると聞こえているのに聞こえていないという嘘をさらにつき、止まらないサイクルに入り、いつの日かダウン。
絵をビリビリ!
「あぁあ!わからない!!」と暴れます。
嘘をつくことは人それぞれに必要な生き方で、人間性でもあります。ですが、嘘をついていることに嘘をつき、受け入れずに矛盾を抱えたまま表現をすると苦しくなります。
「これは他者の思想を他者風に表現したものです」と言えばいいんでしょうね。
自覚して受け入れていれば苦しむことはありません。その際によく使う言葉は、“参考にした”です。
自己表現の方法
ここからは、自己表現を絵することを筆頭に、表現するための方法をお伝えします。
自己表現の方法
必要なことは、“伝える行為”と“表現方法”です。
表現方法の例を順番にご覧ください。
1、話す表現
講演や自己紹介、日常会話やコミュニケーションの主となる方法です。
言葉を声にして、自分を他に伝える行為をします。
声のトーンには健康状態と精神状態の反映もあり、活力や血の流れ、リンパ液や経絡の循環度から自分の情動が加わり、熱も冷も人それぞれに言霊にもなり、相手の頭にも心にも届きます。
肉体状態や姿勢によって声を出す基盤が変わるために、体調や食生活や生活習慣を、脳の知識量や人間性にある知恵に加えて自分を表現します。
声量に明瞭度、聞こえやすさには情緒も含まれ、自分の内側の在り方のみならず、状態やこの瞬間の状況も加味されて、「私」という声が響きます。
2、動作での表現
肉体の動きを主として、手話やジェスチャーやアイコンタクトなどがあり、意思疎通の共通認識をする他者を理解する人間性が必要です。
感情や思考や想いを体全体にて表現するため、体の使い方が伝える行為にある表現目的を大きく左右します。
自分の思いを如何に伝えるかには、伝えたい時の気持ちがあり、自分のためか、相手のためか、愛とエゴの大小がはっきりと見えます。
動作によって踊りにも繋がり、指をピロピロするだけでも、さまざまな自己表現になります。
どれほどの自分の意志を込めるかによって、感情や思考以外にも心の想いをボンッとぶち込めて、相手にフワッと伝えたり、ギュンと伝えたり、それは愛にもエゴにもなります。
ただ、手を出すのか、顔をクシャクシャにして手を出すのかにも違いがあり、気づけば物乞いはお金持ちにもなる自己表現です。
3、絵や芸術での表現
絵を描いたり、写真や陶芸や生け花など、多種多様な芸術として創造することで表現します。
視覚を主体にして、脳と心の情動や心情を含め、さらに潜在意識などの意識状態を変えることでの創造と想像の世界があり、自分の意識全てが人間性として表現されます。
自分の中にある世界を如何に紙に移し出すか?への思考があり、そこには人として生きてきた経験が大きく関与します。
何を描くか、何を創るか以上に、意識としての自我を全面に出し、如何に自分の意識内を探索して見出して広げるか、そこには自分の在り方と人間性をまざまざと理解する過程があり、それを乗り越えることで自分を理解した上での表現が、色・形・アイデア・思考・哲学・宇宙・エネルギー・自分として一つの物体に成り上がります。
4、音楽での表現
音楽は音と空想世界を広げます。頭の中を巡るような広い世界を聴覚と肉体動作で表現し、さまざまな情動と心情を含めることで多種多様な自己表現となり、自分の内側にある“感覚”、“感情”、“気持ち”の世界が明確に表現されます。
音符の波に乗るように、音は海のように川のように、そして森のように砂のようになり、泡のように火山のようになります。それは地球と共鳴する無限のハーモニー。
体を波に乗せながらも頭の中は踊りながら拡散され、思考の中にある“喜び”、“楽しみ”、“癒し”、“情熱”、“思想”、“知性”が加わり、さまざまな世界を創ります。
肉体との連動による表現は、自分の体をより深く認知すると共に、感覚感受からの細胞の躍動を感じ、音がもたらす影響力は頭の中を整えて、最終的にはパズルを全部ひっくり返します。
「えっ、どういうこと?!」という芸術も含まれる世界です。
5、料理での表現
五感をフルに使用します。
とにかく幅広い世界の表現となり、視覚、嗅覚、聴覚、感触、そして味覚でドーンという感じですね。
「芸術は爆発だ!」とはこのことだと思います。火や水を使い、さまざまに命を使用します。そのためにエネルギー概念も含まれて、自分の体温の違いから食材の生命力から、さまざまな他の混ざり合いの協力の上で、自己表現という形が作られます。
そこには、共有や調和があり、アイデアや細微のお互いの関わり方があり、食器から鍋から何から何まで多くのものが影響し合う総合作品としての在り方があります。
鍋の中、それは360度プラネタリウム式のリアル、「生で今起きていますこの物語」という映画館です。
6、字での表現
本やメール、またはこのブログなど、字で表現する方法があります。
思考の世界を広げて、想像性を高める楽しさがあり、書き方や表現スタイルに性格や人間性がモロに表れます。
さらに、他への伝え方のインプットとアウトプットの幅が広く、どのように世界を広げて見てもらうかなどを、句読点や擬音、カタカナとひらがなと漢字を組み合わせて作ることで、ステージ舞台を作るディレクターのようになります。
そこに、アルファベットがSuこし、Haいると、まるDE、それは、らっpuの、世KaIの、表現DA、イエ!!
「あばばばばば、ん?何ですかこれ」からの、「今日の臨時ニュースは、夏Summer in!」
「いや、いつものお天気ニュースかーい!」という具合です、すいません、取り乱しました。
7、波動エネルギー
万物が有する振動エネルギーによる、0か1の世界はさまざまな表現方法の全てに関わり、見えないながらも大きな影響を与え、他に伝わる度合いを左右します。
感情と心情、健康状態と精神状態、自分としての在り方と認識によって構築される人間性によって毎瞬毎瞬生まれる波動エネルギーは、潜在意識と顕在意識に超意識を加え、無意識的でも人々に伝わり、理由や理論のない行動や導きをもたらし、生命と生命の関わりを本気で生み出し、表現による真意と意味を不可思議ながらも明確にします。
そのような表現方法の例がさまざまにあります。
自己表現の方法選びのポイント
表現方法は絵であっても言語であっても、どんな方法で自己表現をしてもいいと思います。
しかし、私のように絵を選ぶからには理由があります。
「絵が好きだから」「得意だから」です。
それらは描いていて情熱を感じ、活力を感じ、楽しいから。シンプルです。
自己表現に好きなことや得意なことを使用すると、自己表現する意味が明確になり、方法選びのポイントがわかります。
才能・能力開花のために自己表現する
好きなことや得意なことにて自分を表現することで、才能や能力が花開きます。
絵を描く場合には、絵を描く能力という意味ではありません。人としての能力です。
自己表現は喜びがあるからします。
喜びは人それぞれに、自分を知ることや、相手に伝えられること、褒められること、認められること、満足すること、納得することなどさまざまです。
【自分で認識できる自分を他に伝える】という自己表現の意味から、“自分を知ること”、“相手に伝えられること”の二つに自己表現をする喜びになります。
言い方を変えると、自分を理解することと、他と共有することです。
自己表現をする喜びとは
- 自分を理解すること
- 他と共有すること
これら以外は、自己表現による喜びではなく、自分を認識できる満足や納得です。
例えば野球選手のイチローさんは、得意な野球を活用することで“自分を知ること”を楽しんでいるように私には見えます。
野球かどうかは関係なく、自己表現をすることで喜びを探求し、それは自分として最大限に生きる喜びを引き出す能力を開花させていきます。
言い方を変えると、自分として一切の抵抗なく生きられるようにするために野球を活用している状態です。
表現方法を見つけるためには、表現動機である喜びの意味を知ることが大切です。
他と共有するための自己表現方法を求める
他の存在があることで自分を理解することができ、喜びがあります。
他が居ることが喜びの基となり、その根底には“喜びたい”という意志があります。
私は幼い頃は自己表現が一切できませんでした。表現する材料は自分を認識しているのでいくらでも保持していましたが、表現するのが怖くて、親にも誰にも表現せず、全く話さない子でした。
しかし、伝えられる他者がいれば、自分を知ってもらうことの喜びが追加され、そこから相手を理解してのコミュニケーションが生まれ、他との共有になります。
なので、友達や好きな先生とだけ話す子でした。
絵を描いたとしても、発表せず、他者に見せることもなければ、自己表現する意味は一つ、“自分を知るため”になります。
そこで、自分を知ろうとする意志がなければ、意味わからなくなります。
「あああああ!」と暴れます。
ですが、他者に見てもらったり、伝えることによって喜びがあり、さらに意見や感想をもらうことによって自分の絵を描く成長にもなり、さらなる喜びがあります。
「他者と共有したい」という自己表現の目的を持つことで、自分に見合った方法を選びやすくなります。
楽しいからする遊び
自己表現することは喜びのためです。
好きなことや得意なことで表現して自分を知り、さらに他に伝えることで喜びが増大されます。
他者に喜んでもらえれば、さらに自分を表現する動機が強まり、より成長を求めたり、技を磨いたりします。
あくまで自分の喜びを主体にした遊びとして自己表現があり、何よりも楽しい時間であることを知ることが方法選びに大切なポイントです。
自己表現は遊びであることが大切
※喜びによって自分の人間性、能力を引き出す方法となる
注意:自己表現が肯定されるためだと目的が変わる
自己表現の遊びの概念を、「認めてほしい」「褒めてほしい」「自分の価値を見出すため」「承認欲求のため」など、肯定される材料にすることで、全く別のものに変えてしまいます。
自分の喜びや楽しみのためではなくなり、納得を手に入れる目的になり、「なんのために絵を描いていたんだっけ?」などプツンと紐が切れるように自分を見失い、ブランク状態となり、力が出せなくなります。
自己表現ではなく、自己認識をしている状態では、表現する意味を見失う。
仕事やお金のためなど目的は人それぞれですが、他者主観で利益をもらうようなスタンスは表現に注意が必要です。
自己表現の方法選びで大切なことは、如何に目的を明確に“自分の喜び”にするかです。
※自己表現することは自分を教えてくれますので、楽しいことがわからないのは見つける場所が違う│楽しいの意味が教える自分 をご覧ください。

自己表現ができない人
表現に対して、受信して理解する人がいなければ、喜びも楽しみもありません。
むしろ、悲しみや辛さなど、「自己表現しない方が良かった、とほほ」と思える行為になってしまうかも。
さらに、“否定”されることで、「自己表現したくない」という恐怖を抱えるようにも。
自己表現はただの自己満足です。
結果として他者に喜んでもらう恩恵があれば、それは付帯サービスとしてより喜びを増大させることになり、他者を敬うことに繋がります。
そういうことがなければ、完全に自分のための行為として他者に伝えるのが表現です。
それが一方通行になると、「オレだ、これが私なんだ!」「見てくれ、おぉ、ディオス、見てくれみんな、おぉおぉお、オロオロ」と度を過ぎます。
見る人によっては、「承認欲求の自己認識を求める行為か」とバレています、本人の嘘。
褒めてほしいとか認めてほしいと思いながらの伝える行為は、他者を自分のために利用することになります。
その行為は既に自己表現ではありませんが、思い込みで勘違いをしているようであれば、確実にしない方がいいです。
自己表現ができないことに何も悪いことはない。
自己満足なので、するかしないかは完全に本人次第。
できない場合には、恐怖心が邪魔をしている。
自己表現したいのかどうかの真意と、自己表現するための材料(自分で自分を認識すること)が大切。
※自分を表現できない時の改善方法は、自分を表現できない人の特徴と改善|苦手ならしなくていい本当の意味 をご覧ください。

自己表現の方法 まとめ
自己表現の意味を知ると、方法は絵で表現しようが何でもいいことがわかります。
好きなことや得意なことで表現することで能力開花に繋がり、他者の喜びも含めた自分の喜びが生まれ、自己満足から他との共有を含めた満足にもなります。
表現することの意味は、自分を知る、他との共有です。そして、共に自分の喜びや楽しみの遊びです。
絵を描くことには自分を表現する大きな幅があります。
キャンパスの上に「・」
もう十分過ぎるほどの自己表現。
自己表現とはそういうものです。もちろん自分が喜び、満足すればです。
方法は絵だろうが何だろうが何でもいいんです。体があって、脳があって、心があって、存在するだけで既に自己表現の無限の材料があり、他と共存する社会では、毎日自己表現ステージが繰り広がります。
今日も喜びを求めて表現していきましょう。
それでは、自己表現するための一助となることを願います。
お手紙でこのサイトを応援する『お気持ちを大切にします』
すごく納得。定年後、ジャズを始めライブなどもしていますが、自分がどうしてそれをしたいのか、考えていました。公認心理師でもあるのですが、自己表現の意味について自分なりの考えを明確にしておかないと間違えを起こしかねないとも思いました。ありがとうございました。
お役立ちできて何よりです。
こちらこそ、コメントありがとうございます。