方法

人を信じる方法に本当の信じる意味がある|自覚が鍵となるトラストな話

人を信じるために必要なこと、それは、「どうして人を信じたいのか?」を知ることです。

人とは自分も他者も含まれ、自他を信じることを意味します。

そんな信じる行為は言葉の意味を知ると、人を信じるには何が必要で、どんな方法があるのかを知ることになります。

その際に知ることは信じることの意味と同時に、信じることに潜む“自分という人間性”です。

人を信じる方法とは?

人を信じることの意味を知り、人を信じる方法となる理解をご覧ください。

人を信じるとは

信じるとは

信じる。

何を信じるかは人それぞれですが、信じる際には対象があります。

自分を主体にして自分を信じる、または他者を信じる、物事を信じるという具合になります。

信じる際の主体であり基盤は必ず“自分”です。

信じる主観が自分であることから何を信じようが自分が主体となり、そこには信じる行為に確実な目的が見出されます。

それは、信じることは“自分のため”ということです。

信じるとは、自分の喜びや利益や満足や納得のための行為

※自分を主体にして、自分のために自分や他者や物事を信じる

自分のための行為という自覚は、人を信じるために必ず必要になる重要ポイントです。

友人のために、恋人のために、誰か他者のために信じるという、「私、あなたのためにあなたのことを信じているからね」ということはありません。

「私のためにあなたのことを信じているからね」
「私のためであり、あなたのために、あなたのことを信じているからね」

自分だけのためか、他者も含めたことかは人それぞれですが、確実に自分のためはなくなりません。

 

信じることの意味

言葉としての意味を見ていきましょう。辞書で調べるとこのようになります。

信じる(信ずる)とは :

①疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。
②疑うことなく、たよりとする。信頼する。
③神仏などをあがめ尊び、身をまかせる。信仰する。

※引用 コトバンク

信じることには、疑わないという状態があります。

そして言葉としては、信用や信頼や信仰が使用されます。

次は語源を見てみましょう。

 

信じるの語源

信じるの語源を調べるとこのようになります。

“信”という字に信じる意味が含まれます。

信を分解すると“人”+“言”

“言”の語源と成り立ちは、“辛”+“口”

“辛”とは、刑罰として入れ墨する際の針のこと。
“口”とは、誓いの文書を入れる器のこと。
=神に誓いを立てる言葉が“言”(誓いを守らない時に刑罰を受け入れる覚悟であり約束を意味する)

神に誓いを立てる“言”に、さらに“人”が加わった“信”の意味は、神に誓いを立てる互いの約束。

信じるの語源 : 神に誓いを立てる互いの約束(またはその様)

“人”が加わることで、語源から“霊”や“霊性”が加わるとも考えられているようです。

さらに、“人”という字の成り立ちは、“一人が生きている様”とも考えられているので、自分の中の霊性や神に対する自分自身の約束が“信じる”とも考えられます。

そのため、約束する対象として神や誰か他者がいて、そこには自分と自分の約束も含まれます。

 

信じるとは自分+何かの二つにて成立する認める行為

言葉の意味、そして語源から、「信じるとは何なのか?」の意味がわかります。

自分が何かを信じる際には、自分何かという対象があることで信じる行為が成り立ちます。

そのため、二つ以上が存在することで意味が生まれるものだとわかります。

さらに、疑いをなくすことと、互いの約束であることから、「ただ真実をそのままに見る」「嘘偽りをしない」という意味が見出されます。

それらは共通して“偽りなし”であり、起きたことを誤魔化さない自然な状態です。

偽りなくそのままの自然な状態にすること。さらに、自分+何かという対象の二つ以上の存在にて成り立つことから、信じるとは自分や対象の行為を認めること(または認めないことをなくす)だと解釈できます。

偽りや認めない誤魔化し行為があれば、不自然な状態で神への誓いも約束もできません。

自分を認める、相手を認める、事実を認める、行為を認める、結果を認めるといった、起きている現実を拒否せずに認めることで自然な状態を作ります。

以上から、信じるとは何なのかがわかります。

信じるとは:
責任を持って認めること→約束するための基盤作り

※偽らず、事実をそのままに認めて責任を持つこと

 

人を信じるとは

信じるの意味から、人を信じることの意味がわかります。

人を信じることの意味

  • 自分を信じる場合は、自分を認めること(自分自身、自分の行為、起きる結果)
  • 他者を信じる場合は、自分のために他者を認める(自分のために他者の行為を認め、自分のために他者に起きる結果を認める)

※人ではないですが物事を信じる場合は、自分のために物事を認める

人を信じるとは人を認める責任のことですが、忘れてならないのは自分が主体であり、自分のための行為ということです。

そのため、自分でも他者でも誰を信じようが、必ず自分のために信じるという前提があり、喜びを求めるために責任を持つ=ポジティブな現実認識(拒否のない様)を持つことが意味になります。

人を信じる意味 : 自分の喜びや利益のために拒否せず認めること

※自分を喜ばすために責任を持つと言い換えることも可

責任を持つとは、自分の行為や起きる結果を認めることですので、責任を持つという方がわかりやすいかもしれません。

間違えてほしくないのですが、責任とは負うものでも負わせるものでもなく持つものですので、自分や他者に責任を持つとは、嘘偽りで認めない拒否をせずに認めることを意味します。

 

人を信じる方法

これまでのカッチカチの固い話は終了です。まるで辞書のような話でしたが、ここから本題です。

人を信じることに含まれる真意や人間性、そして人を信じるために必要なことを見ていきましょう。

人を信じるために必要なこと

自分のために人を信じる前提があり、責任を持つことの意味から信じる際に必ず必要なものが見出されます。

それは、自分を信じていなければ他者を信じることはできないということです。

誰か人を信じるためには、まず自分を信じている状態=自分の行為や結果、自分自身に責任を持っている前提がなければなりません。

“信じる”=“自分の行為”なので、行為する自分のことを認めていなければ、人を信じる前段階で止まり、「信じているよ」と言って誤魔化しながら人を利用して蜜だけ吸おうとします。

それが、期待したり、依存したり。自分の利益のためだけに人を利用する行為です。

まずは自分に責任を持つことが大切になり、「人を信じたい」「人を信じられないからどうにかしたい」と思う場合、「どうして人を信じたいのか?」への真意を自覚することが先決です。

 

どうして人を信じたいのか?

なんのために人を信じるのでしょうか。

自分のためです。
例外なしです。

自分の利益のためです。それは、喜び、満足、納得、不納得のなさ、辛さのなさ、恐怖のなさ、安泰、などなど。

ここで、なんだか後ろめたい気持ちがある場合、人を信じることはできません。

なぜならば、それが責任を持たない状態になるからです。

「開き直る、スカッとね」という必要はありません。これはただの事実でして、どう考えても自分のため以外にはありませんので、ただ認めます。

認めるとは、自分の意志に基づいて行動していることをそのまま、「そうだよね、自分がしたいんだもんね」と認識することです。

ご飯を食べている時、食べたいから食べていることを認めることですので、責任を持つ際のフォーカスの対象は“今この瞬間の自分”のみです。

認めることで、自分のためであり、さらに他者のためにもなる信じる行為へと繋がります。

大前提として、自分のために人を信じるという自覚が、信じる行為の条件のようになりますので、ぜひ自覚してみてください。

“自分のため”という表現には一人一人生きてきた過去の軌跡や歴史や記憶が個々にあるため、「人が喜ぶことが嬉しい」「自分が悲しまないことが大切」などとさまざまですので、「自分のためとは何か?」を自覚することで、より明確に信じる行為に邁進できます。

 

責任を持つための信じる行為はとにかく自覚が重要

信じる(責任を持つ)ためには自覚が全てと言っても過言ではないと思います。

認めること、または認めないことをなくすのが責任であり信じることです。

言い方を変えると、事実を曲げるような見方をせず、今あるもの、今の自分、今していること、起きる結果、ただ現実をそのままにすることが信じることであり、責任を持つことです。

それがなかなかできないのが私達人間で、事実を自分の都合の良いように解釈したり、思考通りにならないことを見ない振り、なかったことにする。

魔法のランプがあれば過去に戻ってやり直したいと願い、甲子園の砂をいつまでも取っておく、あのサイレンを忘れない、過去の栄光のために…グス。

責任を持つために過去をドガーンと全放り投げの全燃やし、焼却炉行き、砂場に行ってスシャッと砂をばら撒き、パンパンっと手を叩いて一丁あがり。

というのは冗談ですが、信じるためにはそんな過去に留まる自分を自覚し、今を見ている自分を自覚し、今を見ていない自分を自覚しと、あらゆる自覚が大切です。

「そんな自分ではダメだ」ではありません。それは無責任になるので、ただ認める、「これが私」と。

そんな理解を含めて、人を信じる方法を見ていきましょう。

 

人を信じる方法

「人を信じるとは何か?」の意味を知ることで、何が大切なのかが見えやすくなると思います。

それは、“自分の喜びを忘れない”ということです。

人を信じるのは自分のための行為なので、自分の喜びや満足や納得などのために信じます。

そのため、人を信じるには自分が喜ぶために自分を信じます=事実や現実、自分の行為や認識や起きていることを認めることです。

偽らずに認めるだけですが簡単なことではありません。

なぜならば、事実や現実を認めずに責任を持たないことがあるためです。

それが、期待です。

 

人を信じるには期待しない、期待しても自覚する

期待とは思考の押し付け、未来の自分の利益への執着で、いわば空想という非現実へのすがりです。
良いように言えば、モチベーション作りです。

  • 「これだけ長いこと付き合っているから結婚するんだろう」と恋人を信じる。
  • 「宝くじ、せめて4等だけでも」と自分の幸運を信じる。
  • 「今年は業績上げてくれよー」と従業員を信じる。

これらは全て信じるではなく期待です。全くの別物です。

人を信じるには期待せず、起きたことに対して着眼します。なので、見るのは“今何が起きているか?”であり、過去でも未来でもなく今です。

わかりやすくするために、期待と信じる行為の何が違うかの例をご覧ください。

期待と信じる違い

  • 期待する・・・「南無阿弥陀仏なむなむあみあみ…ブツブツ」と言いながら頭の中は未来のことでいっぱいいっぱい。なむなむ言い続ける行動継続動機として期待を続け、甘い蜜が川のように流れ、ガラスの雨が降らないことを夢見るホワホワ。

※思った通りにならない時に、喪失、失望、裏切られたと思い込み、自分のなむなむ行為も、結果も認めない無責任になる

  • 信じる・・・「南無阿弥陀仏なむなむあみあみ…ブツブツ」と言っている行為にフォーカスし、自分の喜びのためになむなむ言っていること、喜びのために自ら行動していること、後は見守る約束をして責任を持つ。

※責任を持っているために、なむなむ行為の結果もさることながら、行為する自分を認め、起きることが悪くても誰かを責めることなく認め、良いことが起きればそれも認めて喜びに溢れる

自分を信じることで未来で起きることに依存も執着もなく、なにより疑いがなく、起きることを全て認める基盤ががっしりします。

他者を信じる際には、他者を信じる自分の行為に着眼し、責任は他者にはなく自分にあることを自覚します。

未来を期待しても予測しても悪いことではないので何でもいいのですが、信じる場合にはそんな期待する自分にフォーカスして、「期待している自分、それは何のため、何を求めて」と、あらゆる“今”を自覚して責任を持つ必要があります。

人を信じる方法は、信じる基盤の自分の“今”を自覚し、自分に責任を持つこと

期待しても何しても、自分を信じているかどうかにて良い悪いが極端に分かれます。

「教祖様を信じますぞよ、ははー、お煎餅をお供え致しますー、ははー」と、本人にとっては大切な行為として自分のために教祖様を信じているので、まずは信仰していることを自覚します。

そして、教祖様を利用して蜜を吸おうとすることで一方的に依存や執着するので、教祖様を信じる自分に常にフォーカスする必要があります。

なので、「カルトを大きくして教団に協力するぞ!」みたいな奉仕や貢献の意志がなければ、自分のために教祖様を利用する責任を持って自分を信じるという方法が、人を信じる方法です。

ちょっと例えがいんきん、あ、インチキ臭いかもしれませんが、ここでお伝えしたいことは、「何を求めて、何をしたいのか、何のために、何をしているのか?」という自分の認識を明確にすることが信じる基盤の自分を作る=人を信じる方法ということです。

 

人を信じるには信用しない

信じることに“信用”という言葉があります。

英語では、【Credit】と言います。

信用とは、客観的に評価や価値を見出したことでの自分の利益確保の保持率の高さです。

そのため、着眼するのは過去の実績や成果でして、社会的な常識やルールを作ることで見出される信じられる度合の高いものを示します。

それは同時に、裏切る度合の低いものを示し、自分の求める利益のために他者を一方的に信じることで、過去を見ながら未来に期待します。

ビジネスという常識やルールの基準に基づいて行われる行為では大切な信用ですが、人と人の関わりでは一方的な信じる行為は依存や執着を作り、他者を自分のために利用する一方通行が起きます。

すると、人を信じるという名目で、裏切られた時の自分の正当化が主張でき、裏切られない安心と依存と執着にて恐怖のない様からの安泰を、人を利用することで自分にだけ作ることができてしまいます。

これは、人を信じる意味から大きく逸脱したエゴですので、やめてほしい迷惑を作ります。

 

人を信じるには信頼が大切

人との関わりにて自分の喜びを忘れない信じる行為を考えると、一方的ではなく双方に喜びがあると好ましいです。

そのため、ビジネスでは信用が、人間関係では“信頼”が適します。

信頼とは、客観的な評価や価値として見出されるもの以外にも、人間性や在り方を見て見出されます。

そのため、実績や成果の過去以上に、自分がどう見て、思い、感じたかの今であり生の評価や判断による信じる行為です。

英語では、【Trust】と言い、より一人一人の個々を自分が主観として捉えて信じるものが信頼です。

そのため、信頼とは自分の見る目を信じることも含まり、社会的な常識やルールなく自分の意見として信じると決める、完全な個人対個人の関わりによる信じる行為です。

一方的に自分の利益だけを見ているのではなく、起きる結果を自分が認める責任がそこにはあり、相手との双方向の認識が生まれます。

万が一結果が悪くとも、「責任を負わす」「裏切られた」などの無責任にはならず、相手をいたわり敬う気持ちや、自分自身を認めて自覚する責任が含まれる行為が信頼です。

 

人を信じる本当の意味

最後に、これまでの内容を全てぶち壊す、というのは冗談ですが、違う角度から人を信じる意味を捉えた内容を“本当の意味”としてお伝えして終了します。

それは、信じるとは存在しない概念ということです。

そもそも“信じる”という行為はありません。

「ああー雨よ、災害よ、神よ沈まりたまえー」と信じて生贄を柱に括ってドンッ。

「バカ垂れかっ」という感じですが、その場で本当に信じている人は、自らの使命や役割を認めて生贄になった人柱だけです。

他の連中は、信じていないから信じようとします。

そうです、信じるとは、信じていない=現実を認めず、期待通りの未来しか受け入れないスタンスがなければ存在しません。

そのため、「あなたならリレーのアンカーを任せられると信じているよ、キラッ」とかっこよく言ったとしても、「他の人だと信じられないんだよ」「この信じられない自分をどうにかしてくれよ、君ならできるだろ」「もう不安で仕方ないんだよ、思った通りにならなきゃ嫌なんだよ」と凄まじい我欲。

信じていれば、信じる自覚は生まれ得ません。

これまでお伝えしたように、自分の行為を自覚して責任を持つことが信じる行為になるので、“信じる”とは“信じない行為をやめる”という意味です。

信じない自分がいなければ、ずっと誰しもを信じているということです。

人を信じる本当の意味 : 認めない自分を卒業する

※信じない行為をやめることで既に全てを信じている

赤ちゃんを見てください。

あの人達はずっと信じています。子供もそうです。

自分も他者も誰しもを信じて生活しており、いつしか自分を、物事を、他者を、行為を、結果を認めず拒否する自分が作られ、認めない学校へ入学です。

入校理由は、「人は信じない方が良い」と思える経験によるものです。

それが嘘です。

人は嘘をつきます。嘘とは偽りであり誤魔化しであり拒否であり、物事をひん曲げ、事実をうやむやにして、あわよくば都合の悪いことはなかったことにする。あれはなかったんです、夢か幻か。

「なわけあるかいっ」と。

嘘をつかれると事実を良いように変えるだけでなく、自分を認めて信じる気持ちすら喪失させられます。

攻撃です。

嘘から始まります。事実を認めない拒否を押し付ける嘘から物事を正直に見なくなり、認めない認識を作ります。

 

人を信じるには嘘をつかないことがとにかく大事

いろいろ言ってきましたが、ここでお伝えしたい“人を信じる方法”の核はこれです。

嘘をつかないことです。

私達は誰しもがこれまでの生活環境や生育時間にて嘘を味わってきたと思います。

そして、自分自身でも嘘をつくようになり、認めないという認識をいつの間にか無意識に作ってきました。

「私はこれを認めていないよ」とはなかなか自覚できず、正直者は痛い目を見ると言われるように、強くなければ正直にはなれません。

そして、大きくなっても、爺でも婆でも年齢関係なく嘘つきます。自分がつかなくても誰かにつかれます。

しかし、大丈夫です。策はあります。

人を信じるために必要なことは、自分を信じることです。

まずは自分を信じなければ何も始まりません。そのために、責任を持ち、自覚が必要です。

どれだけ周囲が嘘をついてこようが、信じる行為の主観は自分しかいません。そして、信じない行為をなくすのも自分が対象です。

そのため、自分が嘘をつかない、特に自分が自分に対して嘘をつかないことが大切です。

人を信じる方法は、自分に嘘をつかないことです。

もう、他者に嘘をついても良いですよ、仕方ないですよ。でも、絶対に自分にだけは嘘をつかないことが信じるためには重要です。

「私は私に嘘をつかない」

ここにどれほどの決意と覚悟を入れ込むか。

絶対に曲げない。絶対に嘘をつかないことは、自分への約束であり自分という神への誓い、完全なる責任の基を作ります。

そこから物事は始まり、進んでいきます。

※人を信用できないことに隠された真相については、人を信用できない心理に真の関わりがある|人は信用するものではない をご覧ください。

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人を信じる方法 まとめ

信じる行為は、自分を主体にして信じる対象があります。

それが物事だったり、他者だったり。

そしてそこには、“自分”という最も大切な対象があります。

自分を主体にして自分に対して信じる。それは自分に嘘をつかないこと、約束のこと、責任のこと、そして自分を自分で認めることです。

それは自己肯定とは違います。

ただ自分という存在がいること、している行為、今の気持ち、思い、感情…。今起きている現実を見ることです。

目を背けないということです。

言葉としてはとても自然なこと。ですが、結構難しいですね。

それは、思考があり、期待があり、依存があり、執着がありと、頭の中のことを現実に押し通そうとする自分が邪魔します。

それも認めます。それが自分です、何も悪いことありません。

認めるとはそういうことです。誰かに認めてもらうのは嬉しいです、肯定してもらえばありがたいです。

ですがそれ以上に大切なのが、事実と現実をそのままに自分で自分を認めることです。

昔の人は言葉数が少なかったそうです。それは無口なのか、わざわざ伝える必要がなかったのか、どちらかはわかりません。

人を信じる人は、「良くやった、信じていたよ、やると思ったよ」と労いません。

信じているので出来ると思っています。それが当たり前だと思っています。疑いが一切ありませんので、わざわざ労いを伝えるまでもないのかもしれません。

そして、言われる方も自分を信じていれば、他者からの労いは嬉しいですが求めるほど欲しがりません。

それを信頼のある関係と言うのかしれません。まるでスラダンの桜木と流川のような。

信じられなければ信じる必要もありません。そんな自分を認めることが自分を信じることですので、結構気楽なものだったりします。

そして、少しずつ自分から他者への信頼へ繋がり、他者を認めて信じることになっていきます。それを自分のためにしたければですが。

人を信じるとはそういうものです。自分を全ての中心にすることを忘れずに信じていきましょう。

それでは、何か役立つ内容であることを願い、人を信じることの意味からわかる人を信じる方法の話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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