まるでニュースに流れていない世界各地の紛争がなくなったかのような、一部だけに着目する情報の偏りは、事実への着目なのか、盲目なのか。
情報が多くなればなるほどわからなくなり、怖くなる。
わからないという彷徨い、見失いは、あらゆる物事の中点にある核が見えなくなり、恐怖心に支配されます。
そんなわからない怖さの最たるものが、自分自身の理解だと思います。
ここでは、自分がわからないことで抱く怖さの深掘りを見ていかれてください。
- なぜ自分がわからないと怖くなるの?
- 自分がわからない怖さの正体とは?
- 一体どうすればいいの?
これらを紐解き、「わからない怖さはプライドが作っているんだ」と知っていただく内容となっております。
自分がわからない、さらに怖い状態では、どう対処・改善すればいいかもわかりにくくなってしまいますので、私自身の経験を含めた理解が、一つの考え方としてお役立ちできれば幸いです。
Contents
自分がわからないと怖い原因と正体

どうして自分がわからないと怖い?
わからないことは、未だかつて経験していない未知。
対処や事前準備するための心の持ち方を定められず、不安で怖くなるのが人間です。
私達は自分を中心にして、感情や感覚を主体に物事を知覚しますので、自らに利益・不利益があればあるほど、「わかりたい、コントロールしたい」と欲します。
利益の可能性があれば、「わかりたい、確実に満足したい、もっと利益を増やしたい」
不利益の可能性があれば、「わかりたい、不利益をなくしたい、心の準備をして対処したい」
「わからない」と思うことは利益を得られる確証がなくなり、不利益を防ぐ壁が建てられなくなり、喜びなしの無防備状態。
恐怖心に対しての事前準備、対処・改善の試み、我慢する体制だけでもとっておきたいものですが、できない。
怖いのは無理もありません。
「わからない」とは、不利益を被る危惧がある中で防御する合間を持たせない、一切の余裕のなさを意味します。
この対象が自分である場合、何をしたいのか、何を考えて、何を望んで、何を感じて、何を想ったのか。自分の考えも、価値観も、観念も信念も、何もかもがわからなくなり、最終的には自分自身そのものがわからなくなります。
自分に対する無知、わからないことは余裕のない無防備状態です。
しかし、「自分のことなんてわからない」と思っても怖くない人がいます。
そもそも、自分がわかる人などこの世に存在するのでしょうか?
怖いのは、自分がわからないからではなく、別の理由があるかもしれません。
「自分がわからない」とは無知ではなく、認めない意味
無知ではない人間などおそらく存在しません。
生きていく過程で日々少しずつ理解を深めていき、一生終わることなく続く宇宙の探求のように自分を知り、他者を知っていきます。
実際には無知ではなく、自分を認めない。
自分のことを自分自身で見て・感じて・考えて・想って・判断して・評価してがないと考えられます。
認めないと自らをコントロールできなくなり、自らを認識するのも難しくなります。
目の前の桜の木に対して、「これは梅の木だ」と言って認めないことと似ています。
事実が認識できなくなってしまい、桜は桜として存在していても、桜だと認めないと事実がグニャグニャ湾曲します。
自分は自分として存在していても、自分だと認めない状態です。
首のちょっと下にある自己操縦室に入れないと、操縦自体ができなくなり、ガシャンガシャンと勝手に動き始めます。
誰も乗っていないはずなのに、誰が操縦しているのでしょうか?
脳と欲です。
自分のことを認めない場合、自らをコントロールできなくなるだけではなく、脳にある思考、価値観、観念体系、癖、本能、潜在意識など、過去のインプット情報に基づいて稼働し、今という現実が度外視されます。
同時に、欲求や願望に基づいた利益執着が稼働します。
まるで勝手に操縦されているように動き働くため、操縦席に乗っていない自分が客観的に捉えると、「なんだこれ、何が一体どうなっているんだ?!」と驚きます。
最も理解したい最も距離の近い存在である自分がわからない怖さは、認めないことによるアウトオブコントロール。
「何をするのか、何をしでかすのか、一体この先どうなってしまうのか?」という予測できない危惧による怖さが強まり、未来への不安と恐怖が拭えなくなります。
自分がわからないと怖くなる原因はプライド
認めないことが怖さに繋がっていくと知っていただきましたが、核となる原因には、コントロールしたい欲が大きく関わると考えられます。
「自分のことは自分で把握しておきたい、コントロールしたい」と思うのは自然な欲求ですが、「自分で把握できないと嫌だ」となる場合、支配欲がドンッと表れます。
支配欲の強さは、自らを認めないことに対して違和感を感じなくなり、自覚しなくなります。
「認めずとも自分が自分であるのは当たり前、これが私である」
「これだけ情報を片っ端から調べたんだから、私はもう知っているはずだ」
支配欲は自己理解の努力をなくし、行動せずとも自己都合で納得しようとします。
大きく存在するのが、強がり(プライド)です。
プライドは嘘や誤魔化しを多用し、自己都合の世界を作る怠惰欲、別名エゴです。
見栄を強めて、甘えをなくし、謝らず、許さず、虚栄心を強め、心を開かず、仮面を作り、壁を厚くしながら、あらゆる事実を見抜かれないように誤魔化します。
プライドが強くなると、嫌なことを見ずに良いことを得ようとする認識の制限が起きます。
捉える世界が狭くなるために、支配を強めて制限しないように強制して、自己都合の認識作業として嘘と誤魔化しが増えます。
支配したいのにできないアウトオブコントロールが激化し、より自分がわからなくなり、どうにかしたいのにできない自制範囲超過。余裕がなくなる無防備状態による怖さも感じます。
誰にも頼らない不信感は怖さを増長させる
プライドは誇りにもなる大切なものですが、見栄や上っ面になる取り繕いでもあります。
取り繕いには大切な意味があり、心を徹底的に守れます。
傷つかないように逃げ、不納得を感じないように誤魔化し、不満足を得ないように偽り、不利益を得ないように事実を曲げられます。
心の不利益を排除し、「嫌で、危険で、苦痛で、拒みたいものを跳ね除ける」という意図を貫けます。
恐怖心と向き合わないで逃げ続けられる意味です。
しかし、利益があれば代償を払うのがこの世の摂理、等価交換の法則。
心の不利益をなくす代わりに、心を開くのが怖くなります。
誰にも頼らなくなり、本音を言わず、不信感を抱く。恐怖心と向き合わないで済む利益を得れば得るほど、自分がわからなくなることでのプライドによる恐怖心が代償になります。
自分がわからない怖さの正体
[恐怖心を得ない利益:恐怖心が返ってくる代償]
恐怖心を拒み、なかったことにして逃げ続け、誤魔化し続けると、自ら恐怖心を作り出します。
「怖い」認知は、自分自身との向き合いに対しての物語り。
自分を認めず、向き合わないと怖くなり、より拒否感を強めるサイクルに入り、拒否を得ない利益を得るプライドを見出しながら、恐怖心を自ら作る代償という、自己世界に入っていきます。
周りが見えない状態。
相手の立場や気持ちや思考で捉える認識ではなく、自らの都合に合わせた捉え方になります。
相手のこともわからなくなり、自分もわからず、恐怖心から逃れたい在り方が残ります。
これが、自分がわからなくて怖い状態です。
一体何がこれら一連の正体なのでしょうか?
答えはシンプルだと考えます。
「誰か認めて」と甘えている自分です。
正体は愛着
「誰か認めて」と甘えることは誰しもに大切な欲であり、心理学では愛着と言われるものがあります。
特定の相手に対する情緒的な結びつき。子が母に対して抱く愛情の絆。
※コトバンク参照
助けて欲しい訳ではなく、愛着によって心を開いて安心できる感覚を欲します。
人それぞれにさまざまな子供時代を経験しています。親など身近な大人との関わりが希薄であれば、愛着を抱くことに違和感はありません。
しかし、着目したいのは甘えないように強がるプライドがあることです。
「甘えてはならない、許してはならない」と思う何か、経験の積み重ねがあったのだと思います。
甘えられなくなり、心を開かなくなり、自己世界を広げて殻にこもりながら、仮面を多用することで他者との共存社会を生き抜く術としました。
精神が強いのではなく、サバイバル精神がないと生き抜けないと思える世界にいたんです。
誰にも頼らず生きていき、心を覗かれない閉ざしを貫き、愛着行動を抑圧してプライドを強める生き方。
不器用で真っ直ぐな人なのかもしれません。
※意識として捉えた自分がわからない意味は、自分がわからないこそのスピリチュアルな意味|本当の自分を知る機会 をどうぞ。
自分がわからない怖さの対処
私自身の経験と考察に基づいていますので鵜呑みにはせず、該当する活用的なものを取り組んでみてください。
ポイント:自分がわからないこと以上に、怖さの対処が先決
[自分がわからない+怖い状態]では、何からアプローチすればいいかわからなくなってしまいますが、明確に怖さの緩和が優先です。
自己理解は重要ですが、怖いと思っている状態で自己理解を深めようとする場合、自己都合で使える情報のみを取得する可能性があり、「変わりたい」のではなく、「自分を納得させたい」が目的になりがちです。
変わりません、自己納得の利益は得られます。
このスタンスは一旦全てボリンッと放り投げます。
怖さの対処に必要なことはシンプルです。
情報を増やさずに行動することです。
この内容も然り、カウンセリングなどの相互ではなく、一方的な他の情報入手の場合、自分がわかることなどありません。
あくまで私の許容理解ですが、他の情報で自分のことがわかる人など存在しません。
他の情報入手で必要なのは、相手の伝えたい意図を汲み取って理解するか、気づいたことに基づいた行動、実践へのステップアップです。
特に、「自分を変えたい、知りたい」というのは、本人の実践的な行動と経験なくしてできませんので、情報錯乱には注意を要します。
対処法:行動あるのみ
自分がわからないために怖いと思う場合、自分でしか答えを認めない癖が付いているかもしれません。
何も悪くはないのですが、頭だけ動かして行動しない自己都合に入り込みやすくなりますので、注意が必要です。
怖さの対処で重要なのは、自己都合世界の中に入り込む原因のプライド(強がり)緩和です。
自分と向き合いたくないことの理解を意味します。
プライドによって自分との向き合いを拒み、拒んでいると認めず誤魔化す術を知っていますので、実際に行動する際には一人で取り組んでも変化は困難だったりします。
怖くなれば恐怖心と向き合わずに逃げて、自己都合の納得をさせて別の情報に向かいますので、終わらない納得・不納得・納得・不納得のサイクルに入る可能性もあります。
これを愛執(いつくしむ執着)と言い、仏教では悟りの妨げとなり、心を自由にさせない原因の一つ、輪廻転生の概念では何度も何度も同じ人生を繰り替えす原因にもなります。
あくまで私の理解でしかありませんが、自分がわからなくて怖い場合には、本当に変わりたいのではなく、不納得をなくすことが目的になりやすいため、自己都合で行動して・やめてを繰り返しがちです。
本当に変わりたい場合には、自分一人ではなく他者を含めた行動が必要です。
行動は他者を含めたもの
他者を含めた行動の最たる例はカウンセリングです。
自分がわからず怖い場合には、プライドを始め、心の閉じ、愛着、支配欲など、複数が絡み合いますので、信頼できる人を探しながら、一歩一歩長期的に自らと向き合う必要があると考えられます。
「この人からは恐怖を与えられない」と決めた場合には、相手に依存する可能性が出て来るので、対等に関わってくれる人や、専門的な人と関わることが大切です。
カウンセリングだけでなく、自己投資にて一から自己理解を深める講座もありますので、心理セラピスト養成講座をご利用ください。
注意点:自分だけで対処できるが、代償が大きい
知識だけ入れ込んで何も行動しない、または行動したと思い込んで納得したら行動をやめる場合、明確に目的は変化ではなく納得ですので、何も変わらないのは当然だと思います。
しかし、対処は他者を含めた行動でなければならない、なんてことはありません。
一人で知識を得て、行動して怖さをなくし、自己理解を深めて対処・改善・成長へと続きます。
自分だけでも怖さを緩和したり、自己理解を深められますが、大きな代償があることは忘れてはなりません。
「ただより高いものはない」と言いますが、この世は等価交換の法則。何かを得れば何かを払い、対価には見返りがあり、利益には代償があります。
地球で生きている以上、既にあらゆる利益を無償で得ていますので、現実の度外視や事実を認めない行為には代償があり、他者を含めずに単独で行動する場合にはこの部分もケアしなければなりません。
私を例にすると、自分を見失い、訳もわからず一人で行動し続けた時、代償は命でした。
大げさに思えるかもしれませんが、恐怖心と向き合えず、さらに自分がわからないと悩み苦しむ状態で、本当に自分を変えるための単独行動は恐怖との真っ向勝負、現実から逃げない直視になります。
何の工夫もなく恐怖に立ち向かっても、誤魔化しと逃避にてこれまで通り自己都合で納得させられますので、向き合わないで中途半端に不納得を湾曲させて終わりです。
本当に変わりたい場合の方法は自ずと一つ、死の恐怖と向き合わせる超強引な方法。
「生きていればラッキー」以外のなにものでもありません。
絶対に逃げられない状態を無理矢理作り、強引に目をひん剥けて閉ざさせず、完全なる恐怖心と向き合わせるために、死との直面を使う。
こんな野蛮な方法は絶望的におすすめしません。
実際に一人で行動した経験は、幸せはムニュムニュムニュを読んでいただくとわかります。
自分がわからないことを怖いと思う状態で、一人対処する際には注意が必要となりますので、物事には代償があると知っていただければ何よりです。
自分がわからないと怖い まとめ
私達は誰しも自分がわかりません。
わからないのは当然であるため、少しずつ理解を深め、自分を知っていけばいくほどに、自分とは存在しないとわかる意味深な意識体です。
その際には、自己理解とは他者理解であり地球の理解、知識だけではもはや何もできなくなっていき、行動力が絶対的な資本になります。
お金でも経験でも理解でも、あらゆる量の増やしには行動と継続が比例します。
自分がわからず怖くなる場合、この世の前提である、「自分とは他の上で成り立つ存在」の認識が希薄化している可能性があります。
原因となるのがプライドであり強がり、またの名を自惚れや無知、心を閉じて他を理解しようとしないさまです。
私達は何者でもなく、わかる存在でもありません。そのため、少しずつ理解を深める行動をして、継続する努力をします。
わからない前提で「わかる」を増やす努力をする。これを成長と言います。
怖いのは誰しも嫌で拒否したくなります。我慢して向き合う必要はありません。
どこぞの野蛮な方法は、「自分とは他である」という自己理解の核の度外視であり、真実を無視して他を敬わない代償として、考えられないほどの恐怖パンチをバシッ。ご注意あれ。
恐怖心とは人間に欠かせない重要なものであり、愛執の執着の部分をなくしてくれますが、愛着があり愛執があるからこそ今の自分として存在でき、対処・改善・成長できます。
自己理解を他との関わりにて深めながら一歩一歩恐怖心と向き合うと、恐怖パンチを食らうことなく大切なものだと知れます。
世の中は行動あるのみです。
本当に変わりたい、自分を知りたい場合には、知識を入れ、気づき、他を含めて行動して、継続して、変化していきます。
情報錯乱にご注意ください。この内容もしっかり見極め、書き手は何を伝えたいかを考えて読まれてみてください。
不変のサイクルから抜け出すきっかけとなれば幸いです。
それでは、自分がわからないと怖いお話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
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