生きている人の中には人生が楽しいと感じる人もいれば、人生どうでもいいと思う人もいます、何も思わない人もいます。
その違いには何があるのでしょうか?
自分の人生を自分のものとして認識しているかどうかの違いかもしれません。
人生どうでもいいと思う場合、自分の人生として生きていないからかもしれません。
それならば、人生をやめることをここで提案します。
人生をやめる方法は、人生を放り投げてしまうことです。
生きる必要はありません。終る時は終わります。これはとても楽になります。
私は忙しない環境で育ったことで人生どうでもいいと思っていました。しかし、そんな人生をやめた時、人生とは実に気楽なものであると気づきました。
私の経験からわかることでしかありませんが、人生をやめることから気づく理解と、人生をやめることに潜む人生の意味をお伝えします。
何かの参考となれば幸いですので、気楽にご覧ください。
Contents
人生をやめる方法

人生をやめるとは
ここでお伝えしたい人生をやめる行為は、人生を滅亡に向かわせるための方法論ではありません。
実際に人生をやめることでわかる気づきと理解、そこにある“人生って何なんだ?”という意味を紐解くためのものです。
それらの理解のために実際にやめる必要がありますが、人生をやめるとは“これまでの生き方から離れる”ということです。
人生を捨てるのではなく、「これまでの人生を一旦終了しましょう」という区切り作りです。
人生をやめるとは、これまでの人生を一旦終わらせる区切りを作ること
「これまでよ、さようなら」という切り離しの決意表明であり、自ら区切りを作る行動を意味するのが人生をやめることです。
人生をやめるためにすること
それでは早速ですが、人生をやめるためにすることを見ていきましょう。
これまでの人生を完全にやめることで、これからの人生を全く新しくします。
することはシンプルで、今の環境を全て変えることです。
人生をやめるために環境を変える
借家は解約して、不動産などの資産は売却、寄付、放棄などの手続きをしておきましょう。
家族とは完全に縁を切り、戸籍から自分の名前を抜きに役所へ行きましょう。
仕事は退職し、車は廃車です。免許証も過去の記憶たる物は全て捨てます。確実に卒業アルバムや家族との記念写真も捨てましょう。
そして、荷物を一つのバックパックにまとめます。
友人がいればさようならをしたり連絡先を全て削除します。
そして、役所にて転出届を出して海外へ行くと伝えます。
公共料金や、銀行口座、携帯電話の契約など、諸々の諸手続きは完全に終了してください。
ここから、人生やめて良かったと思える時間を過ごしましょう。
環境を変えるためには、自分の身の回りにある外部のもの(自分以外)を手放すことが大切になります。
特に他者との関わりを完全に絶ち、人生をやめる準備を完了します。
そして、人生をやめるために自分が誰も知らない場所へ行きます。それが海外であればパスポートだけは持っておきましょう。
国内の樹海や無人島、海外の街でも村でも部族でもどこでもいいです。自分が誰のことも知らない、そして誰も自分のことを知らない場所へ行きます。
その場所へ到着した瞬間に、環境を変えることでこれまでの人生を完全にやめることとなります。
人生をやめる方法 : 自分が何も誰も知らない環境に行く
人生をやめたいと思えるこれまでの経験があることがとても大切になります。
これまでが辛く苦しいものであればあるほどに行動動機として人生をやめる行為を加速させてくれると思います。
すると、そんな過去のおかげで完全に新しい人生を歩むきっかけとなり、新たに人生を始められます。
その為に、環境を一変させることが方法となり、躊躇するよりもバッサリすることでより新規一変、清々しく始まる人生があります。
ここで大切なことがあります。
「どこまで実行できますか?」
人生をやめるために大切なこと
人生をやめる意味
人生をやめるためには、「本当に人生をやめたいのかどうか」
これを明確にしている必要があります。
私自身、自分を変えるために人生をやめる決意をした時がありました。謎にアラスカに行って森で熊さんと戯れるという奇怪行動になりまして、人生をやめてきました。
ちょっとワイルド過ぎて色々大変でしたが、本当に人生をやめたい場合には完全に環境を変えることで人生は新しくなると思います。
ですが、少しでも躊躇したり環境に自分との繋がりを求める場合、そこには人生をやめることでの気づきがあります。
依存と執着です。
実際に人生をやめようとすることで、どれだけ依存と執着して生きているかがわかる
※人生をやめる意味は自分の現状を知るための方法
実際に人生をやめる行動をしてみます。そして、行動を継続するか、人生をやめることをやめるかのどちらかになると思います。
言い方を変えると、行動継続するか、継続できないかです。
全く違う状態になりますが、どちらでも同じことがわかります。
それは、どれほど物事や人に依存と執着している自分がいるかの体感です。
実際にやめてもやめなくても、どちらでも行動を少しでもしてみることでわかることに、人生をやめる意味があります。
- 行動継続すれば、その土地で新しい自分になったり新しい生活を作っていく
- 継続せずとも依存と執着によって自分を知る機会があり、それによって人生をやめる必要があるのかどうかを自分なりに理解することができる
依存と執着を持つ自分を知ることが新しい人生を始める力になります。
※何もかもに飽きた時の話は、何もかもに飽きたらわかることがある│改善は人生の一掃と気楽な始まり をご覧ください。
人生をやめることで気づく依存と執着
執着とは、心が囚われて離れられない様のことで、自分のコントロールが逸脱している状態です。
そんな他に頼ってすがることで存在や生活することが依存です。
他が自分を捕まえて離さないのではなく、自ら捕まえてもらって頼りすがる状態を作るので、自分の弱さが露呈するのが依存と執着です。
ですが、執着によって自らの喜びをもたらし、自らに執着することもあるので不要なものではなく、距離を見ながら付き合いたいものでもあります。
人生をやめることでそんな依存と執着に嫌でも気づきます。
その気づきによって、自分の人生に大切なものがわかります。
私の場合は恐怖のないことでしたが、人それぞれに食べることや、寝ること、命へのすがり、人や物、娯楽や刺激などさまざまです。
大切なものがわかると、その大切なものによって自分が作られていることがわかります。
恐怖への執着であれば、恐怖から逃れるように生きる自分が作られ、常に恐怖を察知する在り方、恐怖に対処するためにいきり立ったり、怒りを使用する頻度を多くしていたり、相手を脅したり上から物を言うようにしたり。
食べ物への依存であれば、空腹による苦しみへの逃避があり、我慢したくない自分、嫌なことは受け付けない、食べて思考を誤魔化したり、自分を知りたくないが故に欲に突き進む誤魔化し癖など。
依存と執着によって生かされていることに気づき、それは自分の意志で生きていないことを教えます。
人生をやめる行為を実際にすることで、自分の意志で生きていない(何かに生かされている)ことがわかります。
生きているか生かされているかへの気づきによって、本当に人生をやめる必要があるのかどうかがわかるという根本理解があります。
詳細を見ていきましょう。
※人生に飽きた際の話は、人生に飽きた時に知りたいこと│嬉しい意味をもたらす新しい人生の合図 をご覧ください。
人生やめて放り投げたい真意
実際に人生をやめる人は本当にやめます。
私が海外を旅して周っている際も、「私の全ての所持品はこのバッグだけ」という人に何人か出会いました。けっこう居そうです。
日本に戻る気はなく、日本に依存なく残しものもないということでした。
人生をやめる方法として環境を変えるということを上述しましたが、人生をやめることはこれまでの人生と切り分けることですので、環境を変えることだけが方法ではありません。
環境を変えずとも自分を変えることで人生を新しく始めることができるので、人生をやめて何もかもを放り投げたいと思うことがあれば、その真意を紐解くことが人生をやめる方法にもなります。
人生をやめたい真意は生かされている自覚
人生をやめたいということには、ネガティブを終わらしてポジティブに変えようという目的があると思います。
目的がなければ行動はできないので、人生をやめることをどのように捉えているかによって目的が向上か退化かが人それぞれに分かれます。
そのため、実際に人生をやめる行動をして、依存と執着に気づいた時にそれを認めるか認めないかの違いが表れます。
人生をやめる認識にネガティブな捉え方があれば、その際には依存や執着に気づいてもそれを認めることはおそらくしません。
そのように自分を見ることで、どうして人生をやめたいのかの真意がわかります。
人生をやめたい真意は自分で人生を生きていない、生かされていることへの不満足や不納得
※満足や納得がないことで自分を認められず、周囲の影響で生かされる
あくまで私自身の理解ですが、他に生かされることで不満が蓄積し、その状況を打破して現状を何とかする対処として、「人生をやめたい」と思います。
そのため人によっては、「人生を壊したい」と、とにかく現状がなくなることを願い、目の前のことで一杯一杯のこともあります。
共通していることは、「不満足、不納得」「自分がいない」「生かされている」というものです。
それら全てにさらに共通のことがあり、それが人生をやめたい真意の核になります。
それが、自分のことを認められないことです。
自分を認められないと現状の人生を何とか変えようとする
自分で自分を認められないことで、誰も自分を認識できなくなります。
どこにも自分がいないためです。
中身がないという状態で、他に依存することで自分を何とか存在させ、自らを認識して見出すことができなくなります。
認められないことで褒めたり愛することもできず、とにかく現状が変わればと思います。
他に依存と執着することで喜びや納得や満足を見出し、他と比較することで己の存在を確認し、優越感や劣等感にて生きている情動を感じます。
すると娯楽にて刺激を求め、“生きている感”を脳のドーパミンとホルモン分泌にて体感することが生きる術となります。
人生をやめる真意は自分を自分で認められず認識できないことからの現状打破。
自分のことがわからないので、どうすればいいかわからなくなります。
それは人によっては空虚や孤独や喪失となり、人生どうでもいいと思うことに繋がります。
※人生どうでもいい意味と真意は、人生どうでもいいと思った時。それは実は大切な合図だった をご覧ください。

人生をやめるために大切なこと
人生をやめるためには、真意を知ることが大切です。
生かされることを喜ぶ人はいませんので、誰しもがむなしく、孤独を感じると思います。
そして他への依存にて自分を見出すことで対処しますが、何より自分が自分を認識して認めて大切にしなければ、中身がないので他者は認めたり褒めたり愛したりができません。
それでも肯定してくる人は嘘や体裁の演技に偽りの偽善、無用なエゴを与えられてもはや嫌悪、やめてくれという具合に。
人生をやめるためには、そのように他が主観で自分がいないことを自覚することが先決となります。
初めに人生をやめる基盤の自分を作ることで、実際に人生を一から新しくする行動も可能になります。
生かされることから生きる状態にするためには、依存と執着を自覚して自分を知ります。
言い方を変えると依存心と執着心を観察することで自分を認識して認めます。
その際には否定は要りません。否定とは認めることの正反対で、より自分をわからない空虚にしてしまうので、どんな自分でもそれが現実なので認めます。
「私は一人では生きていけない」「私はお酒がないとダメなの」と認めます。何も悪いことはないのでただ認識して知る。
その上で、人生をやめるために環境を変えることで行動継続ができるようになり、新しい人生を自ら作ることができます。
人生をやめるための環境替えは少しずつでもOK
自分を認めることで起きるのは、自分を配慮しながら生きる認識です。
ご飯はお腹が空いたら食べるということです。
当たり前の話ですが、生かされているとご飯は1日3食、朝昼晩とルール設定してそれに従ったりするので、そんなものは要りません。もちろん必要であれば要ります。
自分はどう思う?という配慮が生まれ、自分の声や体の声、そして心の声を聞いて生きるようになります。
すると自分の意見が作られていきます。
物事は一歩ずつです。それはお米を作る稲作と同じ。
いきなり田植えはできません。まずは田植えをする田を耕す、そのために土地を知ることからです。
そして少しずつ環境を変えていきます。
例えば、家にいると親の私物化や押し付けや決め付けがあるとします。
そんな環境では生きることはできず生かされます。息ができませんので死んじゃいます。
それなのに家から離れないのは、家に居られる恩恵を利用する依存と執着があるかもしれません。さらに、別で住むには働いたり誰かに依頼したりお願いしたりとさまざまな行動が必要になるので、それをしたくないという自分への執着があり、変化を求めない状態をあえて作ります。
自覚して自分を認め、本当に人生をやめたいのかどうか=現状を変えたいのかどうかの真意を確認します。
それじゃあ全部捨てて海外に、というのは冗談ですが、自分に合わせて一つずつ環境を変えることが大切です。
いきなり家を出なくても、少しずつ外に出て、人との関わりを増やしたり、お願いする行動を増やしたり、働いたり。
徐々に自分を認めることで自信がついてくるので、最後は家を出るという具合です。
※自信とは自分を認めることを意味します
自覚して認めることで自分なりの一歩一歩が作られ、少しずつ自分を知りながら環境を変えることで、新しい人生を始まることができます。
その際には選択が生まれ、環境を変えることでの人生のやめ方か、自分を変えることでの人生のやめ方か、好きなように選べたりします。
人生をやめる経験
最後にどうでもいいとは思うのですが、私が人生をやめる際の経験が参考になれば幸いですので、お伝えして終了します。
昔々あるところに、奇人変人、いえ、変態的な27歳の男性がいましたとさ。
これが当時の私のことなのですが、これまでの人生を全てやめる決意をしてアラスカの森へ行きました。
北極へ向かう一本道を3日間かけてヒッチハイクで北上し、途中で見つけた川沿いから森へ入り、14日間川沿いを歩き続けた山の麓、川の源流に辿り着き、そこでこれまでの人生をやめる時間を過ごしていました。
アラスカは街を抜ければ広大な大自然の森しかない、それは全てが野生動物の住処、美しい場所です。
これまでの人生がつまらないわけではなかったのですが、苦しく虚無感からのどうでもいい感覚があり、人生をやめることにして全ての環境を変えました。
アラスカの森では結局60日間過ごし、命に関してもなくなればそれまでだと思っていたので、命への執着がないおかげで何だかスッキリと、他の恐怖や欲などあらゆる執着をまざまざと知ることになりました。
そんな執着を嫌でも自覚させてくれる環境が大自然という地球環境にはあり、無為自然や摂理を体感しながら、ボッコボコのフルボッコにされる日々。
「もうやめてー、へろへろー」という感じで、「もうわかりました、はい執着、これも執着、認めます、認めますからー、はらはらー」と、もはや自然への恐怖と共に自分を認識する日々でした。
単純に、「ありがとう」の意味すら知らずに使用している自分を初め、さまざまなことに気づく機会があり、それは全て己の中にある認識への気づきと認める行為でした。
その認める行為は配慮から敬いとなり、それを“受け入れる”と言います。
受け入れることで自分を愛して敬う状態となり、そこには自らの喜びは自らが作るという、完全に新しい自分がいました。
しかし、そんな自分は実は忘れていただけで常に自分の中におり、そんな自分を思い出して取り戻す、そんなことが事実だったりします。
そんなこんなで人生をやめて、全く新しい人生を始める経験があり、その理解からわかることをここでお伝えしているという次第です。
※人生をやめた経験の詳細は、人生を変えた経験を本に|ふざけた人生哲学 幸せはムニュムニュムニュ をご覧ください。

人生をやめる まとめ
限られた人生、終りまでのタイムリミットは刻一刻と進んでいます。
これまでの人生をどう捉え、利用したり活用したり対処したりは私達一人一人の自由です。
物事と時間の流れる人生は今この瞬間に過去として記憶となり、その過去が自分にどのような影響を与えるのか。
それは現状打破、そこからの向上意志を持つ自分を教えてくれる影響だと思います。
人生やめたいと思える経験があることは、人生を新しく始める動機を作り、これまでを糧により良きものに変えていこうとする意志を強くさせます。
依存と執着を見えやすくことで人生をやめることでの恩恵を受け、新しい環境でも新しい自分としてでも、納得と満足のゆく人生が始まります。
依存と執着を知り、人生をやめる真意を知ることは既に人生をやめる一歩目です。
環境を変えることも大切ですが、人生をやめる基盤を知り、認識してドンッ。まずはそこから始めましょう。
そして、物事は自分に合わせて一歩ずつ進んでいきますので、その際に環境を変えることを方法の一つとして少しずつ変化していくと良い塩梅だと思います。
そんな理解が、人生をやめたいと思う際に役立てられれば幸いです。
それでは、人生をやめる方法についての話を終了します。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
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