『DNAシフトセラピスト養成講座』
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著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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※本気で人生を変える方専用。
欲がない人は思考で意識的に作る欲が少ない特徴があります。
食も物も所有も性欲も承認欲も何もかもありますが、「あえて求める」という意識的な部分がゴッソリありません。
そんな人は社会のルールから少し逸脱しているイメージがあるかもしれません。
「欲がない人は怖い」
こう思ってしまうのはどうしてなのか。ここでは、欲がない人の真相を掴む下記の紐解きをお伝えします。
- 欲がない人のタイプとは?
- 欲がない人はどうして怖い?
- 欲がない人とは何者?
- 欲がない人に大切な理解とは?
私自身、欲がない状態で生きていた歴史があるため、欲がない人側の目線にて心理や内情にある真意を知っていただく内容となっております。
欲がない人の在り方を知ると欲の意味がわかり、人間の大切な理解が導き出されますので、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。
Contents
欲がない人は怖い?
欲には無意識的と意識的がある
欲には無意識的な欲求と意識的な欲求があり、感情や思考と同じように二つの捉え方があります。
- 無意識的な欲求
…先天的、本能的、潜在意識の欲 - 意識的な欲求
…後天的、思考的、顕在意識の欲
「喉が渇いた、なんか飲みたい」と思わなくても肉体が欲するように、無意識の場合には目的を認識せずとも自然と行動します。
死んじゃうので適度に食べる。
身体を害するのでうんちをどんっ。
不潔で心身の衛生状態を害するので身体を洗う。
肉体機能が働かないのでグーグー眠る。
これらのような無意識の欲に目的を見出す必要はなく、満たされれば、「あー満たされたー」と腕を伸ばして喜ばずとも肉体は満たされています。
無意識な欲はとても自然な欲求です。死ななければ食べません。身体を害しなければトイレに行きません。汚れていても心身を害しなければシャワーを浴びません。肉体機能が働いていれば眠りません。
これが意識的な欲になるとこうなります。
食べなければ死んじゃうので満たされるまで食べる。
排出しないと身体を害するからいきりまくってうんちキュー。
シャワーを浴びないと汚れて不潔だからゴシゴシシャンプー。
眠らないと肉体機能が働かないから6時間以上眠る。
目的を持ち、不満足をなくし、満足を求めようとします。
自然な欲に対してあえて目的を持つと、不満足がないだけでは納得いかず、満足できたと思える状態を欲します。
これは脳の思考が行い、おそらく社会的にはこのさまが一般的です。
思考的に作り出す意識的な欲がない人が、欲がない人です。
欲がない人を怖いと思う理由
欲がないと大変です。
あえてご飯を食べず、あえてトイレでいきらず、あえてシャワーを浴びず、あえて眠ろうともしません。
太りませんし、運動や健康管理にてサプリを漁らず、若干の体臭が漂い、寝ずにゲームとかして、人それぞれ自分にとっての自然な状態で日常を邁進します。
外にも出かけず、人にも会わず、欲しい物もなく、お金も欲さず、お酒も飲まず、「いっつも梅干し食べてるんだ」と不満足がなく、多くを求めない。心配され怖いとも思われます。
多くの人は不満足がないだけでは納得いかず、満足を求めたいものです。
意識的に欲を持ち、満足を求めたい目的が強い人であればあるほど、欲がない人の理解は困難であり、反発を抱く人もいます。
完全なる理解不能になると自らの認知領域を離れた未知となり、同じ人間であるにもかかわらず宇宙生命体を見ているような恐怖を感じます。
「怖い」とは完全なる拒否を意味し、自らの在り方と反していればいるほどに拒否したい欲を持って行動認知します。
欲がない人が怖いのは意識的な欲が強く、そんな自分を正当化したいと欲すれば欲するほどに抱くと考えられます。
欲がない人を怖いと思うのは、認識に[理解不能+反発]がある心理です。
※怒りがない人を怖いと思う理由は、怒らない人の心理は冷たくて怖い?│自立者は冷たいと思われた方がいい をご覧ください。
欲がない人の心理と原因
欲がない人のタイプ
欲がない人は現状に満足している人と、満足も不満もない人に分かれます。
満足している幸せ者は、何かを欲するための目的がありません。
私達人間は目的がなければ思考も行動も意識的にはしませんので、目的の有無によって欲の有無も変わります。
満たされておらずとも不満ではない、幸も不幸もない人も同様に、欲する目的がなければ欲を見出そうとしません。
どちらも欲がない人には共通する状態があります。
あえて求めない(欲する目的がない)]
[不満足がない+満足を「あえて求める」場合、「こうなりたい」「こうあってほしい」という想像や予想があり、自分以外の他の情報による思考があり、現状満たされていない表れがあります。
自分の情報は知識や経験にて新しく自らが創っていくものであり、今に集中して生きる結果として今が作られるように増えていきます。
欲がない人は「あえて求める」という他の情報思考がなく、多くの欲に関しては無意識的な欲を持ち、意識的な欲がほとんどない中で、特定の事柄に対してのみ大きな欲を抱く特徴があります。
この特徴を持つ欲がない人は大きく三つのタイプがあり、それぞれに心理と原因があります。
- 欲がない幸福悟り人
- 欲がないポジティブな人
- 欲がないネガティブを嫌がる人
一つずつ見ていきましょう。
欲がない幸福悟り人
他の情報ではなく自分の情報によって目的を見据える人は今この瞬間を生きることにフォーカスし、無意識的な欲が主体になります。
自分の情報思考を持って生きるために他の情報に翻弄されることがなく、執着のない特徴があります。
自分が主体でありながら自と他の区分け意識がなく、自然なさまとして起きたことに思考し、行動し、起きたそのまま受け入れます。
仏教で言う悟りであり、無我の境地にいる人です。
心が満たされる標準状態があり、満足をあえて求める動機がないために欲がない在り方となり、自然なさまを象徴する人となります。
怖いと思われることはなく他者とは明確に一線を画した存在です。
欲がないポジティブな人
使命や生きがいやしたいことがある人です。
多くの欲は無意識的な欲になり、意識的な欲は集約した一つの大きな欲として使命などに向けて持ちます。
今にフォーカスする悟り人のように、他の情報ではなく自分の情報を主体に、自らを喜ばす目的を持ちます。
使命や生きがいやしたいこと=自分を自分で喜ばすことが、あえて求める目的になる人です。
仕事が大好きで食事はそっちのけという具合で、優先度の低い欲に意識を向けず、その分を自分を喜ばす目的のために全部使うイメージです。
社会的価値観にある衣食住のほとんどの欲が無意識的な欲であるために、変人や不思議な人に思われることがありますが、怖いと思われることは少ないです。
欲がないネガティブを嫌がる人
「怖い」と思われる人であり、この内容の主旨です。
幸もなければ不幸もない状態。あえて求める意識的な欲がなく、感情もない(自覚と表現がない)特徴があります。
欲がないポジティブ人と同様に自分の情報を主体にし、多くの欲は無意識的な欲です。
あえて求める欲は「自分を自分で喜ばす」ではなく、「自分で自分の不満足をなくす」という特徴です。
優先度の低い欲に意識を向けず、その分を自分に不満足をなくす目的のために全部使うイメージです。
満足を求める訳ではなく、不満足がない状態を欲し、満たしや喜びを求めません。
「ポジティブが良い」という価値観の社会では、不思議に思われるだけでなく理解不能な未知となり、怖いと思われがちです。
ネガティブを嫌がる人はネガティブではない
「ネガティブな人」とお伝えしていないのは、陰陽におけるネガティブとは概念が違うためです。
不満足をなくす目的は、ネガティブが自分に与える影響を嫌がる目的という言い換えになり、「ネガティブを味わいたくない」に集約するように一つの大きな欲を持ちます。
他の欲がないタイプと同様に、自らの情報を主体にする人間性があるため、自分で自分を満たすことができる基盤がある上で、周囲からの影響と干渉による不満足の与えられを緩和・解消する欲です。
自分に不満足がないことを欲する欲は、あえて欲するというよりは起きる周囲からの影響をなくすさまになり、行動が見えにくく、欲だと思われにくいです。
欲が自分にのしかかる周囲からの抵抗をなくすことにフォーカスする状態であり、価値観と観念が欲がなくなる原因に関わります。
欲がないネガティブを嫌がる人の特徴
欲の認識がほとんどなく、欲を持っているのかわからなくなりやすいのがネガティブを嫌がるタイプです。
実際には不満足にならない大きな目的を持ちます。しかし、他からの影響をなくすためなので、自分のための欲だと心身が認識しません。
この状態にはいくつかの特徴が表れますので、一覧でご覧ください。
- 満足を求めない
- 競争や上下区分け、差別意識がない
- 人に興味がない
- 不満足にならない目的を持つ
- 自己納得できる状態や状況を欲する欲が強い
- 自己抑制や他者優先を癖のようにする
- 誰にも期待せず、諦められる準備を常にしている
- やる気が出ない
- 本気になれない
- 感情がない(またはわからない)
- 楽しいことがわからない
- 自分を喜ばせたい気持ちがわからない
- 実際には才能や能力の半分も出ていない
- 我慢強い
- 精神性が高い
欲がない人の原因
欲とは動力であり生命の源、喜びの基であり行動動機です。
しかし、ネガティブを嫌がることを目的にすると、「自分を邪魔しないで」という目的になり、「誰も何もしてこないで欲しい」という悲痛の叫びになります。
何かを求めるのではなく、「自分が納得できるようにしたい」という真意です。
この欲の持ち方はとても特徴的で、一般的ではないために周囲からは欲だと認識されず、自分自身でも欲だと認識しません。
原因の核となるのがこちらです。
「自分が納得することに誰かの許可を待っている」
納得の許可待ちは欲がなくなり、わからなくなる
自分の情報を主体にする人が、我慢や抑圧をされ続けたことで起きると考えられます。
自分の情報ではなく他の情報を主体にする人であれば、こうはなりません。
自らを主体にする人間性がありながら主体的にできず、他の情報を基に生きる価値観や観念はほとんど幼少期に植え付けられます。
本来は主体的であるにもかかわらず、主体的にできないと信じて疑わないルールが経験によって作られます。これを観念と言います。
観念ができるのは主体性を抑圧されて、我慢できてしまう精神性が物事を複雑にします。
我慢できる人、特に小さな頃に自分を抑え付けて耐えられる人は精神的な成熟があり、他からの影響・干渉を飲み込めてしまいます。
主体性があるのに主体性を抑え付けられても我慢できてしまうので、違和感を感じないように自らを誤魔化すこともできてしまいます。
しかし、主体性と精神性の高い人間性は消えないため、「自分が納得できるようにしたい」という目的を無意識に持ちながらも観念がそのための行動を止め、欲だと認識しないようになります。
生まれながらの人間性(気質や性質)以上に、経験によって抑圧された記憶が先行して観念優位となり、納得できるようにしたい目的は、納得させてもらうのを待つ抑圧結果の在り方となり、欲がわからなくなります。
生まれながらにある主体性と精神性という概念であるため、スピリチュアルな過去世や因果応報の理解が含まる人かもしれません。
※欲がない人はいない詳細は、欲がない人は地球には存在しない|欲が絞られるスピリチュアルな意味 をご覧ください。
欲がない人に大切なこと
欲がない人は欲の意味が違う形で使われ、観念によって自己納得するための行動が止められるので、欲ややりたいことがわからなくなります。
自らを抑えて他者を優先したり、自らを卑下して期待をしなかったりと、目的を持たないことで自らの心が傷つかないようにする自己防衛意識が高まり、不満足にならない目的が無意識に構築されていき、満足する以上に諦めや期待しないこと、飽きたり他の影響を少なくする生活環境になっていきます。
この心理には抑圧されたことで作られた観念と、苦にならないと誤魔化せるほど我慢できてしまう精神性の高さが考えられるため、自分と他の区分け意識が大切です。
自分は自分、他は他ということを意識的に認識し、自らを理解する探求に欲(目的)を向けます。
無理矢理に好きなことややりたいことを見つける必要はなく、まずは自分自身を把握する作業です。
重要なのが感情と本音表現です。
我慢癖は本音も真意も隠してしまうので、鍵となるのは自分が本当に言いたかったこと、表したかったことを隠したか認めたかの自覚です。
奥底に隠して仕舞った言葉は、意外に直ぐ手前にあったりします。
表現して外に出し、感情の認知を増やしていくと自分の感情が明らかになり、欲がある気づきへと繋がります。
抑圧した場合、必ず自らが解放する時まで心身側は解放を待っています。
解放される時、才能と能力が本当に発揮されるご自身を垣間見ることとなります。全く新しい世界の見方となり、これまでとは違うありのまま、真意、本音、やる気、自分として生きる人生が始まります。
こうなると幸せじゃない訳がありません。欲がない人のまま、自らを認知して発揮できる人は、幸福悟り人に近い状態です。
そういう人であることを知っていただければと思います。
欲がない人 まとめ
欲がない時に欲を見出す必要はありません。あえて求めずとも無意識にあるものですので、あえて求める欲は少なければ少ないほど、一つのことに特化して使用できます。
欲がない人の主体性は不動の人間性。観念とは自分を知り、自己認識を高めることでいくらでも自由に変えられる後付けです。
抑圧は周囲の影響もありますが、欲がない人の精神性は自らを主体にする人間性があるため、他者に責任を求めたり負わせるようなことはしないと思います。
抑圧は抑圧、過去は過去、自分は自分です。
自己理解を深めれば深めるほど、過去にも未来にもフォーカスしなくなり、今自分が何をして、何を感じて、何を思って、何を発揮しているかが全ての主になります。
これが無我の境地であり、集中している状態が欲そのものであり、その時の自分自身が欲の正体だと知ります。
欲とは自分です。感情とは自分です。
欲がないように見える人はいますが、欲がない人はこの世に存在しません。
自己理解の先には観念の把握があり、過去の意味と大切さが表れ、真摯に向き合うことで過去とのさようならがあります。
過去は完全に終わります。あらゆる選択と行動は今始まります。
始まると、欲がない幸せな人になれるのが我慢と精神性の賜物であり、やる気が表れ、本気になれ、目的を持った才能と能力開花はこれまでとは比べものにならない力を見せてくれます。
そのままの、ありのままのご自身を知り、自分が納得できる人生を歩まれてください。
「私の人生を納得できるのは私のみ」
欲がない人がご自身を知る一助となれば幸いです。
それでは、欲がない人のお話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。
そして、そのような解をグルに求めること自体、欲に囚われているという象徴なのでしょうか。
自らに合わせた変化を欲するのか、その場や他に合わせた変化を欲するのか。
これらは「欲」という言葉では収まらない、別物ではないでしょうか。
おそらく、私がいわゆる「一般的な人間である」ことが答えだと思います。
(欲を断つといった時に)「真我探究」が欲という言葉では収まらない、別物、というようなことと同じ・・ですね。
「私はただの変人絵描きですので、気楽にテキトーに読まれることが最も理解に繋がりますので、そんな感じでいきましょう。」というようなこと・・ですね?
回答「うん、ようはなんでもいい」・・とは言わないでw
そうですね。言葉で収まらないとは、いわゆる別物という意味。
欲は欲です。
自分の世界を他に向けるのか、他の世界を自分に向けるのか。
欲は欲でも我か許容かに変わります。
若き賢者よ、例えばバングラデシュで生まれ育った妻は、もともとのコンクリートの庭に対し、私のようにどうこうしたいとは思っておらず、1歳半の子もどうこうしたいとは思っていないので、ただそれは、私にとってだけの「shantiになりたい」という思いからの望みなのです。
そこは、家族にとってもshantiなセィクレッドプレイスになってほしいとも望むのです。
師よ、あらゆる欲を断つと決意した矢先、私がいま住んでいるダッカの無機質なコンクリートの屋上のスペースの一部分を、
(1、2万円で)木々や植物(そこに集う小鳥や虫や生命)で自分が囲まれるほどの、ささやかな憩いの場にしたいと望んでいるのだが、
そのような望みも苦悩の源となる欲なのだろうか。