スピリチュアル

欲がない人は地球には存在しない|欲が絞られるスピリチュアルな意味

欲とは煌びやかだったり、ドロドロのベトベトや、無頓なものだったり、さまざまな印象があるかもしれません。

海外を周ると環境の違うさまざまな人々と出会う機会がもたらされ、人それぞれの欲と同時に、環境それぞれに欲の大小があり、欲とは何かについてを知りました。

環境の違う人々には、底を知らない欲を持つ人間の姿と、欲がなく生きることに忠実な姿との大きなギャップがあり、同じ人間とは到底思えない現実があります。

欲がないことにはスピリチュアルな見方がありまして、欲に種類があることから、欲の区分けをすることで欲がなくなっていく段階が作られ、欲がない人や欲がなくなったという人が存在します。

無限の喜びを求める人間の不可思議な考え方と生き方を象徴するアイテムであり、武器になり、味方になり、敵になり、ペットになり、自分の正体となる欲は紛れもなく大切なものです。

欲がないことの意味と欲がなくなっていく段階、そこにあるスピリチュアルな理解をお伝えし、人それぞれの欲の駆り立てや抑制に役立つことを願います。

欲がないスピリチュアルな意味

欲とは

欲とは欲する気持ちです。

欲するためには、満たされない状態が必要です。

欲する際には、脳の思考にて、「あの人みたいになりたい」「お金持ちになりたい」「美人になりたい」「あの服が欲しい」と考えて求めることがあります。

「お腹空いた」「疲れた」などの肉体が満たされない反応から求める、無意識な欲があります。
「あの服が欲しい」「ブランド物が欲しい」「自分を認めてほしい」などの思考が満たされない反応から求める、意識的な欲があります。

欲は、肉体と思考が満たされていないことから、より自分に喜びを与えようとする気持ちがあることで欲して求めます。

そのため、欲とは自分を大切にする意識であり、満たされていれば欲することがありません。

 

欲は満たされない状態と、自分を満たしたい気持ちの合致

「もっと満足したい」という気持ちがなければ欲が生まれません。

それは人それぞれの“自分を大切にしよう”という気持ちでして、自分を物で満たすことや、人で満たすことや、認められたり褒められることで満たします。

欲にはさまざまなイメージがありますが、欲がなければシンプルに肉体が朽ち果てますので、生存維持のためには大切な気持ちで、それは自分を大切にしようとする気持ちです。

「自分を満たしたい」 = 「自分に喜びを与えたい」という意識は、自分そのものの人間性を表して、そこにはスピリチュアルな概念としての欲の正体が現れます。

 

スピリチュアルな欲とは

脳と肉体があることで、満たされない状態から欲する気持ちが生まると同時に、人間には“心”があることでスピリチュアルな欲の認識が生まれます。

 

肉体は必要以上は欲しない

肉体が満たされない状態になることで、食べたり寝たり空気を吸ったりします。

それらは生存維持としての本能に関わっていて、無意識に欲して、必要以上を欲することがありません。

そのため、欲望だと認識しないかもしれませんが、睡眠や呼吸とは違い、食べることは自分の意志がなければ食べることはありません。そこには、食べるための行為が複雑にあり、全身を稼働させる労力があるので、欲する気持ちによって“食べる行為”をします。

しかし、肉体が、「チョコレート頂戴よ」とは言ってきません。あくまで満たされない状態を教えて、生存維持することを目的として、その時の自分の体に見合った満たしがあれば満足します。

 

脳は必要以上に欲して欲を増大させる

脳があることで必要以上に欲することも、欲を抑えようとすることもできるようになります。

脳は、「へいへい、チョコはチョコでもきのこの山だぜ、それ以外は満足しないからな」と言ってきます。

そのため、脳の理解と関わり方次第で、欲を増すことも減らすことも自由にできるのが脳の能力であり、強みです。

そして最後に、肉体と脳とは別に心にある欲が現れます。

 

心の欲には満たされない状態がない

心の認知にて自分を満足させる気持ちが“心にあるスピリチュアルな欲”となります。

しかし、心単体としては思考や肉体にような“満たされない状態”がありません。

心は脳とも肉体とも連動する自我意識の源で、気持ちを生み出すものです。

心には喜びを求めて自分を大切にする意識があり、満たされない状態がなくても、“喜びを求める意識”にて欲を生み出します。

それはもう、常に欲しがる人みたいなものですが、思考がないので、「どうしても欲しい」とか、「満たされていないから苦しい」ということがない特徴があり、完全に自分のコントロール下にて欲するかどうかが決められる欲望です。

 

スピリチュアルな欲は自分の喜びのために欲する気持ちであり、意識

「自分の喜び」という明確な目的のために欲するのがスピリチュアルな欲です。

それは心の認知を基にした、愛による欲する気持ちのことで、自分自身のありのままの人間性を表す“意識”でもあります。

言い方を変えると、生まれてきた以上は必ず持つ、“生まれてきた意味を遂行しようとする自分の意識”のことです。

 

生きている意味や目的のために必要な気持ちがスピリチュアルな欲

若干、重苦しい感じがしますが、生きている以上は必要な欲する気持ちのことです。

心とは愛の源で、愛を感じるためのものです。そのために、自分を喜ばすことは自分を愛することでして、自分を大切にすることは欲を持つことになります。

心にある愛を主体にすることで、肉体と脳と連動して、喜びを求める意識が生まれます。

それは、心から幸福なことや心満たされる状態を欲する気持ちとなり、肉体と脳の満足とは別の“愛に基づく喜び”を求めます。

その喜びとなり、生きている意味や目的となるのが、“自己の成長”や、“役割、宿命、生きがい”などで、気楽に自分が心からの喜びだと感じることをするための欲です。

心からの喜びには、他者の存在や反応への体裁や評価を優先する概念はなく、自分の恐怖から逃れられる不安感への対処や、存在価値を見失わずに済む安泰などによる“納得”とは違います。

自己の成長や役割とは堅苦しいものではなく、完全に人それぞれにあり、「結婚すること」「子供を育てること」などが役割の人もいます。

完全に千差万別のスピリチュアルな欲にて求める喜びがあり、そこには苦しいことも、過酷を乗り越えることも、恐怖を克服することも、喜び幸せになることも、楽しむことも、あらゆる心からの喜びが含まれ、とても大切な欲となります。

 

欲がない人は自我意識がないこと

大切な欲となるスピリチュアルな見方がありますが、“欲がない人”というのが存在します。

しかし、初めにお伝えしたいのですが、欲がない人は地球には生まれてきません。

スピリチュアルな認識になりますが、地球とは3次元という魂レベルを向上させるための環境がある場所です。

そこに来る魂は、魂レベルを向上させる意志のある人々で、私達は例外なく未熟者でして、成長するために次元の少し低い場所にやってきます。

そのため、自己の成長を人それぞれに求めて、学びや経験をするために喜びや苦しみを味わい、幸も不幸も共に大切な成長材料となり、欲はなければならないものです。

※魂レベルについての詳細は、魂レベルの高い人と低い人の特徴|愛の距離感は口が悪くても意識が高い をご覧ください。

魂レベルの高い人と低い人の特徴|愛の距離感は口が悪くても意識が高い魂にはレベルや年齢なるものがあると言われます。 魂レベルが一人一人にあることで、人としての人格や人間性に表れ、それは個性になります...

 

欲がない人は自我意識との分離を完全に果たした人

地球には欲がない人はいませんが、地球以外の宇宙にはさまざまな星があり、魂レベルの向上と共に、“個”としての自我意識から俯瞰して、周囲の人、国、世界、地球、星、太陽系銀河、他の銀河系、宇宙・・・と意識が全体を見る意識になっていきます。

それは最終的に“ワンネス意識(一体化)”という、「全ては一つに繋がっている」認識になり、全ての源となる創造主(光、またはソース)との繋がりを完全に認知する意識になります。

全てが一つであることは、自分もあなたも同じ、この宇宙は全て一つに繋がっていて、その一つから派生して一時的に“個”として存在している認識になるので、自分も何もないという摩訶不思議な状態になります。

この状態は私にはあくまで想像しかできませんが、アニメのコジコジがそれに近いのかなと思います。
※コジコジはさくらももこさんのアニメです。楽しいのでおススメです。

欲がない状態は全てを受け入れている前提があり、宇宙の一部として起きるままに、あるがままに、なすがままになされるがままにという、クラゲがただ漂っているような状態になります。

しかし、こんな人は地球にはいません。

欲がない人は地球にはいませんが、欲がない人を理解する上でわかりやすくなればと思い、お伝えしました。

しかし、欲がない人に近い人がいます。

 

欲がない状態とは自我意識との分離が進むこと

“欲がない人に近い人”を今後は、“欲がない人”としてお伝えします。

欲がない人となるには欲がない状態が段階的に起きます。それは仏教の悟り五十二の位のように、一歩ずつ自我意識との分離を進めることを意味します。

自我意識と分離するためには初めにエゴとの分離をします。

 

欲がないとはエゴがないこと

欲を生むためには満たされない状態を生む必要があるので、脳も肉体も満たされることで欲がない状態になります。

肉体が満たされることで、連動している心も満たされてスピリチュアルな欲が満たされます。しかし、肉体が満たされることは一時的なものでしかありません。

お腹が満たされれば、「ぷはぁー、おいしかったぁ♪」となり、その時には何もいらなくなります。

が、その後数時間すれば、「夜ごはんはー?」と欲が出始めます。

しかし、脳が満たされることで脳の欲は完全になくなります。

私達は肉体を持って生きているので、生存するために肉体維持が最優先になり、特に呼吸をすることが最も大切です。

その為、肉体は本能や無意識な行動として満たされない状態が起きることで行動しますので、海を泳げば空気を吸おうとして、休息が必要であれば睡眠して、お腹が空けば目の前のものを何でも食べようとします。

肉体維持されることで無意識の行動は満たされてなくなり、残りは脳の欲とスピリチュアルな欲が残り、それは人それぞれに満たされない度合によって、欲が多いか少ないかが分かれます。

そして、脳が満たされることはエゴがないことを意味します。ありのままの自分として生きて、不満足や不納得がない自分がいることです。

 

ありのままの自分が満足するとエゴがなくなり欲がない状態になる

欲がないことを別の言い方にすると、ありのままの自分として満足していることです。

ありのままの自分として、好きなように生きて、好きな時に好きなことをするのが当たり前になることで、ストレスもなく、絶対的な安心感と恐怖心がなくなります。

それは、喜びも恐怖も受け入れる許容がある人間性を意味して、エゴがなく、自分を確立して生きることで欲がない状態になります。

それは自由とも言え、エゴがなく自分として生きることは、全ての主観を自分にして、愛を基に自分の喜びを味わい続けている状態です。

それは、外部の環境設備は何でもよく、自分の認識を自由に変えられることで、一日のごはんが白米二口分でも、一汁三菜でも同じように満たされ、生きていることや今を認識して感じて何かを想うことに喜びがあり、そこには既に自己の成長やスピリチュアルな生きる意味や目的が含まれた喜びが常にあります。

そんな、思考にあるエゴとの分離をすることで、欲がない状態になります。

※エゴの詳細は、エゴの意味とはスピリチュアルな契約|エゴがない人が教える活用方法 をご覧ください。

エゴの意味とはスピリチュアルな契約|エゴがない人が教える活用方法私達は常に二人の自分を持ち、使い分けたり、使われたりと共存や利用の関係性を持ちます。 そんな二人の内の一人をエゴと言います。 ...

 

欲がない人と欲がなくなった人の認識

欲がない人に見えたり、思えたり、欲がなくなったりと、人にはさまざまな見方がありますが、欲があるかないかは本人にしかわかりません。

欲がない人自身が持つ認識にて、欲がないことの意味がわかりやすくなりますので、ご覧ください。

欲がないと思い込める状態

スピリチュアルな欲とは、愛を基にした喜びを求める気持ちであり意識のことで、これは自分そのものの正体です。

欲とは、喜びを与えたい意識があることで生まれるので、それは自分を愛する自分自身そのものが欲という意味になります。

そのため、欲がない状態とは自分がない、愛の認知を失った、または生きている意味や目的の自己の成長を求めなくなった状態です。

これは自我意識を持ち、生きている意味を自ら見い出せなくなって、それを受け入れた状態ですので、朽ちるの待ち状態です。

その際にはエゴがない人に思えますが、心地良さそうなものではありません。

何というか、「ネガティブな無」です。

生きている意味や目的、ありのままの自分を見出せなければ、その状態を受け入れることはありません。その際には、脳の欲を存分に増やして、自分の存在価値を見失わないことや、承認欲求を満たせるだけ満たそうと、他者の反応や評価のために行動して、優越感を味わうことをします。

しかし、エゴはないけども欲がない場合にはスピリチュアルな認識は存在せず、全てを失って、それを取り戻す活力もなくなりエネルギーもなくなることで成し得るので、老化による衰退にて何も思わなく、感じなくなる状態があることで、「私は欲がない」と思います。

ありのままの自分として老化した際に何も求める気力がなくなる。

欲がない状態とは、自分に喜びを見出そうとしないことでもありますので、欲がないことが良いか悪いかは完全に人それぞれです。

 

全てが喜びになると欲がなくなる

ありのままの自分を確立して、エゴとの分離を果たしてエゴがなくなることで、満たされます。

その際にはスピリチュアルな欲のために生きることとなり、自己の成長や役割や生きがいのための欲を持ちます。

ですが、エゴがないことで、「~しなければならない」「~するべきだ」という思考概念がないので、欲の矛先は完全に自分の喜びのみです。

すると確実に幸せになります。自らが幸せを生み出し、喜びのために生きることで全てが満たされ、次の段階に入ります。

愛を基にした喜びは人それぞれに、博愛や慈愛、無償の愛などとなり、人の喜びを主体にすることが自分の喜びになり、欲の矛先が他者の喜びになります

 

他者に喜びを与えるようになると何でもいい“欲がない”状態になる

人の喜びを主体にすることで、一人一人に対する千差万別の行動が作られるので、喜びは人の数ほどとなり、欲がなくなることは地平線の遥か彼方に遠くなります。

しかし、しなければならない訳ではなく、自己の成長となり、自分が喜ぶので他者に喜びや愛を与える行動を欲することに変わりはありません。

それは、他者が喜んでも自分の喜びで、他者を喜ばせたいから敬いと喜びを与え、したくなければしないことが自分の喜びとなり、苦しいことも自分の成長となる喜びとなり、食べることも体が欲するから食べ、脳が喜ぶために目の前にまんじゅうがあれば食べ、なければ食べず、食べてはいけないなら執着せず、「何でもいい」状態です。

完全に自分が満たされて、食べることも求めず、朽ちることも求めず、何も求めなくなる欲がない状態になります。

 

全てを受け入れることで全てが喜びになり欲がなくなる

欲がない認識は、何も求めず全てを求める状態です。

それは人間でありながら自然の一部となり、宇宙と一体化していることを意味して、ワンネス意識に入って自我意識との分離が少しずつ始まります。

全てを受け入れている状態で、起きるものをそのままに、起きないこともそのままにして、欲がないけどある、あるけどない状態です。

起きること全てを受け入れることが自己の成長となり、生きている意味や目的となります。
空気を吸える自分を感じて何かを想うことに意味があり、吸えないことを感じて何かを想うことに成長があります。

その際には周囲の人によって、食べ物が与えられたり、病院に行ったりと誘導や導きがあるかもしれませんが、それも受け入れてあるがままです。

髭はボーボーで、髪は伸び切り、爪はクルクル、周囲を気にすることはなく、自分がそこに在ることを認識し、何かを想う。そこに意味があり、影響があり、使命があり、何でもいいのです。

食べても食べなくてもいい、肉体が欲すれば生存することに意味と目的があると認識して、目の前の葉っぱを食べたり、虫を食べたり、五つ星レストランでお寿司を食べたり、コンビニでアイスを食べたり、歩いたり、連れて行ってもらったり、人と出会ったり、道端で朽ち果てたり、何でもいいのです。

欲がない人は完全に全てを受け入れている人。
自然の摂理に則り、あるがままに流れるように生きる。

欲がない人になる際には、欲がなくなったと感じる状態が徐々に認識されるので、前段階があります。

 

欲がなくなったのは欲が絞られること

欲がない人になる前には欲がなくなったと認識する段階があります。それはエゴとの分離にて脳の欲がなくなる状態で、自分が満たされている状態です。

欲がなくなったと認識する際には、ありのままの自分が確立されていて、自分の喜びのために生きる時間となります。

そこからは、どれだけ受け入れられるかが欲がなくなっていく過程となり、受け入れ許容を増やすことで脳の欲から肉体の欲、そして心の欲の順序で満たされていきます。

欲がなくなっていく際には喜びが増えていき、物事をどのように考えて、感じて、想うかの認識が変わっていき、空気を吸えることや目があること、体があって五感を感じられること、水があり植物が咲いていることや自然があること、見方や捉え方から嬉しさがあり、感謝と愛に溢れていきます。

思考的な思い込みや決め付けはなくなり、柔軟さを増すごとに許容が増えて、幸せの幅が広がっていきます。

そうなると、太陽の日や地球の存在がありがたくてしょうがなくなるかもしれません。

 

欲が絞られると自分の喜びが明確になる

自分の求めていることが明確にわかることで欲がなくなったように感じ、自分の喜びを求める欲を存分に生み出します。

欲がなくなったと感じることで、欲の矛先が明確になります。

イメージとしては、細い矢印が自分の360度あらゆる方向へ向かっていたのが、数本の太い矢印がドンッと置かれるように変わった感じです。

欲が減っている訳ではないのですが、求めるものが明確になるので、そこへ行動まっしぐらという状態で、喜びも嬉しさも幸せも増大です。

そして、少しずつスピリチュアルな欲を求めていき、欲がない、髭ボーボーの髪ボーボー、化粧もなにもない仙人になっていきます。

それは、イエス・キリストさんや、お釈迦様のような、自己の成長を求める欲を明確にして、「人のため、人類のため」となる愛の提供が自分の喜びとなる欲として、日々を生きることになります。

 

欲がないのは愛を持ち感謝を抱くため

最後に欲がない仕組みをご覧いただいて、終了します。

欲がなくなっていくのは、自分という個の意識が俯瞰されて全体を見る認識となり、最終的にワンネス意識となることで欲がない人になります。

ワンネス意識の源は“創造主”という光でありソースと言われています。

それは愛の塊のことでして、愛の認知の源です。愛を感じることでドキドキ感やフワフワ感などの心地良さから心を認識することができますが、それは創造主との繋がりを体感している状態です。

全てを愛の認知とすることでワンネス意識となり、他者を愛する気持ちが強くなっていき、それは個から全体へ広がっていきます。

そのため、愛を感じる認知度によって欲がなくなっていき、愛があるかどうかが欲があるかどうかのバロメーターとなります。

愛があることで自分も他者も敬い、感謝をします。そこには心からの喜びが含まれ、幸せであると同時に、自分の欲を明確にして、博愛や慈愛へと繋がっていきます。

欲とは自分を喜ばせて満足させ、苦しみも幸せも作る自分の世界の彩りとなり、成長に欠かせない材料です。

しかし、欲がなくなっていくことは、欲の矛先を愛に絞り、他者への愛と感謝を基に生きる、さらなる幸せが広がり進みます。

欲があることもないことも、共に必要となるのがこの世の仕組みかもしれません。

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欲がないスピリチュアル まとめ

欲は自我によって作られ、自我にある肉体と脳と心の連動によって、幸せになるための道具となり、自分をネガティブな思いから守るための道具となります。

欲には脳と肉体と心に種類がありますので、それぞれの欲を持つことでポジティブでもネガティブでも、「満たされない自分」を満たすこととなり、人それぞれに必要なものです。

欲がない人は、自己の成長というスピリチュアルな欲を求める生き方があり、心の愛を基にした喜びや嬉しさへの行動を主体として、全てを受け入れて満たされた自分が存在します。

その際には社会性を持って生活をする際には、変人は変人、究極的な変わった人扱いになりますが、そんなことを気にする概念も認識もなく、ありのままの自分としてあるがままに生きて、全てを欲して全てを欲しない、欲がないけどある、あるけどない状態となります。

欲がない状態へは段階があり、自分を確立することで始まり、欲の矛先を明確にして自分をどこまでも大切にします。

その際には、欲がなくなった、なくなっていく認識があり、より幸せを自ら生み出しながら、自己の成長や生きている意味や目的のために愛を持って生きていくことで、受け入れを増やしながら欲がない人になっていきます。

欲がないと、「何でも良い」という状態になりますが、「どうでもいい」とは違いますので、人それぞれに物事や自分をどう認識するかが大切になります。

それでは、欲がないスピリチュアルについての話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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