人生哲学

光と闇を知ると見えるもの│それは光も闇もない状態。

善と悪があり、陰と陽があり、ポジティブとネガティブがあります。

一つを裏返すように、対局する関係性が作られる二元論。

その一つに“光と闇”があります。

光とは何?
闇って?
善と悪とは違うの?

光と闇には生誕と終焉、始まりと終わりの意味を含めた二元論の意味があります。

そんな光と闇を理解することは、この世を知り、宇宙を知ることでもあります。

そして、理解を深める中で最終的に出てくるもの、それは“自分”という存在であり、それは光と闇も、善と悪も、陰と陽も全ては同じ意味となる仕組みが表れます。

光を裏返すと闇があるのは、天国を逆さにすると地獄があるように、一つの中に内包する仕組みを物語ります。

そんな光と闇を知る話をご覧ください。
15分くらいで読む内容です。

光と闇とは

光と闇の二元論

光と闇、善と悪、陰と陽、幸と不幸、+と-、神と鬼、天国と地獄、デブとガリ、熱いと冷たい、気合と腑抜け、真実と常識、嫁と姑、ガリガリ君とハーゲンダッツ。

最後辺りのは違いますが、これらのような一つを二つに区分するものを二元論と言い、光と闇のように対局する関係性を持つものがあります。

二元論が二つに区分するもので、一元論は一つで成り立つものを示します。

光と闇、善と悪など、同じことを言っているような同じではないような。

それは、言葉としての実体が光、善、神、天国と、闇、悪、悪魔、地獄のように全く違いますが、ニュアンス的には同じ部類、同じサイドのことを言っているような感じ。

光と善、闇と悪、色的には“白”と“黒”みたいにそれぞれの白は同じ部類ですが、それぞれの意味は全くことなるために、同じだけど違います。

それは、「根本の原理は全て同じだけど、存在する実体としてはそれぞれに異なる意味がありますよ」ということです。

そのため、光と闇には光と闇の意味があり、二元論としては善と悪、陰と陽などと同様の根本の意味があります。

光と闇、善と悪、陰と陽などのような仕組みを物語る二元論には共通の認識や意味があり、実体としてのそれぞれ違う意味もある。

このように、光と闇のそれぞれの意味と同時に、二元論である根源的な意味も含めて、「光と闇とは?」を理解することになります。

根源的な意味は幸不幸や善悪を知れるため、知っていると何かとお得です。

 

光と闇は一つの実体から区別された二元論

光とは何でしょうか?

光とは、ピカッと光るライト。太陽の兆し的な、天使的な、なんか良さげな光明…?

曖昧です。

光を知るためには闇がないと理解も把握も認識もできません。

闇という何か怪しげな存在があることで、光が何なのかわかります。

もちろん、「光とは温かい光明であり、ポジティブや幸福を表す喜びの源であり、無意識に欲する心地良いもの」のように説明もできるのですが、これはさまざまな知識や情報を既に頭に入れた状態での解釈なので、光や闇を全く知らない子供にこんなことを言っても、「は、どういうこと?」と言われます。

光とは光そのものですが、光を理解する際には闇が必要で、それは“光と闇が二つで一つ”であることを意味します。

 

光と闇は生死、始まりと終わりの意味を持つ

光と闇は、生誕と終焉、スタートとエンド、理解と完結、数字で言うと1と9のように“始まりと終わり”を表します。

それはまるで太陽が昇って一日が始まり、太陽が沈んで一日が終わるように“光と闇の役割”となる意味があります。

光と闇は、創作と崩壊、また再開と落胆、行動動機と喪失、日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく:陰陽に分離して天地に成る)のように多くのことに関わります。

光と闇、善と悪、陰と陽、ポジティブとネガティブなど、多くの二元論を私達は認識の中に持ち、善と悪があるために物事を良い悪いと感じたり思ったりできるように、光と闇があるために始まりと終わりを作り生み出すことができます。

そんな光と闇を最も私達が強く認識できるのが自分の生死であり、自分の理解です。

  • 光が生、闇が死。
  • 光が始まり、闇が終わり。

そして、光と闇を知るためには生死を知ることが最も得策で効率的、手っ取り早いです。

「いや、生死知ったら人生終わってるやんけー」と。
「まだ死んでないし、生まれた時を憶えてないからわかるかーい」と。

わかりっこない。でも安心してください。

始まりと終わりは常に自分の中に内包され、光を持つ時があり、闇を持つ時があります。

それが、自分を知る時、見失う時です。

光と闇とは : 生死の理解
=自分を知ることで光を、自分を見失うことで闇を、“生きながらに存在する生死”を理解する

※誰しもの中に内包された認識として、光と闇がある

私達は生まれてから結構な数、死んだり生き返ったりを繰り返していたりします。それを“成長”とも言います。

そんな自分を知る光の意味について、より詳細を見ていきましょう。

 

光とは

光とは自分を知ること。

光とは闇と対局になるものですが、これは対局の関係性を持つということで、関わりがある時点で何かしらの繋がりがあることを意味し、それは分離からの吸着、水が同化するように、スライムがムニュとくっ付くように一体を表します。

対局なので水と油のように反発するイメージがありますが実際には同一でして、神をボコボコにして、うずくまった神様の後ろ姿はなんと鬼。

100倍返しでハチャメチャにむにゃむにゃにされちゃうという。そんなイメージです。

何言っているかわかりませんが、“自分を知る”=光を知るためには、“自分を見失う必要”がある=闇を知る必要があるという一体の理解です。

光とは自分を知ること = 光を知るためには自分を知らない状態が必要

そんな光、気持ちとして共通の認識があります。

喜びです。

 

光とは喜びであり兆しであり幸福を作ること

自分を知らない状態、または知っているのか知らないのかわからない、考えない状態があります。

その際、目の前にご飯があれば、手を卓球のスマッシュのようにブンッ、ガッシャンパリーンベチャベチャ。

ケラケラケラ。最高の時間です、楽しくてしょうがありません。

「手をブンッとやったら、こうなるんだ」と自分を知ります。

このように自分の行動、思考、気持ち、感覚、あらゆる認識にて新しく自分を知ることは楽しいことであり、光には喜びや幸福などのポジティブな認識があります。

ここで大切なことは、自ら知るということに光があり、知る結果によってもたらされる喜びは自分で作っていることです。

光とは自らが喜びや兆しや幸福を作ること
※自らを知るために行動して認識する=意志に基づいて知る際の喜びが光

光とは自らが作り出すものであり、それは喜びや幸福を作る行為が光ということです。

 

光に常識やルールはない

自分が光を作ります。

そのため、「待っていたら光った、光明だ、やったやった!」ということはありません。

光を作る行動があることで自らが光をもたらし、それは自分の中にあることを意味します。

他者によって作ってもらう、光を見出してもらうことはできません。

他者には他者の、隣人には隣人の光を己に内包しており、「あなたの光ちょっとくれ」というのはできません。

そのため、常識やルールなど他者の認識や社会的に統一化したものに光も闇もありません。

例えば上記のご飯ガシャンのシーンで、ケラケラと楽しんだ後に起きることがあります。

「こらっ、何してんの!」です。誰か周囲の人に叱られます。

「ご飯を食べる時はお箸をこう持って、こうやって食べるんだよ」

糞くらえと、やってらんねぇよと。でも一人では生きられないので、やらないと死んじゃう。じゃあやるよ、けっ。

こんな荒れた子は私の幼少期ですが、色々と干渉されることで自分で作る光の時間が終わり、社会的な良い子としての生育が始まります。

その場合、他者によって自分を作られることになるので光はなくなります。何も悪いことはありません、この社会で生きるために必ず必要な時間です。

社会的に喜びがある、常識にて自分を知る、ルールとして楽しいなどの外部の影響にて自分を見出す場合には光はありません。
※ですが闇もありません。

何が言いたいか。

光には自分の意志が必ず必要で、意志がある=真意があり、嘘偽りのない己を見る認識が光ということです。

光とは、嘘偽りなく自ら喜びを作り、自らを知る意志のこと

善悪は社会的には作られない(記憶ルールとしてのみ存在する)ように、光と闇は自分の中にあり、他者に自分を作られたとしてもそこに自分の意志があれば自ら光を作れるということです。

ミュウツーの逆襲ラストシーンということです。


ええ、でしょうね。

 

闇とは

次は闇を見ていきましょう。

闇とは

闇とは自分を見失うこと。

これまで光の説明をしているのでわかりやすくなると思います。

闇も光も一体なので、共に自分の意志、自らの行動、認識という“自ら”がポイントです。

他者の影響があろうが、干渉があろうが、常識やルールにて自分を消されようが、そこに自分の意志がなければ闇も光も現れません。

そのため、良くも悪くも他者の影響があり、自分を出せなくなるとしてもそこで、「もうわかったよ、諦めるよ」「はいはい、言うこと聞けばいいんでしょ」「もう負けたよ、しつこいから折れる」と自らの意志にて自分を見失う決意をして闇を作ります。

おそらく誰しもが子供の時に一回闇である終焉を迎えるのが、この社会性の掟かもしれません。

以上から、どれだけ周囲の影響があろうが、最終的にそれを認めるのは自分自身しかおらず、自ら闇を作り、自ら光を作ります。

 

闇とは自分の喪失であり崩壊であり見失い

闇は暗く、閉じ込められるような意味があります。

光と対局なので、喜びではなく苦しみが、楽しみではなくつまらなさが、幸せではなく不幸せがあり、明かりではなく暗がりがあります。

常識やルールなどの他者の認識は関係なく、一人ぼっちでいることを光とするか闇とするかは己に聞いてみないとわかりません。

幼少期にはこの地球、この日本、この環境で生きるために周囲から他者の認識をインプットされるので、自然と自分を作ってもらいます。

それは、作られるのではなく生きるために作ってもらうもので、それを認めていれば光を作ることができますし、嫌々であれば闇を作ることができます。

闇を作るのは自分の喪失を認め、「これが私だ」という自我の崩壊となる他者の攻撃に耐えきれず折れ、現実を認めないことに起因します。

幼少期の身体能力や人それぞれの知識量では、基盤である社会性への順応や、他者との共存必須というルールの順応が難しいので、見失う環境が勢ぞろいです。

特に日本は生きていることに苦行的ノリがあるので、数えきれないほどの常識に従わなければ闇を作ることになります。

作るか見失うかのためには、「他者との共存、いらんいらん」と心から思えれば闇が作られないようになるので、光と闇を知る際には“善と悪”の二元論の理解も大切になります。

善と悪には善と悪の意味があり、光と闇同様に自分の中に内包される認識の基です。

善悪によって光と闇の始まりと終わりにも影響を与える二元論の繋がりがあります。

※光と闇以外にも善悪となるカルマの話もあるので、因果応報とは何なのか?スピリチュアルな理解に現実的な真理が潜む をどうぞ。

因果応報とは何なのか?スピリチュアルな理解に現実的な真理が潜む良き事は良きように、悪しき事は悪しきように。 そんな自然の摂理に、因果応報というものがあります。 因果応報とは原因と結果によ...

 

闇とは自分を知らない恐怖

闇は光の喜びと対局の苦しみを作りますが、「進んで苦しみたい」という変態的な過去の私は除いて、あまりそういう人はいないと思います。

ではなぜ意志を持って闇を作るのか?

恐怖によって作らされるためです。

ちょっと想像してみてください。

闇は真っ暗です。真っ暗だと何も見えません。目の前に手をかざしているつもりなのに、その手も見えません。

すると、手をかざした行為を信じられなくなり、手があるのかどうかも怪しくなります。

すると、自分はここにいるのか?この世に存在しているのか?人生が終わったのか?終わったと思っている自分はまやかし?本当は元々存在しないのかも?…あーー!!

パニック。怖いですね。

実際に真っ暗な中に身を置くとわかるのですが、本当に何もかもがわからなくなり、一つだけ残ります。

それが恐怖です。

恐怖とは自分にとって最も見たくないもの、感じたくない、考えたくない、距離を置きたいものです。

恐怖は存在を否定されることであり、自分がいないと知ることであり、価値を見出せないことであり、太刀打ちできないことです。

その最たるものが、“何もわからず答えを見出せない”という自覚です。

恐怖を味わわないために何でもします。

知りたいことだけ知る、価値を見出す、否定されない、知らないと気付かない、恐怖から逃げる、見たくないものを見ないことを求める動機となり、闇を作る意志を持ちます。

闇とは恐怖=自分を知らない真っ暗闇に居る事実の自覚

:恐怖を味わわないことが見失った自分にとっての“喜び”となり、思い込みや偽り、誤魔化しや他者の反応のために自らの意志にて闇を作る

 

光と闇の共通認識

これまでの光と闇の個別理解を含めて、二元論の共通認識となる最終理解をご覧ください。

光と闇とは

光と闇は共に自らが作り出すものだとわかってもらえれば幸いです。

なぜならば、自らの意志があることを知ることが光と闇を知るだけでなく、これから作る際の大切な認識になるためです。

生きている以上、自分を持っても見失っても、意志によってポジティブな喜びもネガティブな喜びも作っていることがわかり、そこには喜びや満足を与え、嫌なことを与えない“核”が見えます。

それは、光と闇の個々の意味ではなく、それら二つを内包した一元論となる一つが根底にあることを教えます。

それが、“自分”という存在です。

光と闇とは : 始まりと終わりの認識を持つ自分

※光も闇も一体として自分の中にある

光と闇は誰しもが持つものであり、始まりと終わりの役割を担う“真理”であり、この世の仕組みであり、宇宙の法則です。

始まりと終わりを作ることを神と言うならば、それはこの世のあらゆる場所に神がおり、自分自身も神ということになります。

それを日本では八百万の神々と言います。

真理であり仕組みであることから、宇宙に光と闇があることは自分の中にも宇宙があることを意味します。

 

一元論からの光と闇の意味

光と闇はスケールが大きくも小さくもなく、サイズ感やボリューム感の有無はない普遍の真理となり、大元となる一元論にある光と闇の意味を理解することでここでの内容は完結します。

そんな一元論目線からの意味とは、光が“受け入れ”、闇が“拒否”です。

そして、一元論である宇宙、自分、仕組み、真理それ自体の意味は、“受け入れるも受け入れないもない”です。

一元論から見た光と闇とは : 光が受け入れ、闇が拒否

光と闇を内包した一元論とは :受け入れるも受け入れないもないそのまま

 

光とは受け入れ

受け入れるとは、認めて迎え入れることを意味する言葉です。

拒否しない様を作り、起きることを認め、目の前のことや人を認め、自分を認め、現実や事実を認めることであり、さらにそこに迎え入れる状態が加わります。

それは心地が良いことでして、嬉しく喜びのあることで、もっと欲しいと思える、最高と感じる、自分に起きることとして受け入れたいものです。

認めることができても、迎え入れられるかどうかは自分にとっての喜びがなければできません。

なぜならば、迎え入れるとはWelcomeですので、我慢や忍耐、嘘や誤魔化しにて、「けっ、仕方がないけど認めてやるよ」というものではなく、喜びや満足があることで迎え入れることです。

そして、起きる出来事や他者、または自分自身に拒否を作らない在り方となり、出来事をそのままに、他者をそのままに尊重して敬う気持ちがあることで受け入れられ、それを愛と言います。

以上から、受け入れるとは喜びがあり、敬いの愛がある行為です。

光とは受け入れ = 喜びや愛のある受け入れたくなるもの

※受け入れが容易になるものであり、拒否したくないもの

受け入れたくなるものが光であると同時に、「受け入れたい、受け入れてあげたい」と思う場合は、押し付けや干渉せずにそのままを尊重する敬いの愛が一元論である自分の中にある光ということを意味します。

受け入れることが、「はい受け入れます」という簡単なものではなく、受け入れられるかどうかの行為であることから、必ず意志が伴う自分の中に存在する光です。

 

闇とは拒否

闇の意味となる拒否は、認めずはねつけることです。

闇とは : 拒否

※認めずにはねつけることで、事実や現実を認めない偽りや嘘、誤魔化しを作る
※認めないことで恐怖を持ち、思い込みや正当化にて事実を曲げ、嫌だという認識を作る

拒否である世界、それは晴れても拒否、雨でも拒否、何もかもを自ら闇にする状態です。

拒否することで嫌なことを作り、さらに認めずはねつけて嫌なことにします。

闇の連鎖を作るように心地悪さを広げ、事実を曲げて自分も他者も認めず、何もかもをはねのけて駄々をこねることに。

現実として起きることを認めないので嘘をつくことになり、敬いとは程遠い押し付けや過干渉、私物化にてルール設定をして縛り、他者も自分も強制ギブスを付けるように制限し、さらにそれを拒否して認めない。

地獄です。

そんな闇の世界にいるのは、悪魔であり鬼。

 

善悪も陰陽も受け入れか拒否

光と闇とは二元論のわかりやすい題目ですが、善と悪、陰と陽、天国と地獄、神と鬼、ネガティブとポジティブのような仕組みや法則となる二元論は同様に受け入れか拒否にて分けられます。

光と闇のように頻繁に使用される二元論に、善悪の良し悪しがあり、陰と陽のネガティブポジティブの認識があります。

人それぞれに良いも悪いもあるように思えますが、敬いの愛がある受け入れか、拒否にて認めない無責任があるかにて認識が共通して分けられます。
※無責任とは認めずに責任を持たないことを意味します。

 

光と闇を知る一元論とは

最後に、光と闇を持つ宇宙、または自分という一元論を知ることで、光と闇の意味がわかりやすくなるのでご覧ください。

光と闇はこの世の真理と言えます。

真理とは普遍の原理でもあり仕組みでもあり、環境に適応された守るも守らないもない自然ルールのようなもので、それは誰しもに適応されます。

その真理を理解して超越することを仏教では“悟り”と言い、それは光と闇を共に理解することを意味します。

そんな真理そのものとなる自分が分離することで光と闇が生まれ、光と闇を理解することで真理へ向かいます。

 

作るのが光と闇、ありのままは光も闇もない

光と闇が二元論であり、その大元には一元論の宇宙、または真理、または神と言う人もいますが存在します。

さらに、自分、1、カップ、水…とほぼ無限に一元論があります。

宇宙も海も自分もカップも何もかもは同じ仕組みにて成り立ち、一つの中に宇宙があり、カップをミクロで見ていくと波動になりそれはマクロのエネルギーとなり宇宙となる。

この世は真理とロマンに溢れ、光と闇に溢れます。

そんな一元論の私達一人一人の宇宙に受け入れと拒否が内包され、光と闇や善と悪を持ち、それぞれに認識を作る役割を担います。

言い方を変えると、自分という宇宙を仕組み作る二元論がたくさん内包され、光と闇の始まりと終わりのように個別の役割を担います。

そんな光と闇の役割を見ると、あることがわかります。

  • 受け入れにてありのままである自然を作ります。
  • 拒否にてありのままではない不自然を作ります。

共に作っているのは光と闇によるものです。しかし、光と闇を使用するかしないかは一元論である自分次第です。

そのため、光を使用したければ自ら喜びを作ったり、受け入れられることをそのまま受け入れてありのままの自然を作ります。

闇を使用したければ苦しみを作ったり、恐怖を味わわない喜びを作ったり、物事に拒否してありのままではない不自然を作ります。

光と闇を使用すると、全て“作っている”ことがわかります。

ここから、光と闇はアイテム的なもので、使用するかしないかは全て自分次第で、使用しない状態には本当の意味での、“ありのままの自然”が判明します。

 

光と闇の先には受け入れるも受け入れないも何もなく全てがある

光と闇がなければ、受け入れるも受け入れないもないことを知ります。
拒否するも拒否しないもないことを知ります。

それが、“ありのままの自然”です。

自然とは無作為で人為のない、何もしないそのままです。太陽が出れば雑草が育ち、強すぎれば枯れ、雨が降れば蛙が増えて田んぼがうるさいという自然。

起きるのだから受け入れも拒否もしません。それは、受け入れなくても既に受け入れているとも言え、無意識な光のようにも思えますが、光と闇を知ることでどちらに対して愛があるか恐怖があるかの認識を超えます。

なぜならば、裏表の関係である光と闇は一体で、愛と恐怖は同じだからです。

良き事を作る光、自らの意志にて作っているので自然ではありません。心地良いので作りたくなり、天国のようなものです。しかし、長いことそこにいれば確実に飽きます。

反対に悪いことを作る闇、これも自然ではありません。心地悪いので作りたくない、地獄のようです。しかし、長いこといれば良いことを作りたいと思います。

神と鬼は居る世界が違いますが、どちらも同じように崇高で崇められる存在です。

死ぬなら死ぬ、生きるなら生きる、自然です。

ただそのままに。何とも気楽で自然なのが、光も闇も超えた所にある自分であり宇宙です。

その認識が良いか悪いか、それは体感することで初めて理解することができます。

  • 光に偏ることで神のようになる・・・喜びを作り、受け入れて物事を光にする愛の自分
  • 闇に偏ることで鬼のようになる・・・苦しみを作り、拒否して物事を闇にする恐怖の自分

※光も闇も、愛も恐怖も、どちらも大切で、どちらも自分です。

 

光と闇 まとめ

田舎だった風景があり、山が切り崩された時があり、住み良い街を作ろうと動いた人がおり、お金儲けのために自然を壊した人がおり、大自然を懐かしむ人がおり、大都会を喜ぶ人がいます。

そこには光と闇があります。同時にどちらもありません。

全ては認識によって決まり、物事を評価して判断するのは何のためか。

それは、喜びたい、恐怖を味わいたくないという自分のためです。

光も闇もどちらも大切で、どちらも自分。現状の人間性や在り方は全て自らの意志にて作られ、これからも作っていきます。

光を作っても闇を作っても、始めても終わっても自由です。

光と闇を知ることは自分を知ることです。それは、意志を知ることであり認識を明確にすることです。

それを理解した際には光と闇を俯瞰して見る認識が加わり、「今日は天使気分で良いこと作ろうかな~」「明日は悪魔気分で悪いこと作ろうかな~」となります。

どっちでも何でもいいんです。

そこにこの社会があり他者との共存環境があることで、善悪や陰陽を使用してより詳細な認識を作っていきます。

善悪にはカルマの認識があるために、明確に意志を知ることができます。
陰陽には自分の行動の意味を認識して紐解く理解があるために、詳細に意志を知ることができます。

自分を知り、見失いを知ることがこの世の光と闇を知り、真理を紐解く自然となります。

それが、今であり、この世であり、宇宙であり、真理であり、その大元に“自分”がいて、光と闇が内包されます。

そんな答えは木を見るとある。なんて、意外に身近にあるかもしれません。

光と闇を知ることで、さまざまな基本原理を理解することができますので、何か役立つ内容であることを願います。

それでは、光と闇についての話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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