『DNAシフトセラピスト養成講座』
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著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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※本気で人生を変える方専用。
良き事は良きように、悪しき事は悪しきように。
そんな自然の摂理に、因果応報というものがあります。
因果応報とは原因と結果による報いのことでして、因果応報とカルマは別物ですが、カルマがあることで因果応報が成り立つ関係性があります。
因果応報とはスピリチュアルに限ったものではありませんが、スピリチュアルを含めることで認識の幅が広がり、魂の概念を含めた善悪と、カルマの基となる心の真意からの仕組みがわかり、真理を垣間見せます。
「因果応報とは何なのか?」
「解消するためには何が必要なのか?」
これらを知ることは喜びや幸せの創作に繋がるため、日常的に活用できる現実的な解釈となることを願い、因果応報の詳細をお伝えします。
ここでの内容は、仏教の理解を活用し、そこにスピリチュアルな概念も含め、因果応報を広い視野で認識する現実的な考え方としてご覧ください。
勉強会になりますので読むのに15分ほどかかります。コーヒーの準備と共に真面目な内容に入りましょう。
Contents
因果応報のスピリチュアルな意味
因果応報とは当たり前を当たり前にする仕組み
因果応報とは、『原因があって結果があること』を意味する仏教の言葉です。
因(原因)と果(結果)の”因果” = 原因があって結果がある
「普通のこと?」という感じですが、因果応報は当たり前のことを当たり前にするための仕組みです。
原因と結果の意味から、因果応報は過去も未来も含めて“今”を際立たせ、今起きていること全てには意味があることを物語ります。
因果応報は悪いことも良いことも返ってくる
仏教の因果応報には、三つの言葉があります。
- 善因善果(ぜんいんぜんか)・・・善いことをすれば善い結果が返ってくる
- 悪因悪果(あくいんあっか)・・・悪いことをすれば悪い結果が返ってくる
- 自因自果(じいんじか)・・・自分が作った原因は自分に対して結果が返ってくる
因果応報とは、自分の善悪の行いに応じて、善悪の結果が自分に返ってくる法則(仕組み)
※原因(行動動機)があって結果(行動末路)があるとは、他者に対する原因でも結果でも全ては自分に返ってくること
因果応報とは自分の生み出しに対する責任を持つこと
因果応報で大切なことは、自因自果(じいんじか)である発信の原因が結果として返ってくる、『自分の生み出しスタート、自分で片付けるエンド』です。
言い方を変えると”責任”。
他者に責任を負わすのではなく、責任を持つ意味で、自分にしか責任は負えないことを教える自然の法則でもあり、自分の行為に対する責任を物語ります。
因果応報とは : 自分の行為に対する責任
※良いも悪いも自分で始めた行為は自分で決着をつけること
※自業自得とも言う
※悪口の因果応報は、【悪口を言うと鬼が来る】因果応報がもたらす末路は悪の沼 をどうぞ。
因果応報のスピリチュアルな認識
因果応報とは現実的な法則であり、誰しもに共通の真理でもあります。
なぜ真理なのかと言いますと、輪廻転生も含めたスピリチュアルな認識に理由があります。
それは、因果応報とは魂の記憶を基にした原因と結果であり、悟りに繋がるからです。
私達は一人一人に自我があり、「私は私」として生きていますが、因果応報があることは過去世はもちろん、来世を含めた私が存在します。
「どこに?」
記憶にです。
それは、脳の海馬や大脳皮質に入れ込む記憶だけでなく、魂としての記憶として、潜在意識も超意識というワンネス意識も含まれ、過去世も来世も含めた統括的な自分の”魂の記憶”があります。
どれだけ過去の話でも自分で生み出したものはしつこいように付きまとい、「これが因果応報だぁー」と呪いのように、そして歓喜のエールのように、善も悪も報いとして返ってきて、責任を持つまでは因果応報発動継続。
脳の思考概念ではなく魂を基にするために、記憶として残る以上は嘘や偽りや誤魔化しができず、「自分で蒔いた種は善でも悪でも責任持ちましょうね」と責任追及が半端ない法則です。
しかし、因果応報とは物事が自然に流れることを当たりまえとする自然の摂理なので、当たり前を当たり前にできない私達がいるために、因果を応報してくれることで自分の行いを正し、見つめ直す機会を与えてくれます。
そのため、見方を己ではなく真理である全体の普遍とすると、このように捉えられます。
因果応報とは当たり前を当たり前にするための、魂としての自分の見直し修正の仕組み。
見返りや復讐的なものではなく、ありのままでないものをありのままにする法則です。
※因果応報による報いは、【因果応報なんてない?】報いを受ける人と受けない人の決定的な違い をどうぞ。
因果応報とカルマ
因果応報はカルマの法則とも言いますが、”カルマ”とは別物です。
カルマはインドの言葉で、私達日本人は「業(ごう)」と言います。
カルマとは行為、行いのことです。
原因があることで行動が作られ、行動があることで結果が作られます。
そのため、因果応報の原因と結果を結ぶ行為がカルマでして、原因であるスタートと結果であるエンドを結びます。
原因 → 行為(カルマ) → 結果 = 因果応報
※カルマがあることで善行か悪行かの結果を作り、因果応報発動
結果が起きるには必ず行為が必要です。そして、行為があるからには必ず原因があります。
そして、原因である行為の始まり、動機やきっかけがあり、そこには必ず意志があり、因果の始まりを告げます。
悪いことをする際には悪いことをしようと決めた自分がいて、それが原因を作り、ドンッとスタート。因果レース始まり。
そして、実際に行為に及びカルマを積み、魂の記憶に残ります。
そして、いつの日かカルマの責任を取るために結果が起きる。1レースのエンドではありますが、ゴールではない。
責任を持てなければ(行為のゴールを果たさないと)いくらでも返ってくるというイメージです。
言い換えると、カチカチ山のたぬきさんはジジババを困らせ、ババを切って煮てジジに食べさせました。
それを見兼ねたうさぎさんはタヌキを困らせ、焼いてからしを塗りだくって湖に沈めてやりました。
それをしたうさぎさんは、今世か来世で別の誰かに困らせられ、やられるでしょう。
悲劇は悲劇を生み続けます。
しかし、ここで疑問があります。大前提として、「自分の行為に対して責任があるってどういう意味?」
「自分がしたいから原因があって結果が起きる、そこに行為のカルマもある、何が不自然で何に対しての責任なの?」
詳細を見ていきましょう。
※カルマの詳細は、【真理の言語化】カルマの法則とは始まりと終わりを作るスピリチュアル をご参照ください。
因果応報のスピリチュアルな仕組み
悪行の因果応報が作られる原因
原因があって行為があって結果がある。
この一連の流れには、必ず自分の意志や思考による行動動機があり、自分がいます。
それは、あらゆる日常的なことと同じで、生きようとする意志があるために呼吸して、空気を吸って吐いて、内臓器官が活動しての行動があり、今も生きている結果があります。
この初め、過程、終了を作るのは、自分、自分、自分であり、全ての過程にあるのが“受け入れ”です。
- 自分を受け入れることで意志を持ってスタート
- 意志による目的や動機を受け入れることで行動し、そんな自分を受け入れることで行動を継続する
- 自分を受け入れることで結果も受け入れるエンド
全て受け入れがあって自分の原因にも結果にも拒否せずに現実を認め、善行して善行が返ってくる、または物事をそのままに受け入れるごく自然な様を作ります。
それが責任を持つ様です。
自然に流すことを別名“ダルマ”とも言います。ダルマは法のことであり、自然の摂理・法則そのものです。
言い方を変えると、そのまま、ありのまま。
私達はありのままに物事をなかなか流しません。その原因が拒否であり、悪行のカルマを作り、責任を持たずに自然ではない記憶を作ります。
悪行の因果応報の原因は、拒否にてカルマが積まれる
呼吸する意志を持ち、いざ行為に及ぶ時に拒否していれば、口を手で押さえてムムムムムと息を吸わない。はい、さようならです。
因果応報とはただ自然な状態を作る日常的なもので、拒否があれば生きていることもなく、悪行となる拒否をすることで生きようとする体があるのに朽ち果てる不自然を作ります。
そのため、拒否しながら拒否していないと思いこむ工作をたくさん張り巡らせるのが私達人間の一つの行為、嘘や誤魔化しがあるとカルマは自覚なく積まれていきます。
さらに、因果応報で起きる結果に拒否すればカルマは解消されず、いつまでも返ってきて積んで、さらに誤魔化してカルマを増やしてとサイクルに入ることもしばしば。
拒否するかしないか、これがありのままの自然を作るか否かの重要行為です。
※小馬鹿にする因果応報については、【爆弾の巨大化】人を小馬鹿にする人の因果応報「小さなカルマほど恐ろしい」をご覧ください。
善悪の区分け詳細
因果応報を知る上での大事なポイントになるのが、「何が善で何が悪?」という理解です。
善行も悪行も共に返ってくるので、善悪の理解はカルマを解消し、因果応報を知るためにとても重要です。
仏教では善行が幸せに、悪行が不幸になることとしていますが、今生きている私達は一人一人に思考や認識があるので善悪は人それぞれにあり、幸不幸に繋がるかどうかはわかりにくいかもしれません。
しかし、スピリチュアルな概念を含めると魂として誰しもに共通の善悪がわかります。
善は敬い(受け入れ)、悪は拒否(認めない)。
敬いと拒否は言い方を変えると、愛とエゴです。
- 善行とは、自分で受け入れられる行い
- 悪行とは、自分で受け入れられない行い
受け入れるとは認めて迎え入れることで、認めるだけではなく迎え入れる状態ですので、喜んで認めることです。
受け入れには敬いがあり、他者に対するものであれば他者への敬いがなければ受け入れることはできません。
敬いとは許しや尊重にてありのままを受け入れる気持ちや様、愛のことでもあります。
その反対に、拒否とは物事をありのままにしない不安や恐怖であり、現実を認めず、敬いがないために拒絶して否定します。
このように愛と恐怖にて善悪を捉えると、因果応報の理解がわかりやすくなります。
因果応報の悪行とは拒否し続けている記憶
本当に日常的なさまざまな出来事に因果応報が関係しています。
「あの人苦手なんだよな」と何かしら拒否する場合、単純に性格が気に食わない、人間性がうざいなどの自覚できる理由以外にも、魂の記憶に起因する因果応報だったりします。
ちょっとした鼻の触り方が、「過去世で自分の人生を路頭に迷わせた奴の癖と同じやん!」みたいなことなど、さまざまにあります。
自分の行為や認識に何かしら拒否があれば、それは悪行としてカルマ積み表し、他者の行為によって自分に結果がもたらされる時(相手に何かされた時)に拒否があれば、因果応報にて悪い結果が返ってきているとも考えられます。
一概ではありませんが、自覚できない拒否理由であればあるほどカルマに起因した因果応報の可能性があり、あらゆる人との関わりや出来事に潜みます。
因果応報の善行とは受け入れている記憶
善行が返ってくるのは、受け入れられることが返ってくる自然な様です。
そこには何の抵抗もなく、自分らしい状態でいられる結果が起きます。
そのため、自分の行いを受け入れていれば、悪行のカルマが積まれることはなく、因果応報にて自分らしくいられる状態が返ってきます。
例えば、上述したカチカチ山のうさぎさんは、たぬきを喜んで沈めたとは考えにくく、ジジババの復讐と怒りにて自分を見失い、自分や物事を、そしてたぬきの存在を拒否する悪行としてカルマを積んだので、いつか返ってくるかもよという話です。
悪行もそれが起きるまでの背景を含めることで人によっては善行だと思う理由になりますが、実際に行為しているのはその瞬間の“今”のみが対象になるので、過去になにがあったかに酌量の余地云々はありません。
愛か恐怖かにて区分けすることで、自分や他者を受け入れているのか拒否しているのかは明確にわかり、何が善として返って、何が悪として返ってくるのかをうさぎさんが教える日本因果応報昔ばなし。
※善悪については、光と闇を知ると見えるもの│それは光も闇もない状態。をご参照ください。
因果応報は引き寄せの法則のこと
良きことも悪いことも、自らの生み出しにて戻ってくる。
これは波動の引き寄せと同じ仕組みだったりします。
高波動を発していれば、波動に同調する出来事や人が引き寄せられます。
低波動であれば低波動な出来事や人が引き寄せられます。
- 因果応報は自らが生み出し、自らが責任を持つための仕組み
- 引き寄せの法則は自らが生み出し、自らに喜びと苦しみがもたらされる仕組み
※どちらも生み出して引き取ること
因果応報は引き取らなければ一生付いて回る責任の認識があり、悟りに繋がる理解が含まれ、拒否した記憶を受け入れることでカルマを解消し、より自分らしく成長できる仕組みでもあります。
引き寄せの法則は波動の仕組みとしての因果応報であることから、出来事や経験を作るアイテム的な考え方があります。
因果応報にてカルマを解消する流れ
物事が起きるためには必ず行為であるカルマがあります。
因果応報はカルマによって生まれ、カルマによって解消されていきます。
カルマを解消することで自因自果(自分で作った原因は自分に結果が起きる)の理解=自分の理解が育まれ、因果応報を超越することでの悟りへと繋がります。
一連の流れについては、こちらをご覧ください。
拒否にて積まれたカルマの記憶を解消
↓
自因自果にて自分を理解
↓
善悪や因果応報を理解
↓
善悪を受け入れることで因果応報を超越
因果応報とカルマはセットメニュー的な感じで、カルマがあることで因と果が、因があることでカルマが生まれ、カルマが積まれることで因果応報の仕組みが発動します。
そして、カルマ解消を一つずつしていき、その後に善悪の理解と受け入れにて因果応報タイム終了です。
因果応報になるカルマ一覧
カルマの悪行は拒否の記憶であるために、さまざまなことが因果応報の結果となります。
一覧で見ておきましょう。
- トラウマや心の傷
- 受け入れられない相手、出来事
- 許せない相手、出来事
- 恐怖で見たくない相手、出来事
- 自分をありのままにさせない相手、出来事
カルマとして積まれているものは、全て拒否し続けている相手や出来事の記憶です。
それは、相手を拒否しているのではなく、自分自身の過去の行いや人間性や在り方への拒否、認めない、受け入れられない記憶を意味します。
カルマには、家系のカルマや、グループソウルのカルマがあり、代々引き継がれている受け入れられない記憶による結果の応報もあります。
例えば、家系にアル中が続いていたり、男性しか生まれない、女性しか生まれない、同じ病気になるなど、連続で起きていることには受け入れられていないカルマがあります。
因果応報は成長のチャンスでもあるために、自分が現実を認めて受け入れられるかにて家系やグループソウルのカルマ解消が決まり、その後の子孫に困った引継ぎをせずに済みます。
悪行のカルマとなる因果応報の特徴は、人や出来事による結果に対して、「受け入れられない」「許せない」「怖い」「自分らしくない」と言った拒絶が顕著に表れます。
自分のカルマを知るために
あらゆる出来事には、自分の意志や思考による始まりがあるため、自らの意志にてカルマを積んでいきます。
それを解消するべく因果応報の仕組みがあり、善も悪も返ってきます。
善行が返ってきてもそれを拒否する理由などないので、喜びや嬉しいことを受け入れてカルマ解消ですので、それは徳であり、引き寄せでもあります。
しかし、悪行は拒否によって作られた記憶であるために、受け入れがなかなか難しくなります。
因果応報にてカルマを解消するためには、自分のカルマを知る必要があります。
そのためには、悪行によるカルマの特徴となる“拒否があるかどうか”を観察することで、自分のカルマかどうかを確認できます。
自分のカルマを知る方法
:拒否がある相手や出来事かどうか、自分を観察する
拒否には、認められない、拒絶、許せない、受け入れられない、怖いといった感情があります。
※カルマを知る詳細は、自分のカルマを知る方法|知るだけか解消するかが分かれる意志がある をご覧ください。
因果応報の仕組みと意味
これまでお伝えした因果応報の仕組みと意味について、わかりにくい内容も多いと思うのでまとめます。
- 因果応報は受け入れた記憶が返ってくる善行
- 因果応報は拒否の記憶が返ってくる悪行
- 自分の生み出しに対する責任にてカルマ解消するための仕組み
- 物事を拒否せず、ありのままの自然な状態にするための仕組み
- 自分のしたことに責任を持てるための成長機会の意味がある
- 物事を受け入れる許容を広げるための経験となる意味がある
- 自分を知り、自分を理解することでの真理の会得となる
- 善悪を知り、この世の仕組みを知る悟りへの道
善悪ともに返ってくる意味
カルマを積む際の拒否は、自らの原因への拒否、行動への拒否、結果への拒否と多岐にわたる拒否があり、それに応じた結果が返ってくるのが因果応報の悪行に関するものです。
そして、善行も同じように返ってきます。
何が善で何が悪とは人の認識によって変わりますが、因果応報は人それぞれの仕組みではなく、真理であり自然の摂理なので全員に共通の理解です。
それが、善は敬い(受け入れ)、悪は拒否というものです。
人によっては、「いや、それメッチャ悪っ」と思うものを善だと思い込んでいたりしますが、受け入れと拒否は愛と恐怖であるために自分の真意や意志に基づき、嘘をつけば本人は嘘だと知っているように、思考による偽りや思い込みは通用しない普遍の理解があります。
例えば、人をボコボコにして、「かぁ、スッキリ最高な気分だぜ、うへへ」とやべぇ奴がいれば、その人にとって人を痛い思いにさせたり、苦しめることが受け入れられる善行かもしれません。
しかし、受け入れとは敬いであるために、その行為が善行かどうかは傷つく相手を愛しているか、拳が痛い自分を愛しているかで明確にわかります。
さらに、それが善行だとしても善行も返ってくるので、因果応報を受け入れられるかにて、善行か悪行かわかります。
善でも悪でも、因果応報の原因と結果は誰しもに共通で起きる自己責任です。
因果応報の仕組みは波動
善行も悪行も自分によって生み出し、自分に返ってきます。
返ってくる際、「自分のしたことがそのまま返ってくる」という決まったルールはなく、返ってくるのは自分の発した意志や波動、またはそれによって作られた意志や波動です。
悪行か善行かの行為は、まさに行為をしている“今”のみに存在します。そのため、その際のカルマとなる記憶はその瞬間に生み出す拒否か、受け入れかの記憶です。
例えば、自分が相手に悪いことをする際、自分の原因(意志)によって行為に及び、相手を巻き込んで相手の原因と行為を作らせ、自分と相手の両方に結果がもたらされます。
「自分の行為によってどんな、どれほどの拒否、または受け入れを生み出しているか?」が因果応報の返ってくるポイントになります。
そのため、他者に対しての行為の場合には自分だけの拒否・受け入れ記憶だけでなく、相手の意志と行為を作らせたことでの相手の拒否・受け入れ記憶があります。
わかりにくいかもしれませんが、パシャッと行為の光景を写真で撮り、その中で自分が原因で生まれた記憶は自分で責任を持つためにいつか結果が返ってくるイメージです。
その際の記憶となるのが、顔の表情とか行為の内容ではなく、波動です。
波動は状態表現のエネルギーであり、嘘偽りなく発されるため、拒否した際の波動があり、拒否させた際の波動があり、相手の拒否する波動があり、拒否させられた波動があります。
それらの波動が一つのカルマとして記憶に残り、悪行か善行かに分かれて返ってくる仕組みです。
※人を苦しめた人の因果応報は、『罪と恥と地獄』人を傷つけた人、苦しめた人の因果応報&末路 をご覧ください。
まとめ:わかりやすく因果応報とは
最後に短くですが、因果応報の解消に必要なことをお伝えして終了します。
と言っても、必要なことは一つだけです。
責任を取るために、受け入れて自然な記憶にする。
因果応報は過去の引っ掛かりによる成長促しです。
怨念的に、「カルマ解消しろー」ではなく、過去の自然じゃない拒否の記憶を自然にするための仕組みであり、当たり前を当たり前にする仕組みです。
善行は受け入れてそのままに、悪行も受け入れられればカルマは解消されます。
過去の記憶を一つ一つ受け入れるためには、基盤である自分を受け入れられる人間に成長させるのが何よりも大切です。
受け入れる敬いを持つことで許容が高まり、カルマは自然と解消されていく
受け入れにて記憶に滞りがなくなり、川が流れるように物事が流れていきます。
自分が成長して受け入れ許容が広がることは敬いの愛が強くなることを表し、自分から他者への敬いへと広がっていき、その時には積まれたカルマは因果応報なくして自ら解消することができます。
それは自ら記憶へ向かい、拒否の記憶を受け入れに変える、そんなこともできます。
成長して自らを認め、自らや他者を受け入れることでカルマは自然と解消されていき、因果応報の理解と共に悟りへ繋がっていきます。
あらゆることは自らの意志にて成り立ち誕生する自然の摂理であり、生きている以上は、「生きたいから空気吸ってんでしょ」と責任を魂(意識)として認識する基本原理。
記憶をただ自然に戻すための、ありのままが因果応報であり、スピリチュアルな魂や宇宙全体の認識を含めた理解です。
わかりにくい内容だったかもしれませんが、ご参考になる一つの考え方となれば幸いです。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
『心理とスピリチュアルの学び場』
誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。