『DNAシフトセラピスト養成講座』
・セラピストになりたい方・自己理解を本格的に始めたい方
・専門的に人を癒し、サポートしたい方
著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
PR:株式会社Central&Mission
※本気で人生を変える方専用。
「私が責任を取るから頑張って」「やってくれたな、責任を負ってもらうからな」
ムリムリ、そんなのポイポーイってね。
無責任な他責者は責任感のない子供。である一方、責任って本当に取れるものか考えると、そんな人間は存在しないかもしれません。
責任の取り方がわからないのは当たり前。そんな考え方がここにあります。
責任とは一体何なのか。
切腹か、損害賠償か?
ここでは、責任の哲学に迫ります。
- 責任の取り方がわからないのは当たり前?
- 責任って一体何?
- 責任を哲学すると?
これらを紐解き、「責任とは哲学でありスピリチュアルでもあるんだ」と知っていただく内容となっております。
責任の解明には、「自分、自由、人生って何?」の理解が絡み合いますので、わかりにくいのは当然かもしれません。
正解も不正解もありませんので、一つの思想がご自身の考え方を広げるご参考になれば幸いです。
少し固い内容ですが、緩く表現した内容となっておりますので、お楽しみください。
Contents
責任の取り方がわからない
責任の取り方は誰しもわからない
初めに、私の過去の記憶をご覧ください。
子供時代の一コマ。
学校の体育の授業でサッカーをしていた時、キーパーだった私は素手でボールをキャッチしたのですが、ある一人の男子はやめずにボールを蹴り続けます。
蹴っていたのは私の手の小指。
何度も蹴られた私はウギャーー!と泣き、病院へ直行。骨折、骨ボロボロでした。
この責任を取ったのは…。
男の子ではなく、私でした。
謝られた私は思いました、「責任取らせるって言っても、同じこと相手にお返ししたくないし、謝られても怒ってないし、起きた現実は変わらないから許すも何もないなぁ」
責任とは行為した本人に所在しますので、責任を取れるのは骨を砕いた張本人以外にはいません。
しかし、実際に責任を取れたのは唯一私。
パラドックスです。
実際には、他者は責任を取っても本人が取れないので、結局それは責任を取ったのか何なのかわからない。ただ事の荒立てを収めたり、納得しただけかもしれません。
責任の取り方とは、ややこしい理解の交錯でわかりにくいものです。
責任を取れるのは本人以外にいないが、実際に責任は取れない
着目したい大前提として、責任所在を追求される人は、行為を作った張本人が唯一の対象人です。
しかし、実際に事が起きた場合、「ちょっとミスです、なかったことにして」なんていかず、本人は責任を取ろうにも現実を魔法でチョチョイと変えなければ取れません。
ここで、責任は取れないけれども取れたようにする外部工作があります。
例えば、仕事で大きなミスをして、会社に損害を与えます。
説明、遂行、賠償責任によって、まず責任所在の曖昧性をなくします。
責任の取り方は損害を与えた行為(本人)そのものではなく、“損害”に重きを置きます。
責任追及する際に“利益”のみに着目した功利主義者が多ければ、※この時点で責任は行為に対する意味合いではなく、社会的なルールに対する意味合いになります。
賠償したり、説明や説得したり、法的処罰を受けたりと、損害を受けた側を納得させて責任を取る形として完結。
ここでわかるのは、根本的に責任そのものは本人の行為に所在しているので、本人は責任を取るための働きかけを他者にできますが(これで許して~、罰を受けるから~的な)、責任は他者にしか取れないことです。
しかし、行為の責任者は本人であるため本人以外に責任は取れず、他者が取ったと思っているものは、ルール順守や納得、損害回収や功利認識、妥協や諦めなど、責任とは全く別物だったりします。
責任を取ったと思えるルール従順
責任を取れなくても、「これは取ってるっぽいよね」と思えるさまが、法律や常識、文化や慣習などのルールに従うことです。
損害賠償や罪の償いが典型例だと思います。
行為によって発生した損害に着目し、社会的に定めた評価・判断軸に則り、妥当な見返りを与えます。
「これで責任を取ったということにしてくださいね」という外部フォロー。根本的な責任取りではなく、一時的納得対処かと思います。
責任を功利主義の損得勘定で考えると、本質とはまるで別物に責任カバーを被せます。ルールを主旨にすると責任なんて言葉はピューとどこかへ飛んでしまいます。
裁判で判決が出ても、それで責任を取ったことになるのでしょうか。
ルール上の責任は空虚なものであり、悪いことを犯しても自分が何をしたかわかっていない人すらおり、牢屋では今日も一日三食無償で出て来ます。
まるで反省すらできない認知状態の少年犯罪者に、ただ謝る形を覚えさせるような。
責任を取ると言って坊主にしてくる自己満足者に、「え、どういう意味?」とチンプンカンプンになるような。
勝手にプリンを食べた代わりに、切腹して事なきを得ようとする侍魂。
毎日牛を食べておきながら、どこにも責任がないルール順応。
仕事でミスしたから退職して逃避。
世の中はルールで巡っていますが、ルールに従って本質を抜くと、責任そのものをわからなくする仕組みになりかねません。
ルールが不必要な訳ではなく、とても大切なものです。あくまでサポートにて本来の力を発揮するため、主体にあるのは常に人と人の向き合いです。
※適当だからこその責任は、適当に生きる人生はいいもんで│できるか否かの生き方はお気楽と責任 をどうぞ。
責任とは取れるものではなく、認めるもの
責任の取り方がわからなくなる最も大きな要因は、責任とは因果応報であるためです。
これがここでお伝えしたい考え方の主旨であり、キーワードになります。
責任とは因果応報が絡んだ行為に対して向き合う在り方(または生き様)。
行為(別名カルマ)には必ず原因があり、原因には意志があり、始まりを作ります。
原因に結果が伴って、始めて因果は応え、報います。
この応えるパートを責任と言い、因果(行為)が成立した状態や立場を表します。
※報いを受けるのは責任がない(行為が完結していない)時に、責任回収して完結させる修復作用
行為を作っておきながら結果がない、または結果を他に作らせた、作りっぱなし、自覚なしの状態が無責任。
因果が成立しないので応えない、すなわち物事が自然に流れていかない抵抗発生となります。
責任は行為を作ったならば結果までしっかり作ることにあります。
おもちゃを出して遊べば、後片付けしなければならないのではなく、「後片付けなんてしないぜ」と思って行為するならば、後片付けしない結果を自ら作ることに責任が見られます。
行為を自らが認めて自覚していることがポイントになり、責任とは取るのでも負うのでもないと考えます。
※責任を認められない、わからない人には、法律やルールがサポートすると、取ったり負ったり果たしたりになる
責任は取れないけれども認める努力ができる
物事を自ら作り始めれば、完結させることに責任があります。
ここで一つ考えてみると、私達共存種族は独りで何かを作って、独りで何かを終わらせることがほとんどありません。ほぼ皆無です。
自分とは自分ではない意味であり、常に他者の影響や情報やルールなどの他が介入して[自分=自分+他]で成り立っている表れです。
シンプルに自分だけで体が構成されている人は誰一人存在しない、ということです。
自分独りで責任を認識するのが根本的にできないことがわかります。
行為の始まりにも終わりにも常に他が関わっており、見えずらくても、無意識でも、何かしら他が介入して成り立っている世の中や自分自身の責任は、常に他も含めて考える必要があり、責任認識は本人だけでなく他も重要です。
他者の許し、ルールのサポート、他の影響による学び、気づき、成長。
少年院の囚人達が、責任以前に何に反省すればいいかわからないので、社会や周囲の他者がサポートすることも本人の責任の一環、というイメージです。
責任は独りで取ったり負うものではなく、他も含めて行為を認めて自覚できるようにするもの。
いかに責任を持てるかは自らの思考と行動を知り、他者への影響を理解し、自らや他者を信じられるかの努力を物語ります。
このことから、責任とは取るものではなく、認める(または持つために認めるもの)だと考えます。
※責任がないとわからなくなる人生は、【ポイントは自分がない人の末路】何をしたいのかわからない人の人生戦略 をどうぞ。
哲学:責任とは
責任の哲学とスピリチュアル
非常にわかりにくいものですが、責任の追及には因果応報が欠かせません。
因果応報とは因果(行為)に他する応報。
悪いことをすれば悪いことが返ってくる。良いことをすれば良いことが返ってくる法則です。
責任回収を本人にさせる自然の摂理。
非常にスピリチュアルなお話ですが、因果応報は自業自得と同じ意味であり、不思議な見えない仕組みではなく、等価性(質量とエネルギー)にて行為の責任所在を追求して、エネルギー(波動)の行き来が私達人間には常にあり、何か感情や思考や行動すれば、何かしらその状態を表す振動数・振動幅・振動域・振動リズム・整然性を伴ったエネルギーが空間伝播しています。
責任を追求する際に欠かせないのが、『行為』であり、行為の何たるかを物語る因果応報が、哲学の追及材料としてマッチングします。
- [行為(原因+結果)の完結=責任]
- 【因果応報】
因果の完結にて応える(責任を認めて物事がスムースに流れる)
不応の場合、見合った報い(悪行・善行)が起き、自然ではない出来事が発生する
※因果応報による責任詳細は、【因果応報なんてない?】報いを受ける人と受けない人の決定的な違い をどうぞ。
責任とは自由意志と自己理解の合作
行為を分解すると、原因と結果(因果)があります。
原因の部分には行為の発端である自由意志があり、人それぞれに自由に行為を作ります。
※過去によって未来が既に決まっていないことを非決定論と言い、非決定論から唱える自由意志です
結果の部分には認めたり自覚したりがあり、自分を信じる、すなわち自他を信じる、自分とは他である理解などの自分を知る一連によって、責任を持ちます。
原因の部分に自由意志があり、結果の部分に自己理解があり、両者が合わさることで責任を認めて持つことができます。
[非決定論の自由意志+自己理解が組み合わさる=因果の責任を持てる]
責任には悪行と善行の見返りがある
[因果応]までのパートがあり、最後に[報]があって完結するのが責任です。
因果応報とは責任回収するための仕組み。生み出したエネルギーの責任を自らが取るために、エネルギーが自らに返ってくる等価性の表しです。
悪いことをして責任を持っていなければ、生み出したエネルギーと同じものが返って来て責任を持たせる機会を与えます。
例えば、非行に走って万引き。
自由意志に基づいた好奇心で犯行、お店の収益に損失を与えました。
自らの犯行時のエネルギーが生み出され、同時に店長が損失に気づいた時に、店長からとてつもなく低いエネルギーを生み出させた責任が発生します。
このエネルギーは店長から出ていても、生み出した親は非行者であるため、非行者に行為を認めさせるためにエネルギーが戻り、報いがあります。
悪行に限らず、善行も同じようにエネルギーが親元に戻ることで、自らのした行為を認めて自覚する機会を与え、責任を持てます。
法律にて責任を取らせる一時的な形を作れますが、本質的に責任とは本人しか認められず、それでいて責任所在は万引きされた店長にあるため、誰も責任を取りも認めもできないのが実情。
本当に責任を持つには、自らの行為の始まり(自由意志の部分)を自覚し、終わりとなる他者に責任を負わせた(結果を作らせた)ことを自覚して認めます。
後は店長が作らされたエネルギーを回収するために、店長に許してもらう認めてもらう。
そのために一生懸命反省や謝罪や成長したさまを提供し、自分を信じて、店長など他者を信じて自らの在り方を持てるように努力します。
ご機嫌取りではなく、あくまで自らが責任を認められるように自己理解して、自他を信じられるように本気で学び、勉強し、努力して生きる在り方が責任です。
エゴが強いと責任は認めるも持つも取るもできない
責任とはとても大切な生き方であり在り方、行為や自分自身との向き合いです。
言葉として美しく、人間味があり、人間力や非認知能力を高める最たる重要哲学です。
悲しいことに、これまでの内容を全てぶち壊さなければならないお話があります。
責任を取るだけでなく、認めるも持つも何もできない人がいます。
割合はわかりませんが、私達今の人間の一部はここに該当します。
自由意志がなく、自己理解する気がない人です。
言い方を変えると、自分がいないことに気づいていない人(または自分とは自分のみの所有だと思い込む人)です。
原因と結果を作れないエゴに責任は存在しない
私達は千差万別の生物ですが、いろいろな材料を混ぜ込んだカレーのように一緒くたでもあります。
大きなカレー鍋にあるたまねぎの一皮があなたです。私は生姜のちっちゃいやつ。
みんな、「あちしはじゃがいも」「おいどんはしらたき」「うぬはプリン」と自覚して、さらに日々カレーの中で学び続けることで、「おいおい、私達がいるここってカレーの中だぜ」とかなんとか、表現や認識はさまざまですが気づいていきます。
しかし、中にはこんなのもいます。
「おりゃは肉じゃ、どうだ凄いだろ、お前なんかちっちゃな生姜、プップー」
「肉片をほじくりまわしてやろうか!」と言いたい所ですが、お肉さんにはそう思う訳があります。
他との比較でしか自分を見出せず、他によって一喜一憂させられるシーソーマインドの過剰化、あらゆる価値観や観念は他の情報や常識やルールで埋め尽くされ、自分軸を全く作る気がなく他人軸、自分そのものが空虚な穴あき、でありながら自覚なし。
他によって自分を見出す意識をエゴと言います。
エゴは誰しもが持つものですが、エゴが強くなると自らを自ら捉える認識がなくなり、自由意志と思っているそれは、過去誰かによって作られた価値観を、他に促されて行為の原因にする、不自由意志になります。
自分がいない、それに気づかない場合、エゴが強くなって自由意志ではなくなり、自他を信じたり認めたりという自己理解を深める気がなくなります。
責任を持てなくなり、カレーの中にいる認識はもってのほか、責任という概念が生まれません。
行為してもその原因は本人に所在がない、ではどこに?
過去、親や教育、成育環境や土地の文化慣習などの他、自らに所属していると認めていない記憶。
自がなくても他がなくても、どちらかのバランスを崩すと責任はシュと消えます。
責任とは人間力を高める哲学
自由意志がないと原因を認められず、結果を作ることができなくなり、他に作らせたり、やりっぱなしで自覚がなくなります。
無責任は物事を認める基盤の全撤廃を意味し、改善や向上のための兆しを自ら穢してしまいます。
責任がないと私達人類は生存維持や継承が困難になり、戦いも争いも、不毛も不祥も起きます。
経験や失敗から学ぶこともできず、成功を当たり前だと思って自己評価を高める外部情報を欲し、自分の中身がいつまでも追加されずに上っ面の空っぽに気づけず朽ちていきます。
社会性があり、法律などのルールである“他”があることで、責任を取らせることができます。
形だけでもとても重要になるのが責任を取ることです。
形でも責任を取れないと、同じ事を何度も繰り返し、責任を取る機会すら与えられなくなります。
それが、死罰です。
責任は形として取ることから始まり、自らが責任を認めて持つ段階へ入ります。
自分独りではなく必ず他も含めた概念であるため、責任を持てるようになる在り方には天井がなく、際限なく私達は向上し続けられます。
道のりは遠く長い雲の中かもしれません。
しかし、責任によって得る現象と進化は、必ず他も含めているために後継され、地球人として私達は進歩していきます。
自らを信じ、自らの行為を認める。
他を信じ、他を認める意味でもあります。
責任を持つ人はどんな悪いことをした過去があっても、今の自分を見つめながら、反省と戒めを刻み、自他を共に信じて敬えるように努力し続けています。
このさまこそが責任を教えてくださり、人間力を日々育む一助となる。そんな哲学です。
※孤独にある明確な責任は、寂しさを感じないのは責任と自覚の表れ【特徴からわかる孤独ではない訳】をご覧ください。
責任の取り方がわからない時の哲学 まとめ
含蓄の多い、有意義な言葉、『責任』
責任がわからない時は、ルールや他によってサポートを受け取る手法があります。
・説明責任・遂行責任・賠償責任
大切なものですがあくまで外枠理解、サポートとして活用すると良いかもしれません。
重要なのは人と人の関わりにある責任。自らの行為に責任があります。
行為と向き合い、他を知り、他を信じ、原因と結果を認める。
因果応報は責任有無を日々の出来事や、人生そのものに表して教えてくれます。
責任を認めて持つ人は、自由意志に基づき自由な生き方をしながら、自己理解を深めて他者を知る基盤が作られます。
自由でありながら、学び続ける人生です。
責任を認めず持たない人は、無自覚の不自由意志によって、あらゆる縛りと制約、制限と抑圧の中、他に責任を負わせながら自らの利益を貪り、敵を作っていきます。
無自覚の盲信者は、何も学びません。
責任とはなんともわかりにくいものですが、自分と自由と人生に対する向き合いであり、在り方。
わからないのは当然です。
だからこそわかるように学び、養成していき、理解を深め、ある日責任がピョンと表れます。
どんどん表し、はっきり見えるようにすると、非認知能力の高まりがあります。
意欲、自信、自制、忍耐、誠実、協調、計画性、コミュニケーション能力、リーダーシップ、創造性、社交性などの育みによる非認知能力の高まりに、人間力があります。
人間としての力を高める最大アイテムと言ってもいいかもしれない、責任。
正体に迫る一助となれば幸いです。
それでは、責任の哲学を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
『心理とスピリチュアルの学び場』
誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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