真面目なのか生真面目なのか、それとも糞真面目なのか。
不真面目なのか真面目に不真面目なのか、それともいい加減でふざけているのか。
「そんなことはどうでもいい」と思う方、ここで一休み。適当な生き方を知っていかれてください。
人生を適当に生きることは素敵でいい生き方だと思いますが、重要なことはそれができるかどうかです。
ここでは、適当に生きることの意味と生き方をお伝えし、適当に生きる架け橋になることを願います。
Contents
適当に生きる

適当に生きる人達
適当に生きたらなんとも気楽でいい塩梅。そんな気がします。します?しません?
私は適当に生きることができずに息苦しさを感じていました。会社員として働いていたある日のある瞬間まで。
本当に突然でしたが、働きづくめの社畜だった豚は、10日間のインド旅行を経験しました。初めての海外でした。
「こいつらふざけやがって」と何も知らなかった私はインドで思い続けましたが、帰国後は嫌でも“適当に生きる”ことの意味を考えざるを得ませんでした。
それは、インド人が適当ということではなく、私や周囲の日本人は適当ではないことに気付いたからでした。
適当の反対は生真面目ではなく、“適当ではない”です。
自分や周囲を見て気付いたこと、さらにその後海外を旅して気付いたことは、適当とは千差万別、唯一無二であることです。
適当に生きる人と生きない人の違い
海外にて人と深く関わると、嫌でも日本人が適当ではないことを思い知ります。
仕事に遅れてきませんし、遅くても業務をきっちりこなすまで責任を持ちます。話はよく聞いて同じことを何度も聞き直しません。
適当にあしらったり嘘ついたりせず、ちゃんと謝り、突然人に殴りかかることもありません。
ですが、非常識に日本のルールを現地で押し付ける人もいます。
能力の高い民族だと思えると同時に、自らのテリトリーを外れるととても弱いという勝手な理解が私にはあります。
海外へ出てから2年間ほどはほとんど日本人と関わっていませんでしたが、約5年間海外に居て、日本人ほど適当ではない人達を見ることはありませんでした。
そのため、日本人はどこに行っても目立ちます。歩き方から特有で、適当ではない様が現れます。当初の私自身がそうだったと思います。
さまざまな国でさまざまな人と関わると、適当に生きる人とそうでない人の違いが明確にわかります。
適当に生きるか否かの違い
- 適当に生きる人達は、ルールに縛られない
- 適当に生きない人達は、ルールに縛られる
※ルールに従う・使用するではなく、縛られるかどうかが適当さのポイントだと考えます。
縛られていることで、ルールを応用したり柔軟に工夫することができなくなり、海外でも押し付けることが起きます。
適当に生きないとは、見方や捉え方の価値観を偏らせて制限することです。
ですが適当であることは、「ルールを押し付けた、だから何?」という認識です。
適当に生きるとは?
適当の意味は、ほどよく、ちょうどいいこと、またその様です。
良い塩梅で、自分にとって妥当な辺りですので良い感じ。
しかし、捉え方によってはいい加減、力を抜いてテキトーにというニュアンスもあります。
言葉の意味として正しく解釈すると、状況や要求や環境に合わせて力を入れたり、力を抜いたり、ほどよくちょうどいいことです。
そのため、適した力を入れるのも、いい加減に力を抜くのもどちらも必要で、自分にとってのちょうどいい、または他を含めたその場の状況や環境のちょうどいいを理解していなければなりません。
「真面目かっ!」
すいません、口が滑りました。
ここでお伝えする適当に生きる話は、こんなことはどうでもいいので、ぶん投げます。
正しい解釈とか意味とか、ビックリするほどどうでもいい、ポイポイッのプイ。
要因を払拭することで見えるものです。
適当に生きることの意味とは、適当に生きられない要因はルールに縛られること、それは真面目、生真面目、糞真面目、頑固、固着、執着などがあります。
真面目であることは大切なことですが、度が過ぎることで生・糞が付き、あることが起きます。
支配です。
適当に生きないとは、支配下で生きること。
適当に生きるとは、支配を払拭した生き方です。
適当に生きる障害となる支配とは、他から?自ら?
支配下では息が抜けず、日常が苦しくなります。
他者からの支配があれば、世間体や評価、価値に意義喪失に気を使い、私物化に干渉、それらに逆らわない生き方。
自らの支配があれば、不安と恐怖を嫌がり、価値をなくしたくない、存在意義を見失いたくない、執着してほしい、必要としてほしい、生きている意味が欲しい、それらの苦痛を味わわない生き方。
自他共に支配があることでルールに縛られて適当に生きることができなくなり、支配下の自分を否定されないためにも、適当な人を蔑んだり排他するような人もいます。
適当に生きることのポイントは、支配との関わりです。
※適当に頑張らない話は、頑張らなくていいとは?│意味を知らないと難しい頑張らない方法 をご覧ください。

人生は適当がちょうどいい
支配を解くに越したことはありません。
ですが、適当とは支配を解いた解放とは違います。解放と自由をはき違えることのように、適当は一歩横に逸れるとルールに縛られていないというルールを課しますので、ギュウギュウになっちゃう。
支配に対する捉え方や対処によって、適当に生きることの印象が良い悪いで二分けされます。
- 支配を嫌がる対処として適当に生きる
・・・他の支配をなくすために自らを支配し、他への配慮がなくなる - 支配なく適当に生きる
・・・縛りがないので、他を配慮する余裕がある
どちらも適当であることに変わりありませんが、周囲から見える印象が極端に分かれます。
そのため、一体適当に生きる何がいいのかわかりにくいものです。
そこで、ルールに縛られず適当に生きる人達の見本例を見てみると、人生は適当がいいことの真意がわかります。
人生は適当がいい理由
これは私が出会ってきた人達の一例ですが、まず仕事には大概遅刻してきます。遊びの待ち合わせ時間は存在しないと思った方がいいですし、仕事でも朝からマリファナ吸ってきます。チリ人なんかみんなこうでした。
ニュージーランドに居る際はボスがくれるので、私も同僚も常にビールを飲みながら働いていました。
オーストラリアになると酷いもんです。平気で遅刻してくるわ、謝らないわ、ずっと話しているわ、直ぐに休憩するわ、どこか行っちゃうわ…バカタレかよって感じでした。
でも、そのような人達の方がボスから気に入られて評価されていました。
「とほほ、こんだけ働いているのに」と思っていましたが、このような適当に生きる人達にもまれると、適当がいいことの真意がわかりました。
自分が第一になります。最優先、絶対的に。
自己中とも言えます。
自己中とは自分を主体にすることなので、わがままや自分勝手とは違います。
自己中の上で他への配慮があるか否か、支配への対処や性格の違いで良い悪いは分かれます。
ですが、どちらでも自分第一で適当に生きている人達はクビになっても気にしません。仕事帰りに吸って飲んで踊って笑っています。たいがいその日はパーティです。
「はぁ疲れた」と思って帰宅すると、同居のクビ野郎が最高に楽しそうに踊っていたりしますので、「いや、わかんねぇ」と初めは思いました。
自己中で迷惑をかける適当な人は、適当かどうか関係なくクビ、嫌われる、どっかいけです。
支配が解けておらず、他者を巻き込んで適当を作ろうとすると、適当の意味をはき違えます。
しかし、支配を解いて自分第一の適当な人はみんな良い人です。仕事以外で助けられたり恩恵をもらっていて、困っていたら助けようと自然に思う関係が既にあったりします。
実際、自分が適当に生きれば他から影響は受けなくなり、誰がどう適当に生きていようとどっちでもよくなります。
適当な人達と一緒に居ると少しずつ同化していきます。すると、遅刻してくることなど全く迷惑になりません。気にならなくなるんです。
適当だと独りであれば本人が気楽ですし、集団環境であればチーム意識が生まれて、助け合いや調和ができます。邪魔なのもいます。
不思議なものですが、仕事の効率や成果が上がります。
他への配慮や自分が見えているかどうかは重要ですが、自分を大切にするためにも人生は適当がいい具合です。
※仕事は適当がいい話は、仕事は適当がいいけど難しい│少しでいいので気楽にする方法 をご覧ください。
適当な生き方
ここからは、これまでの内容を基に適当な生き方をご覧ください。
適当に生きるために必要なこと
初めに、適当に生きるために大切なポイントがあります。
クビになっても気にしないで踊る。というのは行き過ぎですが、そこまで行かずとも気にしないことが必要です。
気にしないとは執着しないことです。それは、自分を主体にすること、自分第一です。
適当に生きるために大切なことは自分第一にすることです。
自分が主体になることで支配がなくなり、主体性が生まれ、縛られる息苦しさがなくなります。
ルールに則るか否かを自分の意見として決めることができ、生真面目や糞真面目がなくなります。
自らが決めたことであれば、その結果に執着しにくく、気にしなくなります。
ここでわかることは、適当に生きるためには自分に対して真面目になる必要があることです。
自分の在り方・価値観・能力・才能・感情・意見・認識に対して誠実に向き合うことが、適当に生きるために大切です。
※他をあしらい排他することではなく、干渉や執着せずに主体性を持つ意味
適当に生きるためには自分に嘘をつかない
私の理解では、これは必須条件です。
適当になるための主体性、これはルールに縛られるのであれば自らの意志で縛られることです。
ルールに縛られることが悪いなんてことはありません。ですが、気付かぬ内に縛られていることで、支配されて適当ではなくなる状態になります。
ルールに則るか否かは自分が決めることですので、嫌であれば嫌だと思います。
嘘をつくと、自分自身を誤魔化して現実を見ないことをします。
これが、適当に生きなくさせる要因です。
恐怖・不安・苦痛・危険から逃避する生き方に、自己防衛や生存維持としての利益があり、ルールに縛られることに安泰が作られて抜けにくくなります。
自分に嘘をつくことは何の問題もありません。ですが、嘘をついていることに対して嘘をつく=自覚なく認めない認識があると、適当に生きることを邪魔します。
適当に生きるためには、嘘をつきたいからつきます。嫌だと思うから拒否し、嫌なら従わず、従いたければ従い、従いたくなければ自ら作り、作りたくなければ寝ます。
寝たくなければゲームかな?プリン?
自分に嘘をつかないとわかることは、適当とは千差万別、唯一無二。適当の在り方や生き方は自分にしかありません。
誠実に真面目に、真っ直ぐに自分の目を見れるかどうか。それが適当な生き方。
適当に生きるために必要なポイント まとめ
これまでの内容からお伝えしたいポイントの一覧です。
- 他を含めない自己中がいい
- 自分に真面目で誠実に
- 他に不真面目でOK、気にしない
- 主体性を持つ
- 他から利益を得ることを主体にしない
- 嘘をついていることに嘘をつかない
- 自分だけの適当があると知る
ここからは、適当に生きる方法を順番にご覧ください。
※人間関係を適当にする話は、人間関係はわからないから適当がいい│大切なことを取り戻すいい加減 をご覧ください。

適当な生き方①:適当ではないことを実感する
適当に生きている人達を実際に目の当たりにすることで、現実味が増します。
適当への印象が既にあると思うので、本当に適当でいいのか疑心もあるかもしれませんし、自分が適当ではないかどうかは日本では把握しずらいものです。
適当な人達を直接知ることが、適当な生き方そのものに直結する影響を与えます。
自分の目で見ることで、「そんな生き方最低だ」と思うかもしれませんし、「素敵だ」と思うかもしれません。どうなるかはその時までわかりません。
特殊例として生きている人ではなく、適当が普通であることを知ると、より現実的に現状や適当への意志がわかります。
方法は、海外へ行くことです。
現地の人と直接関わることで、自分が適当ではないことがはっきりします。
適当な生き方②:馬鹿野郎な人達を知る
これは嫌でも適当な生き方になる方法です。
「いや、やり過ぎ」という適当ぶりを目の当たりにすることで、「ちょっとぐらい適当にしてもいいかな」と確実に思います。
若干の危険性が増しますので、ご自身と相談してから試してください。個人的にはおすすめしませんが、根っからの適当な人は自然と行動しているかも。
私の例ですと、アフリカに行っちゃいます。南アフリカとかモロッコではなく、アフリカンな場所です。
「どこ?」という感じですが、アフリカンな場所ではぶっ飛んだペニャペニャ野郎がわんさか適当にしています。
むしろふざけています、ぶっ飛ばしたくなるほどに。
それが現地の普通であることを体感すると、「まぁちょっとぐらいは適当にしよう」と思うことは必須。
※おふざけの例として、適当な人達の話は、ふざけた人生を知る体験談。アフリカ人が教えるふざけるの意味 をご覧ください。

適当な生き方③:環境を変える
日本では適当な生き方は一般的ではないと思うので、他者との関わりが必ずある環境、それは仕事や家族など携わるものがあると適当は時に敵視されます。
そのため、適当に生きられる環境を選ぶことが重要です。
これは、社会性を利用している前提が当たり前ではなく、あらゆる恩恵を既に他からもらっていることに気付く意味でもあります。
無人島で暮らすこともできるのに、社会制度を使用して保障を受けていることは選択ですので、適当に生きるためには自らだけでなく居る環境を理解することが大事です。
そのため、関わる人は誠意をもって区分けです。
「はい、関わりたい」
「はい、関わらない」と。
関わりたくなければ一生関わる必要はありません。
「休みの日に何しているか? はぁ、一生伝えないよ」
それぐらいでいきましょう。
または、「休みの日はきのこの山100個食い挑戦だよ、毎週ね」
適当でいいんです。
※人生に焦りがあってもいいかなという話は、人生に焦りは重要なエッセンス│意味と使い方に活用法。をご覧ください。

適当な生き方④:自分第一で居られる環境を作る
主体性が大切な生き方であるため、第三者の影響が拭えない環境であれば、自分第一で居られる環境を自ら作ります。
海外へ行くことも環境作りの一つになりますが、日本に居ながら自ら環境を作ることも大切です。
会社に従事していたら辞めて個人経営、またはホームレス。何でもいいんです。
ですが絶対に忘れてならないのは、自分がどう思うかです。
会社に属しながら適当に生きることもできます。その際には環境を配慮して自分の在り方を変える必要があります。
自分第一の意味が他者を含めた上での概念になり、それを自覚して認めれば、本人にとっての適当ができます。
仕事はあまりしないとか、疲れたら休憩するとか、文句言われても知らんとか、クビは嫌だと拒否し続けるとか、使える制度は全部利用するとか、特定の仕事だけ誰よりもするとか、自分の得意分野でサポートするとか、それを配慮してくれる部署に異動させてもらうとか……。
こんなことを考えると、属す以上に自ら作り出す方が簡単になるのが適当な生き方です。
適当な生き方⑤:責任を持つ
最後の生き方は、適当さの真髄です。
嫌われても、文句言われても、攻撃されても、排他されても、適当に生きることは常に自らを認め、責任を持つ必要があります。
責任とは負うものではなく持つもの、自らを認識し認めることを意味します。
この在り方が求められるのではなく、それが当たり前であることに気付くことが適当さです。
独りしか居なければ適当であることは普通です。ですが、他者と関わる社会では、他への影響にて良いも悪いも発生するので適当にするかどうかが分かれます。
在り方を社会的にしてルールに縛られることにはたくさんの利益があり、身を護る術として最も大きなアイテムです。
ですが物事は等価交換、貰い続けることにはその見返りがあります。支配という。
適当な生き方とは気楽なものですが、それをするには自らが動き、知り、理解し、選択し、自覚し、責任を持つことが前提にあります。
適当にしていれば色々言ってくる人もいます。ですが責任があるので、言われる覚悟も当然あります。
適当とは気楽と責任の両方取り、でも気にしなーいという具合です。違う?そう?どっちでもいい。
※不真面目で適当に生きる話は、不真面目に生きるとどうなるか?!真面目をやめる人体実験結果 をご覧ください。

適当に生きる人生 まとめ
主体性を忘れず、他者にすがらず、嘘つかず、誠実に真っ直ぐに。
自らが作り出す意識は、自発的で自己責任の念を強め、何でもできる行動力を生み出します。
なんてかっこいいことを言っていますが、実際に適当に生きることは、フニャフニャのてろんてろんだったりします(これは私の場合です)。
頑張る時は頑張ります。それは頑張りたいからです。
いい加減な所はいい加減にします。それはいい加減にしたいからです。
誰がなんと言おうと気にする必要はなく、気にしたいのは自分がそれでいいのかどうかだけ。
そこには自然と責任としての自覚と認識が必要になり、適当だからお金持ちになるかもしれないし、ホームレスになるかもしれません。
どっちになってもその過程に一回一回自覚があるので、ホームレスでも最高、金持ちでもいいねという具合。嫌なら随分前に違うことをしていますし、五秒後に気が変わるかもしれません。
それが適当に生きることです。
人それぞれの性格や価値観があるので、千差万別の適当さがありますが、共通するのは自覚と責任を持ち、自分に嘘をつかず、支配しないされない人間性です。
その結果、飛んだおふざけ野郎になり、自由人になり、気楽な縁側じじいになり、買い物ばばあになり、いい感じの適当な生き方となります。
適当な人間の言っていることですので、適当に参考になれば幸いです。
では、適当ライフをお楽しみください。