生き方

【人見知りは生きづらいけど大切】人見知りではない人との違い

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人見知りする人としない人の違いは何なのか。

「目のないモグラと目のあるモグラの違いかな?」と思えてきます。

「それじゃあ目のないモグラに目を付けよう!」とはならない。

人見知りは変わらない。

これは極度の人見知りだった私が、今では誰にでも話しかけるようになったことで思っていること。

「人見知りとは何なのか?」を初め、生きづらさになっている方へ向けて、克服や改善における考え方をお伝えします。

  • 人見知りによる生きづらさを何とかしたい
  • 人見知りとは何なのかを今一度考えたい

人見知りである人ほど社交的であったりもするため、人見知りとは何なのかわかりにくいもの。

自分なりの捉え方を太くするためにも、ここでの考え方が一つのご参考になれば幸いです。

人見知りは生きづらい

人見知りという在り方

人見知りが激しい・緩いといったように、度合いで考えるとほとんどの人は人見知りになり得るため、ここでは顕著に人見知りだと思う方を対象にした内容にしています。

人前に出れない、恥ずかしがり屋、照れ屋で臆病、警戒心が強い、傷つきたくない、人混みが苦手、お母さんの後ろに隠れてニョコ。

対人に億劫な気持ちになり、ネガティビティが発生、不安を感じる。

人見知りは対人で防衛機能が主張するさま、と言えるかもしれません。

家庭環境、損害回避傾向のメンタル癖、コミュニケーションが苦手、ナルシシズム、感受過敏など、人それぞれにさまざまな要因があると思います。

内向性気質、生まれつきの人もいれば、トラウマによる対人恐怖かもしれません。

人によっては人見知りに見えない人見知り、社交的で明るく誰しもと関われるけれども、実は疲れ切っている人もいます。

要因が多種多様にあり、「人見知りとは何なのか?」を考えると複雑です。

では一体何なのか?

お伝えしたいのはこちら。

人見知りとは、自己犠牲的に他人に興味を持つ在り方。

※自己犠牲的になれば、大人であっても突然人見知りになり得る

「嫌だけど関わりたい、関わりたいけど嫌だな」というジレンマ。

他人に興味がありながら、関わるほどに損害アリ(恐れる、傷つく、不安になる、嫌な気持ちになるなど)とわかるので自然と嫌になります。

この考えでは、生まれつき人見知りであれば、感受性・敏感性・共感性の高さを物語ります。

後天的であれば、経験則による記憶形成(嫌なことをされて他人を恐れるようになったなど)と観念化(人を気にして損害回避するのが当たり前になったなど)を物語ります。

 

人見知りで生きづらくなる要因

なんでも
なんでも
生きづらさを感じる場合、『自己犠牲的な在り方』がポイントです。

自己犠牲的な在り方をする人は、他によって自を認識するスタイル(意識形態)があります。

「私は決めた、あなたはピンク色の丸い団子が好きだ!うん、もう決まり!」

ではなく、

「あなたはいつも白も緑もあるのにピンクの団子を食べているから、ピンクの団子が好きじゃない?」

なんてイメージです。

これに該当する人にはこのような特徴があります。

他によって自を認識する人の特徴
  1. 観察や洞察が癖
  2. 周りを気にする
  3. 人を見抜くのが上手
  4. 適応力が高い、女性的
  5. 感受性、共感性が高い
  6. 相手に合わせるのが得意
  7. 他のエネルギーを感じやすい
  8. エネルギーや労力の消費量が多い
  9. 我慢強い、忍耐強い、抑圧も強い
  10. 人への興味以上に人間に興味がある
  11. 他人への自己投影癖、他人を通して自分を見る傾向
  12. へりくだることで相手を立てる、謙遜、謙虚
  13. 人との関りに覚悟を持つ、常に勇気を要する
  14. 申し訳ない気持ち、罪悪を感じやすい
  15. 損することを選びがち
  16. 自尊心が低い

相手を見て、感じて、知るほどに自分が存在する。

相手を感受しなければ自分が認識されないので、感受性と共感性が高いです。

良く言うと、他者に尊重や敬いの気持ち、または下にへりくだることで相手を上にしたり立てたりといった影の功労者、謙虚さ。

悪く言うと、自己卑下であり自尊心が低く、他人軸になりやすく、自分がない。

要約すると、『自分を手放すことで他人を認識し、自分が存在するスタイル』

恐さを感じやすい在り方であり、不安がデフォルトになりやすいスタイル

そしてなんのこっちゃわかりにくいスタイル。

人と関わる前提に自分を手放すという労力や覚悟も入るため、「エネルギー消費し、感受機能を使い、覚悟も決めて」という負担が多様にあります。

「関わりたいなら関わればいい」とシンプルになりにくい。

社会と言う他者との共存環境では飲まれ、利用されることも増えます。

さらに、信頼できる人間がいない、どうしようもない人間の多い環境にいれば…。

「この人何するかわからんな」と潜在下で思えるなど、相手のことが見える人や思考停止していない人ほど、見えないストレスを初め、弊害も無駄も妥協も諦めも何もかもやりたくないことが増えます。

メンドーになるので他人に興味がなくなりやすい。

しかし、根本的に人類に、ヒト科ヒト属ヒトに興味がある、なぜならば自分に興味がある。

他と繋がりたい、話したい、感じたい、知りたい、研究したい。

調和や感受性、知的好奇心がある。

関わろうとする気持ちがあるからこそ、人見知りになります。

人見知りが生きづらさになる場合、自己犠牲的な在り方が要因だと考えます。

 

人見知りと人見知りではない人の違い

なんでも
なんでも
私は極度の人見知りで小学校四年生くらいまではどこにいても基本的に一人、休み時間は校舎裏で野草をボリボリ食べるような子でして、言葉をほとんど発したことがありませんでした。

そんな私の身近には対局も対局、全くの真逆に位置する人がいました。

人前に出ることを好み、率先して目立つことに猛進し、「総理大臣になる!」と言わんばかりに出しゃばる人。

よく喋り、自信家で、実際に有能で、一度喋り出したら止まらず、人と一緒にいながらも周りを置いてけぼりにして一人で進んでいきます。

人見知りと、人見知りではない人には大きく異なる点があります。

・人見知りは、環境が変われば自分が変わる

・人見知りではない人は、環境が変わっても自分は変わらない

例えば、「インド行ったら人生観変わったぁ!」と言うのは人見知り。

「カレー美味しかった」と帰ってきてこれまで通りの生活をリスタートするのが非人見知り。

環境適応能力か、自己変革意志かの違いと言えるかもしれません。

人見知りはその場の環境や目の前の人に合わせて自らを変える柔軟性、適応能力の高さがあります。

非人見知りはどこにいても自らを通し、変える場合には「私は変わるぞ」と自分の意志によって変革を見出し、突き進みます。

逆説的に言うと、人見知りではない人ほどその場に飲み込まれると突然人見知りになります。

この違いを深掘りするとこのようなことも言えそうです。

 

損害ありきで人と関わるか、利益を得るために人と関わるか

・人見知りは、損害ありきで人と関わる
※損害が約束されているほど激しくなる

・人見知りではない場合、利益を得るために人と関わる
※利益を確実に得られる人ほど激しくなる

人見知りではない人は利益を得られることが確約されているほど自信があり、億劫になっている理由がありません。

「ご飯食べに行こう!」と思ったら行く、シンプル。

隣にいる人見知りは、「(お店に行くと店員さんがいて、今の時間は客が多いかもしれない、疲れるんだよなぁ、家で作った方がいいな)ということで、行かない」と。

自己防衛が優位になりやすく、自然と損害回避傾向、(表面上)他人に興味がなくなりやすいです。

非人見知りは、もし心がひん曲がっていれば他人をマニピュレート、ソシオパス的に人をもののように扱う懸念にもなります。

良い悪いは抜きにして、自分を手放して他を認識するようなことはありません。

自分が絶対的中心、自己利益を得られる確証があるほどに他人に興味を持ち、率先して人前に出て、多くの人々と関わります。

「あのおばあちゃんに会うと優しい気持ちになれる、飴玉を貰えるんだ」など利益を得られるとわかっているほど人を好きになる理由や動機が増え、関わりを楽しむスタイルにもなります。

『自己(自己愛)』を見出す認識の違い。

・人見知りする人は全体の中で自分を認識する意識、気質、性質を持ち、損害ありきでの関わりが主体

・人見知りしない人は外部関係なく自分を認識する意識、気質、性質を持ち、利益ありきでの関わりが主体

 

人見知りに直し方はないかもしれない

人見知りは変わらない

なんでも
なんでも
損害懸念があるならばそれを改善することで、自己犠牲的な在り方をやめられます。

自己犠牲的な面が解消されると、利益が増えるので人間関係はプラスの印象が強まり、関わる動機や心の余裕、エネルギー量も増えて率先して関わることができます。

さらに社交スキルを学び、コミュニケーションの経験則を増やす努力をすれば、人見知りとは思えない在り方が見出せます。

私自身、今では気さくに見ず知らずのスーパーの店員さんと会話することも、路上で人に道を尋ねることも躊躇なくします。

「関わろう」と思った瞬間と実行動の隙間がなく、億劫になりません。

見ず知らずの土地に行けば現地の方々によく話しかけ、海外に行けば暇さえあれば関りを持とうとします。

これまで日本の社会で学んできた対人スキルがあるために、エネルギーに満ち足り心に余裕があれば自分でも人見知りとは思えないほどになります。

が、よーく観察してみると、ちょっとした瞬間に元来持っている人に対する認識スタイルは私を人見知り領域にシフトします。

人見知りマインドというのか、「関わりが億劫になっている、外食は人がいるからいいや、人ごみに行くの嫌だからご飯食べなくていいや」などなどが出てくる。

エネルギー低下していれば、店員さんに商品がどこに置いてあるか尋ねはするが、一瞬でも躊躇のコンマが発生している。

軽快に人と関わり、人前に出ていくが、人見知りの自分は内部にずーっといます

なんせそれは自己を見出す認識(意識形態)によって成り立つ姿形。

「人見知り」という名前なんてどうでもよく、ただただ「私」という自我のなりわい。

さらにこれが生まれつきであれば本質であるため、「変わるの意味=自分を歪める」になってしまうかもしれません。

 

人見知りは社会的名札、中身は「自己」

なんでも
なんでも

人見知りにネガティブな意味はありません。

が、社会的にはあります。

ネガティブなイメージを持つことができるのは、社会的な良悪に当てはめるが故。

社会的には一方的な印象付けが可能ですが、本質的に見つめたいのはその自分の内情、認識、精神、心理状態だと思います。

といっても、ネガティブな意味がないから良いなんてこともありません。

人見知りは関わりが誠実で真っ直ぐ、覚悟を持っているから接する場合には深く関わろうとします。

これは利点ですが、「だから大切だ」ということではなく

ただただ「人見知り」と言われる状態の自分が自分そのものであるという、事実への着眼。

ここでお伝えしたい考え方は、認識の大基盤(自分の存在方法・させ方)が人見知りになるかならないかの大きな部分を担っていることです。

これまでお伝えしたように、自分を手放して他を認識するスタイル(これによって自分や全体を認識する)。

人見知りは自分の存在証明であり、人見知りだからこそ自分が存在できます。

人見知りは人見知りのまま

直すも何もなく、緩和でもなんでもなく。

あるのは社会適応、社交性、調和意志、協調性、他を想う気持ちによって一時的に、またはその場その人に合わせて関わり方を作る行動。

その場の環境に合わせた自分を作っており、適応させ、まるで人見知りとは思えない様相、そして自分自身でも内面から変わったように思えます。

が、人見知りです。

アメリカ人的にオープンになり、南米的にフレンドリーになりながら、内にあの自分はいるので、いつでも人見知ることだってできる。

「人見知りだっていいじゃない」ということではなく、

ただただそれが自己であるというお話です。

 

変わらない真意

なんでも
なんでも
「一生変わらないんだ、もう諦めてカナブンとお話ししよう」なんて内容ではありません。

変わらないというのは、変わる部分を明確にすることと、自己を間違った方向に歪めないことを意味します。

意識は人見知りである自分を消そうとはしません。

一時的に非人見知りになったとしても、内側には常に元の自分が存在しているため、「もう直った、改善されたんだ」と思うことは無意識の自己否定を起こす可能性があります。
※大人になってから人見知りになった場合は除く

もちろん、「人見知りが改善された、変わった!」と思うのは自由であり本人次第。

ただ、それによって元の自分をいないことにすると、潜在領域では自尊心が削れ、波動低下やメンタルにチクチク刺しが起き、それを誤魔化すとエゴが強まって自分を見失う可能性すらあります。

私の場合、「もう人見知りじゃないかも」と思うことで知らぬ間にスタック、重しを作りました。

否定しているつもりは全くなかったけれども、内なる己は淀みを作り、過去の記憶に重りが括られ、波動に明らかな停滞影響を及ぼしていました。

人見知りは変わります。

ですが、それは表層の変化。

社交というその場その人に合わせた適応力の賜物、心の余裕、エネルギー量が多いからこその一時的なもの。

なんでも
なんでも
変わるのは本質ではなく、「社交的であり社会性の重きを置く場での表面においてである」と理解すると自分のためになります。

人見知りの自分は変わらず内にいると知った時、私は大いに人見知りであることを肯定し、受容しました。

すると、心の軽さは如実に顕著でした。

変わらない前提で、一時的に今の自分は気さくでオープン&フレンドリーなんて具合に捉えると、今の意識も内なる過去の継承意識も共に喜ぶことと思います。

 

人見知りであり続けることは甘えにもなりえる

なんでも
なんでも
一方で、「じゃあ何もしなくていいや、これがわ・た・し」と開き直る場合、注意が要ります。

他者と関わる時は、大事な人でも家族でも他人は他人。

『親しき仲にも礼儀あり』

自己の在り方を押し通すことで、周囲に気を使わせ配慮させるなど、他者が変わらなければならない強要が起きかねない。

人間関係はどちらかにおんぶにだっこでは円滑になりにくいため、他者に無意識な強要を生みやすいのが人見知りという在り方です。

「この人お見合いなのに何も喋らないぞ?!」

「無理に喋ってもらうことはできないし、ここは私が話を引き出せるように頑張らないと!」

「この料理、とっても美味しいですね。こういうのはお好きですか?」

「え、はい、好きですけど…」「すいません、私人見知りなんで、あんまこういう場が得意じゃなくて」

「…(え、何しに来たんー??!)」

「(それ言うのかまわんけど、それなら別の接し方や関わり方を提案してくれませんー?)」

内面でも表面でも、自分が変わらないならそれまでと変える気がなくなった場合。

相手に対して思慮する労力を使わなくなった時、その人見知りは甘えになります。

変わる変わらないではなく、変える気がない、そしてそのまま他者と関わろうとすることが着目点です。

人見知りの自覚がありながら、コミュニケーションを学び、スキルを高め、何より自分の在り方を変える努力をする気がない、相手に変わってもらおうとする怠けや未熟さにもなりえます。

開き直りによる変える気のなさは気をつけたいものです。

 

最後に:人見知りという個性

『自分』があるもないもないのが人見知りという個性、そんな考え方。

個性でありながら、全体を俯瞰する力の基盤才能でもあります。

個を特化させるのではなく柔軟に広げ、全体に順化も一体化もでき、客観的に幅広く網羅する力にもなります。

一方、人見知りではない人は個の特化であり、強力な武器のように際立つ力となり、ダイヤモンドのように光り輝く強靭なさまとなります。

人見知りはダイヤモンドではありませんが、初めはその鉱山にある土一つ一つであり、人格と精神の育みによって後に鉱山そのものになります。

両方の世界を知っているのが最も強靭であり幅広い大きな存在です。

共に本質的に合う認識スタイルがあり、内面は変わらず、表層を変えていきます。

表層を変えることは一時的ではありますが、変わるという外面ではなく変わるための行動と経験が重点。

そこに精神や人格が見られます。

「私、人見知りなんです」の中身は、「私、あまり話せないんです」という自尊心が傷つくことを恐れた防衛対処ではなく。

「これが、私が私を存在させるやり方なんです」かもしれません。

物事をどう捉えるかによって生きづらさは変わります。

人見知りをより受容し、さらに肯定もすることで自らの外側を学び、他を知り、全体を感じ、自己を育てることができます。

その行為が内側を磨きます。

内面も外面も共に重要なのが私たち人間の精神ですので、人見知りについて今一度考えるために一つのご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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