同じことをしても一人だけ怒られる人がいれば、一人だけ怒られない人もいます。
怒られない明確な理由や意味があれば納得できますが、答えがわからないと何とも不可解で仕方がありません。
そんな人がいると、「ずるい」と思ってしまうかもしれません。
一体どうして怒られないのでしょうか?
このずるい人、何もしないで怒られなくなったラッキーハッピーポンチ、ではありません。
実は怒られない人には明確な理由があり、怒られないようになっている裏工作的な人間性があったりします。
私は怒られる人間でしたので、このような人が気になって仕方がなく、「裏で金でも掴ませてんのか?」と思い、夜な夜な答えを知ろうと探りました。
そこにはパー。
パーは別名、赤ずきんちゃんオーラと言うとか言わないとか。
それは、怒られない人の巧み、才能、人間性そのものでした。
ここでは、なぜか怒られないことが起きる、ずるいと思えてしまう人の詳細を紐解きます。
その詳細から判明する話を主旨として、「怒られない人から学び取れる怒られないための理解」がご参考になれば幸いです。
Contents
怒られない人はずるい?!

なぜか怒られない人とは
「この人いっつも遅刻してくるのに、全然怒られないじゃないか」
「私は毎日30分前に来て、一度遅刻したらあれ、なにこの違いは?」
「ずるい」と思ってしまう、特に悪いことをしているわけでもないのですが、妬んでしまう。
なぜか怒られない人。
怒られない人は世の中にたくさんいますが、なぜか怒られない人は怒られない理由が不明確でわかりずらいので、努力も何もしていないのに許される幸運者のように見えたりします。
まるで顔が可愛いだけで許される社会象徴の如く。
しかし、怒られない理由は…顔ではなさそう…金でもなさそう…では何?
仕事のミスはするし、隠れた努力があるようにも思えない。
みんな同じことをしても一人だけ怒られず、むしろ「次は頑張ってね」なんて言われている。
誰しもが恐れるお局様にも、「なんだか気に食わないわね」と影では言われているのに、直接何か怒られているところを見ない。
なぜ?なぜ?なぜ?
こんななぜか怒られない人、ずるいと思われてしまう人がここでの対象です。
この人といると自分の性格の悪さが鏡のように表れる、とこれは私の場合ですが、怒られない理由を探っている時は痛感させられまくっていました。
なんとも愛嬌があり、攻撃性がない、性格が丸く柔らかい印象を与える人。
私の理解している最も大きな特徴はこちらです。
- 「素直」
- 「否定しない」
- 「苦労知らず」
この三つの特徴がある人には、怒られない理由を作る人間心理が潜みますので、見ていきましょう。
怒られない人のタイプ
怒られない理由に大きく関わるのが怒る側の心理です。
怒る人と怒られる人の合致・不合致にて、怒る行為を継続するか否かの判断材料があり、[怒られない人=怒りたくない人]と言い換えることができます。
いわば、「この人に怒るのは心地悪い」と思わせる人は怒られないというものです。
このことから、怒られない人にはいくつかのタイプがあるとわかります。
- 無関心で怒られない人
- 危険性認知にて怒られない人
- 怒られる概念がないために怒られない人
無関心で怒られない人は、「この人に怒っても無駄だ」と諦められた場合、または期待されていないなどの理由です。
怒ることに意味が見出されず、怒る人の時間と労力を無駄にする人でして、怒る側はボランティアで怒っているわけではないので、怒らなくなります。
危険性認知にて怒られない人は、「怒ると不利益を被る」と怒る側に認識させる人です。
怒った時の反発が怖いと思わせたり、怒ることで自らの価値や存在意義のなさを見せつけられるなど、「もう、この人に怒るの本当に嫌だよー」と思わせる人は怒られません。
このタイプは怒られる状態をコントロールする力がある人でして、能力や才能、自他の認識力が高い特徴があります。
ですが全く怒られないわけではなく、規律や法則や権力や集団など、「これなら自分に不利益がない」と思える武器を得た暁には、怒る人の反発を受けることもあり得ます。
そして最後に、怒られる概念がないために怒られない人。
これが最も怒られない人でして、ここでお伝えしているなぜか怒られない人のことです。
詳細を紐解いていきましょう。
なぜか怒られない人の心理
「怒られる概念がない」
この紐解きが怒られない核となります。
心理の紐解きになるのが、苦労知らず。
世の中には苦労せずに生きている人がいますが、ここには苦労が不要な人間性や見えない(本人すら知らない)努力があったりします。
そこに考えられるのが、自己を否定される、または自ら否定する経験のなさです。
自己が否定されると思っていない、自らするつもりもない、という状態は本当に純粋に、「自己否定する意味がない」という認識になり、概念すらありません。
この心理となるのが、「自分は大切にされる存在だと知っている認識」
自分を大切だと思っている、または誰かしらに必ず大切だと思ってもらえていることを知っています。
知っているので思い込みや妄想ではなく、事実としての確証が自分の中であり、そういう存在との関わりが、周囲の家族やパートナー、友人や同僚などにあります。
この認識、そうそうできるものではありません。
なぜならば、自分一人でどうこうできるものではなく、周囲の協力が必要不可欠な認識であるためです。
いわば、本当に心から大切にされ、愛され、敬われ、自尊を一切傷付けられることなく生きてきた状態だと考えられます。
幼少期から生育、成長して成熟し、大人として生活する日々、あらゆる過去の環境があり今があるので、自尊を傷つけられる危惧も危険性も感じないようになることは、幼少期の生活環境や周囲の人との関わりが大きく起因します。
わかりやすくいうと、「良いとこ育ちの苦労知らず」という具合ですが、ただ苦しまない、苦労のない環境があっただけでなく、自尊を傷つける存在がおらず、大切にされ、尊重され、否定されずに愛され、自らを尊重できる人間性を養い、汚さない環境での育み。
とても貴重な存在でして、自尊を持つ素直さ、否定しない様、苦労知らず(または苦労とも認識しない)の三つの特徴が表れ、赤ずきんちゃん的な素敵な人間性が見られます。
赤ずきんちゃんオーラを放つ人間性
怒るという行為は、人の行動、思考、状況、状態、人自身を否定するので、そこには「否定したい」「否定しなければ」といった認識があります。
それは自尊を傷付けて汚す行為に結果的になるので、怒られることは恐れたり嫌がりたくなる心地悪いものです。
そこで目の前に一切自尊が汚されておらず、さらに傷付けられるとも思っていない赤ずきんちゃんがいたらどうでしょうか?
なんか怒りたくない、怒れない、「はいお花」と怒りの元凶はどこかへポンッ。
狼がいたら敵でもない部外者なのにやっつけてあげたくなる。
こんな人に怒るなんて責任が重すぎると思う人もいれば、怒ると自分がとんでもないひどいことをしていると容易に思えてしまい、「こんな人を怒れない」と眩しいものを見ているような気にすらなったりします。
怒るべきところで怒らなくなる、というのは極端な人の場合ですが、自尊が汚されていない眩しい人を否定するのは至難の業でして、怒るのではなく叱ったり指摘したりと形が変わり、否定という自尊の傷付けをとにかくしないで伝える状態に瞬く間に変化します。
なぜか怒られない人の心理には否定されない人間性としてこれまで、そしてこれからも培っていく光、汚れない確たる自尊があります。
他者の存在によって自分が構成されて育まれているとよく理解しており、自らの力だけでなんとかする力や強さはないので舐められる特徴もあります。
ですが、他者を敬い尊重する気持ちがあるために、相手に怒る行為へ向かわせない見えない心理として、モアモア赤ずきんちゃんオーラを放ち、怒られない人間性を持ちます。
私はこれを才能だと思っています。
※怒られない人の詳細は、苦労知らずの特徴と人生に超レアパワー│行く先はとんでもない闇か光か? をご覧ください。
怒られない人から知る改善
怒られない仕組み
ちょっと上述では意味わからないことを言い始めましたが、赤ずきんちゃんオーラには詳細があります。
それは、怒られない仕組みを物語り、その仕組みを教えてくれるのが怒られない人です。
私は怒られない人々を洞察し、質疑をたくさんして勉強させてもらった経験があるのですが、怒られない人の自覚的な認識にはある大きな特徴があります。
「怒られる自分が想像できない」
そもそも怒られる概念がないので、「怒られたらどうなるんだろう?」と先行きの想像に具体性がありません。
このことによって起きると考えられるのが脳内認知の制限、「怒られる」という状況への重要性が全くない認識。
すると、重要性のあるものを取捨選択して認識させてくれる脳機能から、怒られる状況が見えない、本人にとって存在しない状態になります。
怒られる自分が認識にないので現実になりずらく、怒られる状況を引き寄せにくくなると考えられます。
ここにあるのは、「これやったら怒られるかな?」「これミスったらどうなっちゃうんだろう?」といった先行きに対する不安や恐怖のなさ。
未だ起きていない未来に対する恐れがありません。
これが自尊者の明確な特徴です。
そんな怒られない仕組み、ポイントは否定に関する認識です。
否定をどう思っているか、感じているか、考えているか、判断しているか、評価しているか。
「どうも思っていない」
これは自己否定しない、否定される危惧も恐れもない、予測も予想もしない状態ですので、ここでの最強パターン、なぜか怒られない人の認識です。
この仕組みから、怒られないための改善が見えてきます。
怒られない人になる改善ポイント
会社の上司や責任者として怒らなければならない義務的な人もいる怒る行為は、怒る以外に叱る、教える、指摘する、指導するなども使用できます。
そんな中でも、「怒る」を選択する人に表れる明確な心理は、上下関係にて自分を上、相手を下にしようとする願望です。
いわば、怒るという行為から自分の利益を得ようとする心理があると、「怒る」を選択します。
※指導も同様
そんな自分の利益を求める人が怒れない対象がなぜか怒られない人、けどちょっと弱そうなのでずるいと周囲に思われる人です。
無関心や危険性など、自らに利益がないから怒らないとは違い、なぜか怒られない人は、怒る人に対してある明示をしています。
「あなたの今している(またはこれからしようとしている)行為は、人を否定する行為ですよ」
認識による在り方からの無意識のやり取りにて、怒る行為の自覚をさせるのが、怒られる概念のなさから表れる素直さ。
怒る人を受け入れるスタンスができているために、怒る行為を自覚させ、「自分の利益のためにこの人を否定したくない」と思わせるのが怒られない人の見えない所業です。
怒られない人になるポイントは、怒る行為を自覚させる在り方です。
このためには怒られる概念のなさ、否定のない認識が物を言いますが、それがなくても応用できます。
感謝です。
感謝には相手の怒りの受け入れと同時に素直さがあり、行為の自覚を促す効果があります。
「こらー」
「ありがとー」
とこういう話ですが、より素直に、誠実に、相手の言葉・感情・思考・狙いを受け入れます。
受け入れるとは喜んで認めることですので、言われたことを嬉しく思う状態になる必要があります。
以上から、感謝すれば怒られない人になりますが、感謝できるかどうかが、怒る行為を自覚させる怒られない改善となります。
少しわかりにくいと思うので、これまでの内容をおさらいしながら、最後に詳細をお伝えして終了します。
怒られないための感謝
怒られるか否かに関わるのは否定への認識、いわばどれほど否定への危惧や不安(恐怖)を抱えているかです。
恐怖を内包する在り方は自尊のなさを物語ります。
恐怖との関わりにあらがわない(否定認識がない)のが、なぜか怒られない人が教えてくれる在り方です。
実際に恐怖があればもうワ~でもキャーでもギャーでも叫べばいいんです。なぜか怒られない人は恐怖へのあらがいがない分、実際に怖いことが起きるととんでもなく自己表現します。
重要なのは、恐怖が起きていない段階で恐れない=自尊を消さないことです。
その方法となるのが感謝。
感謝は自尊がなければできません。
言葉で、「ありがとうございました!」と言おうとも、「あーっす」と言おうとも同じ、自尊があれば受け入れができ、なければ受け入れられないので感謝になりません。
感謝できるか否かが、改善を左右します。
- 自尊があれば(否定認識をなくして自分を大切にすると)怒られなくなる
- 感謝できれば(自尊にて素直になれれば)怒られなくなる
これをさせるのは相手を敬うのではなく、自分を敬う気持ち。
自尊があるからこそ相手の怒りから意味を見出し、自分のためにしようと喜び、認識を広げることに嬉しくなり、受け入れることが自分のためになります。
これを幼少期からの環境で自然ともたらされる恩恵を受けているのが、なぜか怒られる人でして、他の影響にて培ったものなので明確な自立や自律からの強さがなく、「ずるい」と妬みや嫉みを抱かれもします。
同時に、自尊にて怒りに恐れない様を羨ましがられもします。
感謝すれば怒りの見方が変わり、何より否定するために怒る人から怒られなくなります。
自分の欲求を怒りに込める人の中には、ストレス発散や自己顕示や支配狙いにて、とにかく否定することが利益になるヤバいのもいます。
そのターゲットとなるのは自尊がなく自己否定してしまう人ですので、否定への認識の改善のためにも感謝する、そのためには感謝の意味を知る、感謝できるようになる、そういった前振りと共に成長に繋がる改善方法です。
一つの考え方として参考になれば幸いです。
※怒られやすい人の改善は、なぜ自分ばかり?怒られやすい人に潜む原因と改善│怒らせ上手になっているかも をご覧ください。

怒られない人はずるい?! まとめ
怒られないことには何かしら必ず理由があります。
それが、周囲との関わりによって構築された確たる自尊、光の在り方。
自尊を傷付けられずに育った人は、とにかく素直です。
この素直さには、他者を受け入れられる人間性があり、他者との関わりや大事さを十分に理解している人ならではの認識があります。
そして、とにかく否定しない特徴があります。
自分のことはもちろん、他者も否定しないために、文句や否定、非難や誹謗をしません。
ですが素直なので、「悪い奴だ」と思えば自らの正義心や感情がもろに表れズタボロに言ったりします。
そんな在り方は周囲の人との関わりにて鏡のような存在となり、光を持てば光を反射させ、闇を持てば闇が明確に反射されます。
闇を肯定する人であれば別ですが、闇を肯定していない人であれば自らの怒りという否定行為をモロに自覚します。
そこで、「ほら、自覚しろ、これで悔い改めろ、グワハハハ」という人ではないのが、なぜか怒られない人。前者であれば危険性から怒られなくもなりますが、自己の育み機会がなくなるのでちょっともったいないかもしれません。
着目したいのは、怒られない人から何をどれだけ学び、自分のためにするか。
怒られると自分の見直しにもなり、自己理解を深める外からの意見取得にもなり、他者の認識を育む機会にもなり、認識力を高める大きなチャンスです。
結構活用的で、何かと役立つ怒られ。
どうせなら、怒りを叱るに変えてもらってどうぞどうぞ。
そんな具合が良い感じかと思うので、自尊を持って感謝でいきましょう。
「ずるい」と思う場合はプライドも誤魔化しも脱ぎ捨てて、怒られない人に近付いて勉強させてもらうと、とっても良き影響がありますよ。
怒られる理解が役立つことを願います。
それでは、怒られない人のずるさ、それはちょっと羨ましーという話を終了します。
「怒られるのもいいかも」となればいいですね。
いっつも怒ってくる人は、いずれぶっ飛ばしますけどねー。
ってかー。