エッセイ

【小さな幸せと邪魔者】幸せは目の前にあるけれど…

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なんていい時代なんでしょうか。

世の中には移り行くものと変わらないものがあり、人それぞれに合う合わないがあります。

幸せは変えられる見方によって普遍のものとなり、ささやかな幸福をいつもいつまでも感じ続けられます。

しかし、大問題があります。

邪魔者の存在。

ここでは、幸せを邪魔する者にフォーカスを当て、いったいどうすればいいか疑問を投げかけていきます。

  • 幸せを邪魔する者について考えたい
  • この時代の見方を変えていきたい

このどうしようもなくふざけた世界を変えられるのは、自分の見方を変えるということ。

自分の見方を自分で作るために、一つの考え方としてお楽しみいただければと思います。

幸せを邪魔する者

幸せはそこらじゅうにあるが…

成長を実感して幸せな人。

美味しい物を食べて幸せな人。

安心して暮らせる日々が幸せな人。

縛られず自由であることに幸せな人。

信じ抜き、自分を貫くことに幸せな人。

人それぞれ幸福の感受、認識があります。

なんでも
なんでも
そこには実現、開拓、向上、理解、広がり、深まりがあり、何より“繋がり”があります。

他との繋がり、欲との繋がり、信仰との繋がり、経験との繋がり、宇宙との繋がり。

何かしら繋がりを、肯定的受容的繋がりを認知できるほど幸せを感じます。

反対に繋がりがない、または否定的排他的に繋がりを廃棄する認知があるほど不幸せを感じます。

「繋がりを認知できれば幸せになる」とわかれば、世の中はもう本当に幸せで溢れています。

カフェに行き、ささやかな会話にお互いの繋がりを感じればもう、ニコニコして帰宅、また行きたい。

ニュージーランドに行った際、スーパーマーケットでのレジの店員さんとのほんの一時でも毎回幸せを感じていたのを思い出します。

この認知をさらに拡大させると、人によっては植物との繋がり、山との、宇宙との、エネルギーとの、生命との…。

本当にいつでもどこでも、些細なことからたいそうなことまで幸せだらけ。

世の中は最高だ、ジャンジャン、それではさようなら。

となるのはまだ早く、そんな簡単に終わりません。

そこらじゅうに幸せがあるのにそんなに幸福度高くないぞと。

日本は幸福度ランキング微妙だぞと。

なぜなのか?

邪魔者がいるからだと考えます。

一体何者なのか、深掘りしていきましょう。

 

幸せを邪魔する者

なんでも
なんでも
繋がりの認知がない、または否定排他的な繋がりの遮断があると、せっかく目の前にある幸せが消えてなくなります。

例えば、心地よく友達とドライブしていた。

「あぁ、なんて気持ちいいんだろうね」
「ほんとね」

人との繋がり、時間との、空間との、天気との…、あらゆる繋がりにて幸せの飴あられ。

しかし突然、プップー!

危ない運転をする動物、もとい迷惑な人間によって嫌な気持ちになり、幸せタイムは終了。

その後は陰鬱な気持ちが長引き、「なんか嫌な日だったなぁ」と思ってしまう。

このように極端でなくても、良いも悪いも起きる日常の抑揚によって幸せだったのに忘れてしまったり、幸せなのに気づかず流したりが頻繁に起きていると思います。

その時は幸せだったのに、「今日が幸せだったか?」と問われると、「あの時はね」「まぁまぁじゃない」「微妙かな」となんだか煮え切れない残り香がある。

何が起きているのか?

執着です。

執着があるほど幸せに気づけなくなります。

特にお伝えしたいのは、認識の執着。

思考となるもの、価値観となるもの、観念となるもの、信念となるもの。

その世界の見え方を作っている基であり、自分の見方。

自分の見方に執着があるほど幸せを邪魔します。

なんでも
なんでも
そして、この見方を作る認識の材料が他人から受け取ったものであり、さらに受け取ったと気づいていないものほど執着になります。

これまでの人生、生まれた時に泣きました。

それから今日までの日々、星の数ほど他人からの情報を受け取ってきました。

毎年考えられないほど星が新たに見つかっているように、忘れているだけで掘れば掘るほど他人から受け取ってきたものが見つかります。

思い出してみてください、肉体として形成される前のナノミクロレベルだった頃を、粒子だった頃を、宇宙だった頃を。

今ではとんでもないほどのデータセンターが肉体所狭しと埋め込まれており、アメリカどころの騒ぎではありません。

これら受け取ってきた情報が執着になるのは、理解していないがためです。

知らないがため。

知らない=体験がない、経験がない、実感がない、自分なりの理解がない。

なおかつ受け取った場合に、執着として心が囚われる原料になります。
※受け取らなければなにもありませんが、受け取ったら、プレゼント貰っちゃったらという

幸せを邪魔する者、それは知らない物事を受け取った自分。

 

幸せを邪魔する例

なんでも
なんでも
少しわかりやすくなればと思うので例を出します。

スーパーでの試食無料。

貰うことの事実や内情を知らないまま受け取ったらもう、執着になっている可能性があります。

心理的戦略として、食べたら買いたい、買わないと、罪悪が、返報性が、良心がなどの言われがあります。

それら相手の意図や自らが受け取る行為の内情を知らずして食べたら、幸せになる力が衰退するという見えない世界のお話し。

典型例が、何も考えずに食べるだけ食べる人。

私のこと。

小学生の頃、ダイエーにあったチキンフライの試食、それだけのために夕方通っていた私。

「やったー!ラッキー!」と大喜びでバクバク食べていましたが、試食がなくなった時の反応はなんと。

「チェッ、残念だ」

はい、不幸。

その時は嬉しくてもその在り方は自分を貧しくさせ、認識を歪め、思考を偏らせ、試食の真意や相手側の気持ちの理解がない。

勝手に期待し、勝手に良いことだと思い、それを受け取ったらどうなるかなど考えたこともありませんでした。

なにより繋がりがないのに喜ぶということを覚え、それによる価値観や観念が構成され、知らぬ間に幸せに気づけない見方が固着し強固になっていく。

気づけば紐で顔中をギュウギュウのグルグル巻き、何も見えない、なのに笑顔でラッキーと紐の間から小声が聞こえてくる…フフフ。

試食の怖さ、ホラーです。

他にも例えば、人に執着する場合。

その人から受け取った優しさ、言動の真意、意図、本当の気持ちなどを知らなければ知らないほど執着します。

繋がりがなくなり、幸せが見えなくなる。

さらにその人の優しさがなくなると執着しているので不幸にもなる。

例えば、給料の良い仕事に執着する。

自分がそこに従事するに相応しいとどこか思っていない、「あの人の方がよかったので?」などと否定的、自信がない、比較があるほど受け取ったものが実際にわかっていない。

執着するほど周囲との繋がり、自分との繋がりがなくなり、幸せに気づかなくなる。

受け取った数が多く、それを知らなければ知らないほど執着は増え、幸せが見えず、その受け取ったものがなくなると絶望的に不幸になります。

 

幸せを遠ざける状態(邪魔者の特徴)

幸せを気づきにくくする自分にはわかりやすい特徴があります。

幸せを遠ざける状態
  1. 自信がない
  2. わかっているフリ
  3. 嫌なものでも受け取る
  4. 断れない、拒否できない
  5. 飲まれやすく従いやすい
  6. 受動的で能動性が乏しい
  7. 自発的に行動発起しない
  8. 思い込みと自惚れが強い
  9. なんでも合わせようとする
  10. 自分の執着に気づいていない

この自分を捉える、または特徴が現れた時を捉えると、対象を明確化できます。

こういった特徴にさせる原因として、自分以外の他人が邪魔者になっている可能性もあります。

そんな人の特徴がこちらです。

邪魔をしてくる邪魔者
  1. 抑圧、強要
  2. 決め付け、押し付ける
  3. 口答えさせない、脅す
  4. 支配的、人の話を聞かない
  5. なんでもかんでも受け取らせる
  6. 行動動機を踏みにじる、賛同しない
  7. 否定、批判、愚痴、悪口、泣き言が多い
  8. 関心がないのに干渉してくる
  9. 知ったフリして他人に教える
  10. 自分の執着に気づいていない

こういう人が周囲にいると幸せに気づきにくくなるので、こちらも要注意です。

 

幸せが見えなくなる原因

なんでも
なんでも
認識の執着は主に思考や観念です。

特に気を付けたいのは情報。

この内容です。

他人の言っていること。

それが無償で、お返しなく、貰う一方通行であるほど、執着のもとになりやすいです。

今の時代はこれが当たり前だと思うので、おそらく自動的に執着は多くなり、いつの間にか思考や言動が矯正され、かつそれが自分の見方だと思い込む可能性もあります。

認識の執着があるほど、目の前にある幸せ、今日ご飯を食べた時にあった考えられないほどの豊かさ、孤独のグルメのあの感じに気づきにくくなります。

その大きな理由となるのが、執着があるほど主体性がなく、自分の見方がなくなるためです。

旅の始まりであるニュージーランドで英語の勉強をしていた時を思い出します。

英語を流暢に離す日本人の友達ができると私は怠け、友達にまかせて自分から率先して英語を話さなくなり、理解しようとする姿勢が減りました。

貰っている自覚はありませんでしたが、友達によって自分ができないことをしてもらっていたのが事実。

とても強い違和感があったためにやめられましたが、まかせていた時の私は英語を聞く話すことは大変だけれども日々の楽しみであったことを忘れてしまっていました。

これが知らないまま受け取った意味であり、自分の見方はいつの間にか他人の見方になっている。

典型的なのが、合理性や生産性、効率化を正義とする、失敗や間違いのなさを正とする見方。

いわゆる、「答え」があるという見方は全て執着と言っても過言ではないと思います。

今ではAIがあるおかげでこの見方はロボット的だとわかりやすくなりました。

ロボットは執着の塊であり申し子。

ロボットは目の前にある幸せに気づけません。

気づいたように振舞う指示はでき、それを記憶して次回から幸せそうにすると思いますが、他人の情報なくして何もできません。

主体性がありません。

人間でも主体性がなければ指示がいり、「ほら、鳥がチュンチュン鳴いてるよ、耳を澄まして感じてみて、さぁ豊かな気持ちになってきたでしょ、そうでしょ、ねぇねぇ」

カルト的な。

気づいているように振舞うことはできても、本質的に気づけない。

こういった実際はない、けれども振舞う、演じる、誤魔化すなどはさらに気づけなくなってしまいます。

これらの原因になるのが、知らないまま他人から受け取っているものが多いということ。

情報だけでなく物も気持ちもエネルギーも、幸せの見方は自分次第であるため、自分の目で見る大切さがあります。

 

幸せに気づく

今この瞬間の自分の見方に気づく

なんでも
なんでも
邪魔者に気づくと何が起きるのか?

自分の見方を取り戻せます。

負の要因として着目したいのは、自分の見方(認識)のつもりが、実は他人からの情報であり中身を知らずに受け取ったということ。

自分の見方の中身がわからない状況です。

例えば、「どうして私は虫がこんなに嫌いなんだろう?」

これがわからないという状態です。

私を例にすると、「どうして今日は鮭を食べようとしているんだろう?」

本当は昨日だったんです、鮭の気分は。

なのに「他の食材があるし、明日でいいよ」と昨日決めたことを今日もまかり通そうとしている、これ完全なる執着、中身なしです。

昨日の自分と今日の自分が同じはずがない。

昨日決めたことが今日もそうなるかは、今日の自分に確認しなければなりません。

今この瞬間の自分の見方を持つと邪魔者がどき、幸せに気づけます。

とってもシンプルな話でして、「今日はうずらの卵の気分だった」となれば認識の中身ギュウギュウのカラフルエッグ。

考えられないほどの幸せがあり、目を開けていられない、ジェットコースターが外れて空に飛び出し、気づけばうずらの上に馬乗りして紐を携え笑ってる。

「あれ、この紐なんだ?」と思った瞬間目の前の世界に戻り、「うずら食べてるー!」と幸せの中。

「今ここ」の自分の見方になると、幸せに気づけます。

自分の見方を取り戻しています。

これは自分で幸せを作っているとも言えますし、現実を幸せと見るかどうかは自分次第だとわかります。

「今この瞬間」の自分の見方(認識)をすると、邪魔者(執着)が入る隙間がなく、幸せに気づく。

自分の見方で日々この瞬間瞬間を認識する大切さがあります。

 

注意点:自分の見方とは

気を付けたい点もあります。

なんでも
なんでも
『自分の見方』という表現をしていますが、この意味の本質はこちらです。

『知らないまま受け取っていない』

または、

『理解して受け取っている』

例えば、鳥のさえずりを美しく感じる人もいますが、「え、どこが、ラーメン食ってる方がいいやん」という人もいます。

鳥のさえずり聴いてればいい、ラーメン食ってればいい。

どうでもいいんです。

知らないまま受け取っていないから、理解して受け取っているから自分の見方を作れます。

これすなわち、自分の感覚や感性、体験や経験理解によってさえずりを美しく感じたり、ラーメンを好んだりする訳なので、他人に干渉しない意味です。

他人の認識や他人の存在に干渉せず、今この瞬間瞬間を自分の見方で認識する世界。

これが自分の見方であり、認識の責任でもあり、小さな幸せに気づく世界観。

『自分の』といっても自分に固執する世界ではないので、お気を付けください。

 

最後に:小さな幸せと邪魔者

絵本でも作りたい気分になるタイトルですね。

いつでもどこでも存在する小さな幸せ。

それを感じ取り、気づけるかどうかはこの世のゲーム。

やったっていいしやらなくてもいいと思います。

小さな幸せの方が大きいのか、邪魔者の方が大きいのか。

みなさんはどちらが大きくて、どちらを大きくしたいですか?

私は小さな幸せの方を大きくしたいタイプです。

子供の頃、夜中に眠りながら徘徊し、毎日のように外に出て、ぼーっと星空を眺めていた時があります。

母親が、「あれ、どこ行ってんの?」と気づき、「眠っている!」と驚き、なおかつ放っておいてくれました。

「どんな気持ちで私を見てたのかな?」と思いますが、気にせず眠ったそうです。

これによって私は私なりの見方を手にしていきました。

パッと星空を眺めている時に目が覚めた瞬間があり、「ハァー」と美しさに見惚れていました。

その時、自分になんの疑問もなく、やめようともせず、上を向いてただそのままボーっと見続けていました。

眠っていても起きていても同じ、これが私の見方の一つになっています。

自分の見方は必ず誰しもが持っており、新たに作っていくのもできますし、取り戻すこともできます。

情報過多の現代社会で生きていれば執着は自動的に多くなり、それに気づきにくくもなるため、取り戻す方が多いかもしれません。

そのためにも一つ一つの見方を確認し、中身を見てみてください。

一体何が入っているのか?

箱を開けたらなんだろな、見るのも楽しみですね。

自己観察を深め、自分の面白さを深掘りされてみてください。

そんな趣味があってもいいな、ということで、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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