エッセイ

【幸せの見つけ方】小さなことに幸せを感じるこの頃、気づいたことがある

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

「人生ってこんな感じだよなぁ、ポポポ」

日向ぼっこしながら、雲を眺めて想う一時。

生きていることに幸せを感じる。

そんな時は誰しもにある、けれども気づいていないかもしれません。

最近、情報量の多さに疲れていませんか?

幸せはいつでもどこでも傍にあることを忘れていませんか?

もしそうであれば、幸せの見つけ方について私事ですが最近気づいたことがありますので、ぜひ肩の荷を降ろして見ていかれてください。

  • 小さなことに幸せを感じたい
  • 幸せの見つけ方について考えたい

最近の私はなんだか虫のようなので、虫人間の見ている世界が共有材料になればと思います。

根本的なことを思い出すと同時に、「生きている上で大切なことはもはやこれだけなんじゃないか?」と考える機会になれば幸いです。

小さな幸せを感じるこの頃

小さな幸せを感じるこの頃

なんでも
なんでも
初めに少しばかし私事を。

何年か前まで、私は田舎でこもる生活を拠点に海外を旅したり、創作したりの日々を過ごしていました。

ここ数年さまざまなことが起こり、苦痛を通して学びの機会をたくさんもらいました。

そして以前のような生活をまた始めて気づきました。

「なんと、同じような生活なのに、以前より幸福度が明らかに高い…なぜ?」

なんだかその内に飛ぶんじゃないかと思える高揚感、エネルギーの高まり、穏やかな気持ち。

時たま内側の細胞が光りを帯びている気がしまして、自然と感謝が湧き出る日々。

以前も私は幸せを感じていました。

ご飯を毎日食べられ、細々とながら好きな事ができ、人々と関わることができ、海外にも行け、一人での時間も堪能できる。

とっても幸せでした。

しかし今。

今感じる幸福は、違うベクトルでそれを超越しています。

静かで、心地よく、涙もろく、有難く、深い。

もはや存在して、生きる感覚を味わえることが幸せでしかたない。

内容は以前と変わっていないのにギュッと詰まった濃厚な生活、という感じです。

ご飯を食べられることへの感謝を初め、食べ物が私の一部になることへの歓び、美味しく感じられる豊かさ。

食べ終わった後、ホワホワした感覚を味わい続け、見えない領域での食事が新たに始まっている、いわばデザート。

お風呂に入れる、しかも毎日。

に追加するように、「水に身体を入れる感覚が好きなんだ」と気づき、それが冷たいとキュっとするがキュっとすることが嬉しい。

温かいと体に馴染み、お湯に同化するように溶けていく、ばばびばぼうびばい(私はもういない)。

買い物に行けばどうなるか。

自分を試し自分で遊んでいるようであり、今日はどんな商品と出会い、どんな人がおり、どんなエネルギー空間に入るのか。

「なんか完璧な買い物をした気がするな」と思いながらスーパーのドアを出る時、空を眺めてぼーっとする自分がいる。

あらゆる行為にこういった感受があり、世界の広がりがあります。

あのカフェに入ったらどうなるか。

ジョギングすればどうなるか。

人と関わればどうなるか。

カフェオレ飲んだらもう。

最近は珍しくお菓子(煎餅)を買った私がおり、普段はお酒を飲まないがハイボールというものを飲んでみようとする私がいました。

これまでであれば晩酌の意味がよくわかっておらず、人がお酒を飲みながらご飯を食べるのを見て、「そういうスタイルがあるんだな、でもなにがいいんだろ?」

わからないので試してみるもわからず、「知りたい、なんかあるんだそこには」とそれ以上に行けませんでした。

最近はその先に行っており、「これは一緒に食べたり飲んだりしたらいいってやつだ」とワクワクしながら試してみる。

「うん、やっぱわからん、ハハ」

となりましたが、やってみたことが嬉しく、違うと知れたことも嬉しい。

さらに、「これの喜びを感じる人、感じられる人がいるんだ」と思うだけでなんだかウキウキしている。

「私が知らないだけでそこには世界があるんだ、ニャニヤ」という感覚。

さまざまに小さな幸せの感受があります。

この幸せ感受について、以前と比べて明らかな違いがあることに気づきました。

 

小さな幸せを感じる訳

小さな幸せを感じる以前の私と近頃の私、明らかな違いとは、

答えを求めていない

※認識(感受、思考、観念、信念、意識)に対する執着が減ったさま

なんでも
なんでも
この状態は旅をしている時の感覚と似ています。

私の場合、旅では答えを求める執着は減ります。

とりあえずどこか都市に飛んで翌日どこか別の街へ行くパターンが多く、どこで何をするかは現地で決めます。

インドに行く際は現地の人々や文化を知ることが目的であるため、関わることが答えというそもそも答えがない状態になります。

知らないことばかりの環境では赤ちゃん同様であり、あらゆる自分ルールはない前提で過ごします。

さらに、その場その時の状況は予測できないことが多いためです。

日本とは違う文化慣習、ルールに常識、なにより法律があるため、事前の決め事や思い込みがあると痛い目を見ますし、後悔できないことも起きえます。

メキシコを歩いている時に目が合っただけです。目が合っただけでピストルで脅された、なんてコメディみないことがありました。

パナマでは五人組に強盗されたこともありまして、その場のルールを知る必要があり、知らないならば勝手に自分のルールを持ち込むことは良い結果に向かわないよ、なんて教訓があります。

シンプルに自分の頭の中ではなく現実を見る行為です。

ただ、以前は現実を見ていても自分なりの見方が強かった。

「晩酌の意味がわからない、わかりたいけどわからない」「一体なんだろう?」という自分の見方から離れなかった。

今では、やっぱりわからない。

けれども私という人間にはわからないだけで、それに喜びを感じている人がいる事実があり、自己認識に執着しなくなったためにそれだけ。

「わからない世界があるんだ」と肯定している私。

そこに喜びを感じられる人に憧れではないけれども目がキラキラする感覚があり、理解可能域の広さを知れて冒険心がくすぐられる。

「まだまだ知らない世界がある、知らない自分がある」とはっきり。

「もはや知っていることなんてあるの?」という具合の自分がいるともう、考えるだけで胸が躍る踊るチンチロリン。

執着がなくなると知らないことを知れる、その無知の知に喜びを感じ、あらゆる行動は「知る」に繋がる幸福があります。

答えを求めない(認識に対する執着が減る)と、小さな幸せを感じやすくなる、という考え方です。

 

幸せの見つけ方

小さな幸せを感じるスタイル

なんでも
なんでも
明確にしておきたいのが、小さな幸せを感じるには大きく二つのスタイルがあることです。
※人によって、状況によってハイブリッドになると思います
  1. 「感受」を味わえる幸せ
  2. 「知る」ことの幸せ

例えば、お菓子を食べます。

直近で食べたので鮮明なのですが、お菓子を食べた瞬間に私は二つの認識がありました。

1,「おぉ、すごい刺激~、手が止まら~ん」

2,「わっ、これはみんなが美味しいって感じるやつだね」

シンプルに感受を堪能すると、「わぁ~、フワーンとする~」とお花畑にいる。

知ることに喜びがあるもう一人は、「脳が溶けていくな」と観察している。

その世界に思いっきりインしてはしゃぐのがタイプ➀、その自分を冷静に見つめるのがタイプ②。

そして重要なのが、どちらでも幸せを感じられるということ。

タイプ➀の方が素直に思えるので幸せになりやすそうですが、幸せとはただ感覚的に心地良さを感じるだけではなく、納得や満足、理解や成長、発見や気づきの感受などさまざまです。

重要なのは“執着がない”ということ。

・執着がないからこそ感受に素直、認知に真っ直ぐ入り込み、その世界を堪能する

・執着がないからこそ認知世界を探求し、冒険し、遊ぶ選択ができる

どちらにしても、「答え」を求めていないというのが執着のなさです。

 

小さな幸せを見つける方法

なんでも
なんでも
方法は執着をなくした見方で生きること。

答えを求めない前提で「感じる」か「知る」意味です。

具体的に言うと、

答えを求めないで感じようとする、または答えを求めないで知ろうとすること。

国語の授業みたいですが、「~しようとする」という能動性、行動スタンス、そこにある意欲、意志が重要になります。

幸せは本当にそこら中に散らばり浮いています、浮き散らばっています。

それに気づいて触れると、フワフワ~って。

気づいて触れるために、感じようとする、知ろうとする行動をします。

なんでも
なんでも
例えば、好きなものはありますか?

ご自身の好きなものに照らし合わせてみてください。

私で言うとハチミツの甘いカフェオレ(贅沢なのでたまにしか飲まないやつ…)

一口味わう、前に、香りからスー。

空気をゆっくり深く吸い込む、この時は匂わなくてもいい。

フーと勢いよく鼻から吐き出すと同時に肺に空気が入り、一気に香りが脳内、身体中を駆け巡り、フワーととろけるハニーアタック、ハニハーニー。

ハァー、飲まなくていいや、と。

そんなことをして楽しむ場は幸せの噴水、いやはや肌がもう甘くなってきた。

好きなことをしている時、感じようとする自分、知ろうする自分が明確にいると思います。

認知意欲、意志があります。

焼肉弁当を食べる時よりも、高級焼肉店で大金払って食べる時の認知欲と言ったらもう。

認知欲、これが小さな幸せに気づくアイテムです。

「味わいたい、感じたい、知りたいんだ♪」

しかし問題があり、私たちは基本的に執着して物事や世界を見ていることが多いため、「答えが既にある上」で認知したり、「答えは何か?」を求めがちです。

小さな幸せに気づく前衛があった、けれども即座に執着世界での認知となり、それが幸せなのかどうかは自己ルール(インプットされた型枠)に照合されて納得や満足有無で評価判断されやすくなる。

主体性がなくなり、他人や他のルールを基準に良悪を判断して「幸せかどうか」が決まり、既にそれは幸せでもなんでもないという状態。

今日もご飯をたらふく食べられたことが幸せ、どうのこうのではなく。

今日、ご飯を食べる行為を感じよう、知ろうとすることで、能動的かつ意欲的にそこにある世界を掴み取りに行く姿。

これによって幸せを掴み取っているという仕組みです。

なんでも
なんでも
この在り方では、朝、目が覚めて晴れていたらどうしようもなく幸せです。

晴れているということを意欲的に感じようとする、能動的にそこにあるプラス事を見ようとする、その晴れが今日の自分にとってどれほど重要な恩恵をもたらすか知ろうとする。

すると、「うわぁ、今日はなんでもできるー!」「なにして遊ぶ?」「出かけちゃおうかな」「仕事張り切っちゃおうかな」とウキウキしちゃう。

雨も然り。

「おっ、今日はゆったりモードで行けるかも」「雨をただただ感じる休憩を設けちゃおう」「コーヒーの味が深まるんだよなぁ」

この感じようとする、知ろうとする行動を増やすと、この世は幸せの原料だらけで溢れていると知ることになります。

参考例・・・

旅行で幸せを感じる人は、その一時を思いっきり感じようとする。

マックで幸せを感じる人は、その味を思いっきり感じようとする。

タバコで幸せを感じる人は、その一服を思いっきり感じようとする。

知的好奇心で幸せを感じる人は、事柄を学び、自己の成長を知ろうとする。

考えることで幸せを感じる人は、物事を熟考し哲学し、新しいアイデアを知ろうとする。

冒険で幸せを感じる人は、未開と未知を進み、恐怖と自己の限界の先を知ろうとする。

生きていることで幸せを感じる人は、自分を観察して生きることを堪能し、存在を知ろうとする。

どんな些細なことでも、幸せは見つけられます。

 

さらに幸せになりたい人向け

なんでも
なんでも
これまでの方法が実践できる方は、ここからもう一段進むことも可能です。

幸せをディープにしていきましょう。

具体的にどんな幸せなのかと申しますと、意識を他に繋げ、その繋がりの感覚。

※「繋がる感覚」ではなく、「繋がりの感覚」であり、その感覚の中に入るとディープフルを味わうことになります

この繋がりを認められると、天国にいる気分になります。

「ようはなんでもいい」という気持ち。

「人生ってこういうもんだよなぁ」と日向ぽっこしている猫の気持ち。

「もう、なにもいらない、フワ」と肩がなくなったのかなと思うほど肩の荷が降ります。

どこまでも執着をなくしていき、「肩書きって美味しいんだっけ?」「結果を残すって牛の部位だっけ?」「昇進するって龍になることだったっけ?昇竜拳!」

基本、一般的な会話ができなくなるので、下界とのさようならを覚悟しましょう。

方法は、意識を他と繋げて、自分をなくす
※勝手になくなるというのが正確かもしれません

私を例にすると、木と繋がる。

木を触ると誰しもエネルギーを感じることができます。

そこから、「私が木に触れている、繋がっている」という認識(執着)を消していきます。

ただ触り、何も考えない、自分が感じているのではなく、ただ木を感じる状態。

ブワブワする、ゾワゾワした感覚、全身が木のエネルギーで満ちて高揚する、軽くなって上昇するような気持ち。

まるで自分がその木の一本の枝になり、木の横からボコッと生えてきたような。

そう、もう何者でもない。

これを風とやったり、雲とやったり、人によっては火、水、石かもしれません。

心いっぱい表面張力しているような、少し揺らしたら涙が出てくる、そんな胸のブルつき、いつでも泣ける状態。

心が開いた感覚があり、魂と繋がっている状態になります。

雲の上に住む神様と会ったらそうなるであろう感覚、自分がなく、あるのは他と繋がる意識であり、繋がりの感覚。

それは自分が繋がる感覚ではなく、対象それとの繋がり、いわば対と対を繋げる紐の感覚、間の感覚です。

これは子供の頃にみんなたくさん味わっていたと思います。

例えば、夜空には満点の星々。

「わぁー」と見惚れる一時は、心のドアが全開して魂と繋がる。

星の輝きや壮大さにある美しさだけでなく、本質的に感じているのは星々との意識の繋がり。

その視界に広がる星々と一つになった感覚。

自分という存在が、その視界に広がるヴィジョンそのものになった感覚を味わっています。

そこに自分はいない、ただただ目を見開いて感動し、目を閉じて一体化し、気づけば意識の繋がりの中にいる。

思い当たる方はぜひこういった試み、時間を増やしてみてください。

といっても、小さな幸せを感じていれば既に十分過ぎるほどですけどね。

 

最後に:小さな幸せを感じる

なんだかこれまで追いかけてきたもの、求めているとも思っていなかったけど、本当は何かを得ようとしていたことがパァっと。

今、本当にいい時代だと思います。

生きやすく、縛りは少なく、周りは干渉しない、幅広く生きられる環境、自分で物事を考えていい、もはや法律にも守ってもらえる。

そんな時代をできる限り感じたい、知りたい、そんな気持ちはいいもんです。

もちろん、感じたくない、知りたくない、なんて選択もあると思います。

幸せは選択。

幸せは難しいことではなく、そこにあると気づくかどうか。

それを掴み取ろうと努力するかどうかだと思います。

そのために『自分』という存在が大切でありながら、本当に邪魔。

一体何者なのか?

意識とは何なのか?

この世とは何なのか?

理解は一人一人違うため、そこに答えはなく、あるのはその人にとっての見方。

ある時期の自分と別の時期の自分でも違い、フェーズによっても年齢によっても見方は変わります。

細分化すれば、昨日のあなたと今日のあなたは違います。

今日のあなたにとってのこの世は新しい。

そこには過去も未来もなく、今この瞬間の“感じ”があります。

感受しようとする意欲、好奇心、行動という意志があります。

その周囲に惑わしの執着があり、執着がなくなっていくほどに本来の姿はみるみる現れます。

その時、小さな幸せはそこら中にあることがはっきりしています。

そんな道中を楽しむためにも、一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

POSTED COMMENT

  1. Intora より:

    私もこういう状態になることがあります。
    幸せですよね。
    今もなっています。

    記事の中に「ようはなんでもいい」という言葉も出てきて集大成って感じでなんとなく感動している自分がいます。

    • 北斗 より:

      それは素敵ですね。
      幸せとは善きことです。
      集大成か、ありがとうございます。
      実は今後はその言葉の戻るといいますか、しばらく離れていたので、再スタートを切るつもりです。
      だいぶ奇妙な内容になっていくと思うので、よろしくどうぞです。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です