方法

「苦行に意味なし?」【苦労した人だとわかる理由6選】苦労させられた人との違い

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

『DNAシフトセラピスト養成講座』

・セラピストになりたい方
・自己理解を本格的に始めたい方
・専門的に人を癒し、サポートしたい方

著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
PR:株式会社Central&Mission

※本気で人生を変える方専用。

苦を労うと人間の自然味、人情を知る。

苦労の意味はとても意味深です。

苦労すると素晴らしい恩恵がありそうですが、一方で苦労させられた場合はどうでしょう。

そんな紐解きをすると、苦労とは精神的には自覚できないものだとわかります。

すなわち、仏教の創始者ブッダが説いた、「(ざっくりですが)苦行するために苦行しない」という言葉の真意がわかるかもしれません。

ここではそんな探求をしていきます。

  • 苦労したとわかる理由を知りたい
  • 苦労の精神的な真意を考えたい

「苦労した人って何?どういうこと?」の理解をはじめ、労することに潜む人間味を知る一つの考え方。

ご参考になれば幸いです。

苦労した人かどうかわかる

苦労した人と苦労させられた人の違い

苦しみ、辛く、痛い想いをする。

なんでも
なんでも

西アフリカのセネガルとマリ共和国を旅している際、田舎町には苦しむ子供たちで溢れる環境がたくさんありました。

想像を絶する光景であり、あんなに“死”を身近に感じ続けたことはありませんでした。

苦しんでいない私ですら苦痛を感じた情景。

苦しみとは空想でも作り出せ、思い込む幻想でもある。

苦しみはリアルな体感(感情)によって度合いが変わり、本人ですらそれが苦しみなのか曖昧です。

そのため、他との比較痛みの情動を要します。

実際の体感だけではなく、他との比較も含めた認識(物事をどう捉えるか)によって“苦労”かどうかコロコロ変わるもの。

このことで、苦労したのか苦労させられたのかによって、認識が大きく変わることがわかります。

・苦労した…苦痛や辛さを味わい、昇華、または吸収した
(自因)

・苦労させられた…苦痛や辛さを味わい、昇華、または吸収する理由を見つけにくい
(他因)

苦労させられた場合、リアルな体感として苦痛の感情を感受しにくくなると考えられます。

なぜならば、自ら生み出していると認めにくく、「味わわせられている、仕方ない、やらなきゃならないんだ」と他に起因して感情を与えられている度合いが加わるためです。

苦労したか・させられたかは、他因か自因かの違いがあります。

「パーティーではイエーイ!と叫べば楽しいんだ、さぁ叫びなさい」と言われているようなもので、そんなものが楽しいかどうかは他者が決めることではありません。

なんでも
なんでも
苦労したか苦労させられたかは、苦痛という感情や気持ち(エネルギー)を経験とする際の吸収率に大きな違いを作ります。

吸収しきれないと嫌な気持ちを味わわせられた反発や抵抗、拒否感や否定心が増加します

他因によって苦労させられた場合、苦痛の味わいではなく、それに対する反発心が生まれます。

すると他者に否定的で攻撃的になり、苦労だと理解されず否定されれば自己保持できなくなり、怒りっぽくなります。

人によっては、「私もやられた、次は私が苦痛を与えていい番だろう」と正当化も起き、認知が歪み、エゴが強まります。

現実認知の障壁となる他因によって現実を見にくくなる、経験を経験としにくくなる状態です。

このことから、苦労したかどうかがわかりやすくなる材料が見出されます。

 

苦労した人だとわかる理由6選

順番にご覧ください。

1,批判=相手のため

なんでも
なんでも

他者の言動に対する否定や批判をしない訳ではなく、する時はします。

しますが、批判の意味がそもそも違うのが苦労した人

指摘や意見の共有、向上のための否定など、“相手のため”に批判します。

批判が相手のためではなく“自分のため”である場合、自らを正当化し、自己否定されないための反発が増えます。

中身のない意見、または直接的な攻撃、相手を排他する利己的な自己愛擁護目的になるため、苦労した人かどうかの違いはわかりやすくなります。

 

2,穏やか

なんでも
なんでも
苦労の度合いが高いほど穏やかになります。

度合いの高さ苦痛や辛さの味わいを余すことなく吸収し、経験値にして、自分の力にしてきたさま。

苦労を自分の能力と才能の糧にしてきた人間性となり、穏やかさとして表れます。

精神的余裕であり、心の寛容さ、客観視できる認識能力、感情のいろはを知り、自分をコントロールしているさまです。

穏やかさの重要材料はネガティブや恐怖心を自分の身にしているかどうかであるため、[どれだけ辛い想いをしたか+それらを自分の糧にできている=穏やかさ]がわかります。

 

3,謙虚 and 引かない

なんでも
なんでも
苦労を経験値に変換できる人の大きな特徴は、問題と直面した際のブレないさま、覚悟と決意と勇気あるさまです。

“恐怖心”と向き合う強さを意味し、絶対的余裕が謙虚さとなって表れます。

一方、時と場合によって全く謙虚さがなく、一歩も引かない一貫性が表れ、ブチギレることもあります

絶対に妥協しないことが人それぞれにあり、死んでも譲らないかもしれません。

それは筋の通ったこと。

例えば、何の考えもなく自分の会社を引き継ごうとしている我が子、息子がいた場合。

息子自身が引き継ぐ意思や覚悟を自ら見出さない限り、一切の甘えなく赤の他人に譲ったりします。

引かないことは自分の信念に触れる出来事の人もいれば、長期的に相手のことを想った厳しさの人もいます。

謙虚さと引かない一貫性が相まうと、どうしようもない逆境時の覚悟・決意・勇気、迷いや彷徨いのなさとして表れ、苦労した人かどうかがわかります。

 

4,よく感動する

なんでも
なんでも
苦労した人は情がとても深いです。

感情をよく知っており、さまざまな感情を経験して味わってきた証。

喜怒哀楽、陰も陽も光も闇も、余すことなく体感してきた人ほど苦労の度合いが高く、結果的に人情味ある人間性が表れます。

情の深さによってよく泣き、よく笑い、なにより感動して心を魅了されるさまが顕著です。

感情を一切抑圧せず、痛みを知り傷ついてきた人だからこそ他者への共感力もあり、情が寄り添います

人のために涙することができる、共感力にて相手を知る力があるため、関わることで苦労人かどうかはわかります。

 

5,困った時に助ける

なんでも
なんでも
はしゃがず、静かに状況を見守ります。

苦労している人ほど精神が強く、強い人ほど戦いません。

みんなが困り果てた時に最前線に出て、全力で問題解決に勇み、助けます。

困った時に助けてくれるヒーローであり、この時恐ろしい人間にもなります。

正義のヒーローとは違い、地獄の10丁目からやってきました感があり、イメージは口先に血が付いた鬼です。

一方、強い人のことは助けない、そういった他者自身の力を重んじた尊重もあります。

 

6,感謝する

なんでも
なんでも
苦労の度合いが高い人ほど、一度味わった苦しみは苦しみですらなくなる人もいます。

苦労が多いかどうかではなく、苦労を経験値に変換できている人ほど物事の有難みを知ります。

自力だけでは生きられないこと、他なくして自力も何もないこと、物事の本質を知ります。

記憶と経験によって今の自分ができているため、人それぞれ苦労してきた自分を認めたいか否定したいか分かれます。

どちらであっても一貫した事実として、苦労した人ほど“生きられている”ことを実感しています。

助けてもらったから生きている人は感謝を抱きます。

助けてもらう必要がなかった人は感謝に気づきません。

どちらも苦労であることに変わりませんが、度合いの違いは一目瞭然です。

以上、苦労した人だとわかる理由でした。

 

苦労した人の種類と見分け方

苦労した人は苦労した自覚がない

上述では苦労した人と、苦労させられた人がいると知っていただきました。

これは自因と他因で分けられますが、同時に自責か他責かにも分けられ、より内面を見ることができます。

苦労した人の種類
  1. 自責の苦労人
  2. 他責の苦労人

・自責と他責の違いは、自らの思考や行動を自らで認めるか、他によって認めたり認めさせようとするかです。

他責の苦労人は他との比較や他の反応を欲します。

「みんなより辛い思いしてるから私の環境はやっぱ苦労したんだ、この仕事は辛いんだ」

「あなたは苦労してるよ、そんなエピソード聞いたことないもん」と他に認められたり、認めさせたり。

“他”によって、「私は苦労しているんだ」と認識できるのが他責です
※他責が過剰化すると、苦労が自慢になる

一方、自責の苦労人は自らで認めるため、自分が苦労しているかどうか自覚できません

極端に言うと、「私が私のためにこの環境を味わって、活動して、努力している」という認識であるため、苦労かどうかの認識ができない状態です。

周囲によって、「それは絶対苦労してるよ」などと言われると、「ふーん、そうなのかぁ」と捉えることはできますが、それは薄い透明なベールを被せただけで自覚にはなりません。

自責か他責かは自らで責任を持つ精神有無(と度合い)を表します。

 

苦労した人の見分け方

自因か他因か、自責か他責かの見方によって、苦労した人かどうかわかりやすくなります。

と言っても、苦労させられた人も苦労人です。

なんでも
なんでも
ここでお伝えしたい見極めの目的は、苦労を自分の糧として力として、昇華・吸収できたかどうか。

自分のために苦労を経験値として変換できているかどうかです。

そんな人を見分ける方法があります。

方法は、「それって苦労なんですか?」と聞くこと。

その反応で苦労を自分の力にできているかわかります。

前述したように、自責の苦労人は自分を苦労人だと自覚できないので、他がどう思うかは外付けでしかないことを知っており、他が「あなたは苦労人だ」と思っても決めてもその人の認識として尊重します。

その辛い経験をしてきたのは張本人なので、認識の度合いを他者が変えるのは難しく、それができるのは感じた痛みと似たものを既に味わってきた精神的先輩くらい。

例えば、放浪する仙人と出会ったことで、「私は他者と比較して苦労レベルを見ていたんだ、苦労を皮切りに優劣比較するエゴを増やしたかっただけだ」と気づく。

人によっては、「お主の経験してきたことは苦労じゃ、わしの若い時に似ておる、大事にするんだぞ」と言われて、「はっ」と自分は苦しみを味わってきたと気づく。

苦労した人は新しい視点に気づくことができますが、苦労した経験を自覚できないので自負やプライドを付けません。

「それって苦労なんですか?」と聞かれても、なんのこっちゃ。

「うーん、どうなんだろうね」「苦労かわからないけど大切な経験だよ」「他者がわかることではないと思うよ」といった具合になります。

 

他責の苦労人は過剰反応する

他責でもなんでも苦痛を味わってきたことに変わりありませんが、苦労を自分の糧にできていない場合、反応が顕著です。

「それって苦労なの?」

「な、な、ななな、なにおおおおお!」とこれは極端な例ですが、人それぞれに反発心が出ます。

怒り、泣き、憤り、言われたことが気になって頭から離れない。

人によっては苦労自慢というスタイルもあるため、疑問に思われただけで否定されたと決め付け、自己愛と見栄とプライドが恐怖心を回避するために現実を誤魔化そうと自棄になります。

苦労しても経験値に昇華できていない場合、[苦労した時間・空間・味わい=反発心・拒否感の蓄積]になる。

苦労の理解をされないと、「自分を知って欲しい」という承認欲求と蓄積したものがドバァっと出る仕組みです。

この蓄積物を表した際、このメンタルと精神内情を自覚できる機会になるので、苦労を本当に経験にしたいのかどうかの真意もわかると考えます。

 

苦労によってわかること:「苦行に意味なし?」

なんでも
なんでも

最後に苦労を精神的に活かし、自己理解の材料にする考え方をお伝えします。

ややこしいのをご容赦ください。

大前提、苦労するかしないか、させられるかどうかには大きく二つの基盤環境があります。

  1. 縛りの中で苦労
  2. 自由の中で苦労

縛りか自由かの違いは物理か精神か、客観か主観かの違いと同義です。

  • 縛り=物理=客観
  • 自由=精神=主観

物事の捉え方を物理的にすれば、客観的にすれば、そこには自ずと縛りが存在します。

物事の捉え方を精神的にすれば、主観的にすれば、そこには自由が存在します。

苦労を縛りの中でした場合、他との比較があり、「私のこれは苦労だ、あの人より絶対辛い思いをしている」と自覚でき、自負や主張にもなり、自慢にて存在意義にもなっていくので固執や執着が生まれます。

苦労を自由の中でした場合、苦労かどうかわからない。

しかし、自分の認識が自由だとしても他と共存する社会(縛り)で生きているのが私たちのほとんどなので、苦労だと認識はできます。

その際、苦労だと認識するには自己愛が要ります。

自分を可哀想だと思えれば思えるほど、苦労を認識できます。

すると自己憐憫性の度合いやナルシシストかどうかの話になるので、そもそも苦労かどうか関係なくなります

このことから、苦労かどうかは実質的に苦労という何か苦痛や辛さを味わったかどうかではなく、自分そのものを表す認識の描写になると考えられます。

苦労したどうのこうのでも、これが苦労なのかどうかでもなく。

苦労にてわかるのは、物事をどう感じ・考え・捉えるのかの認識。

自分のことを、他者のことをどう感じ・考え・捉えるかの認識です。

なんでも
なんでも
私は自分自身や身近な人々、出会った人々を“苦労”という観点で捉えると、はっきり理解していることがあります。

とにかく苦労した人は既に亡くなっていることです。

もう一つ理解しているのは、苦労しても生存している場合、必ず誰か何かに助けられていることです。

見逃すことも誤魔化すこともできないほど、はっきり助けられたと自覚できるもの。

苦労に強弱はありませんが、苦労したとわかる人ほど“助けられた”という絶対的なもの、忘れることなど到底できない確固たるものを認識しています。

助けられたとはっきり心から想う経験をしている人ほど、

感謝します。

生きていることに感謝します。

食べ物を頂けることに感謝します。

仕事できることに、物を購入できることに感謝します。

人と関われることに、関わってもらえることに感謝します。

他に感謝し、自分に感謝します。

苦労によってわかるのは経験による認識、そこには助けられた実体験による気持ち、感情の理解。

感謝を生み出すのが苦労だと思います。

 

最後に:苦労した人かどうかわかる

苦しみや痛みは人間にとって嫌なものであり、不利益を与えられたと思いやすいです。

そこにあるのは強弱ではなく認識の違い。

認識の違いにあるのが経験を経験にできているかどうかの度合い、そこに自因と他因、自責と他責が見られます。

「私は苦労させられた」という他因にて苦労を味わわせられた認識の場合、他責になりやすいですが、

他因でも自分の境遇や環境を受け入れ(何より自分自分を受け入れ)ると、自因にシフトして自責にできます。

ゴータマ・ブッダは洞窟で6年間の厳しい苦行をして、骨と皮になるほどだった。

その際、苦行では成道に辿り着かないと悟り、苦行をやめた経緯があると知られています。

「苦行に意味がなかった」ということはないと思いますが、「苦行するために苦行する」

これは縛りの中で自らをさらに縛り、他との比較にて苦しいかどうか思い込み、主張せしめるエゴを増やす活動になりかねず、苦しいと認識したい世界にハマっていく可能性もあります。

苦しみの体感そのものはしっかりと心身の経験となっているため、後は如何に他責を自責にするか、他因を自因にするかで経験の使い様は一変。

そこには自分だけでは生きていない、生きられない現実の理解があり、自然と感謝がある、という考え方。

苦労を紐解く一つのご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

『心理とスピリチュアルの学び場』

誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。

著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
PR:株式会社Central&Mission

※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です