【カタカムナ診断で自分を知る】
当ブログの運営をしている北斗です。「ぜひおすすめしたい」と感じたのでご紹介です。

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誉め言葉か戒めか、それとも事実か。
事実であったとして、だからどういうことなのか?
自分に対して性格が悪いと思う。
そんな内情を探求すると、“性格の悪さ”の捉え様(意味)がわかります。
ここでは、自分の性格が悪いと思う方へ向けて、どうしてそう思うのか、何の意味があるのか、実際に性格が悪いのかを紐解きます。
- 自分の性格が悪いと思う理由を知りたい
- そう思う(行為の)意味を考えたい
私自身、性格が悪いと思っており、今でもよく思います。
そのように思うことの重要性は、「良いか悪いか」評価する以上に、「どうしてその方法で自分という存在を見出そうとするのか?」の答えかもしれません。
自己理解を深める一助になると思いますので、一つのご参考になれば幸いです。
Youtubeもありますので、ぜひご覧ください。
Contents
自分の性格が悪い理由

なぜ自分の性格が悪いと自覚するのか?
「私よりダサい人がいる、あぁ安心安心」
「私って性格悪いよ、だってひねくれ上げてるからね」
「ごめんね、私性格悪いから傷つけちゃうかも、先に謝っておくね」
性格が悪いと自覚している人には、いくつかの在り方が見られます。
- 自分の性格の悪さを隠す
- 自分の性格の悪さに開き直る
- 自分の性格の悪さを正当化する
開き直っている場合、「ひねくれ揚げパンでも作っちゃおう」つって、パン屋ポンポコで販売中つって。
隠す場合には仮面を被りながら見下しや比較による優越感を得る他人利用、自責のなさを感じ、自己嫌悪を感じるかもしれません。
自分を客観的に見ている。

第三者のように俯瞰して自己認識できる人。
「トントン、ごめんください」「ん?なんだいこんな夜遅くに?」と落語家のように一人二役も三役もできることと思います。
客観視できる人にとって、苦しみはそのまま苦しみではありません。
苦しみを感じる自分をどう認識するか、という一コマがあり、「苦しい、から悲劇のヒロインにしちゃおう」や、「苦しい、を遊びにしましょう」となります。
これがまたより一般観念から遠ざかり、一般と比較すればするほどに“性格がおかしい、まずい、悪い”といった名札を作れます。
性格が悪いと自覚するのは自分を客観的に見れる状態であり、自分の存在認知や他との差(違い)を見るために使っていることが考えられます。
本当に性格が悪いのかどうか
自覚がない人ほど根っからの良い人なのか、はたまた本物の悪かもしれません。
客観視できていなくても、「私は性格が悪い」と言っているケースもあります。

実際にはそう自分を認めておらず、そう前置きすることで正当化、非を見ない、相手のせいにして現実から目を背けていると思わないように背ける誤魔化し策になります。
この場合、シンプルに性格悪が考えられます。
※結果的に周囲に害悪を与えてしまう無知や弱さ、成長意志のなさなど、これらの度合いの高さの表れ
のめり込んでおり我しか見えていない、外界や他者からどう見られ、どう思われているかといった目線がないさま。
寄り添いや思いやりを初め、配慮や気遣いも難しく、していると思いながら自分の世界でのみ通用する行為となり、自己中心的や自己愛性人格障害、共感性が歪んだ可能性も示唆されます。
典型例が、「私は優しい人間だからこの人に優しくしている」「自分は性格がいい」と思っているなど。
認める意味がわかっていない人もおり、「私は優れている、できる人間だ、頭のいい人間だ」と思い込んでおり、そう思っている人ほど技量や能力が低いという“ダニング=クルーガー効果”が見られます。
ダニング=クルーガー効果
自分の能力を過大評価してしまう認知バイアス。
能力の低い人ほど、本人の能力にあまりにも肯定的な評価をする傾向であると定義される。
反対に、能力の高い人は他人の能力に対して比較的自分の能力を過小評価しがちであり、他人の技量を肯定的に評価しすぎである、とも言われています。
このことから考えられるのは、自覚していないけれども「私は性格が悪い」と正当化している場合、そもそも自分の性格がわかっていない。
自覚している人は自分の性格がわかっている。これがここでお伝えしている対象です。

性格がわかっているからこそ、自己嫌悪と自己肯定ができます。
実際に自分の性格がわかっているのかいないのかは、見かけは同じように自覚していたとしても実情は肯定と正当化のように天と地の違い。
ここからは実際に性格の悪さを自覚できている人について内情をお伝えしていきます。
➀自分の性格の悪さに自己嫌悪がある人

そもそも性格が悪いと自覚するには、大衆観念や常識など他に基づくルールと比較しなければ見出せません。
堅苦しい食事会に参加した時、「あれは安物のバッグだ、私の方が高いぜ」と内心見下し、安堵でき、食事会が楽しめちゃった。
相手を下にする、自分を優越させる、他人を踏みにじる無尊重の上でなおかつ楽しめちゃうという、事実を露呈させない誤魔化し、現実からの逃げ、その自分を変える気がなく、利益を得てお返しもなし。
実情が見えるほど、「~しなければならない」「こういうものだ」と強要や縛りが多いほど、罪悪を感じるほど、自分の性格の悪さに嫌気がさします。
捉え方を変えると、認識力が高い(賢い)人ほど、相手の気持ちまで考えられる(共感できる)人ほど、そして抑圧が多い人ほど性格の悪さを自覚します。

特に注目したいのは、抑圧の多さ。
「傷つきたくない、嫌われたくない、疑われたくない、嫌な事実を知りたくない」
「~したくない、~されたくない」が多くなり、徹底的に防衛特化することになります。
これに該当する場合、性格が良いか悪いか以上に着目したいのがこちらです。

・自分を変えたいのに変えられない
・自分は変わりたいのに本当は変わる気がない
自己の絶対性がありながら、他からの影響を受けてしまうために自己防衛を手放せない状態が考えられます。
自分をひん曲げて歪めることはできない。
仮面を使いながら、損害回避を果たして身と心を護る。
手放したくても手放せない自己防衛。
心を護るために相手に合わせる必要がありながら、絶対的自己認識がある状態が、仮面を用いて見下し、愛想笑いし、聞いている振りをするなど矛盾を作り、性格の悪さの自覚になる、という考え方です。
これは実際に性格が悪いのかどうか?
他者と人間関係を円滑に送るほど余裕がない、メンタルと精神保護に精一杯の状態が考えられます。
②自分の性格の悪さを肯定する人
「犬にエサをあげたい私」
「…と思ったら私のお腹が空いてきたので先に自分にエサをあげている、性格悪~」

そんな人にとって、性格が良いとか悪いとか一般観念という“他”のふり分けに重きがなく、[性格が悪い=ダメ]にはなりません。
[性格が悪い=おもしろ]
[性格が悪い=能力発揮に邪魔がない]
[性格が良い=実はこれが悪なんじゃない?]となったりもします。
例えば、私は性格がとても悪く、インドにて敬いの対象である高齢者への悪態を隠すことはありません。
金を騙し取ろうとしてきた男性グループの隅で、しっかり奴らの行為に参加している仲間の一員老婆Aがいました。
しらこい顔して、「私は無関係です」と神聖ぶっており、払えと言ってくるので思いっきり10ルピー札を老婆の顔面目掛けてぶん投げたことがあります。
もはや、ぶん投げてでも与えているので、その場を解決するための善良なる活動とすら思えてくる。
完全にただの性格が悪い人間の所業です。

自分の性格の悪さを肯定している人は、自分の中の正義という名の鬼というか悪魔というか、なんでもいいのですが一貫した核があります。
それに反する場合、周りにどう思われようが気にせず、大いに肯定し、受容すらして行為に及びます。
自律があり、疑念がなく、信念や感性を重んじます。
自尊があり、自己受容が前提にある上で、相手に合わせるかどうかを都度選択するため、自分の行動に責任を持ちます。

この場合、本人にとっては正義であっても社会的には悪になる可能性がいくらでもあり、ある日突然強制家宅捜査に入られているかもしれません。
「え、みんなのためになってるのに?」なんて関係ないのが社会のルールでもあるので、世間的には“性格悪”になり得る、“ひん曲がり”であり、“こねくり”であり、“上げつるぴん”。
『性格悪のアンサンブル、曲げて・上げて・昇竜拳!』
こういうことになってしまう人もおり、自らを客観視できながら肯定しているので本当の意味で性格が悪くなることも、大きな実害も利益も共に与える可能性があります。
問題なのは、「性格悪いよ、だから〇〇」の後に何が来るかわかったものではない。
「性格悪いよ、だから美しいでしょ」
ダメだこりゃ、とこういうお話、最高です。
※性格は悪そうでも根が優しい人の詳細は、【悪態ついても心は綺麗】根が優しい人の特徴15選+共通点 をご覧ください。
自分の性格の悪さに嫌気がさす

性格の悪さに嫌気がさす時に考えたいこと
- 敏感、繊細
- よく気がつく
- 共感性が高い
- 自己肯定感が低い
- 自己受容が高い、自尊がある
- 正否・良悪観念が強く、非に対して高圧的
- 他人との比較による優劣、評価癖
- 仮面を使い、周囲に合わせる
- 頑固な一面、一貫性がある
- 納得いかないとスタック
- 優しいが思いやりは苦手
- 自分に嘘をつけない
- 恥ずかしがり屋
- プライドが強い
- 切り替え下手
- 完璧主義
- 飽き性
- 否定癖
自分を貫く絶対性がありながら周囲に合わせる、という矛盾ができます。
この矛盾が、愛想笑い、聞いているふり、隠れた見下し、優越を得る比較などをしながら自覚する状態を作ります。
疲れやすく、ストレスを溜めやすく、余裕がなくなり、攻撃的にもなっていきます。
誤魔化したいのに、「はい、今私は誤魔化してまーす」と認識してしまう。
誤魔化すならなかったことにして、記憶から抹消して、脳内ニューロンの一部を都合よく壊したいもの。
嘘をついていることに対して嘘をついていると思わないように嘘をつき、その認識が嘘であると思えるように嘘をつきながらこの行為がそもそも嘘であり、自分という存在が嘘になればいい。
ですが、そういかない。
この矛盾によって生まれているジレンマはそもそも矛盾ではなく、問題にすらなりません。
問題は、社会など“他”を主軸にすると矛盾になってしまうこと。

他を主軸にすると自己防衛しなければならなくなり、かつ自分を消せないので強情や頑固になり、なんとか自分を残そうと頑張って貫こうとします。
例えば、人に意見を求めておきながら全くその通りにしない、聞いているのに聞いていない。
他人利用や自己中だと思われる言動になります。
なんとかしようとするほどに他を主軸にしたまま頑張ることが起き、外部装飾に独自性を見出す方向に走るかもしれません。
例えば髪型を奇抜にしたり、色をカラフルにしたり、洋服を目立つようにしたり、話し方のキーを部分的に変えたり、変なキャラを演じたり。
頑張るほど問題の核が埋もれてしまう懸念があり、頑張ろうとするほど性格が悪いと自覚することになります。
性格が悪いと自覚することがそのまま存在認知になるため、性格が悪い自分でなければ自分がなんなのかわからなくなる可能性もあります。
やり方を変える大切さがあります。
※性格が悪い人の末路は、【自滅か幸福】性格が悪い人の末路は極端│始まるも終わるもない人生 をご覧ください。
嫌気がささないために:主観の大切さ
そこから性格の悪さを肯定するに至った経緯には、自律があると思いながら実際は他律であったことなど、事実をとにかく認めていく行為がありました。
このために私が理解しているのは、主観を自分に定めることの大切さです。

現状、主観が定まっていないかもしれません。
「豪華な船旅世界旅行!」に参加したとしても、「つまんないな」と思えばスペインで降りて自分の好きなように周り、一人で帰って来ていいんです。
主観が他である状態は、[性格が悪い=ダメ]というルール従順で決め付けやすく、「これが私なんだ!」と思いつつもそれは他が決めたものだったり。
例えば、「私は可愛い、ブサイク」と思うのは典型的な他律。
造形や配置評価は他との比較なくしてできず、さらにブサイクかどうかを自分が決められるはずはなく、他の評価を気にしたり肯定しすぎる(ダニング=クルーガー効果)が故の影響受け。
頑張るほどに矛盾を作り、自己の貫きと周囲に合わせるジレンマにていろいろと嫌気がさしてしまいます。
主観を自分に定める上で着目したいのが、俯瞰性が強すぎる状態です。
意識が抜けたように浮く、話し方に力がない、気が入っていない、フラフラした状態になります。
地に足が付いていないイメージでして、へらへらした軽さ、緩さが際立つようになります。
主観にしないことで現実逃避しやすい、感受影響が緩和されるために傷ついても多少は難を逃れられます。
さらに、状態把握できる、物事に気づき、相手を読みやすいなど把握能力が上がります。
一方、地に足が付かないので継続できない、だからこそ頑張らなきゃと強迫観念が生まれやすく、やる気が直ぐなくなる、感情が薄まる、飽き性、他から影響されやすいなども起きます。
主観を自分にすると地に足が付き、自己防衛必須から必要かどうか選択する状態にでき、矛盾が減ります。

具体的に、主観を自分にするためには自分で自分を“認める(自覚する)”姿勢が重要です。
他が決めた自分でも、他によって見出された自分でもなく、自らが自らを見つめて一つずつ認めていく自覚の増やし。
例えば、「上手く話せない私」ではなく、「こういう間、テンポで話す私」
そのままをそのまま見てあげる、そこに良悪査定はなく、私は可愛いではなく、「私はこういう目でこういう鼻でこういう顔なんだ」と。
初めは勇気が要りますが、正解も間違いもレッテル区分けなく“認める”ことが増えていくに連れて自律が解放され、自分軸が見出され、主観が定まります。
客観視でき、自分の性格がわかっている人は、現状の主観が定まっていないとしても、自尊があるために自分軸と自律があると思います。
自分軸を作り出す手間がないため、如何にシフトできるか。
新たな経験が必要な成長ではなく、奥に潜む真実を表沙汰にする露わがキーです。
※年々性格が悪くなっていく理由は、どんどん性格が悪くなっていくのはなぜ?理性のタガを外す年頃 をご覧ください。
要注意ポイント:自分を何者かにしない
客観視できる人はいくらでも自分を変えられるからです。
しかし、客観視できても変わらなくなる大きな要因、最も気をつけたいものがあります。
自分を何者かにしようとすることです。

主観を自分にシフトするために欠かせないのは、「自分を何者かとして認めよう」とする思いの撤廃です。
とっても邪魔でして、「私はこういうものだ!」と思っている以上は自分軸というのは存在しない(思い込むことはできる)と私は理解しています。
キャラ設定するように何者かにするとどうしても比較がなくならないため、我(エゴ)がなくならず、自己が出てくる隙間がないという仕組みです。
例えば、お酒を飲みながら、「私は誰よりも酒に強いんだぞ、ほらこれだけ飲める」という状態が該当します。
髪色をカラフルにして、「オレンジ色の私は他とは違う個性の表れ」と同じです。
趣味や嗜好としては人それぞれするのは素敵ですが、それによって自分を見出そうとすると自分軸があると思い込めますが、実際には消す行為です。
新たに何か育むのではなく、シフトするのが鍵となるため、自分を見出すのではなく認める。

良いも悪いも、見たいも見たくないも、自分についての現実をポジティブでもネガティブでも認める。
事実は何か知る行為。
この“認める(自覚)”行為が矛盾を消し、自己嫌悪を減らします。
主観を定め、メンタルや精神に余裕を持てる状態になると、性格が悪かろうがひん曲がっていようがこねくり回っていようが、肯定へ向かへます。
その時、ついに性格が悪くなれる日が来ることと思います。
※性格が悪いと幸せになる件は、「性格が悪い人ほど幸せそう?」上手くいく人から学べることがある をご覧ください。
最後に:自分の性格が悪い
事実を認めるために欠かせないのが“客観視”であり、メタ認知。
この能力を育むために私たちは多大な労力と時間を費やし、知能を使い、人によってはお金も使います。
なにより自分に嘘をつかない意識を要するため、人によってはこの意識を構築するために人生の大半を費やすかもしれません。
これを無意識、継続的、かつ自然にこれまで行い育んできた人が、良い人間だろうが悪い人間だろうが自覚できる人です。
自分の性格が悪いと本当の意味で認められるからこそ、思い込みでも決め付けでも、それらによる企み(被害者になって自分を見出すなど)でもなく、
自己嫌悪にて苦しい気持ちになったり、自己肯定して解放的になります。
私たちは一般観念の良悪照合以上に、目の前の人間との関係性による化学反応を楽しみます。
性格が悪いかどうかを決める世間ルールも多少大切ですが、
重要なのは今目の前にいる人、対峙している自分、そしてお互いの気持ちだと思います。
実際に良いか悪いかはお互いの関わりによる化学反応で決まるため、決めるのは自分と他人の両方、社会なんかではありません。
自らを見つめ、変革を作る、そんな一助になることを祈ります。
ありがとうございました。
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めちゃくちゃ善い記事でした!!!
(事実を湾曲して操作しようとしているのではなく、北斗さんが自身と向き合えている勇姿を見れること、また、他者にその知識を共有していただける心掛けが心の底から嬉しいです☺️)
自分を性格が悪いとか良いとか思えるほど中身のある人間ではありませんが、その軽薄さを自己肯定したい最近です!焦(笑)
追えるときとそうではないときムラがありますが、動画も記事も(見たくないのもあるけど)活動の更新を、心から楽しみにしています!
それは本当によかったです。
お言葉に感謝、ありがとうございます。
より活用的な内容になるよう心掛けていきますね♪