スピリチュアル

洗脳的においがするスピリチュアル|おかしいけどおかしくない理由

スピリチュアルって何なの?洗脳?カルト?

スピリチュアルを科学的、物理的に証明できたら、それはスピリチュアルではなくなります。

しかし、現実的にするためには科学の要素も必要で、量子力学や神聖幾何学のような、物理的に理解できるような概念も存在します。

スピリチュアルが怖い、怪しい、ヤバい、洗脳だ。さまざまにネガティブなイメージがあるかもしれません。

ここでお伝えしたいのは、”スピリチュアルがおかしいかどうかの紐解き”です。

しかし、霊能力や心理的揺さぶりによる明らかな詐欺や、霊媒商法的なビジネスに関する話ではありません。

スピリチュアルとは座敷童のこと。

こういう怪しさについて話していきましょう。

ここでは、スピリチュアル能力や霊的な話をする人への疑心感、怖さから、どうしてスピリチュアルをおかしいと思うのかを紐解きます。

すると、おかしい理由とおかしくない理由が共に表れるので、その上で距離を取る、または自分の認識を理解する一助となれば幸いです。

スピリチュアルは洗脳なのかどうか

初めにスピリチュアルの洗脳的なニュアンスをご覧ください。

スピリチュアルを洗脳だと思う理由

スピリチュアルって何?と言われても、精神性や魂的、霊性や神秘など、同じことを言っているようでも実際には全く違うことを言っています。

そのため幅が広い。一言でスピリチュアルについては解説が難しいものです。

私自身はスピリチュアルの意味不明な感じが好きなので興味を持っていますが、自分の理解では、スピリチュアル=哲学であり、物事の意味を紐解くアイテム的な感じだと思っています。

人によって解釈が異なり、霊とか、魔術とか、陰陽的な、交信的な、能力的な、宇宙的な、天使とか神とか、輪廻転生とか、死後の世界とか、なんだか色々あります。

さまざまな分野があることと、スピリチュアルが魂との繋がりによる理解であることから、原因不明でわかりにくいものに対しての独特な理解があり、東洋医学と西洋医学の違いのように見えないだけでしっかり存在する気やチャクラやエネルギーといった認識からの“人助け”があります。

そんな人助け、見えないために相互理解の責任が薄くなります。

「自分だけ理解していれば、相手がわからなくてもかまわない」といった認識になりやすく、そこに人間の弱さが加わることで、スピリチュアルは洗脳や怖さを作ります。

それが見えない怖さであり、犯罪心理にも共通がある、他者の目や証明責任がなくなることでの気抜けがあります。

スピリチュアルが洗脳に思える理由 : 人間の弱味が利用しやすい”見えない認識”による気抜け
※責任追及ができず、人助けにて人の恐怖を利用しやすい

 

助けてあげたい、助けてほしいの両者が洗脳を作る

スピリチュアルな能力や認識によって、人の弱さや不調和が見えます。

例えばオーラの色や光沢を見ることで、くすみがある部分には、血や気やチャクラに循環がなく滞りがあり、欠陥や病気がわかる人がいます。

スピリチュアルな理解があることで、人の苦しみや辛さがわかるため、救済意志がある人は、「助けてあげたい」と思う動機になります。

すると、助けてあげたい一心から自分のわかることを人に伝えます。

そこに食いつく人がいる場合、助けてあげたい、助けてほしいの相互関係が作られます。

辛さや苦しみ、心配や悩み、これらは全て恐怖のことですが、スピリチュアルによって”恐怖”を使用した人間模様が作りやすくなります。

それが、”人助け”です。

「苦悩をなくすために邪念と邪気を払い、体の淀みと停滞を解く」
「霊の縛りを取り、呪いと呪怨を浄化する」
「エネルギーを晴らし、辛さや苦しみとはさよならじゃ」
さぁ集まれ、救済を求める人達よ!

とこんなイメージでしょうか。

恐怖とは私達が最も嫌がるものです。ちまたでは恐怖を使用したビジネス心理だらけです。

それと同じように恐怖を使用し、さらに人の苦悩や苦しみを解消するような喜びへの道が見えれば、人間は未来への輝きを期待し、心を躍らせ花開く。闇に光を差し込むように神のように崇め奉る。

すると洗脳が完成します。

恐怖を抱える人が対象となる”人助け、救済”は、助けてあげたい人と助けてほしい人の相互関係があることで、お互いによって洗脳が作られます。

そのため、悪徳なビジネスや、霊的商法に使われやすいのがスピリチュアルです。

 

スピリチュアルが怪しいカルト的に思われる理由

人の弱味を握りやすいのがスピリチュアルではありません。

“見えない認識”という責任追及のできない領域にて、人の弱味を握るかどうかが人助けする側にしかないという状況から、一方的な関係が作られやすいのがスピリチュアルです。

恐怖という弱味があることで、それを握られると洗脳するしないのスイッチは”人助けする側次第”になり、そこに危険性があります。

さらに、弱味を持つ人が依存心を持っていることで、その弱味を敢えて相手に掴ませようともします。

ほれほれと心臓をプルンプルンして、それをガシッ。お互いの関係構築完。

私達人間はとても強い存在でもあり、弱い存在でもあります。そして煩わしくもあり、微笑ましくもあり。

助けてほしい人がいれば、助けてあげたい人がいます。弱さを持つ人は依存と執着が強いので、助けてあげたい人がいればすがり頼ろうとします。

そのため、”人助け”は喜びもヘドロも共に生み出されるもので、ヘドロを生み出しているのは助けてほしい人の弱さと、助けてあげたい人に助けられる力がない、またはそういった人を利用して元々助ける気がない人間同士の営みであり当事者の創作です。

俯瞰して状況を見れる人はわかると思いますが、これは既にスピリチュアルとか関係なく、人間模様の話です。

そのため、“人助け、責任追及できない”の二つが揃い、そこに”依存”の関係性があるだけで、「怪しい」と思います。

スピリチュアルとか関係なく何に対しても思います。

そのため、スピリチュアルと言って人助けして、規模が大きくなれば自然現象として、「怪しい、ヤバい、カルトだ、宗教だ」とネガティブな印象を周囲に与えます。

もう本当、自然なことです。

 

スピリチュアルではなく、依存と執着と責任希薄がカルト感を作る

スピリチュアルが嘘か本当かではなく、「洗脳だ、危険だ」と思う人は、スピリチュアルにて被害にあっている人を思う気持ちがあります。

同時に、スピリチュアルへの嫌悪もあり、「人助けしてさらにお金や名誉まで得て、蜜吸って生きやがって」という嫉妬もあり、痛い目を見ろという攻撃性もありと、多くを抱きます。

それは純粋であるが故のものでして、人助けのスピリチュアルを怪しいと思うことは自然なことなので、思えば思うほどに純粋度が表れます。

そんな人の目線で見ると、スピリチュアルをカルト的に思っているのではなく、依存と執着の集まりや、責任追及ができないことから責任がないように見える様にカルト感があると思います。

スピリチュアルを使用して人助けする場合には必ず責任を持っている必要があり、責任追及のない気抜けに甘んじていると、助けてほしい人の依存と執着を増長させていきます。

すると、良いことしか言わない、愛が全て、エゴはダメ、悪はダメといった、物事を一極面でしか見ない状態となり、蜜をばらまいて虫を集めるような宗教感が否めなくなります。

「辛いだって?!じゃあ死ね」

「いや、言い過ぎー」って感じですが、おそらくこんなことを言う人であればカルトや宗教だとネガティブに批判されないと思います。ですが、最後で優しくしたりすると自分の依存が露になり、依存者をより依存させてしまいます。

団体のように助けてほしい人が大人数集まることで、スピリチュアルを語る人助けしたい人は一人一人をしっかり認識しなくなります。というよりはできなくなります。

すると、外から見ているとより責任が希薄に見えてしまいます。悪徳な人や恐怖を利用している人は別ですが、人助けしたい人は人のことを想って自分の行為に責任を持っていると思いますが、誰しもに同じ助け方がある訳ではないので、どこまでの規模にするかも含めた認識がないとネガティブな印象を与え続けます。

厳しさや突き放ちも大切な人助けであり、自分のしていることへの自覚であり、発言の影響を含めた責任となるので気抜けがなく、物事を一極面だけではなく、本当に人のことを想って一人一人と接する行為だと思います。

※スピリチュアルの意味が若干わかる話は、本当の自分がわかるスピリチュアル|本物は自分だと認識してくれないんです をご覧ください。

本当の自分がわかるスピリチュアル|本物は自分だと認識してくれないんです本当の自分とは一体何者でしょうか? 自分のことを考えると、自分の中には何人もの自分がいるかもしれません。 しかし、自分の内側...

 

スピリチュアルはおかしい、おかしくない

次に、スピリチュアル系の人についての紐解きをして、おかしいと思う理由と、おかしくない理由を見ていきましょう。

スピリチュアル系のおかしい理由

「スピ系の人ってなんかおかしいよ、ヤバいよ」

おかしいと思う理由には不自然な様があると思います。

単純にスピリチュアル自体が不思議なので、理解ができず不自然に思えることもありますが、スピリチュアル系の人に対する不自然さもあります。

それは、スピリチュアル系の”人間性”におかしいと思う理由があります。

それが、“思い込み”をする人間性です。

スピリチュアル系をおかしいと思う理由 : 思い込みの人間性に違和感
※思い込んで決め込んでいることに不自然さと違和感がある

思い込みをする人は、「これが正しい」「霊はいるよ」「見えるもんは見える」と決定事項、周囲の意見が聞こえなくなります。

それは、1+1=2であるように、目の前に蛙がいればそれを蛙と思うのが当たり前なように、本人にとってはいたって普通のことなので思い込みではなく事実でもあります。

しかし、無意識に事実以上に思い込みをしていたりします。

詳細を紐解いていきましょう。

 

思い込まないとスピリチュアルな認識にならない

スピリチュアルとは、チャネリングやヒーリングやリーディング、霊視や霊媒、異次元交流に波動認知など、さまざまな認識があります。

思い込みの人間性によって周囲の意見を聞かなくなったり、レベル分けしているような人の見方になったりします。

それは無意識なもので、意図せずとも差別化した見方や分類をしていたり、他者の意見が耳に入らないように防衛していたりします。

なぜならば、スピリチュアルな認識に欠かせないのが、“一切の疑いなし”だからです。

スピリチュアルな認識には、自分の見えるもの、感じるもの、思うものを受け入れる際の抵抗があってはなりません。

それは自分を信じる意識をなくし、見えるものも見えなくなります。

言い方を変えると、”エゴ”があることでスピリチュアルな認識はわからなくなります。それは魔女の宅急便の主人公が急にほうきに乗れなくなったことと同じです。

そのため、スピリチュアル系に”思い込み”は必ず必要で、周囲から否定や批判をされようが一切受け入れないようになるのはほうきに乗れなくなっちゃうからです。

エゴとは他者と区分けして自分を見出す意識のことで、他者と比較したり、他者の反応に揺さぶられる状態にある自分らしくいられない抵抗のことです。

スピリチュアル系にとっての”思い込み”とは、自分を正当化したり、他者の目や反応を気にした自己防衛などではなく、自分を信じるためのものです。

そのため、周囲に批判や疑いが強ければ強いほどに、無意識に認識を守るために思い込みを強めます。

思い込みの人間性から、他者の意見を受け入れず邪魔に扱っているような、頑固に決め込み他の意見を聞かないように見えるため、周囲からはおかしいと思う理由になってしまいます。

 

自分が確立していないスピ系はスピリチュアル以外が見えなくなる

初めにお伝えした洗脳は、助けてあげたい人と助けてほしい人の関係によって成り立つものですが、助けてほしいと思っていなくても”依存心”がある人はスピリチュアルにはまってしまう傾向があります。

それは、スピリチュアルというものを逃げ道や安泰として、恐怖の対処に使用することができるためです。

自分がなかったり見失っていると、スピリチュアルを人助け道具や現実逃避アイテムとして認識します。

自分の都合の良いようにしか物事を解釈しないことで、スピリチュアルの責任追及のなさに、自分を否定されることや存在価値を見失うことのない安泰を得ます。

恐怖を味わわない逃げのためにスピリチュアルを利用することで依存し、そこから抜け出すことができなくなります。

そんな様を周囲から見ていると、「この人おかしいでしょ」「こんな風になっちゃう世界ってヤバくない」と中身を見ずに判断する要因になります。

スピリチュアルがおかしい訳ではなく、依存心の強い人がはまりやすく、弱さが漬け込めるのがスピリチュアルの甘さであり、全てを受け入れるスピリチュアルの特徴です。

 

スピリチュアルはおかしくない理解

「スピリチュアルをおかしく思わないで」なんてことは一切ありません。

むしろ、私はスピリチュアルはおかしくあるべきだと思っています。

そして、スピリチュアルは現におかしいです。

そのおかしさは自然に抱かれるもので、人間の摂理のようです。

“人助け”が関わるものには責任と強い意志が伴うため、それがない場合はスピリチュアルに限らず、医療も科学も農業も何もかもがおかしくて怖いものになります。

例えば、お医者さんでも人助けをしたいのかお金儲けをしたいのか分かれれば、病院によってはおかしくて怖いものになります。

精神科なんて行ってみてください、仕組みやシステムはヤバいどころではありません。

科学や農業も人のためなのか何のためなのかによって、国を滅ぼす動力開発にもなり、同じ農薬でしか育たない食べ物のような何かの大量生産にもなります。

この世はヤバさ満載で、おかしさ満載です。

スピリチュアルは人助けとなる認識が実に多く、悩み、苦労、不安、恐怖、死、生、未来、期待、光、救済、慈悲、愛など、人の弱さの核となり、寄り付きたくなるものが満載の分野ですので、関わる人によっておかしくて怖くてヤバいものに早変わりです。

おかしいものはおかしい、おかしくないものはおかしくない。これは同じ分野の中でも関わる人によって変わります。

人の依存心と弱さ、恐怖を嫌がり逃げ続ける人間性と、蜜だけ吸いたい甘え、良いことしか見ようとしない我、これらは自分のなさや意志の弱さから見出される認識です。

何をおかしいと思い、おかしくないと思うか、それは完全に自分の経験と認識で決まります。

 

スピリチュアルな認識があればおかしいとは思わない

自分自身で経験したものでないと実際に理解はできません。

アフリカの子は食べ物がなくて可哀そうだと、テレビや誰かが言ったことをそのままインプットしたとしても、実際に自分がご飯を食べられない経験をしなければ理解はできません。

そのように、スピリチュアルも実際に自分で経験しなければ、おかしいもおかしくないも自分の理解ではありません。

私自身は一切スピリチュアルとは関わらない人生から、突然のようにスピリチュアルな認識が伴い出したのでこの考え方なのですが、スピリチュアルな認識は誰しもが持っています。

認識するには自分を信じる意志が大切で、疑いや嘘や誤魔化しの思い込みがあると、経験は伴わず理解ができません。

そして、理解ができれば本人にとっては事実なので、おかしいと思うことはありません。

しかし、理解する必要もなく、「科学の仕組みはわからないけどみんなが言っているならそうなんだろうね」という解釈のように、スピリチュアルがより浸透して恒常化することで自然と疑心はなくなっていくので、その時に自らの意志でおかしいと思うかおかしいと思わないか、そんな自分自身を知ることが自分のためになります。

 

おかしいと思えないことを理解するとおかしくないことがわかる

スピリチュアルの理解がある人は、「おかしい」と思うと能力や認識がなくなるので、おかしいと思うことができません。

それがスピリチュアルという不思議な世界ですので、スピリチュアルな認識があるかないかにてドンッと大きく線引きが起きます。

それは区分けしたいのではなく、自然と線が置かれる感じです。

おかしいと思うことは意見なのでわざわざ変える必要はありませんが、スピリチュアルな人はおかしいと思えないことを知れば、自然と距離を置いた方が良い、というのは冗談ですが、スピリチュアル系にとってはおかしくないことの理解となり、フィルターのない見方にて認識幅が広がり、自分のためになると思います。

ですが、押し付けをしてくるスピ系の場合には、思い込みにてスピリチュアルな認識を自覚するのではなく、自分を正当化して価値を高めたり、存在意義を見出すために他者を利用する人間ですので、その際にはガンガン距離を取って、「おかしい、やべぇやつだ」と言ってやりましょう。

※スピリチュアルが嫌いになる話は、スピリチュアルが嫌いで苦手│好きでもどちらでもない人が知る理由 をご覧ください。

スピリチュアルが嫌いで苦手│好きでもどちらでもない人が知る理由「えぇ、嫌いです」「なんて言うか胡散臭い」「意味不明」 スピリチュアルはなんとも嫌われる対象ではないかと思います。 非科学的...

 

スピリチュアルにある洗脳とおかしい理由 まとめ

物事をフラットな目線で見ることは、自分の認識を広げる成長になります。

どんな世界にもおかしいことやおかしくないことがあり、全て関わっている人が作り出します。

そのため、おかしいことを増長する人がいる場合には、そこにもおかしさが潜みます。

おかしいと思う人はおかしいと思います。それは自然なことです。

ですがそれまでです。おかしいもおかしくないも、それを他者に押し付けることで自分の正当化や価値認識や承認欲求など、押し付ける人の話に変わってしまいます。

物事全てには意味があります。スピリチュアルな認識があることに意味があり、スピリチュアルを理解している人がいることに意味があり、スピリチュアルが存在します。

お金のため、人助けのため、それは自分の存在価値のため、認めてもらうため、必要としてもらうため。一体真意は何のため?

お金のために人をはめているのか、はまる人がいるためにはめる人は一生自分を見失い続けるのか。

物事にはいろいろな見方があります。

人から認めてもらうことは嬉しいことですが、それを求めるほど価値のあるものではありません。

自分で自分を認めている人は責任を持ち、褒められることにそんなに喜びはありません。自分で喜びを見出して楽しもうとします。

そのため、スピリチュアルを洗脳に使うのか、おかしいと思われるのかは、その人が楽しんでいるかどうかでわかります。

楽しむ人に依存は通用しません。頼ることもすがることもできません。すると、楽しむ本人は一人一人を見ずに責任を持たずに人助けすることはなく、カルトや宗教に見られることもありません。

それはまるで座敷童のようです。

スピリチュアルをおかしいと思うか、おかしくないと思うか、それはどっちでもいいことですが、座敷童のように遊びとして一生懸命に目的と意志を持つ人に良きことをもたらし、安泰を得て甘んじ、目的と意志がなくなり物事に依存したらその場をスーっと離れる。

それは、一生懸命な人を見ているのが楽しいから人助けして、怠惰になったら一緒にいるのが楽しくないので離れる。しかし、離れることも依存に気付かせて目的と意志を持った自分に戻らせる人助け。

そこに依存も思い込みも洗脳も無く、おかしいともおかしくないとも思わせないフラットな在り方。

まさに、スピリチュアルなおかしさとおかしくない様の融合のような存在です。

そんな訳わからない話をしたところで、スピリチュアルが洗脳でおかしいと思う理由について終了します。

認識の幅が広がり、可愛い座敷童があなたに付くことを願います。

それでは、最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

【人生が始まるストーリーを電子書籍にて販売中!】

奇妙に核を突く人生物語の本

※少しばかしおかしな人間なもので…少しばかしおかしな経験をしました。
アラスカの森で起きた、奇人となるまでの変貌ストーリー。
一風変わった刺激物として、ふざけた人生を大真面目にお伝えしております。


楽しく読める内容となっている実話ですので、ぜひご覧ください。

 

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です