育ち

謝らない人の育ちは極端なアンバランス「謝らない人の実家に行ってわかったこと」

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「ごめんなさい」

これを言うくらいなら死んだ方がましだ。

本当にいます、こういう人。

「人間性をどこかに置いてきたのかな?」と思えますが、謝る以外のシチュエーションではいたって人間的。

私が社会人として会社で働く際、謝らない人は意外に多いことを知りました。

さらに海外を旅している時、私が出会った中で最も謝らない人を発見。謝るくらいならマフィア相手にナイフを突き刺す人でした。

そんな人の実家に招待された際、はっきりとわかったことがありました。

ここでは、謝らない人の育ちを詳しく紐解きます。

  • どうして謝らないのか理由を把握したい
  • 謝らない人の育ちを知りたい

海外での体験談と共に、謝らない人の過去を分解します。

人間の内情と関わり方の理解を深めるために、一つのご参考になれば幸いです。

謝らない人の謝らない理由

どうして謝らないの?

「ごめんなさい」

この一言に何があるのか。

謝らない人は頑なにこの言葉を発さず、言ったとしても、「はいはいごめん、これでいいの?はぁん?ぁあん?」

謝罪の気持ちがありません。

謝りと、罪の気持ちを、持たない

謝るとは感謝にも含まれる「謝」

中国語では謝謝(シェイシェイ)なんて言いますね。

感謝には自分の喜びを噛み締める意味と、他者を尊重する二つの意味がありますが、謝ることは他者に向けた意味を認識することが多いと思います。

このことから、謝らない人は他者に向けた尊重(愛)がないだけでなく、愛を向けたくない、与えたくない在り方が伺えます。

そんな人は、「謝る」の捉え方が他者ではなく自分に向いている特殊なさまがあります。

『謝る=罪を感じなければならない、自己否定しなければならない』

これを紐解くと、謝らない人の特殊ルールが見えてきます。

 

謝らない人にとっての謝る意味6選

謝る捉え方が特異になる根底には、「他者のため」が皆無である前提があります。

この上で、本人にとっての謝る意味がこちらです。

謝らない人の謝る意味
  1. 自分のためにならない
  2. 勝負の負になる
  3. 劣等感の増長
  4. 自己愛の抑圧
  5. 自己否定
  6. 罪悪拡張

一つずつ見ていきましょう。

 

1,自分のためにならない

「自分のためになるかどうか」が謝るためのルールになります。

言葉そのものの意味とは全く別物として使い、自己都合と自己中心によって塗り固められます。

「自分のため」になればとにかく謝りまくり、自分のためにならなければ頑なに謝りません。

謝らない人は自分のためにならないと判断しており、謝りまくる人よりも頑固で柔軟性がありません。

 

2,勝負の負になる

謝った瞬間、勝負、上下、優劣、善悪の認めたくない方になります。

「負け犬、下僕、劣等、悪、ダメ」

謝る行為はネガティブなプライドや見栄が拒否感を覚えることを意味し、自己内部で恐怖心を抱きます。

恐怖心(自分そのものの拒否を抱く気持ち)と向き合えない人ほど謝らなくなり、誤魔化しや逃避傾向を表します。

 

3,劣等感の増長

謝ると下になるため、劣等感やコンプレックスがギャーギャー騒ぎ出します。

他者との比較意識が強く、シーソーゲームをする我(エゴ)のマインドが黙らず、謝らないように自らの口を針と糸でミシン縫いします。

 

4,自己愛の抑圧

謝ることで自己内部の拒否(恐怖心)が引き出されるため、謝ると自己愛が抑圧されます。

「自分を喜ばせたい、愛したい、愛される存在だ、重要な人間なんだぞ、そうだろ、絶対そうなんだよ!」と思いたい自己愛が抑えられ、まるで嫌いなピータンを無理やり食べさせられる気持ちになります。

自己愛が強ければ強いほど、謝ることは他者に愛を与える喜びになりますが、謝らない人は自らを愛するのではなく、愛していると思い込めるようにする自己愛(我欲)

この自己愛は、謝ることの大きな抵抗になります。

 

5,自己否定

謝ることが自己否定になります。

自らの存在価値や意義そのものに影響を与える大きな意味。

自分のためにならず、勝負の負になり、劣等感まで感じなければならず、自己愛まで崩壊される、もう最悪です。

謝る理由はどこにもありません。

謝りたくない理由はたくさんです。

 

6,罪悪拡張

謝ると罪の意識が芽生える、そんなルールに縛られています。

罪悪感や嫌悪感を含めた大きな拒否(恐怖心)を抱くことになっています。

まるで悪いことをしたような、してはいけないことをしたような、ルールを犯す罪の意識。

象が鎖に繋がれて育つと、鎖を外しても逃げなくなる状態と似ています。

以上が、謝らない人の持つ独自解釈でした。

 

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謝らない人の育ちと過去

育ちを紐解くために、初めに私の体験談をご覧に入れます。

体験談:ニュージーランドにいた何があっても謝らないインド人

ニュージーランドで出会ったインド人男性は、私の仕事のボスでした。

簡単に紹介しますと、嘘つき、自己愛性者、自己中心的、自己否定されると暴れる、人を騙す、利用する、周囲からは危険人物と認識される人。

一応ボスですので金回りがよく、高級車をブンブン乗り回し、見栄が強く、周りからの評価をとにかく気にします。

お金を使う時は、「みんなのためにお金を使ってあげているんだぞ、わかってるかい」と主張するように使います。

他者承認欲求、マウント、比較差別、自己都合の塊。

一言でまとめると、自己愛を主張する我です。

このボスに限りませんが、謝らない人は自己肯定欲求がとにかく強いと考えられます。

自分を認めたい欲であり、自分を否定したくない欲。

これが過剰化した状態は、自分を認められない、否定してしまう心理を意味し、他者によって認めてもらいたい、他者から否定されたくない強欲者になります。

否定されたくない気持ちは一般的には自己防衛の形が主流かと思いますが、謝らない人は欲であるため、自己否定されていると思えば攻撃的になるのが特徴です。

私が出会ったボス、これまで関わってきた中で断トツの謝らない人。

何があっても頑なに謝らず、あるメキシコ人をボコボコの血だらけにしても、従業員の給料を騙し取っても、「あいつが悪い」の一点張り。

マフィアと飲食店で言い争いになった際、なんとナイフで刺して逃亡。

何があっても謝らない在り方は、自分の罪を自分のために認めない。

自分が悪いと思わないために、逃避を欲する(現実から逃げたくてしょうがないけど逃げられないからもがいている)心理と考えられます。

自己否定しないため、されないために徹底的に自己愛(歪んだ我)を使用し、何があっても自分の否を認めず、内観や内省せず、常に誰かのせいにして、求める欲(納得や満足)を得ようとします。

一体どんな育ち方をしたのか、中米の山奥の洞窟で育ったのかなと思いきや、

なんと警察官(上官)の息子。

私の興味は彼の家族へ向いていきました。

 

謝らない人の育ち:実家で見た光景

私は誰よりも働く人間であったことからボスに気に入られており、ある時実家に招待されました。

そこで出会ったのは母と父、彼の幼馴染の女性(近所に住む)、そして家政婦。

父親と出会った瞬間は衝撃でした。

私を見た瞬間に上から目線になり、主導権を握られないようにしながら、それを必死に表に出さない装い、頑固一徹、象の皮。

険しい顔をしており、偉そうな印象が凄まじく伝わってきます。

言葉を発さず、私がちゃんと挨拶するか観察しており、挨拶したのを確認して無言でその場を離れていきました。

怖いチェックです。

一方、母親と幼馴染は物腰低く、静かにニコッと笑い、ゆったりした雰囲気。

こちらが話すと一生懸命に聞いてくれて、すぐに茶、菓子、フルーツとたくさんのもてなしをしてくれます。

そんな家庭に数日間お邪魔してわかったのは、謝らない彼の育ち。

家には明確なまでにある環境がありました。

上下区分けの徹底です。

 

上下区分けを徹底的に観念化する育ち

父親の険しさや偉そうなさまは、警察官の高い立場である、だけには思えません。

昔の日本人のように厳格な亭主関白、男が絶対的に上だと決め付けた世界を生きるさま。

自信ではなく頑固への執着であり、正義をかざして正当化を接着させた不変の決意、まるで己は変わる必要のない神。

貫くには必ず周囲(特に奥さん)の賛同、諦め、受け入れなど、何かしら決め付けの押し通しを認める環境があります。

幼い頃からこの環境で育つと、物事を上下比較・差別で見るのは自然です。

これは私の家にもありました。

私はひねくれ者ですので、「この人なんで偉そうなんだ?この人なんで従ってんだ?」という親への疑いがあり、認識の縛りは緩かった方だと思います。

ひねくれていてよかったと思いますが、素直で真っ直ぐな人ほど自分なりの見方がなくなり、上下で物事を認識することに違和感がなくなりやすいと思います。

違和感がなくなると自覚できないため、育った環境がそのまま観念化され、鎖に繋がれた象が、鎖を解かれてもその場から動かない状況と似てきます。

自然と上下区分けの中で人を上か下か、強いか弱いか、優れるか劣るかで捉え、差別を当たり前にします。

「平等な関係性」の築き方を知らず、作ろうとすることも難しくなります。

「他者のため」がなくなり、何かを無償で与えるのはもってのほか、物事の善悪自体の価値観が変わり、自分にとっての正義に良心や倫理や道徳と称した他律を叩き込み、社会性をバックアップする他責を糧に自らを正当化していきます。

こうなると自分という存在の中身はまるで空っぽですが、「これが私だ!」と主張するように、自らを肯定させようと他を利用します。

上下区分けを徹底的に観念化する環境で育つと、自らを劣等させる人であれば自分のせいにし、自らを優越させる人であれば他者のせいにします。

謝らない人は自らを上にして(彼は父親側を選んだ)、他者のせいにするスタンスを恒常化。

彼の場合、さらに家政婦がいる中で育ったため、「人を使う、利用する」という概念を正義化させ、刷り込まれた観念をより正当化する材料を増やし、変化しないようにガッチガチに固めやすくなります。

もはや見えない鎖です。

 

育ちのアンバランス:上になるものと、下になるものの関係性

私が謝らない彼の家庭で最も印象的だったのは、、そして父親と接する彼のさまです。

お母さんはとてもいい人でして、優しくてにこやか、静かで物腰柔らかく、争いなんか起こらなそうな雰囲気です。

よく座って編み物をしており、幼馴染と日光浴しながら洗濯をして、家事をする日常。

特に印象強いのは、父親が何を言っても全て従うこと

彼自身は父親を崇拝しており、絶対的従順意識があること

私のようなよそ者からすると、この環境は軍隊です。

教官や上官が絶対、謝れと言えば謝り、謝るなと言えば謝らない。

家に上下区分けがあるのは、上になることを認めた者と、下になることを認めた両者がいて成り立ちます

上が支配者、下が従順者。

謝らない人の育ちは、上になることと下になることを認め合った関係性で作られる環境。

まるで対極した関係性が結束するさまは、契約(結婚や制度)や文化(仕来りや常識)など規定の上で成り立ちます。

方や右足が上、方や左足が下、とにもかくにもアンバランスな土台として育つ環境が構成されます。

上が攻撃的で下が従順的なアンバランス、両方が同時にある環境ほど、育つ人間は謝らなくなる、という考え方です。

※上になることを選ぶ支配的な人は謝らない
※下になることを選ぶ従順的な人はとにかく謝る

 

謝らない根本原因:彷徨いとブレ

謝らない人の在り方は、「ごめん、すいません」への拒否や囚われ以上に、この言葉から連想させる「下、不利益」への拒否が目立ちます。

「下や不利益を被る懸念があっても、自分でなんとか対処すればいいじゃない」と思えますが、上下従属絶対性の中では不利益を被るとインプットされれば不利益を被ります。

なんせ家庭軍隊育ち。

植え付いた際の恐怖心そのものが記憶されており、実際にすいませんと言ってどうなるか、すいませんとはどういう気持ちなのか、そんな現実は関係ない状態です。

謝らない人は実際に謝ったらどうなるかではなく、謝ることで自己否定になるとインプットされた植え付けを気にしていると考えられます。

謝ってはならないと植え付いた観念を拭えない状態。

妄想中です。

現実には起こっていない記憶を見せられているような、脳内プロジェクターが父親と母親(またはそれ以外の上下環境)の関係性を映画のように見せ続けているような。

縛りです。

素直すぎたのか、影響されすぎたのかわかりませんが、妄想と縛りの強さは、認識が自力ではなく他力であるさま。

自ら物事を捉えられなくなるほどの縛りの強さには、このような原因が考えられます。

謝らない根本原因
  • 親を愛しすぎた
  • 執着や依存心が強すぎる
  • 自ら物事を捉えない怠惰
  • 自我を失った彷徨い
  • 親への忠誠心と我欲のブレ
  • 超自我(社会的植え付け、正義感、良心、倫理、道徳観念)が強すぎる
  • …etc

愛するものに従う結果、彷徨いが起こり、自分の在り方にブレが生まれます。

疑いたいのに疑えない状況が彷徨いとブレを作る仕組みです。

人を信じる愛が忠誠と義務に基づくことで自らの愛を見失い、失ったと思わないためにも自己否定される恐れを排他する。

この結果、謝らない人になるという考え方です。

 

謝らない人との関わり方

私のボスは危険人物として周囲から特定されていましたので、嫌われやすく、常に人が離れていきました。

おそらく私は長く一緒に過ごした人間の一人だと思います。

そんな私は彼と関わる際に徹底していたことがありますので、もし活用的であればご参考にされてください。

これまでの育ちや心理を見ていただくとわかるのは、育ちによって観念の縛り(メンタルブロック)があることです。

これは内観したり親と向き合う本人の問題であり私達他者は介入できませんので、本人の問題には一切ノータッチにします

観念縛りによって謝らないため、こちらがするのはどんな事柄をノータッチにするかの明確化です。

事柄はこちら。

ノータッチする事柄
  1. 親との関わり関連の会話
  2. 自己否定する出来事
  3. 自分が悪いと考える状態
  4. 罪を感じていそうな時

これらを本人が抱く懸念がある際、一切ド無視します。

親関連の話はしない。もし話しそうであればその時は離れましょう。

「あきらかにこの人(謝らない人)が悪いでしょ」と思える出来事が起これば、離れましょう。

「これって私がいけないの?」と言っていれば、離れましょう。

悪びれた雰囲気を醸し出した時、離れましょう。

これらが表れなければ関わり、表れた時はド無視、すぐに離れましょう。

本人の問題との線引きを明確にしておくと、気楽に関われることと思います。

 

まとめ:謝らない人の育ち

  • 謝らない人は「謝る行為」に対する独自のルールや解釈がある
  • 『謝る=罪を感じなければならない、自己否定しなければならない』と思っている
  • 謝ることで恐れを抱くため、謝る理由がなく、謝らない理由が多くある
  • 徹底的に上下、勝負、優越区分けと差別化を図る環境で育つ
  • 育つ環境は上になる者(支配的)と下になる者(従順的)の両者が認め合った関係性
  • 上になることに従うと平等の関係性が築けず、他者のせいにする観念化が固着
  • 自ら物事を捉えられなくなるほどの強い縛りがあり、彷徨いとブレが生じる
  • 人を信じる愛によって自らの愛を失い、失ったと思わないためにも謝らないことが重要になる
  • 関わる際には「本人の問題」と線引きする大切さがある

謝りたくても謝れない在り方、自らの認識を持たずに反映される他者の上下世界投影。

育ちにあるのは大きな段落差を並列化させた強引なルール縛り、右足が上で、左足が下、鎖は足首。

アンバランスな環境での育ちは彷徨いとブレが生じ、観念も在り方も生き方も不安定。

そんな育ちの内情理解、バランスの大切さを知り、関わり方を模索する際の一助となれば幸いです。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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