褒められる、認められる、肯定される、称賛に賛美。
褒められると嬉しいものですが、嬉しくないことがあります。
どうして嬉しくないのか。
喜びを感じない、むしろ気持ち悪さを感じる、そして若干苦しい。
褒められているのに自分はおかしいのかな?
もはや人間の心を失ったのか?
褒めてくるこの人に原因があるのか?
私自身、褒められても全く嬉しくありません。ですが、本当に褒めてくれる人に出会った時、この認識は一変しました。
「これまでは褒められてなかったんだ」と気付いた瞬間でした。
褒められて嬉しくない場合、自分がおかしいわけではありません。そして褒めてくる人に原因があるわけでもありません。
そこには両者の合致のなさ、一方的な褒めの使い方や思い込みがあるかもしれませんので、どうして褒められても嬉しくないのかの紐解きとして、理由と心理、そして褒める意味をお伝えします。
“褒める”とは絶滅危惧行為、その生存を図る内容となることを願います。
Contents
褒められても嬉しくない

褒められても嬉しくない理由
褒めるって何でしょうかね?
優れていたり、良さげな行為・言動に対して、「よっ、あっぱれ、よくやった、関心」などとたたえることです。
これに嬉しくないと、「はっ、うるせぇよ、ぺっ」と悪態。
グレた不良か!とツッコんじゃうところですが、嬉しくないからといってこんなことはないと思います。
ですが、褒められて気持ち悪い、苦しい場合には悪態は自己防衛の意味があり、褒めるという行為を使用して攻撃されている可能性があるので、起こり得ます。
褒められて嬉しくないことには、このように“褒める”の使い方の逸脱による攻撃作用からの自己防衛があり、攻撃でなくとも単純に嬉しくも何ともない結果があります。
そこにあるのは、褒める側と褒められる側の不合致、“褒める”の意味を知らない使い手、褒められる恩恵を求める受け手。
褒める行為をルール化して、「褒めたらこうなる」「褒められたらこうなる」といった利益追求をすると、嬉しくない結果が起きます。
少しわかりにくいかもしれませんが、褒めるとはとても難しい行為でして、できる人は少数です。
褒めることができる人のみが魔法のように効果発動できる、口からぽわぽわと褒めるエナジーを目の前の人に与える。
すると、褒められた効果を得る、そして嬉しくて喜ぶ。そんなイメージです。
何が言いたいか。
褒められて嬉しいかどうかは、褒める側に全てがかかっているということです。
褒めるとは技(魔法)
「褒められると嬉しいもんでしょ」とこのように思ってしまいます。
私も当然の如くこのように思っていました。なぜならば、褒めるという行為は独りで存在していては起こり得ず、他者との共存環境にて初めて意味がなされるからです。
言い方を変えると、褒めるとは教育や他者からの植え付けにてインプットするため、自分の理解が全くなく、他者から言われたことだけを情報として持ち、それを正当化してルール化します。
すると、「褒めれば相手は喜ぶもんだ」「褒められれば嬉しいもんだ」となります。
するとすると、自己肯定感が低いことで褒められても嬉しくない自分に疑問や不安に。さらに、プライドや見栄が強いことで自分の望む点を褒められないと嬉しくないと制限。
褒められる側が“褒められた結果”を自分のために見出そうとします。
ルールが前提にあることで褒める行為の使い方が多様化し、利益追求、価値見出しとなり、常に自分の喜びや利益を中点とした褒めの舐めまわしが起きます。
が、リアルはちょっと違うかも。そんな内容がここの主旨です。
リアルはこんな感じ。
褒めるとは技(魔法)。褒める側が全ての効果や作用を握り、褒められる側はそれを受けるのみ。
- 褒められて嬉しいのは、褒める技を上手く使えているレベル高め
- 褒められて嬉しくないのは、褒める技のレベル低め
- 褒められて気持ち悪い、苦しいなどの心地悪さを感じる場合には、そもそも褒められていない
褒める行為をルール化している褒められる人、同様にルール化している褒めてくる人が揃うと、褒める行為の不合致が起きます。
そこには、褒めた結果を自分の利益(納得や満足)にしようとする認識が自然とあり、お互いに褒める行為の意味を知らない可能性が潜みます。
訳わからない話になる前に、褒める行為の意味をご覧ください。
:相手を称賛して喜ばせる
:モチベーションを与える行動動機増長
※効果が多く、相手が嬉しいと思えば思うほど、褒めるレベルが高い
ゲーム風がわかりやすくかなと思うので、少しお付き合いください。
褒めるレベルを上げないと、相手を喜ばせられない
褒めるに偉いもなにもありません。
殿様が、「そのほう、褒めてしんぜよ」
「いや、別にいいっす」「褒めるなら嬉しくさせてね」とこんなもんです。
褒めてくれるから有り難いなんてことはありません。褒めて嬉しくされることで有り難いとなります。
いわゆる、褒める効果があるから、感謝を抱けるというものです。
褒めるからにはレベルを上げないと効果発動がありませんので、むしろ褒めることで相手の時間を使い、会話にもならず、「えっ、これって何の時間?」と。
「いや、あのー、今私は褒めたんですが…?」
「だから何やねんっ、レベル上げてー」と。
何様ー。
随分褒める側に手厳しい話ですが、褒めたいから褒めるので、褒めなければならないなんてことはありません。
その良い例が親子の関係だと思います。
幼少期は自己肯定感の高まりが自信や自尊に、同時にスキンシップが愛の理解と育みに大きく関わることが教育や心理、そして過去の実験等から知られています。
そこには、「子供を褒めなければ」以上に、「褒めてあげたい」という気持ちがあり、自然と親から褒める行為がなされ、熟練されればされるほどに褒める意味が正常化して効果増し増し、子供のためになります。
会社のチームなどでも、誰か褒める人がいれば、チームのモチベーション左右となり、より活力的に成果や結果をもたらす力となり、それをリーダーなど全体を統括し、認識力と洞察力を持つ人が行うことで、業績に大きく関わってきたりします。
※褒めるために大切な洞察魔法は、【力の根源案内】洞察力がある人の見ている世界とは?特徴と鍛え方 をご覧ください。

褒められて嬉しくないのは当然かも
褒められて嬉しくないのは当然?
褒められて嬉しいかどうかは、褒めるレベル次第であることから、褒める人がどれほど貴重な存在かがわかります。
褒めることは教育にて教え込まれました。
「人間は褒めると伸びるんだよ」
「人を褒められることはスゴイんだ」
しかし、実際に褒めるとはどういうことか?
これは本人が経験しなければ育まれません。そのため、初めは誰しも褒めるレベル0スタート。
ここで生育過程の環境がスタートダッシュをさせます。親からよく褒められた人です。
褒めるの意味を知り、褒めることができる人から褒めてもらう経験にて体感し、自ら育むことができます。
そのため、本当の意味で褒められなければ人を褒めることは困難だと思います。
学校では、褒めるレベルがどうとかふざけたことを教えませんし、私は実際に褒める人に出会うまではこのような理解はちっともありませんでした。
「類は友を呼ぶ」というように、私達人間は同じような類、波動、認識にて引き寄せられ、取捨選択されて関わる人が決められていると考えられます(潜在的、直感的必然)。
そのため、褒められる環境が少ない人は褒める魔法を知らない人同士の集まりになり、褒められて嬉しくないのは当然かもしれません。
自分のために使用する場合、褒めるレベルは限りなく低いので、相手を嬉しくさせることはできません。
褒めるを中には、褒めているつもりで全く褒めていない人すらいますので、むしろ嫌悪、違和感、心地悪い、気持ち悪い、苦しいことも起きます。
褒められる人は少ない、そして育みがないとレベル低いから嬉しくならない、という話です。
実際には褒められていないので嬉しいはずはない
褒めているつもりの人はとても多いと思います。私自身も褒める意味を知るまではそうでした。
「そんなことができるなんてスゴイよね」
「こんなこと私にはできないよ」
「ふーん、で?」とこんな反応になってしまうのは当然かと、私は思ってしまいます。
なんせ褒められていないので。
褒められていれば嬉しくなります。自分を認めてもらい、肯定してもらい、称賛してもらったら嬉しいものです。
嬉しくなければそれが答えです、褒められていないかもしれません。
そこには、褒める行為を使用して自らの価値や意義を見出そうとする人がいたりします。
いくつかのパターンがありますので、一覧でご覧ください。
- 相手を優越させることで自らを劣等化し、自己否定、自己憐憫という求めるものを手に入れる褒めの外枠使用
- ルールに則って褒めることで、自己評価を高め、さらに行為を他に披露することで承認欲求を満たす
- 親、役職などの立場を全うし、自らの義務を果たしたと思い、自己納得による安泰を得るために、「私は、ほ・め・た」という材料(確証)を得る
- プライドや恥を乗り越えるために、「これまでできなかった褒める行為を達成した」と褒めた外枠から成長を得るために、行為の対象として他者の存在を利用する
- 褒めることで相手に利益を与えたと、損得、恩徳計算にて自らを追われない立場にする策
- 「へぇ、やるじゃん」と上から目線で、他者が劣等者であることを明示し、自らの価値を喪失せず、強引に高めようと思い込む我欲、マウント
- 褒め続けることで隙を作り、弱味やつけ入る隙を狙う支配・コントロール欲
- ゴマをスリスリするように他者肯定に勤しみ、自らが否定される恐怖回避と同時に、心理的に他者から恩恵を得ようとする接待
人それぞれにさまざまな策や利用を練り練りしているので、上記のパターン以外にもまだまだたくさんあり、そこには常に我欲と言われるエゴからの欲があります。
欲とは大切なものですが、エゴとは自らを自ら認識しない意識のことで、我欲を求めることで他者を含めて自らのみの利益を得ようとする特徴があります。
これをされれば嬉しいはずはありません。
褒めるという外枠の着ぐるみモンスターですので、最悪見えない攻撃をされて、気持ち悪い、苦しいと思うことになりかねません。
※人を利用する人の詳細は、人を利用する人の末路に闇と光│利用される人との相互関係にカルマ有 をご覧ください。

褒められることを認めたくない人の心理
嬉しくないことには理由がありますが、自らその理由を作る人もいます。
そこには、嬉しくないとは別で、嬉しさや喜びを認めたくない心理が表れます。
- 自己肯定感の低さ
- 自己否定癖と恐怖対処不可状態
- 見栄が強い
- 完璧主義
- 他も自らも支配する
- ‥‥
「称賛は己が認めることのみ受け入れる」などの心理があると、褒められる行為を認めないことが起き得ます。
せっかく褒めるレベル高めの効果を得るチャンスも、拒否認識にて掻き消す状態です。
「いえいえいえ、そんなことはない、なーい」と褒める人の意見を全否定。
「ありがとうございます、どうもどうも、これつまらないものですがお返し」と損得計算にて恩を残さず、褒めた見返りを求められないように恐怖への対処。
「ちぇ、そこかい、私はここを褒められないと嬉しくないね」と自らの支配にて制限過多、他者をも支配しようとすることで褒め行為を認めない。
自らが喜び嬉しくなることを認めず、嬉しさをもらったことでアドバンテージを取られるかの如く思い込み、褒められる効果を掻き消し、納得のいく箇所を定め、自らの思うようになる状態のみを求めてそれ以外は認めず。
このような心理があると、引き寄せられる人や関わる人を無意識に決めてしまい、本当の意味で褒められることが少なくなります。
この場合、認められないことが先行しているので、心理が要因で嬉しくない訳ではなかったりします。
褒められると嬉しいものです。ですが心理によって嬉しさを認めないという拒否が抵抗を作るため、「それって本当に褒められている?」という着眼が遠くなり、褒める行為の事実に気づきにくくなります。
褒める効果がどこにもない=褒められる人が周囲にいなくなる。これは、自らが人を褒めないことを意味します。
そのため、褒められたことを認めたところで嬉しくない、と私の経験からでは思っています。
褒められると起きる内情ダンス
褒める人は絶滅危惧種、結構なレアキャラです。
私が褒める人に出会ったことで明確に体感したことは、褒められることを認めない心理があっても、褒める技の効果が強ければある状態が表れます。
内情ダンス、踊ります。
これは自分の中で隠したり抑制したり、誤魔化しているものがフツフツと湧き上がる情動です。
褒められると自分の内側で戦いが起きます。認められないとか嬉しくないとかは吹っ飛び、自分の中で素直になるか否かの選択が起き、ある感情が生まれます。
「恥ずかしい」
褒めることができる人から褒められると、単純に嬉しくなります。そこで、認められない心理があると戦いが起き、抑制する結果として恥じらい。
それは頑張って素直にならず、自らを抑制した状態で、恥ずかしい感情を抱くと褒める人が脳裏に残り、気になります。
褒める人は好かれます。
あれはモテモテ魔法なのかもしれません。
褒めるレベル超高めの人々
褒められることを認められなかった私は、ある日褒めるレベルの高い魔法使いに出会いました。
あれは、USAアリゾナ州からアラスカへ向かう旅の途中でした。
出会ったのはダウン症の女の子。
お母さんと二人で一緒にいました。
「スゴイね」
この一言でした。
号泣。
全てを崩壊され、素直さを抑制する心理はドバーンとダム崩壊、水ドッパーン!
「褒めるって、気持ちなんだ」と体感した瞬間でした。
あそこまでレベルが高いと、抑制なんてちっともできませんでした。その後、ダウン症や知的障害者の方々と出会う機会が多かったために、褒めるレベルが高い人の脅威の効果を知ったしだいです。
褒める人を見ているとわかるのは、完全に相手のために褒めていることでした。
それはまさに、モチベーションUP魔法をホワンホワンと他者に対して使用しているようです。
ダウン症や知的障害者の方々は自己愛のおすそ分けという具合で、純粋に溢れた大きな気持ちを授けてくれるような体感であり、それ以上の褒め効果を体感したことはありません。
気持ちの大小は人それぞれですので、一般的には洞察から相手の褒めポイントを掴み、相手のためを思って使用する思考的な方法になると思います。
そこにはロジカルな細微認識があり、目の前の人のことを理解し、その人の立場で物事を考える他者認識の育みがあり、モチベーション向上と喜びを与える目的を持って効果発動。
このように“褒める”と言っても違いがあり、褒める行為や意味を知り、育みや経験にて思考と気持ちを組み込めるレベルがあると理解しています。
- 気持ちのみで褒める
- 思考を組み込めて気持ちを入れて褒める
どちらにしろ喜びを与える効果がありますが、それを気持ちだけでされると、本当に魔法のように感じると思います。
※褒める人の心理と、褒められることが嫌いな話は、褒める人が嫌いで苦手な理由。気持ちのない褒めに気付いちゃうと…ね。をご覧ください。

褒められても嬉しくない まとめ

ここでの内容は一概ではありませんので、一つの戯言、いえ、参考としてお役立ちできれば幸いです。
いろいろ言ってきましたが、このような内容をお伝えしているのは、褒める人の少なさを痛感したためです。
私自身褒めることが苦手でしたが、それは褒めてもらう経験が少ないことと、褒める知識が乏しいことから育みができないためでした。
そこには個を主張する在り方がありまして、他者との共存や調和、協調に協力の大切さを痛感したのは“褒める行為”を知ったおかげです。
人と関わらなければ育めないことがたくさんありますが、その中でも褒める行為は実際に褒められ、知識をもらい、経験を重ねることで構築される人間味であり人間力かと思います。
しかし、褒める人が少なければ、褒める行為は外枠のルールとなり、何が褒めなのかに対して疑問を抱かなくなる違和感の流しが起き得ます。
そのため、「褒められても嬉しくない」と感じることは、とても重要な気付きだと理解しています。
褒める人の存在はとても大きいです。
他との共存社会での調和を作り、個々に対しての喜びやモチベーションを与えることは行動を促す活力となり、チームワークの源にもなります。
結束を強める効果は、あらゆる結果を良きものに変え、人々の意識を高めて自己理解から他者理解への道の架け橋にもなり得ます。
とんでもない魔法使いがいますので、そんな人を絶やさず継承できればと心から想います。
私自身、人を褒めることはまだまだ勉強が必要ですが、常に最高レベルの人々がいることを知ったので、少しずつでも近付けるようになれればいいなと思う所存です。
これを読まれている貴方も、褒める人として調和を広められると良き、ですね。
それでは、褒め褒めーテイィ。
「貴方は、なんかこう、ね、良い、よねー、みたいなー」
下手かよってね。