なんだかひとりになりたい。
そんな時は心が疲れているサインかもしれません。
心の疲れとはヘロヘロと疲弊するさまではなく、自分の内側が希薄になっている状態であり、合図が潜みます。
ここでは、ひとりになりたい心理とスピリチュアルなお話を見ていかれてください。
- ひとりになりたい心理とは?
- ひとりになりたい真意を知る体験談とは?
- ひとりになりたい気持ちが表す大切なこととは?
これらを紐解き、ひとりを欲するご自身の内情と、メッセージを知っていただく内容となっております。
「ひとりになりたい気持ちは、心の疲れにて大切なことを知る機会」
そんなことをインドとネパールにて学びましたので、体験談と共に一つの考え方としてご参考になれば幸いです。
Contents
ひとりになりたい心理

ひとりになりたい時は心が疲れている
お疲れでしょうか。
疲れているのは心。自分にしかわからない疲弊です。
肉体でも脳でもなく、心が疲れていることには一つ明確な状態があると考えられます。
「自分が何者かわかりにくくなっている」
私達人間は何者でもありません。自らが自らを認めることで何者でもない自分として存在しています。
アイデンティティを認知し、自分のことは自分で認識し、捉え、把握し、理解する状態です。
しかし、周囲からの影響が強くなると、外部からの影響を主体に自分を何者かにしようとします。
人それぞれに大切なものでして、外付けの自分を他者と比較、世間と照合、常識による優劣区分け、上下区分け、良悪・勝負評価。
他との比較によって在り方が見出され、能力のバランスが作られ、肩書きを欲し、欲を作り、他者によって自分を認識する材料を集める。
「あの人がいるから私は自分を出さない」
「この環境にいるから私はこの仮面を被る」
「この仕事をしているから私は嫌々でも我慢する」
「私は親だから、母だから、父だから、子だから、こういう振る舞いをする、こういうものなんだと飲み込む」
意識的に自覚があるか無自覚かは人それぞれに、自分を何者かにしようと頑張る日々、気づくとある状態に陥ります。
「あれ、自分って自分じゃなかったっけ?一体何者なんだ?何をしているんだ?」
これをアイデンティティクライシスと言います。
アイデンティティクライシスにてひとりになりたくなる
:自己喪失。若者に多くみられる自己同一性の喪失。
※コトバンク引用
自分の価値観が崩壊し、役割を喪失する状態です。
自分のことを自分で認識するのではなく、外部の他によって自分を認識しようとすると、「あれっ、自分って何?」と違和感を感じます。
例えば、「よし、今日も私の右手はクネクネ動くぞ」となれば自分で自分を認識しています。
「よし、今日も誰よりも早く出社したぞ」となれば他によって自分を認識する状態です。
他との共存で生きているので、比較や照合によって自分の価値や存在意義を見出すことが大切な人もいますが、違和感を感じる人もいます。
自意識があればあるほどに違和感を感じると考えられ、自分で自分のことを認識したい人にとって、アイデンティティクライシスは自分にしかわからない疲れ、心の疲れになります。
[心が疲れる=自分で自分のことを認識(知り、思い、考え、想い、捉え、理解、判断、評価)しにくくなっている状態]
自分のことは自分で認識し、アイデンティティを失わないために、「ひとりになりたい」という気持ちを抱くと考えられます。
ひとりになりたい心理表現
アイデンティティによって自己や価値観や役割が喪失している表れとなり、自らがアイデンティティを確保するための動機にもなるのが、ひとりになりたい気持ちです。
他からの影響が増え、自らを認識できなくなることは、他からの干渉や強要が多くなり、嫌々我慢したり、自らを強引に順応させて箱に押し詰める我慢があります。
心理にはこのように自己表現がありますので、意味を一覧にまとめます。
- アイデンティティの危機(自分で自分を認識しにくくなっている)
- 他からの影響過多にて自己喪失懸念
- 自分の役割(存在価値や意義)の喪失懸念
- 他を前提に何者かになろうとする自分への違和感
- 嫌々我慢している
- 他からの干渉や強要過多
心の疲れによって心身内部の真意を物語っていると考えられ、全て「合図」となります。
※ひとりを楽しむお話は、【孤独を楽しむとは人生を喜ぶこと】孤独を楽しめる人の特徴と方法 をどうぞ。
ひとりになりたい気持ちを知る体験談
ひとりになりたい心理をわかりやすくするためにも、私自身の体験談をご覧ください。
縛りがあるとひとりになりたい
私は他者の健康や心理や精神状態からの影響を受けやすいため、共存が長くなればなるほどに、「ひとりになりたい」という気持ちを抱きます。
しかし、どんな共存かによって、ひとりになりたいかどうかは極端に変わります。
海外を旅していた時、とても多くの宿泊場で滞在しました。
二ヵ月も三ヵ月も飽きずに滞在する場所もあれば、一時間もしない内に、「あぁ、ひとりになりたいなぁ」と思って出て行った場所もあります。
何が違うのかを考察すると明確に一つの答えがあります。
自分を抑え付けなければならないほど、縛ってくる他があるか否かです。
- 抑圧して自分を我慢させる縛りがあると、ひとりになりたくなる
- 自分を我慢させる縛りがないと、ひとりになりたいと思わない
認めていた自分を抑圧して我慢させる他(人やルールや状況)があると縛りになり、アイデンティティはポロポロッと崩れ始めます。
私が長く宿泊したのは、ルールを押し付けず、自らに責任を持たせてくれる場所。または、何もルールがない中で自由にさせてもらい、人同士が敬いながら自然とルールを作って生活する場所です。
例えば、「朝ごはんは8時まで」というよりは、バナナとか適当にキッチンに置いてあって、早い者勝ち的な所。
我が我がとバナナを何個も頬張る人などおらず、なければないで誰も気にしない場所では、アイデンティティに危機は訪れず、「あぁ、誰かバナナ二本食べたなぁ、それじゃあ私はアボカドでも買ってこよー」と気楽です。
しかし、縛りによって嫌々我慢させたり、自らを強制的に変えなければならない場合、ひとりになりたいと思います。
インドの干渉はひとりになりたい
インドにいた際、ひとりになりたい気持ちの発生回数が極端に増えました。
干渉が異常に多いためです。
常に監視されるようにジーと観る人、ギラギラと狙う人、キラキラと関わりたい人、さまざまな干渉によって善も悪も含めて私自身は変えられます。
素敵な人が多いので、「この人は外国人と話したいんだな」と思えば、チャイでも飲みながら一緒に談笑します。
場所はインド。特に街中で談笑を始めると、周囲を何十人にも囲まれます。
「家に遊びに来い、今晩は泊ってけ、ご飯を食べに行こう」ととんでもないことになります。
有難い話なのですが、インドは好奇心と人への興味、そして欲の押し付けが激しいので、こちらの状態や状況を鑑みる人は少数。気づけば、「あれ、私のアイデンティティはどっかいっちゃった」とひとりになりたくなります。
「あぁ、疲れちゃったなぁ」と誰もいない公園に潜むように座っていると、茂みの奥から少年がやって来て、「give me a chocolate」と言ってきます。
「ごめんね、何も持ってないんだ」と言っても離れないので一緒に遊んでいると、次は子供の母親らしき人が茂みの奥から出て来ます。
ダダダダダ、ひゃー!!!
なんと鉈を掲げて叫んでくるではありませんか?!
奇声をあげながら猛ダッシュ、右手にどでかい鉈、形相はまるで鬼、インド鬼。
私は怖すぎて猛烈に走って逃げながら、「もう、ひとりにしてぇ」と嘆きます。
干渉は善意でもエゴでも欲の押し付けでも勘違いでも、アイデンティティに少しずつ針を刺し、数が重なるとボロボロとクライシス。
度が過ぎると、「ひとりになりたい=ひとりになりなさい」と休息を求める心の合図にも感じました。
ネパールの干渉はひとりになりたいと思わない
一方、同じようにたくさんの人が集まり、あらゆる誘いをして、干渉してきますが、ネパールは全く異なります。
どこにいってもジロジロ見られますが、インドとは違ってガツガツしてこない、押し付けがありません。
何かのきっかけを待つように、誰か一人が話しかければ直ぐに人が集まります。関わるきっかけがなければそのままスーと過ぎ去ります。
私はインドとネパールを行き来して移動していたので、両者の違いはあまりに顕著でした。
ネパールは干渉に押し付けがないので縛りにならず、こちら側の状態や状況を配慮してくれます。
恥ずかしさ、謙遜、躊躇がありながら、人への敬いがあります。
ネパールではいくつもの家に泊めてもらい、ご飯を頂き、一緒の生活をして過ごし、約二ヵ月間滞在しましたが、一度もひとりになりたいとは思いませんでした。
インドでは一日一回は思っていたので、何が違うのかを洞察してみると、自分のアイデンティティを崩す押し付けや縛りがないことが最も大きな要因でした。
ネパールの人々はこちら側をとにかく配慮してくれるので、話し好きで一方的に話してくる時もありますが、「あ、ごめんごめん、ちょっと話し過ぎたね」とストップ。
あらゆるシーンでは宗教によるルールや仕来りがあり、事前に説明した上で、「あなたにはあなたの価値観や宗教があるから、自分の考えを優先してね」と言ってくれます。
アイデンティティが崩されるどころか、確立させてくれる関わり方がありました。
※ひとりを楽しむ心理は、一人で楽しめる人の心理と特徴│旅をするとわかる孤独への愛と恐怖 をどうぞ。
ひとりになりたいスピリチュアルな理解
ひとりになりたい心の合図
心理的に捉えると、自分の認識を自分でする責任感や、自意識の高さ、縛りや干渉による抑圧を解放したい欲求が表れます。
同時に、精神や意識のスピリチュアル的に捉えると、心の疲れによる合図という表れがあります。
心の疲れとは、肉体がダッシュした後のゼーゼーという疲労ではなく、魂との繋がりの希薄性を意味します。
心が薄れていき、自分がどこかに行って消えてしまいかねない時に、「ちょっと待って」と止める合図として、「ひとりになりたい」と抱く。そんな考え方です。
「ひとりになりたい」と抱くことは、心を明確に認知するために重要な合図です。
心を明確にするための合図
心とは魂との通路であり、自尊を抱く見えない器官です。
心が薄れると自尊が弱まり、「私は何をして、何がしたくて、何者なんだ?」と自分自身がわからなくなります。
そこに他を組み込めて、「あの人はあんなに頑張っているのに私は…」という捉え方をすると、自分を信じられなくなって自信がなくなります。
心の疲れはこの状態をクリアにする機会となり、より自分として生きていくための必須過程、一つのプロセスになります。
自分を認めるための合図
自分のことは自分で認識し、認められるようにする最たる方法が、「ひとり」です。
ひとりになることで自らの目と鼻と口と耳と肌で感じ、頭で考え、心で想う機会を作ります。
他を含めず、「私は今どうしてこの仕事をしているのか?」「どうしてこの人と一緒に過ごしているのか?」「どうしてここにいるのか?」を感じ、考え、想います。
「誰かがそう言ったから」「そう教わったから」「これが常識だから」「みんなそうしているから」
全部ポイポイッと放り投げちゃう。認識する基盤も主体も主観も自分しかない状態が、ひとりです。
ひとりになると現状を否定しているのも認めているのも、全ては自分によるものだとわかり、意思がはっきりします。
- 拒否したいのは、拒否したいからと認める
- 肯定したいのは、肯定したいからと認める
意思がはっきりすると、あらゆることは自分の選択や思考や感受、自分そのものを認める意味だとわかります。
ひとりになりたいという合図は、現状の自分を自ら認めるための機会です。
合図が来たら活用する
私を例にすると、インドではとにかくひとりになりたいと思っていた時があり、ネパールとの違いによって、ひとりになりたい気持ちの真意を知りました。
インドとネパールを行き来していたので、気持ちの真意を知ってから再度インドに行った時、合図を活用してみました。
「あぁ、すごい干渉。やっぱインドはガツガツ来るなぁ、ひとりにさせてぇ」と思った時、「あ、今のが合図だ!」と反応してみました。
気づいたのは、思考と行動を認めていない自分。すなわち自分がしていることを認めも拒否もしない曖昧な状態になっていることでした。
「自分が来たくて来ているのに自分の決定を認めていない、かと言って拒否せずにインドに今もいる」
アイデンティティクライシスです。
これを危機だと思わない私がおり、危機感のなさは自己喪失への繋がりや、心が疲れている合図を見逃してしまう可能性があります。
認めも拒否もしない空虚な状態は、自分という存在の中身がありません。
「いたいからいる」
「いたくないなら今すぐ出て行く」
「いたくないのになんでいる?他の理由がある?」
「…わからない」
どっちつかずは先に進まなくなるスタック状態だと気づいた時、「いたい!」と明確にしました。
どっちつかずをなくすと自分を認め、現状を認めることができました。すると次に進み出し、ひとりになりたいと思わなくなりました。
合図が必要ない状態は、アイデンティティががっつり明確。心の疲れがスーッとなくなり、認識はクリア。
心の疲れがとれると、ひとりでも他者と関わっても、どちらでも受け入れられる状態です。
※ひとりになって人と関わりたくない時は、【人と関わりたくない、面倒くさい、怖い訳あり】心理とスピリチュアル合体 をご覧ください。
ひとりになりたい心理とスピリチュアル まとめ
今していること、仕事、悩み、不安、他との共存、あらゆることでアイデンティティは崩壊します。
状態や状況それぞれに拒否することも大切です。
肯定しても拒否しても、どっちつかずをなくすと自分を認めることとなり、現状を如何に生き、どう変えるか、変えないか、作るか、見出すかと、次に進んで行きます。
私はインドでの干渉を肯定し、時に拒否し、「ひとりになりたい」という気持ちを合図代わりに過ごすようになり、自分という存在がみるみる明確になっていく実感がありました。
すると瞬く間に関わる人が変わり、押し付けや縛りをもたらす人は激減しました。
不思議なものですが、出会う人も行き着く場所も変わり、より個々のアイデンティティを敬い尊重する人々との関わりになり、たくさんのことを学ばせてもらいました。
このことから合図には別の意味として、自らの思考や行動を大切にする機会があると考えます。
アイデンティティは自分にしかわからず、自分のことを自分で認識するもの。言い方を変えると、自分にしか認識できないものかもしれません。
自らが考え、知り、決めたことをズバッと拒否するのも、自らを認める意味であり、在り方を敬う結果です。
「ひとりになりたい」というのは実際にひとりになるだけではなく、ひとりになることでもたらされる意味を自ら見出すための合図なのだと思います。
そんな理解にて、クライシスを次のステップに向かう橋渡しにしていきましょう。
それでは、ひとりになりたい心理とスピリチュアルのお話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
『心理とスピリチュアルの学び場』
誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。
PR:株式会社Central&Mission
※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。