『DNAシフトセラピスト養成講座』
・セラピストになりたい方・自己理解を本格的に始めたい方
・専門的に人を癒し、サポートしたい方
著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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※本気で人生を変える方専用。
今日も怒ってしまった、痛みが辛い、思考が止まらない、もう嫌だ。
感情、感覚、思考が暴れると、心が落ち着かず、感受が刺々しく過敏で過剰化します。
私自身、人混みにいるだけで鉛筆を自らに突き刺すくらい苦しくなり、特にネガティブな感情に翻弄されていた時があります。
「感情なんていらない、なければいいんだ」とよく思っていました。
今では、まるで夢だったかのように悲しみや寂しさ、不安や恐怖と関わり、感情を大切に尊重するようになりました。
理由は明確です。
心を無にする体験をしたためです。
そこで、心を無にする修行にて理解した、本質的な“心の状態”をお伝えします。
- 感情に翻弄されやすく、なんとかしたい
- 思考が止まらず、心がスッキリしない
- 心を無にしたいけど具体的にどうすればいいかわからない
少しばかしの私なりの理解となりますが、体験談と共にご覧ください。
心を知るご参考になれば幸いです。
Contents
心を無にする修行体験談
初めに、「心が無になる状態」がわかりやすくなればと思いますので、私の体験談をご覧に入れます。
心を無にする修行 inインド
インドを旅していた時のことです。
田舎町の奥、集落のさらに奥にある、ガンジス川近くの瞑想施設で修行をしていました。
修行といっても私は僧侶ではありません。個人的に自己理解を深めたい目的に絞って挑んだものです。
十日間施設内に閉じこもり、私物を預け、喋らず、目を見ず、運動せず、などの制約を課し、一日二食を享受して、朝から夜まで瞑想に明け暮れます。
一時間置きに小休憩があり、やることがないので瞑想か限られた敷地内を散歩。
休憩も結局瞑想をする私は、五時間瞑想を一日何回かするスケジュールをただひたすらに繰り返していました。
こんな生活の六日目のことです。
天気が良く、とても心地良かったため、私はゆっくりと敷地内を散歩していました。
チュンチュン、ピーピー、ガサガサ、ビュービュー。
寒くなり始めた時期、外を歩くとさまざまな鳥、虫、風、木々、自然の音が聞こえます。
植物があり、花が美しく、上空の雲は遊んでいるように漂い、形を変えています。
「はぁ、なんて幸せなんだぁ」とポワワーンとした気持ち。
次の瞬間です。
私の意識が光り、肉体から真っ直ぐ上に抜けようとしました。
えぇ、おかしな話をしています。
「あ、私という存在がいなくなる」と一瞬で防衛意識が芽生え、そのまま抜くか留まるかの選択が起きました。
この間一瞬ですが、実は以前にも何度かこの体験をしたことがあったので、少し余裕を持って選択できました。
選択は抜いて、ある程度したら戻す。
意識が抜ける感覚だったのですが、実際に起きたのは意識そのものがパーンと散ってなくなる感覚。
意識が消えた時、心が無になりました。
チーンです、そこにもう私はいません。
※心を無にする前段階の修行については、自分の思い通りにならないと気が済まない原因【貧乏瞑想施設での学び】をご覧ください。
心が無になると起きること4選
「意識が消える」とは奇怪なことです。
指をピロピロする時に意識が指先にあるように、物事を考える時に意識が頭にあるように、私達は意識を一つの時点に起いて活動します。
意識は平行して別の時点に置くことも可能ですが(例:右手にフォーカスしながら左手にもフォーカスする)、物理概念上は一点のみです。
心理学では、私達の意識は一点のみに置けると知られています。
字を読む際に、字を見てから脳内にある記憶と照合し、インプットした知識や記憶を当てはめて、他と自分の間に[=(イコール)]を作って意味を理解します。
この時、意識はあっちにポン、こっちにポン、そっちにポン、ポンポンポンと高速で点を置き続けて線にする作業をします。高機能な働き者である肉体・脳があるので可能とします。
なにかしら肉体が活動する時、意識をどこか働く先に向けるからこそ、自分という存在を稼働させられます。
しかし、そんな意識が消える・・・はて?
「消える」とは「分散する」意味でして、意識を自分から手放す状態です。
自我意識がある以上、「この私が私である」と何者かに特定しようと肉体や脳が働きますが、意識を手放すと何者にも特定しない状態になります。
おかしなことですが、「この私は私だ、この自分が自分だ」と思わなくなります。
すると起きるのが、コントロールの手放し。
あらゆる自我への執着がなくなります。
自分に対する執着がなくなる心の無状態、いくつか顕著に起きることがあります。
- 思考概念に翻弄されない
…善悪、良悪、正否の固定観念や決め事がなくなる - 感情に翻弄されない
…「怒るから嫌だ、悲しいから辛い」にならない - 肉体感覚に翻弄されない
…「痛いから嫌だ、冷たいから辛い」にならない - 天地一体化
…何にも縛られない自由と気楽
心が無になると、「善=良、悪=ダメ」の概念やルールがなくなります。
怒った時、制御できない憤りやストレスや疲れに対して、「これは良くない」とはなりません。
喜怒哀楽あらゆる感情を自制しなくなり、自分そのものを思うようにコントロールしなくなります。
感情コントロールなど、自らのコントロールや自らを乗り物として操縦するのは大切ですが、心を無にすると全部撤廃、そもそも“自分”という概念への固執がなくなります。
自分への執着がなくなると、感情や欲求への固執、損得勘定、固定観念、あらゆる縛りがなくなり、究極的に柔軟で寛容で受け入れるスタンスになり、とにかく幸福を感じます。
縛りがないと幸福になるのも不幸になるのも全て自分次第になり、人それぞれに思考、感覚、感情を好きに知覚して遊ぶようになります。
抑圧にて感じているのに感じなくするのではなく、とにかくあらゆるものを感じ尽くして解放する先に心の無があります。
自我に執着しない心の自由、天と地の一体化、自分と自然が同化する感覚です。
「この私が私たらしめるんだ」と思わなくなります。
名前や肩書、肉体造形や他との違いを見出す差など、何かしら外的な要因によって「私たるもの」を認識しようとするのが自我意識ですが、意識がパァと手放されるとそれがありません。
心が無になるとは、まるで蝶々になることであり、風になり、うんちになり、水になること。
仏教ではこれを「空(くう)」と言います。
感情・感覚・思考に翻弄されなくなる心の状態
修行六日目に起きた心の無によって、私はあらゆる感覚や感情を感じ尽くし、思考の好き勝手模様を自覚することになります。
例えば、瞑想にて何時間も座り続け、足の骨にヒビが入っているのではないかと思うほど痛くなり、これでもかというほどに痛みを感じます。
ギンギンと耐えられないぐらいの痛みを感じ尽くすと、「痛い=悪い」の制限がなくなり、痛くて泣いた記憶やその時の心地悪い感情など、過去の記憶を基に思考が痛みの感覚を拒否するように作り出していることが自覚されます。
同様に、悲しいことがあると苦しくなり、寂しいと辛くなる感情も、過去の記憶によって思考が作り出しているとわかります。
心を無にするとこの自覚がはっきりして、「あ、私自身が痛みを嫌がって拒否するように、悲しみを苦しんで遠ざけるようにコントロールしている」とわかります。
すると、コントロールするか否かの選択ができます。
どっちでもいいんです。
善悪に対する良否縛りがないので、どちらも自分にとって意味があり、理由があるから選択していたとわかります。
心を無にすると、一切の自我への執着、自らをコントロールする理由がなくなり、完全に制限のない気楽な状態になります。
感覚は引き続きあります。
感情も常に感じます。
思考も巡ります。
しかし、それらに翻弄されません。
「今日も怒ってるな」となれば、「これ以上怒り続けようかな、やめようかな」となります。
コントロールを手放した状態は、最も気が楽な心のさまを意味します。
※心の働きについては、心を知るとモヤモヤの原因がわかる│スピリチュアルな心の働き をご参照ください。
心を無にするコツ
必須:心を無にする目的
「心を無にする」と言われても、イメージが湧きにくいと思います。
ましてや意識が消えるとは奇怪な戯言です。
実際にすることは自我の手放しであり、イメージされる際は自分に対する固執をなくすというのがわかりやすいかもしれません。
日常での自分、職場での自分、他者と関わる自分、あらゆる状況で、「これが私なんだよ!」と主張すればするほど、貫きたくなればなるほど、感情や思考に翻弄されやすくなります。
許容を超える感情のコントロール外れや思考過多が起きると、自分自身に翻弄されてしまいます。
この要因となるのが、他者からの予期せぬ言動による影響、納得いかないことをされた時、他の情報過多による迷いや喪失。
大切な人と別れて感情のままに苦しくなるなど、誰しもに起きる翻弄もあります。
あらゆる翻弄は自己喪失、メンタル弱化、精神形骸化、ストレス、疲れに繋がるため、「感情なんていっそのことなければいいのに」と思えます。
感情、感覚、思考に翻弄された時こそ、「心を無にしよう」と思いましょう。
目的を明確に設定すると、心を無にする行動が本質を帯びます。
それでは、実際に心を無にしていきましょう。
心を無にする方法
方法は日常的なものと、修行者向けのものがあります。
「空」の理解、自分を何者にもせず、自我の執着を手放し、意識の解放、天地一体、現実の受け入れが、修行者向けです。
日常的には別の方法がおすすめです。
目的を一点に絞ります。
『自らに翻弄されないようにして、自分をできるだけコントロールしない』
目的を明確にした上ですることはシンプルです。
心を無にする方法は、「どうして翻弄される?」の答えを出し、その答えを解決することです。
答え:
答えを言ってしまいます。
力むからです。
※無理するから、または無理しなさすぎるから
自らとの関わり、他者との関わり、あらゆる日常生活で力まないようにすると、心を無に近づけられます。
心を無にするコツ:自然な状態を目指す
私達は心と魂が繋がり、心からエネルギーが出て、肉体からもエネルギーが出ます。
肉体と心は繋がっています。
肉体が力むと心が硬くなります。
硬くなるとあらゆる手放しができなくなり、心の無とは遠く離れていきます。
この状態が、「私とは私である」と何者かに特定する状態。
※この意識をエゴと言います
肩書きを初め、外部装飾、他からの情報(名前などの固有名詞)、他との比較による評価認識、常識やルールなど他との照合によって自分を見出す行為。
社会的には大切なので何も悪くないのですが、心が力みます。
意識を一点に置く物理概念があるため、マルチタスクをした時も力みます。
力むと本来の力が発揮できず、見栄やプライドが表れ、我慢や無理矢理の頑張りが起き、自分を他との比較や照合との差によって何者かにしたいメンタルが強まります。
あらゆる力みが入る状態は自分に合っていないさまを表します。
コツは自然体です。
パァっと解放するように力を適当に抜き、心を柔らかくすると無になっていきます。
イカの背骨を抜いたダラダラ~ではなく、自然な体制だからこそ最も動じない状態。
柔道や空手や合気道の力を抜いた自然体、一瞬で力を最大限発揮できる状態と同じです。
無理をせず、だらけずの間にある自然体は、頑張り過ぎず、頑張らなさすぎず、緊張せず、緊張しなさすぎずの狭間。
合う、フィット、マッチする状態です。
住む国一つとっても、日本が合う人もいればノルウェーが合う人もいます。
自然体とは自分に合う状態であり、姿勢、生活習慣、勤務量、起床時間、稼働量、栄養素、運動量、筋肉の使い方、頭の使い方、話し方、関わる人、関わる場所、メンタル保持、自分との向き合い…もはや無限にあります。
既存の自分に合っていないものをなくすのも大切ですが、仕事など難しいものもありますので、どれだけ自分に合っているものを増やすか。
心を無にするコツは、自分に合っているものの自覚を増やし、自分に合ったスタンスや関わり方や行動をすることです。
※感情を無にする方法は、【無感情になる方法】感情をなくしたい時に一石二鳥の行動 をご参照ください。
私が心を無にできた理由
私がインドで心を無にできた訳は明確です。
縛りを解き、自分に合う在り方ができ、自然体になれたからです。
私はエゴを理解する目的と同時に、エゴのない状態を深める目的を持っており、その場での自分に合う在り方を常に模索していました。
インドの前に心を無にする体験を何度かしていたため、「何が自分に合っているか、この環境か、この状態か、この目的か、この考え方か」を見つめながら過ごしていました。
瞑想を重ねた結果もあり、思考や感覚や感情が縛りなく自然になり、心の余裕がもたらされ、姿勢がよくなり、呼吸によって全身の力みも取れました。
食事の質、部屋のサイズ、清潔さ、雰囲気…など、自分に合う在り方が多く自然体でした。
日々の生活は一切の力みのないものであり、朝4:00起床であっても身体が自然と起きる生活習慣ができており、朝から穏やかで心落ち着いた状態でした。
さらに事前に別の修行をしたネパールよりも、インドの方が自分に合っている環境だと理解でき、私の状態とその場の環境とのマッチングが多かったです。
とにもかくにも「合う」ことが多く、無理矢理ではなく喜んで環境に合わせたい気持ちもあり、進んで合う在り方が増えていきました。
最終的に敷地内を散歩している時、自然界とのマッチングが後押しとなり、心が無となる体験をしました。
修行ではない日常生活を送っている場合、如何に力みをなくすかがそのまま心の柔らかさと無への近づきになります。
まずは身近なものから力みをなくすために、特に重要なのが食事、呼吸、シングルタスクのシンプル化。
自然体な(腸に合う)食事は細胞レベルで力みをなくします。
自然体な呼吸は肉体のあらゆる部分への力みと意識をなくします。
シングルタスクは意識を自然な一点にして、無意識の力みを解消します。
心を無にするためには、力みをなくす生活、メンタル、姿勢、呼吸、考え方、在り方、自分との向き合いをぜひされてみてください。
お風呂で水と同化する、畑で野菜を育てるなど、実際に自然物と触れ合って自らを自然に近づける方法もおすすめです。
※無の境地にあるスピリチュアルな理解は、【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは?をご覧ください。
心を無にするコツ まとめ
心を無にする際、「力みをなくすために自分に合うものや人や場所との関わりを増やそう」と思ってみてください。
私達は無自覚の内にあらゆる部分に力が入っています。
本来の才能や能力を発揮しにくくなり、力みは自然体と真逆へ向かう作用をもたらし、何かと自分や他から翻弄されやすくなります。
自我の執着と固執を強め、知らぬ間に自分と合わない状態や状況を邁進していきます。
感情や思考によって疲れた時は一休み。
周りからの影響や刺激は一旦置く。
まずは自分自身がどうしたいか。
何が合うか、何が合わないか、ご自身の身辺状況を把握して、整理してみてください。
やることはシンプル、自然体になるための力みのない生活です。
宗教概念を引用すると、心を無にするとは大変なことだと思えるかもしれませんが、心を無にするかどうかは使いようであり、コロコロと切り替えられます。
いつでもどこでも、無にするかどうかは選択できます。
自分がいないという状態は、完璧な気楽さであり力みのない自然体。
考えたって考えなくたって、感じたって感じなくたって、ようはなんでもいいんです。
私はインドの六日目に突然意識を手放すこととなりましたが、その後に直ぐ意識を戻しました。
なぜならば、意識を戻さないと自分としてやりたいことができないからです。
自然と一体化することは共同体として全体を敬う状態、何にも執着しないで生きるスタイルは非常に素敵だと思います。
しかし、社会性の中で生きるにはある程度エゴが必要な場面もあり、エゴがあるから今もこのように記事を書けます。
そして、書き終わったら虫と話す無になっていきます。
心の無は使いようです。
感情や思考に疲れた時、「いろいろ力んでいるのかも」と思う始まりとなればなによりです。
それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました。
『心理とスピリチュアルの学び場』
誰しもに人生を変える機会と選択があると信じています。著名な心理セラピストとして知られる、西澤裕倖(にしざわひろゆき)先生プロデュース。
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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。