意識、次元

【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは?

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無に至ることでの静寂と平穏。

「無の境地」と聞くと、仏教の悟りというなんだか崇高な意味に思えるかもしれません。

この境地、意外に身近にあったりします。

ここでは、無の境地とは何なのかをスピリチュアルという精神的な理解にてお伝えします。

  • 無の境地とはどんな状態?
  • 無の境地になるとどうなっちゃうの?
  • どうすれば無の境地になれる?
  • 無になる材料とは?

瞑想をしていると、「これが無の境地なのかな?」「何を目指しているのかな?」と自問自答してしまうことがあるかもしれません。

そこで、無の境地の意味を言語にて捉え、上記の疑問の紐解きを知っていただければと思います。

無の境地とは何にも囚われない有も無もない状態。ここに潜む人間の在り方はなんとも気楽なものだったりしますので、ご自身を知る一つの考え方をお楽しみください。

無の境地のスピリチュアルな精神とは

無の境地とは

「無」に心身が達した状態を無の境地と言います。

仏教では「悟り」と言われ、涅槃静寂、煩悩を離れた心の静まる境地です。

心安らかで、良いも悪いも、善も悪もない、そんな状態です。

「無」という表現はとても物事を難しくするかもしれません。無があれば有があると思ってしまうのが私達人間の脳です。

「0」の反対がないように、無とは無であり、陰陽思想による二元化や対極の概念がない状態です。

 

無の境地とは良い悪い、善悪、陰陽がないもあるもない

捉え方はこのようにするとわかりやすいかもしれません。

無とは無であるため、プラスもマイナスもないように良い悪いがなく、[楽しい=ポジティブ、悲しい=ネガティブ]というルール付ける外枠がない状態です。

良いも悪いもないのですが、「無い」というのは既に「無いという何かが有る」意味ですので、「無いも何もない」という少しややこしいものです。

しかし、シンプルに捉えるとこうなります。

良い悪いがないもあるもない。

目の前の大切な人を愛すると認識しなくても愛しているのが当たり前であれば、愛するも愛さないもない状態になります。

これを日常生活に引用すると、物事が起きた時に良い悪い、嬉しい苦しいと認識するのは、物事を受け入れるか拒否するかのどちらかになります。

「あなたが好き」と言われれば受け入れるように、「あなたが嫌い」と言われれば拒否するように。

受け入れも拒否もない=受け入れるも受け入れないもない、拒否するも拒否しないもない状態が無の境地と考えられます。

自分に自信がある人は、「私は自信がある」とは思いもしないように、
自分の意思による答えであれば、「自分が正しい」とは思いもしないように、
悟っている人は、「私は悟っている」とは思いもしないように。
そして、思おうが思わまいがどちらでもいいように。

陰と陽の両方がある世界で生きている基盤があるため、陰と陽がないとは陰と陽をともに超えている意味です。

無の境地とは陰と陽の二分けから離れた状態です。

 

無の境地にある精神

陰と陽のニ分けから離れると、陰にも陽にも偏らないバランスが保たれます。

この無の境地にはある精神状態が表れます。

無の境地とは自らにも他にも囚われない自由

自由という精神状態です。

自由とは愛であり、執着のないさまであり、他者にも何にも囚われないために意思や意志を揺さぶられたり、翻弄されない状態です。

特に顕著なさまが自分自身に囚われないことであり、自らの思想・感情・感覚・欲望・自我(我)・認知・認識に翻弄されず、そのままをそのままにします。

腐った饅頭が部屋に置いてあり、においを嗅ぎふむふむ、カビが生えてきたのを観察してふむふむ、「うわ汚い、ピョーイ」と誰かに投げ捨てられてもふむふむ。起きることを起きるままにする状態です。

それでは、「ゴミ屋敷に住む人は無の境地の精神性かな?」と思いきやそうではありません。

自由とは精神であるために、見かけにある自由なさまとは全く異なります。

饅頭でも観察する側でもどちらになっても同じなのが、無の境地の精神であり自由です。

 

無の境地は偏らない認識

饅頭でもいい、でも人間ならそれでいい、別に人間じゃなくてもいいけどね。

極端に言うとこういう状態ですが、あくまでこのような自由な精神であるために、実際にこう考えたりはしません。

どちらにも偏らず、あるものをあるままに、受け入れも拒否もどちらもないため、そのままをそのままにする現実主義的在り方が結果的に残ります。

洞窟を見つけて掘りたくなったら、どんどん掘り続けて新しい世界を見つけます。すると過去の遺跡も何もかもが発見され、現在不明確だった歴史の答えがわかり、あらゆる科学技術が判明します。

この時、過去にもこれまでの考え方にも、間違っていたことにも何にも囚われず、ただ掘り続けている人が無の境地です。

そんな掘り続ける人にインタビュー。

「あなたはどうして掘り続けるのですか?」

「ここに洞窟があるから」とこうなります。

受け入れも拒否もないそのままは、目の前の現実を認識し、「私が掘っている」とは思いません。

「ここに洞窟があり、この人(自分)が掘りたいから、身体が動くから、心が反応するから掘る」とシンプルです。

偏らない認識にはこのように「自分だ」という自我意識がありません。

「私は私だ」という認識は自分という概念を作り、自らに囚われ、欲望に執着し、感情に翻弄され、思考に判断を委ねようとします。

自我意識から離れるからこそ、饅頭でも人間でもよく、掘っても掘らなくてもいい。ただ今は人間だから、ただ目の前に洞窟があるから、そのままをそのままにします。

※精神的な成長については、精神的に成長しない人の特徴は一つ。精神的に成長する方法も一つ をどうぞ。

 

無の境地に至る人とは何者なのか

あらゆる認識の固執も執着もなく、陰にも陽にも偏らず、受け入れも拒否もせずそのままをそのままにする人。

少し現実離れしているようにも思えますが、一言で表すと超現実主義者です。

私の理解でしかありませんが、わかりやすくなるのがこの方。

死んでも生きても同じだと思っている人です。

 

生死に囚われない人は無の境地

私達人間は何かとさまざまなことに囚われ、頭を使用し、心を忘れます。

私なんかは虫の観察が好きなので、カナブンに目をやり、全てを囚われます。

そんなカナブン、三日ほどすると台所の皿置き場で仰向けになって死んでいます。

私はこの瞬間、非常に無の境地を勉強させられます。

蛍光灯の下にある机の上には毎日200匹以上のコバエが死んでおり、未熟で何もわからない私は、毎日のように勉強を半ば強引にさせられます。

虫は何を考えているのかわかりませんが、自然の法則に則り、本能の赴くままに動き、生きて死にます。

生と死が同時であり、生きていれば必ず死ぬことを知っているように本気で生きて本気で死んでいきます。

生と死が同時であるのはおそらく人間などの生物の常識です。生まれればいつでも死ぬ可能性があり、いつか必ず死にます。

生きていると死にたくないと思うかもしれません。価値観・観念・思考・感情・欲があります。

陽とは生、陰とは死を表し、陰と陽に偏らないことは生に執着せず、死に執着せずの状態です。

「今は死にたくない、もう数年待って」となれば生きたい欲や思考や観念があり、生と死は同じではなくなり、生である陽に偏ります。

生に偏ることで死に執着する概念を付け、脳を基に感情と欲を紐づけ、なるべく死から遠ざけるように、またはなるべく死に近づくように考え方も生き方も無意識に作っていきます。

これが現実主義になると生があれば同時に死があるリアルを知り、生きている現在と同時に死ぬ可能性を本能的に認識しているのを知っています。

屋根で風を感じたければ屋根まで行きます。感じる風の心地良さがあり、歩きながら下を見て怯える恐怖があり、今は生きているけど、ここに足を置けば死ぬ。生きているならいつ死ぬのも当たり前という現実です。

生と死の両方に囚われないと、「死ぬ=恐怖」と本能が感じても「ふーん」という具合です。

喜びや愛にも、不安や恐怖にも偏らないのは、どちらにも囚われないことであり、どちらでもいい状態。

これは、「なんでもいい」という精神状態だと思います。

無の境地とは別名、虫の境地かもしれません。
※精神が意味の基盤となるため、ただボーッとするのではなく、虫の精神状態で人間として生きる意味

※無の境地へ向かう絶望と希望の詳細は、【絶望とは一体?】希望を知る絶望の正体│哲学とスピリチュアル をご覧ください。

 

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無の境地になるには

無の境地は日常的にある

無の境地の概要を知っていただきました。いかがでしょうか、「なんか人間じゃないみたい」と思うかもしれません。なんせ虫ですからね。

しかし、虫であっても人間である前提があるため、ボーっとして感情も欲も我もない状態とはわけが違います。

老衰など肉体的に衰弱すると本能の働きが弱まってまるで「無」になりますが、無の境地は欲がないわけではありません。

欲はあってもなくてもどっちでもいい状態です。

欲を見出したい状況であれば欲を思う存分に注ぎ足します。欲が不要な状況であればなくします。

どっちでもなんでもいいので、判断基準となるのは目の前の状況となるです。

無の境地では自我意識が「私、自分」という概念から離れているため、自分という存在は他であり全体と同じです。

目の前の人が自分であり、目の前の自然が自分であり、社会全体が自分という状態。

[自分+他=全体]とこの全体が自分になるために、我の押し付けや自我の主張がなく、何かに囚われることがありません。

これをスピリチュアルや哲学では、ワンネスと言います。

「私はあなた、私は全体」と言う変人がいるとイメージされてください。

自分の概念が全体になると、「これが私」「この私を喜ばせたい」「この私を悲しませたくない」という狙いがなくなり、起きるのは目の前の状況へのフォーカスです。

集中して目の前の状況に自らを入れ込め、溶け込むと、自→目の前の他との融合が起き、何者でもない自分がそこにいて、目の前の状況に集中する状態のみが残ります。

何者かどうかを認識しなくなるほどに集中する状態は、無の境地と考えられます。

 

自我を離れた集中、何も考えないほどの集中状態

完全なる集中状態になると、「私、自分」という概念がなくなり、「この私がこれまで練習してきたこの技、とりゃ」と将棋する。そんな状態は一切なくなります。

神の一手を出す状態です。

トランスや変性意識状態とは全く別です。何も考えず思考から離れた集中状態は時間と空間の概念がなくなり、心の中に入る感覚です。

外から、「おーい」と言っても気づきません。

これは瞑想をされる方はイメージしやすいかもしれません。瞑想にて思考を離れ、その後に感覚を離れると起きるのが眠っている時の意識状態です。

普段眠っていると意識があっても起きた時にパッと消えてなくなる感じがありますが、意識を残しておけるのが無の境地です。

思考への執着や固執が強ければ強いほど思考がなくなる状態とは遠くなりますが、思考から俯瞰した状態を完全な集中によって体感している人は、実は無の境地を身近に感じていたりします。

 

スポーツの集中状態は肉体が主体

上記では将棋を例にしました。将棋は思考する状態ですが、完全に集中すると思考を離れて心に入ります。

スポーツをする場合はどうでしょうか。

例えばテニスをして、完全に集中すると起きるのは肉体へのフォーカス。思考にて肉体制御するコントロール状態がなくなり、身体への一切の抵抗がなくなり、楽しくて自分の思ったようにフォア、バック、スマッシュ、カットでチョン!です。

最大限の力が発揮される状態で、練習や鍛錬にて肉体が記憶した限界が出る、完全に自分の身体と同化する楽しさがあります。

ここから無の境地に入る場合、全く新しい創造をする領域になります。

神の一打と言うのかわかりませんが、テニスをしている時間に自らが自分と相手と審判とテニスコートと周囲の観客と融合するように、何者でもない全体としての自分の認識として生み出すテニスをすることになります。

その場にいる人々全員が組み合わさり、新しいテニスの領域を創造する心の状態です。

 

芸術における無の境地は完全なる自由

これが芸術になると無の境地は最高の踊り場になります。

芸術とは既に創造であるために、如何に自分から離れるかによって楽しみも面白味も意味も生み出されます。

絵を描いて集中し、何者でもない自分になり、空間も時間の概念もなくなった時の完全な集中にて、何も抵抗がない真っ新な世界に一変します。

その世界で何を創るかの制限はなく、芸術家としての本望を発揮する状態です。

テニスのようにルールがないので、あまり理解されずに価値にならない可能性は高まりますが、本人にとっては人生を全て詰め込む作品になり、生死、陰陽、善悪を越えた世界をそこに創り出すことができます。

楽しいとか苦しいを越えた境地であるため、無の境地に入った人ならではの遊びであり、お祭りのような状態です。

※無の境地を知るための精神性の詳細は、精神性とはスピリチュアル?│実は簡単な意味と大切さ、そしてサービス をご覧ください。

 

無の境地になるには

私の考え方では、幼ければ幼いほどに無の境地に近い存在だと思います。

成育と共に無の境地から離れていきます。

自我を構成していくからであり、思考を育み、執着するのが自然である状態を作っていくからであり、死を重んじて生死ルールを作ることで感情や欲に翻弄されやすく、他者や自らや他の情報に囚われやすくなる世界に入っていくからです。

赤ん坊のように、虫のように、そんな精神状態では無の境地です。しかし直ぐに死にます。

バブバブと道路を渡れば他者がいるのでドンッ。このように他者との共存環境という基盤があるために、無の境地から離れることで生存を図り、無の境地から離れることで生に偏り、死から離れます。

これが今の常識だと思うので、無の境地になることは良い悪いが分かれると思います。

独りの環境であれば良いも悪いもなくして、赤ん坊のように虫のように生きて死ぬのもありかもしれません。

 

無になる材料、無の境地の意味 まとめ

無の境地。生きている基盤も含めての全体となる状態。

これも概念ですので、実際には「全体になる、ワンネスになる」という考えは無の境地にはありません。

自らを極めるように理解を育むその先が全体だったという可能性もあり、なんでもいいのだと思います。

このように無の境地とは何かを知ると、自分も他者も自然も社会も全てを含めて考える大切さがわかります。

意見には正しいも間違っているもありません。そう思いたいかそう思いたくないかの欲があるだけです。

独りの時の無の境地があり、仕事している時の無の境地があり、満員電車内の無の境地があります。

社会で生きている上での無があり、ジャングルで生きている上での無があり、無になる材料が存在すると考えられます。

無になる材料は如何に完全に集中するかであり、使命が大きく関わります。

使命を認識することで心から集中する動機が生まれ、それが魂から伝わる真意ではないかと思います。

使命を見つけると無我夢中、一生懸命に取り組み、自然と集中する状態がもたらされます。

その集中は他との関わりを作り、価値を作り、流れを作り、仕組みを作り、社会を作ります。

使命には訳も分からずに信念を貫くほどの強い意志があり、陰陽、善悪、生死を共にそのままにしながら、目の前にあることにひたむきになります。

そんな人の姿に無の境地を見ます。

その人を私は「虫」と呼びます。

無の境地にある集中。材料となる使命。無の境地とはカナブンになるあなたという人間。そんなお話です。

奇妙な内容だったかと思いますが、お楽しみいただければ何よりです。

それでは、無の境地とは何なのかの意味とスピリチュアルな精神のお話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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