我が強いと言われる人がいます。
わがまま?自分勝手?共存下手?自己主張が強い?
少し違います。
我が強い人は自我が強いわけではなく悟りの前段階。そんなおかしな話をお伝えします。
ここでは、“我とは何か?”という理解から話を始めますので、魂や意識としてのスピリチュアルが含まれます。
我を理解するための悟りや宇宙の認識から、わけのわからないことを含めて我が強いとはどういうことなのかをお伝えしますので、免疫のある方のみご覧ください。
それでは、我が強いとは何かの意味からわかる、我が強い人の心理と特徴、そして改善方法を見ていきましょう。
我とは

我が強いことを理解して改善するためには、我の意味を知ることが大切になりますので、我とは何かについてを初めにお伝えします。
我とは
“我”については仏教やヒンデゥー教にてそれぞれの理解があり、古くから議論が繰り広げられていたものです。
そのため、訳わかりません。
「あはは、そうだよね、きっと、あはは」というものです。
一応、言葉としての説明をして、その後に私自身が理解している内容も踏まえてご覧いただきたいと思いますが、若干の勉強会を一方的に始めますので、ガンガン飛ばして読まれてください。
我はない無我の仏教
仏教の認識には仏陀(釈迦)の教えによって、“諸法無我(しょほうむが)”というものがあります。
諸法無我とは、全ての物事は互いに影響し合い、一つとして単体で存在するものはなく、あらゆるものは因縁によって生まれ、実体がないというもの。
私達は一人で存在する単体ではなく、あらゆるものとの繋がりによって存在し、「私」だと捉える“我”はありませんと。
実体のない自我を自分自身だと思い込むことで苦悩を作り、無我である仮の存在が私達人間だと説います。
仏教では、“諸行無常(しょぎょうむじょう)”という常に物事は変化を続け、そこに空の概念がある認識からも我は存在せず、無我によって悟りの道へ入ると言われます。
さらに、仏教から派生した大乗仏教では、人法二無我、無自性空という言葉にて、思考の排除や、煩悩や執着に対する理解を強めて悟りへの道を示す無我を認識しています。
ヒンデゥー教にはパラマートマン(真我)の理解がある
仏教とは違い、ヒンデゥー教には我の認識があります。
インドのヴェーダ宗教で使用される言葉にサンスクリット語で“アートマン”と言うものがあり、生命・自己・自我・自我の本質、全ての物の根源に存在する個の中心、意識の最も深い内側にある個の根源として、“我”を意味します。
そのため、我とは個の根源であり、私達一人一人の個の根源に我があるとしています。
我をヒンデゥー教では、自己であり小宇宙であり神であると説いています。
同時に、“ブラフマン”と言われる宇宙の根本原理が大宇宙であり神であると説いています。
小宇宙は私達一人一人にあり、その大元であり統括として大宇宙のブラフマンがあり、どちらも神であり同一性を持つことから一元化して同置である理解となっています。
私達も神も同じで、全ての一つの中から一時的に派生して実体があるように今を存在し、一人一人の小宇宙には自我意識のない純粋な実体としての“真我”があると説くことを“パラマートマン(真我)”と言います。
以上は簡単な要約になりますが、「あのぉ、これって我が強いって話ですよね…?」というスピリチュアルな話。
大丈夫です、安心してください。
ここでわかっていただきたいのは、我が強いとか弱いとかの表現は、私達人間の原理やこの世の仕組みを紐解く話ということです。
ですが、難しい話から最終的に、「我が強いとはどういうことか?」への日常的な理解が出てきますので、気楽に読んでいただければと思います。
我の理解にあるスピリチュアル
仏教に関しての“我”の捉え方は、“万物それぞれの永遠、不変の実体”というものです。
根底から、「はっ?」となりますね。
我に対する魂や人間としての真理を紐解くことで見えるのが我の真実であり、そこにはこの世は全てが因縁によって繋がり、一つ一つが関わり合っているために個としての実体は何もない無我と捉えたり、自我意識のない純粋な実体としての真我と捉えたりします。
我とは自我意識の先にある宇宙との一体化意識のことで、ワンネスに繋がる自分のことではないかと思います。
あくまで私の理解ですので、サーと読み流して頂ければと思いますが、ここでお伝えしたい“我が強い”という真意が少し垣間見えるかと思います。
我とは自分を最終地点まで紐解くと見える根底の意識
ワンネスとは全ては一つという統一意識のことで、神、創造主、ブラフマンなどと名前が国や人によってばらばらです。日本では天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と言う人もいます。
私達はみんながワンネスから派生して個々に存在し、一人一人に自我があり、“私”という己の存在を認識するスピリチュアルな話です。
仏教では、一人一人の関わりや出来事には全て繋がりと関係性(因縁)があり、“個”として存在し成り立つものはないと説います。
これは捉え方を変えると、陰と陽、光と闇を内包した理解のことで、私達一人一人が繋がり合い、関わり合い、さらに今存在する自分には過去に認識の基となった“記憶”があり、その記憶はあらゆることが“自分+何か(他)”という出来事にて原因と結果が紡ぎ合ってできています。
そのため、自分のみの単体で作られ構成されたものはなく、肉体だけを見ても細胞が幾つも重なり合うことで構成されています。
細胞一つ一つにも個があると考えられ、そんな細胞の集まりは電子と分子の集まりであり、素粒子の集合体であり、それはエネルギーとなることが量子力学でもわかっている現在です。
そのため、我とは何を“個”として認識するかによっても変わるもので、細胞一つ一つの我を紐解いて行くと素粒子になりエネルギーになり、それは宇宙でもありミクロがマクロになる瞬間でもあり、結局全てはワンネスという一つに繋がり、現在は派生して個々に生きているけど実体は繋がりの結果であるという。
仏教もヒンデゥー教も同じように全ては一つと捉えていますが、パラマートマンの真我は私達一人一人が神であるために“最高の我”として認識できるというもので、その一つ一つの我を大宇宙のブラフマン(ワンネス)が包むように大宇宙が存在する個々の一元化理解です。
自分を宇宙の一部であり神と捉えるか、宇宙の一部としての繋がりと捉えるか。
言い方を変えると、仏教は我をなくし己をワンネスである宇宙の一部として俯瞰したマクロ目線で己を捉え、一人一人が繋がり合うことで存在する無我。
ヒンデゥー教はミクロ目線で自分の我を細かく見ていくと、その先に真我という大宇宙に繋がる己がある。しかしそれは己ではなく既に宇宙であり完璧な存在で、ミクロの先にはマクロが広がる認識です。
長くなりましたが私の解釈では、あらゆる関係を尊重して他を敬う仏教か、完全なる自尊を尊重するヒンデゥー教かの違いがあると考えます。
言い方を変えると、他を自分と同じ一つであると捉えることで自然と敬いを持つか、自分を尊重することで他の認識に敬いを持つかです。
しかし、他を敬うためには完全なる自尊が前提に必要であるため、他を自分と同じ一つに認識するためには真我を認識する必要があると私の経験からは理解しています。
以上から勝手な解釈ですが、真我を認識してミクロからマクロ的に俯瞰することで、全ては一つでみんな同じ、あなたも私、私もあなたという無我の境地に達する。
またはミクロを追求することでミクロの中にマクロがあるため、自分を神だと絶対的な自尊を貫き突き進むことでそこには空間も何もない大宇宙が広がっている。
我とは意識の先にある自分の認知であり、その先には自分とは自分ではないワンネスというみんなが共通の一つの意識に到達して、「私は私」という我は存在しないということです。
これまでの話から、我が強いとはどういうことかわかりますね。
「わかるかーい!」と。
我がないのが標準状態というのが私達人間であり、この世に存在するあらゆるものが同じです。
我がない標準を知ることで、我が強いとはどういう状態かがわかります。
「私達は我がないんです、本当は」と言いたいだけに、これまでの内容をお伝えしました。読まれた貴方は素敵です。
※我を知るワンネスの話は、ワンネスとは宇宙の法則|スピリチュアルと哲学でわかる視点を変える話 をご覧ください。
我が強いとは

上述の知識を基にここから本題に入ります。
我が強いとは
我という己を認識する理解はないというこれまでのお話。悟りや涅槃を求めた場合の理解でした。
そんな悟りとは、これまた宗教ごとに理解がありますが、何も難しいことでも浮世離れした話でもありません。
悟りとは開くとも得るとも言いますが、一番初めは思い出すことです。
これも私の解釈になりますが、生まれた時は誰しもが悟っています。そこから自我が芽生え、自我意識の強まりと共にエゴが作られていきます。
自我意識とは自分のことを自分だと認識する意識のことです。
自分が存在する以上、無意識にそして自然に生きていることや呼吸していること、手が動くことなどを認識しているために、自我は「私は私」と自覚を持って認識することのないものです。
自我意識とはあるのかないのかわからないものでして、生きているからにはあるのでしょうが、それが本当に自我意識がどうか日常的には自覚がないのでわかりません。
我を持っていない標準があり、さらに自我意識は自覚できない。
「私って誰?」「我が強いって何?」という状態です。
そこに“エゴ”が登場します。
我が強いとは自分がないことを認めない反発
エゴはラテン語で“自我”のことです。
ですが自我意識とは違い、自我を見出そうとする認識がエゴです。
- 意識することなく認識している自我意識が既にある。
- あえて自我を自ら見出そうとする意識がエゴとしてある。
自分の中にまるで二人いるような。
元々自分を自分で認識している自我意識に対して、「これが私のことを認識している元の意識」と認知することはなく、自我を認知できるのはエゴである“自我を見出そうとする意識”です。
我という己の認知は本来は誰しもありませんので、我が強い場合は自我を見出そうとする意識が強いことを意味し、それはエゴが強いことを意味します。
言い方を変えると、自分が存在しないことを認めたくない反発(執着)が強いために、あえてエゴにて自分を見出そうとする=我を主張するように強めます。
我が強いことの意味は、自分がないことを認めたくないエゴの人間性です。
我が強いとはエゴが強いこと
間違ってほしくないのですが、我が強いとは自我が強いことではありません。
エゴが強いことです。
それは自分を見出そうとする認識が強いことです。
無我の状態が標準にあり、そこから自分を見出そうとするためには、自分以外の“他”の存在によって見出すことになります。
我が強い=エゴが強いとは、他の目や反応や評価などの存在にて自分を見出す意識が強いことでして、自分のために他者を利用する人のことです。
我が強いとは、自分を見出すために他者を利用するエゴ意識が強いこと
ですが、我が強い人には大きく二つの全く異なるタイプがいます。
※エゴが強いことの詳細は、エゴが強いとはどんな感じ?│状態と特徴からわかる邪魔で大切な自分 をご覧ください。
我が強いタイプ
我が強いと言っても一括りにはできず、大きく二つのタイプで分かれます。
我が強いタイプ
- 自分がないことへの反発による我の強さ
- 頑固一徹にて自分を変えないことによる我の強さ
このタイプは天と地ほどの相違があるので、ここでお伝えしている我が強い人を明確にしたいと思います。
ここでの主旨である我が強い人は“①自分がないことへの反発による我の強さ”を持つ場合です。
共に似ている特徴や傾向を持ちますが、人間の内側には全く異なる認識があり、頑固な我の強さを持つ場合は自分がないことを認めるとか認めないという状態ではありません。
自分がないことへの反発による我の強さは頑固なように見えますが、変化を止める恐怖が見えています。恐怖を極端に嫌がりますが見えており、そんな自分を何とかしようと我を強めて対処していくため、ある大きな特徴と改善の道が見られます。
先を進みましょう。
我が強い人の心理
我が強いことを人間性の内側から理解することで、我が強い人の心理が明確になります。
こちらです。
- 自分がないことを認められない
- 自分の存在を認識することに駆られる
- エゴが強く、他者の反応や評価が何よりも大事
- 自分を自分で認められず、他者によって認めてもらおうとする
- 他者を利用して己の価値を見出そうとする
- 何か特技や能力など、他から評価されるものを欲する
- 自ら認められないために否定されることをとにかく恐れる
- 顔や能力など外的に特徴作られ、自分たらしめる何かに執着する
我が強い人の特徴
上記の心理状態から、我が強い人の特徴が見られます。
- 自分の間違いを認めない
- 意見を押し通し、曲げない、譲らない
- 評価や価値の機会を他者に渡さない
- 他者を巻き込み、独りでは何もできない
- 被害者意識が強く、他者にすがり利用する
- 自分を中心に物事を運びたい欲が強い
- 他者からの評価が得られないものに興味がない
- 損得勘定が凄まじい
- 損をしたくない、得をしたい、利益が欲しい
- 褒められたい、認められたい
- 自己肯定をせず、他者に肯定させるように生きる
我が強い人はとても明確でわかりやすい特徴があります。
それを一言で表すと、悲劇のパフォーマーであり、空虚なエンターテイナーです。
責められず、利益を吸い取る。そのために被害者面マスクは常にバッグに潜ませています。
誰も楽しくないエンターテインメントをわき目もふらず無我夢中。
何のため?
己の我欲を解消させ、生きている意味を見出し、生きている価値を見出すためです。
※芯が強い人の特徴と違いは、芯がある人と芯が強い人の特徴に大きな違い。核はぬるま湯か熱々か? をご覧ください。
我が強い 改善方法
散々に言っていますが、我が強い人には最も大きく素敵な特徴があり、改善を知らせるものがあります。
悟りの手前ということです。
悟りとは思い出すことですので、崇高なこととは違います。
仏教では悟り“五十二位”として、悟りに入ってから52もの段階があります。
そのため、悟りとは始まりのことで、その後ついに成長の段階を人それぞれに一つずつ歩んでいかれます。
悟りの光明を体感し、ワンネス一体化を認知することで、これまでの認識が一変するような体感があるため、勘違いしてしまうかもしれませんがあくまで始まりです(悟ったとしても直ぐ元に戻ることもあります)。
始まりに近い状態がエゴの強い状態、我が強い人です。
ここをはっきりしたかったので、タイプを分けました。
我が強い時には我がないことを知る
『我が強いことを認められるか否か』
これが改善方法の全てと言っても過言ではありません。
私自身、エゴまみれヘドロだらけ、反吐を吐き捨てまき散らして生きていた時がありますが、我の強さとは己の中身の無さを無視する人間性を作ります。
その無視は嘘に偽りです。
空虚の自我を認識する勇気も気もない、「そんなことはない、私は認められている」と己の我の強さすら認めません。
ですが、我は本来ありませんので自分がないことを当たり前にできた時、我の強さは全く違うものに変わります。
自分を知る気付きであり体感は、我を知り、我のないことを知ることです。
そのために、我が強い自分を知る=自分がない、中身がないからあえて作っていることを自覚し認めることが大切です。
我を知ることで理解するのが我のない標準であり、自分とは何者かというベースです。
それは、子供の時の自分のこと。
我が強いことは行くとこまで行っている状態です。我を見失いエゴを増殖して、自分を何者かにして存在させる空虚の箱に大好きなタバコをパンパンに詰め込む行為です。
その自分を認め、我がないことを知ることが、我が強い状態の改善方法です。
我が強いのは周囲に対する関わり方以上に、自分に対する関わり方に表れる
我が強いとは、わがままや自己主張が強い他者に与える影響から見える解釈があります。
しかし、その根底には自分自身の内側にある、己に対する関わり方に我が強くなる要因があります。
それが、中身のないことへの不安であり恐怖から逃避する認識です。
元々中身は誰しもありませんが、他と比較することで中身をたくさん詰め込むことに勤しみます。
馬鹿にされたくありませんし、否定されたくありません。それは恐怖を味わいたくないことであり、「空虚の自分はダメ」という思い込みによる認識です。
自分が何者かとしてあればあるで良い、それが自分の軌跡であり記憶だから。でもなければならないことはなく、今の自分、状態、認識をそのまま知り、理解して、把握する。
自分に対する関わり方を認識することは、エゴを知り我を知ります。
それによって我が強いことを認識し、我がない自分を思い出すように理解します。
改善であり悟りであり、同時に得られる可能性を持つのが我が強い人の大きな特徴です。
※エゴの理解による悟りの話は、スピリチュアルな目覚めの兆候にエゴとの対談|光と共に覚醒の始まり をご覧ください。
我が強いとは まとめ
なんとかまとまった?でしょうか。
初めはどんなことになるかと思いましたね。突然の宗教話、「無我、真我、なんじゃそりゃ」と。
ラッパーは常々言います、いんを踏むことは陰を知ることで光明の裏には陰陽がある、yeyeye、我が強いのは真我因果に無我夢中。
ブラフマンにアートマン、パラマートマンに諸法無我の般若心経、実体のない自我は純粋でけったいな無我を真我に捉えて悟りの地。
yeye、あ、失礼しました。
我が強いことは我がないことへの反発であり、認めない認識による結果論、有神論、空虚の箱には空心論。
我が強いことは周囲に迷惑をかけてしまいますが、全ての根底にあるのは、自分の空虚を見ない見せない認めないことです。
あらゆる偽りは己の偽りによる擬人化に疑似現実に仮想現実の夢想化です。
何もない、それが真実であり自我の正体かどうか。それは我が強い人が知れる次のステップであり、知る特権であり改善したかどうかの答えではないかと思います。
そんな理解によってご自身のために役立つ内容であれば幸いです。
分かった気がしました!本来我というものは無いが、無いことにするためにはある事が必要という事で合ってますか?その為に、我があり我が強くなれば強くなるほど、無が見えてくる。空の意味や陰陽の意味?理解?が不十分だったので、これで何となく進んだ気がしました。何より、梅津さんのブログを読んでいると、宇宙人の様な息子を理解することが出来ます。本当に感謝です(❁ᴗ͈ˬᴗ͈)
そうです。
それは良かったです、どんどん進まれてください。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
いえいえ。お忙しいのに、いつも返信いただきありがとうございます。応援しております(ू•‧̫•ू⑅)