人生哲学

悟りを開くとどうなる?【意味と仕組みに全員ブッダ説】

悟りを開いて生きる環境が、全員に分け隔てなく与えられている。

実は全員、悟りを開いている説がここにあります。

悟りを開いているご自身に気づくきっかけとなることを願い、「悟りを開くとどうなるのか?」の意味をお伝えします。

  • 悟りを開くとはどういう意味?
  • 悟りを開くとどうなるの?
  • 全員悟りを開いているとは?

これらの詳細を知っていただき、悟りを開く理解を身近にする内容となっております。

仏教用語となるために宗教概念があり、少し難しいように思えるかもしれませんが、実際にはとてもシンプルだったりします。

よりご自身を知る一助となれば幸いですので、一つの考え方としてご覧ください。

それでは、全員ブッダ説を始めます。

悟りを開くとどうなるのか

悟りを開くとは

悟りを開くに類する言葉達があります。

「目覚める」
「真理を解く」
「自我を解く」
「覚醒する」
「内なる存在との統合」
「創造主と一体となる」

これらは同じ意味です。

宗教的な意味合いや、哲学としての真理、心理からの理解と言語があり、スピリチュアルな認識もあります。

さまざまにありますが、全てに共通した悟りを開く意味があります。

悟りを開くとは、自分という存在に気づくこと。

 

自分を知るために気づくことが悟り

あらゆる他者と共存する社会環境で生きていると、「自分」という存在は他者を捉えることで把握する癖を持つかもしれません。

他者と比較し、他者の言動に反応し、他の情報を基に価値観を作り、周囲の影響にて自分が構成されます。

すると、認知できる対象であり、「この私が自分だ」と思うかもしれません。

自らを主張するように価値観と観念を持ち、自らに囚われるように感情に翻弄され、思考に判断を委ね、欲に振り回され、執着と固執と認識の偏りが作られます。

悟りを開くとこの概念がなくなります。認知対象ではなく認知する基が自分という理解になります。

すると、「私が私」「自分」という概念から離れます。

これが悟りを開く状態です。

悟りを開くとは、自分という存在を知ることで自分という概念から離れ、自分とは何かを知る目覚め。

悟りとは「自分」として目を覚ますことでして、この「自分」をどのように捉えるかがポイントになると考えられます。

 

悟りを開くとどうなるのか?

自分とは一体何なのかを知ることで悟りを開きます。

言葉としては簡単なのですが、意味深な言葉となる「自分」

実際に自分を知ると起きるのは、現状自分だと思っているものは思い込みであり、ほとんどは概念である思考の賜物、外枠であると気づきます。

ウインナーを型取る薄皮を思考で作り、パッケージに「自分」と名を付けているイメージです。

悟りを開くとこの情景を見ます。

「このウインナーは一体何者なのか?」を悟りを開く時に知ることとなり、その後に自分を知れば知るほどに起きることがありますので、順番にご覧ください。

 

①エゴ(我)と分離する

エゴという思考によって思い込んで作っていた自分がいたと気づき、エゴと分離することで悟りを開きます。

エゴとは意識であり、「自分だ」「私は私だ」「私は○○だ」と主張し、自分以外の他によって自らを認識し、あえて自分という存在を見出そうとする意識です。

例えば家族に付けてもらった名前があります。名前は他によって自らを認識するための固有名詞であり、自分の外枠パッケージングです。

それを自分だと思い込もうとするのが思考であり、「あなたはウインナーだ」と言われた時に、「違う、私は○○だ!」と思考に執着します。

さらにこの反応や反動によって感情や欲が生み出され、思考し行動します。

これらの思い込みから離れ、自分という存在を手放すと起きるのはエゴとの分離であり、これによって自我意識から離れていき、さらに自分を知ることになります。

 

②無の境地になる

エゴ(我)や自我から離れることで起きるのは、陰陽、有無、善悪、良悪などの二極化概念に偏らないバランスをとる状態です。

ネガティブは心地悪いから嫌だと思うように、ポジティブは心地良いから良いと思うように、どちらかが有ればどちらかが作られる。

この概念がないのが悟りを開いた状態であり、無の境地と言います。

無の境地は陰陽に偏らず、それぞれをそのままに捉えます。

例えば生と死。生が陽、死が陰です。

どちらかに偏ると、「生きたい」「死にたい」「生きるのが嫌だ」「死ぬのが嫌だ」という欲に翻弄され、陰陽どちらかに執着します。

悟りを開くと生も死も共にあることを知り、生があれば死があり、今生きていれば次の瞬間に死があるのを知ります。

生きる常識を自然と認識する状態であり、どちらにも偏らず、固定観念も偏見もなく物事のリアルをそのままにする現実的な捉え方になります。

 

③執着や心理が手に取るようにわかる

自らはもとより他者の執着や心理が明確にわかる状態がもたらされます。

私達人間はあらゆる概念に囚われ、自らの思考や感情や欲望にコントロールされ、コントロールされていないと思えるように誤魔化したり嘘をつき、自らとの向き合いに目をそむけたりもします。

自分を知ると全てはありのままにそのままにするため、物事の受け入れと拒否のさま、そこにある執着や心理を明確に把握します。

アイスを一本食べて、「もう一本食べたい」と思った時に、冷たい感覚と脳が欲している状態を認知し、「感覚と欲と脳の満たしに執着しているんだな」と把握するイメージです。

これが他者に対しても起き、「まぁまぁ冷たいお茶でも飲んでください」と言われた時の世間体か気持ちか、世間体への執着があるのか、人を敬う気持ちなのかが自然とわかります。
※スピリチュアルに表現すると波動感受にて認知幅が広がる状態

しかし、「自分」という概念がないために、自らや他者の執着を知ってもそこに良い悪いを付けることはなく、ただそのままをそのままにします。

 

④拒否がなくなり受け入れが多くなり受け入れもなくなる

悟りを開くと起きる顕著なさまがこちらです。

拒否するさまは物事への評価や執着や固執を意味し、良い悪い、自らの欲が満たされるかどうかの思考や価値観や観念があります。

これが手放されると拒否がなくなり、起きることをそのままにするための受け入れや許容が広がります。

受け入れるさまが増えていくと、受け入れるも受け入れないもなくなり、起きることはそのままにします。

その際は有も無もない自然と同じ精神状態になります。

 

⑤愛と恐怖を知る不干渉

そのままをそのままにする認識は、自分自身もそのままになり、苦しみも楽しみもそのままに、陰にも陽にも偏らず、愛にも恐怖にも偏らなくなります。

「愛が良い」「恐怖は悪い」という概念はもとより、自らが認知する心地良さや心地悪さにも評価や判断や決め付けがなくなり、愛にも恐怖にも翻弄されなくなります。

感情や欲望を超越した状態であり、愛と恐怖は表裏であり一体であると知ります。

それは恐怖も愛である意味となり、愛も恐怖であり、どちらでもいいものです。

何にも揺さぶられないために常に平和的で穏やか、愛があれば喜び、恐怖があれば怖れ、生きるなら生きる、死ぬなら死ぬとシンプルです。

この状態になると他者との関わり方は不干渉になると考えられます。

愛と恐怖を内包して共に知っているがための在り方として、自らと他者の在り方を尊重し、尊重せずの両方取り。これを自由と言います。

固定観念も社会性も他の情報も自らの在り方も、何もかもに執着がないため、社会的な常識からでは理解困難な領域に入ります。

 

宗教、哲学、スピリチュアルの悟りを開く意味

悟りを開く意味には、宗教や哲学やスピリチュアルにそれぞれの認識や見解がありますので、これまでの内容を少し学術的にご覧ください。

 

哲学による悟りを開く意味

:迷いの世界を超え、真理を体得すること
※真理とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。真実とも。
引用 Wikipedia

 

宗教による悟りを開く意味

仏教
:「空」であり、全ての存在には実体を称すべきものがない空しいものと悟ること。悟りの五十二位にて段階がある。

ジャイナ教
:修行によって業の束縛が滅せられ、微細な物質が霊魂から払い落とされることを「止滅」(ニルジャラー)と称する。その止滅の結果、罪悪や汚れを滅し去って完全な悟りの智慧を得た人は、「完全者」(ケーヴァリン)となり、「生をも望まず、死をも欲せず」という境地に至り、さらに「現世をも来世をも願うことなし」という境地に到達する。この境地に達すると、生死を超越し、また現世をも来世をも超越する。

ヒンドゥー教(バラモン教)
:意識の状態で、人が到達することの出来る最高の状態のいくつかを言う。サンスクリットのニルヴァーナ(涅槃)に相当する。光明または大悟と呼ばれることもある。悟りを得る時に強烈な光に包まれる場合があることから、光明と呼ばれる。

キリスト教
:三位一体の神の位格の一つ聖霊との交流を意味する、神を知る体験を伴う。
引用 Wikipedia

 

スピリチュアルによる悟りを開く意味

:内なる存在との統合による目覚め、創造主との一体化。ワンネスの認識と愛の知覚。第一~第六チャクラが開く。

 

それぞれの悟りを開く意味の要約

上記の内容にある、仏教の「空」の概念と、ジャイナ教の「生をも望まず、死をも欲せず」は同じことを言っています。

「空」の概念は、実体がないことの認識を意味しており、苦しみも楽しみも人それぞれの認識によって良きものにも悪いものにも変わり、陰も陽は認識次第で存在することを意味します。

陰と陽と真ん中があり、見え方や捉え方で違いが生まれます。

ヒンドゥー教(バラモン教)のニルヴァーナ状態は光に包まれる体験を伴い、キリスト教の神を知る体験にも同様のものがあります。

スピリチュアルの悟りである内なる存在との統合や、創造主との一体化は、全ては一つに繋がっていると知ることです。

全てに共通しているのは自分を知ることであり、自分に気づく瞬間に命への執着を手放し、受け入れの意味を認識し、自分の本質の存在に気づくことを伝えていると考えられます。

※スピリチュアルの悟りを開く話は、スピリチュアルな目覚めの兆候にエゴとの対談|光と共に覚醒の始まり をご覧ください。

 

全員悟りを開いている考え方

全員悟りを開いている説

私の考えでは全員ブッダです。
いえ、ブッダでした

私達は生まれた時に、人生という死ぬまでの制限時間を与えられます。

人生を過ごすための場所が、空間である自分の世界です。

自分という生命を宿した肉体と脳と心が一心同体となった意識体が主人公として存在し、この世の生活環境を使用して自由に育って、学び、経験し、生き延び、朽ちていきます。

生まれたばかりの時はありのままの自分がおり、人生を与えられ、地球の生活環境を活用して生存していきます。

そこにはエゴがありません。

純粋に目の前のことを認識しなければ空気を吸いませんので、目の前のことを生きるために認識して、自分のできることを全力で活動して生存維持を図ります。

全てを受け入れることが前提であり、空気と同じで目の前にあるのだからこそ、受け入れるも受け入れないの概念も存在せず、そのままに目の前を認識して反応することに集中します。

この集中が自分であり、悟りを開いている自分と考えられます。

良いも悪いもなく、自分のできる限りのことをあるがままに行為し、生きようが朽ちようがそれをそれとして認識します。

仏教で言う「空」であり、悟りを開くとはの意味となるのが、赤ん坊の姿です。

赤ん坊の時は悟りを開いている。
※自我とエゴによって悟りを閉じ、再度悟りを開くための人生が今

 

他の影響を貰うことで生存を図り、悟りを閉じていく

赤ん坊の時は一人で生きていけないために、周囲に助けてもらいながら無我夢中に生きようとします。

自然と他の知識、情報、価値観、食べ物、空気など、自分以外によって自分が構成され、スクスクと育ち、経験と記憶の積み重ねによって固定観念ができ、自我ができ、我を強め、エゴを育てていきます。

自らの思考だと思える価値観ができ、執着や固執が起き、感情に良い悪いを付ける評価・判断基準を持ち、食べ物などの他を体内に入れ込めることで与えられる刺激を覚え、快感を知り、他によって自分が作られ、自分のことを自分だと思い込んでいきます。

悟りを日々、少しずつ閉じていきます。

しかし、生存するためには大切なことであり、エゴを持ち、拒否をし、物事の現実を誤魔化し、偽り、演じ、成長するためのふり幅を作る意味になります。

シンプルに悟ったままでは生死へのルールを付けずにあらゆることに全力で、バブバブバブー!と猛烈に二階からダイブして終わります。

私達人間には悟りを閉じるプロセスが重要な気づきの機会作りとなり、生きる意味を知る機会になり、死ぬ意味を知る経験になります。

 

エゴがあるから悟りを再度開ける

生まれてから成育と共に自我が生まれ、周囲のネガティブな思いから自分を守るためにエゴを作ります。

エゴを作ることを控えると他からの影響が強く、対処できずに心に傷を負ってしまいます。不安と恐怖の対処にもなるのがエゴであり、とても大切なものです。

あらゆる過去の悟りを閉じる経験が物を言い、エゴを強く持てば持つほど、自分を知らなくなればなるほど、ブランコの助走をしたように振り子がブルンブルンして、自分を知った時には大きなジャンプができます。

あらゆることに意味がある。

そんな気づきになり、自分という存在は経験を作ってくれた他との関わりや全体の一部であると知り、自分とは自分であり全てである。そんな自分が悟りを開くと知ることができ、終わることなく自己理解は進んでいきます。

悟りを開くとは自分を思い出すように知ることであり、経験にて育んだ自分として再スタートを意味するゲートの開きだと考えられます。

※無の境地にある悟りの詳細は、【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは? をご覧ください。

【無になる材料がある】無の境地にある精神的な意味とは?無に至ることでの静寂と平穏。 「無の境地」と聞くと、仏教の悟りというなんだか崇高な意味に思えるかもしれません。 この境地、意...

 

悟りを開くとどうなる まとめ

悟りを開くとは始まりの合図であり、目を覚ますアラームと考えられます。

仏教では、悟りに五十二の段階が定められています。それほどに長い道のりですので、悟りを開くのは崇高でとてつもないことではなく、物語の始まりを表すオープンです。

それが再オープンであることが、これまでの一連の過程にある大きな意味をもたらします。

記憶です。

記憶は全て自分を構成する材料となる経験です。

この記憶を俯瞰して網羅するのが自分を知る状態であり、顕在意識・潜在意識・超意識を把握する自分がいます。

一人一人に自分があり、人生があり、世界があります。

個々に千差万別であるにもかかわらず、意識を理解すると自分とは自分ではなく全体の一部だと知ることになります。

全てが一体の集合意識を育み、より認識幅を広げると全てが一体である意味を成し、より深く「自分」という存在認知がもたらされます。

全体の一つが自分であっても、自分が全体であっても、入り方は人それぞれにあります。

一つ一つの意識体としての自我を持つことに意味があり、それぞれの自己の成長が大切な役割となり、「自分だ、これが私だ」という記憶が重要な一連の材料です。

「生をも望まず、死をも欲せず」の意味には、自己の成長のためのあるがままの認識があり、赤ちゃんの時に認識している行動の基となります。

生への執着は受け入れが前提の悟りには存在せず、あるがままの自身の状態と環境と行方を敬い受け入れます。

それが「空」の概念であり、ワンネスとの一体から一時的な自我による肉体分離の意味となります。

この記事の内容は、全てを含めて理解されること以上に、ご自身にとって必要な部分をメッセージや役立つ情報として受け取っていただければ幸いです。

そんな考え方となることをお祈りいたします。

それでは、悟りを開くとどうなるかのお話を終了します。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。

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