人生哲学

【人生は退屈だから楽しめる】暇でやることがないからこその人間的本質

あらゆる固定観念で埋め尽くされた人生は、まるで既に絵が決まっているパズル、今回も夕日と海の絵だ。

刺激を貰っても数日すれば飽き、また別の刺激を欲し、別の利益を求め、忙しくするさまを俯瞰すると、自分だけクルクル周っていると気づき、牢屋にいるような気分になる。

私達人間とは、遅かれ早かれ退屈する生き物かもしれません。

「人生は退屈なもの」

これは私が子供の頃から思っている事実です。悲しいかな、楽しくても、嬉しくても、その内に退屈する私は、「情も中身もない人間なのかな?」と思っていましたが、退屈にはその先の本当の意味があると知りました。

ここでは、人生は退屈であるからこそ意味がある。そんな理解を知っていかれてください。

  • 人生が退屈になる原因とは?
  • 人生とは退屈なものなの?
  • 退屈を楽しむってどういうこと?

これらを紐解き、「退屈とは真実を知る前座なんだ」と知っていただく内容となっております。

哲学とスピリチュアルを含めた私の体験理解でございます。奇妙なお話と共に、どうして人生が退屈なのかを一緒に考えていきましょう。

人生が退屈な原因

人生が退屈になる原因とは?

人それぞれ物事に対して飽きて、退屈になる時があると思います。

毎日同じ仕事場でのルーティーン。
同じ顔しか見ない恒例の朝。
昨日と同じ会話とギャグに苦笑い。
飯食って糞して寝る生理的欲求に従った変わらぬ日々。

私は子供の頃、毎日同じ場所で起きて、同じ人々とご飯を食べ、同じ場所に返ってくることに退屈していました。

退屈する事柄は人によりきりだと思いますが、人生に対して退屈する場合、共通してあることが考えられます。

生き続ける探求心の喪失

生きていることに対する喜びや利益、人生そのものや自分を理解する意味など、根源的で本質的な生きる気力の喪失。

ちょっと小難しそうに思えるかもしれませんが、非常にシンプルな心理。

自分以外の他に飲まれて、自分がいなくなっていると自覚している状態です。

 

逃げたことを認めないと退屈感が増す

「自分がいない」なんて認めたくありません。苦しくて辛くて嫌ですので、認めずに逃げたり誤魔化したくなります。

この結果、変わらない不変や何もしない楽(勇気を出さない状態)を維持する兆候が表れます。

逃げ続けると人生そのものが退屈に感じ始めます

例えば、仕事が毎日同じ繰り返し、「もう飽き飽きだ、退屈しちゃう」

変化や刺激のない日々に嫌気がさし、自ら変化を作ったり、他の影響を払拭して新しい状況を作ったりしない、またはできないと見限ると、社会や人や常識(固定観念)などの「他」の影響が強くなって自分を認識しずらくなります。

本当はこうしたい、こういう仕事をしたい、こう改善するべきだと思っている。けれどもそんな自分は消えていき、「このままでいいや、仕方がない」と事実を認めない逃げや誤魔化しが膨れます。

現状に不満足が有りながら、現状のまま生きる以外の道が見えにくくなると、退屈します。

これは、これらのようにも言い換えられます。

「自分のしたいことをしていない」
「何かに妥協して現状維持を図っている」
「嫌々仕方がないと認めて自分を騙している」
「受け入れたいけど受け入れられない状態」

自分がいないと自覚しておきながら、事実を認めないと退屈が作られる。という考え方です。

 

人生に退屈するポイント

上述の「自分がいない自覚」には大きなポイントがあります。

自覚できていることです。

認めたくないのは誰しもそうだと思いますが、それ以前に自覚とは自らが自らを俯瞰して認識していることですので、「あ、今、本来の私という何かがなくなっている」と事実を把握しています。

その後に、「まぁ認めたくないけどね、テヘペロ」という状態です。

自覚できている場合の大きな特徴は、人生は退屈であって、つまらないとは違うことです。

 

退屈とつまらないの違いは着目が自分or他

「あぁ、今日も同じ、暇で嫌になっちゃう、やりたいことがないわ~、何もできないな~」が退屈。

「また同じか、面白くねぇ、やりたくないわ~、興味ないな~」がつまらない。

退屈は何もできない、何もしたいことがなくなっている自分自身に着目します。

つまらないは面白くない、興味や価値がないと、自分か他に着目します。他が入ることで他責・他律・他力・他動・他人軸な心理が含まれます。

[人生が退屈 or 人生がつまらない]

どちらなのかによって解釈が変わります。

※人生がつまらない詳細は、【改善は変人策】人生がつまらない理由は明確に一つ、普通だから をどうぞ。

 

人生は退屈なもの

人生なんて大それたものは、退屈ではない方がいいのかもしれません。

人によってはつまらないは元より、退屈すら感じない人もいると思います。素敵です。

私には私の理解しかわかりませんのでお伝えしますが、人生とは明確に退屈なものです。

幼少期からのはっきりした理解ですので、私にとっては変えられません。

そんな冷めたキッズも、幼児期の頃は退屈なんて夢物語。毎日が楽しくて嬉しくてしようがありませんでした。

幼児期と幼少期の違いにあるのは、自分が知っている自分そのものとして存在できたかどうかです。

幼少期には私としての存在はなくなっていき、他からの影響が増え、親の躾や抑圧やエゴだけでなく、社会の教育やルールや常識やエゴも重なり、自分のことは名前なくして認識すら難しくなっていました。

目を閉じてちんすこうを食べた時の、「あれ、甘い砂食べてる?」と思う状態です。

外枠情報がなければ、自分とは空白な無。

日本人という所属をもらい、固有名詞の氏名をもらい、男という区分け概念をもらい、あらゆる肩書きと装飾を外側にペタペタ塗っていけば、「なんだこれ、誰だこれ?」ということで、自分がいないと自覚せざるを得ません。

もちろん、「屁こき丸プー太郎ブーブー」ともらった素敵な名前をリスペクトして、「これが私たらしめるの」と認めて違和感がなければ、退屈せずに他の何か大切なことのために生きていくのだと思います。

自覚する人は、自意識が強い(または高い)人は、自分のことを客観的に捉える人は、自己認識する人は、遅かれ早かれ人生に退屈します。

人生の退屈がやってくる速度の違いは人によってあれど、自然の摂理であり、[退屈=ダメ]なんてことはない理解が生まれます。

 

退屈とは仏教用語

「退屈はダメなことではない」という考え方に、仏教の大切さが関わります。

退屈とはそもそも仏教用語と言われており、意味がこちらです。

退屈とは、
1 することがなくて、時間をもてあますこと。
2 飽き飽きして嫌けがさすこと。
3 疲れて嫌になること。
4 困難にぶつかってしりごみすること。
5 仏語。修行の苦難に負け、精進の気をなくすこと

※コトバンク 引用

厳しさに音を上げて気力喪失、修行をストップして退き屈した時、退屈します。

進む道がなくなるため、目的がなくなり、することがなくなり、気力がなくなります。

上記の意味にあるように、時間を持て余し、飽きて嫌けがさし、疲れ、しりごみに繋がります。

「ダメな意味だよね?!」と思えますが、精進の気がなくなるような心がポキッと折れる経験は、失敗や見直しや学びという大切な意味があります

修行が自分・人生・意識・この世との向き合いと考えた時、修行を終えられる方などこの地球にはほとんどおらず一生続きますので、退屈は自然と必要な時間の一つになると考えられます。

イメージは、真面目に勉強していたけど疲れてグレる(退屈タイム)。

頑張って就職活動していたけど、思うようにいかずニート(退屈タイム)。

働き続けて念願のマイホーム30年ローン。買ったとたんに気力がなくなり、仕事が楽しくなくなる(退屈タイム)。

グレるのも、ニートも、仕事が楽しくなくなるのも、全ては進んでいた道を捉え、進まされるのではなく自ら進むための見直しになり、人生に対する自分の向き合いを学ぶ一つの人生必須科目の始まりです。

人生が退屈である自覚は、遅かれ早かれやってくる自然の摂理であり、自分が他によって見えにくくなっている時の見直し機会として、とても重要な役割があると考えます。

※自分をつまらないと思う際は、自分がつまらない人間だと思う時に知っておくといいこと│改善は自己愛の活用 をどうぞ。

 

人生は退屈だと思える大切さ

退屈と向き合う体験談

良い悪い抜きにして自然の摂理の一つだと考えると、退屈はそこかしこにはびこると思えるかもしれません。

私自身、人生に退屈していた時は、毎日何かしら感じていました。

休日の過ごし方、ご飯を食べる、人と関わる、会話する、認識する、働く…、あらゆる退屈。

最たる退屈、瞑想中はとんでもないものでした。

「感覚にフォーカス」
「チャクラにフォーカス」
「マントラを唱える」
「思考を手放す」
「何も考えない…チーン」

このように目的を持っていると退屈がありません。しかし、一切の思考も感覚フォーカスもなくした時、一気に退屈という巣窟へ誘われます。

ここでスースー眠ってしまってはなりません。かといってすることはなにもありません。

認めたくない現実を目の前にして、それを受け入れられない状態、別名:修行中心ポキッの一時。

この時、残っている選択は二つ。

  1. 瞑想をやめる(修行中止)
  2. 退屈と向き合う

瞑想をやめて退屈をそのまま野放しにしても、何にも自分のためにはなりません。

しかし、退屈と向き合うことで、退屈の大切な意味を知りました

退屈との向き合いは、受け入れられないことの受け入れを意味します。

「何もできないなら何もしない」「何もすることがないなら何もしないことをする」という受け入れ。

これは時間や人生、そして自分そのものの手放しです。

退屈との向き合いは、自分がいなくなってしまう危惧・影響・干渉を一切なくし、自分そのものを明確にする意味があります。

 

退屈の先に真の目的と、自分の人生がある

もう一つわかりやすくなればと思いますので、私の退屈体験談をご覧に入れます。

私がアラスカの森で一人住んでいた時のことです。

雨が続き、体が凍え、食料を食べられず、三日間テント内から動かず、何の気力もなくなった時がありました。

現実を認めたくても認められず、受け入れたくても受け入れられず、何か物事を考えますが行為の目的がなく、気力もないので何もしたいことがなく、できることもありませんでした。

完全なる退屈。身体はブルブル震えて、テント内はジメジメとキノコが生えそうでしたが、退屈はとんでもなく重要な機会を私に与えてくれました。

この時を後から振り返ると、退屈はあえてネガティブにしなければネガティブにならず、退屈を野放しにして、嫌なものだと決め付けなければ、ネガティブになりませんでした。

思考は退屈を飽きにも、つまらないにも、死にたいにも変化させる力があり、全て自分の選択次第。

実際の退屈そのものはポジティブもネガティブもなく、自己理解を深める見直し機会であり、自分を知るための前座でした。

退屈と向き合った時には何も起きません。退屈ですので何もできず、しない状態が続くだけです。

しかし、いなくなった自分を見直し、取り戻し、目的を軌道修正し、明確に自分の人生というレールに乗せる無意識の行為があります。

三日間の退屈と向き合ったことで、翌日には自分とは何なのかを知り、真の目的が判明し、唯一無二の人生が生まれ、他がどうもこうも主体を忘れない絶対的な自分になりました。

これらの経験から、退屈とは自分を知る上では欠かせない前座、真実の一歩手前にある重要なものだと理解しています。

※退屈の先にあった詳細は、幸せはムニュムニュムニュをどうぞ。

 

退屈と向き合う大切さ

退屈な時、目的設定して行動できない、気力がない、物事を認識する集中力がない(ながら作業)、スマホや動画や漫画などの他に頼る自分がいると思います。

何もしないなど受け入れ難く、直ぐに飽きてしまうので、何かしら刺激や変化を求め、ジーッとしていられず、ネガティブな思考が巡り、悩みを作り、自己否定や他者否定を始めるかもしれません。

「どうして何もせずにジーッとしていられないのでしょうか?」

退屈を作っている自分と向き合いたくないから、と考えられます。

退屈との向き合いは、自分がいないと認めないことの直面ですので、好んでしたいものではありません

私自身、退屈と向き合いたくないので、嫌なものと決め付けて距離を取っており、退屈だと認識しないように強引に別のことを考えたり、忙しくしたりしていました。

退屈とは嫌で、苦しく、怖いもの

自分が嫌で、見たくなくて、拒否している意味

人生が退屈とは、直面したくない自分がいることをどこか知っている。そんな哲学が潜みます。

完全に独りになる面と面の直視であり、一切他の干渉がなくなり、誰のせいにもできない自分との向き合い。

向き合いたくなければ退屈は耐えられない苦痛、無理矢理でもスケジュールを埋めて、常に何かしている状態を作り、忙しくしようとします。

しかし、人生を退屈だと思えることは、それだけ退屈から逃げたり誤魔化さずに関わり続けた結果ですので、他からの影響以上に、自分自身で目的を持って人生を歩み始める潜在的な表れかもしれません。

退屈は本当に欠かせない自分の見直しであり、明確化の機会、自分の人生を始めるための一歩手前の段階です。

※人生に飽きた時の対処法は、【人生に飽きたからこそわかる合図】飽きない人との違いと対処法 をどうぞ。

 

人生は退屈だからこそ楽しい

あえて退屈にする場合、退屈ではなくなってしまうので、「退屈最高!みんな退屈してるかーい?」なんてものではありません。

退屈しないことは既に自分そのものである、または自分がいなくなっても気にしない(気づいていない)状態です。

社会という他との共存環境で生きていると、自分がいなくなるのは当たり前ですので、気づくかどうかは人それぞれ、必要有無も違います。

退屈だと思う現状があるかどうかが、自然な退屈の意味をもたらしますので、退屈だと思う方はつまらないなどのネガティブに変化させる以上に、向き合って自分の人生を始める大きなチャンスにできます。

「あぁ、休みの日だけど何もすることがない、暇で退屈だなぁ」と三点倒立しながら思う時。突然高速道路が渋滞して動かなくなった時など、退屈と向き合います。

直面したくない自分を知っている、そんな事実との向き合い

向き合った時、「この暇で何もすることがない時間をどう使うか?」という目線になり、退屈だからこそ自分を喜ばせられる時間になります。

焦らず急がず、退屈だからこその楽しみは、自分と向き合える見直し、学びです。

普段の生活ではあらゆる他の情報や常識により、ルールや固定観念がはびこり、他によって構築された価値観や観念に基づいて思考も行動も作られていき、それに気づかなくもなります。

自分と向き合うなんて、ジャングルにこもったり無人島にいかないと難しい行為、それをできるのが退屈です。

自らが自らのことを客観視するメタ認知向上になり、気づけば“暗記”に変わってしまった前の、楽しかった“学ぶ本当の意味”を思い出させてくれます。

学ぶことは成育すればするほど大切です。

情報の多い世の中では何かを知ったつもりになってしまいます。自らと向き合わなければ学びではなく思い込みや決め付けになり、ひたすら情報を得続ける時間消費も起きます。

退屈な時間はそんなトラップを解消し、誰にも邪魔されない主体的で能動的な楽しさを作るための、自分との向き合い機会です。

※人生がどうでもよくなった時は、人生どうでもいいと思った時の対処法│それは大切な合図だった をご覧ください。

 

人生は退屈 まとめ

自分と向き合えていない潜在意識は、ふとした時に退屈を作り、然るべき時を待ちます。

向き合う気がなければ、退屈をつまらないに変え、悩み作りの時間にして、ネガティブな思考を巡らせたり、スケジュールを詰め込んで忙しくします。

しかし、どこかで向き合う気があるからこそ、人生を退屈だと思えます。

完全密封空間は誰にも介入できず、干渉できない領域。全ては自分に責任があり、誰のせいにもできません。

まるで結界を張るように閉ざされた退屈空間は、100%自分だけのものを揃えるための貴重なアイテム。

紛れもなく自ら作り上げる見直し空間であり、学びの機会です。

道中でわかるのは、いつの間にか心が折れてしまっており、そのままにしてここまで来たことかもしれません。

何が現実で真実なのか、本人にしかわかりません。

退屈はそれらを紐解く機会を与え、物事を理解した時に、本当の意味での喜びや楽しさが溢れ、退屈を退屈と思うこともなくなります。

ボケーッとする重要な時間。

暇だから映画を観ているのではなく、映画を観たいから暇な時間を作る。

いつも三点倒立しているのは退屈だからではなく、三点倒立したいからする欠かせない時間。

パズルはどんな絵でもいい。なんせ裏側にすると想像力が広がって楽しいから。

退屈に対する認識を広げるため、そして学ぶ本当の意味を知っていただくためにも、ここでの理解がお役立ちできれば幸いです。

それでは、人生は退屈であるお話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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