「人生飽きたなー」と思える余裕、裕福さには真意があります。
そんな意味深な人生への飽きとはとてもシンプルなものだったりします。
「これからアフリカ行きましょう」と自由に一旦の歯止めを入れ、自らの手で生活するとなれば飽きた時間は一瞬で終わるかも。
自由とは時に残酷で、大切な何かを失わせます。しかし、それによって人生飽きたと思うことに重要な理解が生まれます。
人生に飽きる理解を紐解くと、そこには嬉しい意味と悲しい意味があります。
嬉しい意味として理解されることで人生の違った一面が見えるかもしれませんので、良き気付きがもたらされることを願います。
Contents
人生に飽きる理由

人生に飽きないとどうなるか?
「逆に?」という話を初めにしたいと思います。
私は人生とは飽きるものだと思っていますので、飽きることは動力源であり、起爆剤であり、動機作りであり、休憩であり、とさまざまに良きことがあると理解しています。
しかし、人生に飽きない人がいるとすれば、それはどんな生命体なのか考えてみます。
- ずっと同じ仕事をしても飽きない
- ずっと同じ場所で同じ人と関わって飽きない
- 同じものを食べて、同じ娯楽を味わい、同じ趣味を同じようにする
「これは大変ねぇ」と思ってしまいますが、飽きない人の大きな特徴は、“今この瞬間を生きている”ということです。
こういう人は物事に意味を求めません。雑談とかどうでもいいことをワイワイできる人で、結果や形としての利益に執着しません。
「生きている意味、幸せとは何か、愛とは、歓喜の先には何がある、飽きるってどういうこと?」
「そんなことを考える時間があれば、楽しいことしているよ」と、まるで都心と田舎の違いのような。
何も考えないで生きている or 考えを超越したことで考えなくなったのか。
どちらでもいいですが、人生に飽きないと変化がなくなります。しかし、それは大きな変化という意味で、言い方を変えると“刺激”がないことです。
すると、人生に飽きない人は“刺激”を求めていないことがわかります。
多くを求めないとも言えます。
大貧乏人にもならなければ、大金持ち人にもならない。生きているという現実を認識して、自分の理解を持ち、環境を活用して自分らしくそのままに。
あるもので満足し納得し、ないものを求めず不満足や不納得を作らない。
過去は過去で終わったこと、未来は未来で起きていない空想物語。
「宝くじは趣味程度で少しワクワクできたら楽しいな、一億円なんて要らないよ」と。
リアルが見えている人です。リアルとは今この瞬間の自分、自分の認識、周囲の環境、生活環境をそのままに受け取ることです。
ないものねだりをせず、現実を現実として認めてあらがわず、事実を曲げて自分の都合の良いように誤魔化さない。
リアリスト。
人生に飽きないとどうなるのでしょうか?
現実を誤魔化しません。
シンプルな生き方ですね。
人生に飽きるとどうなるか?
次は人生に飽きるとどうなるかを考えたいと思います。
飽きが続くと人生はつまらなくなり、どうでもよくなり、生きている意味がないと自覚していく流れがあります。
そこには、飽きることを“良くない”とするか、“自然なこと”とするかの認識の違いが人それぞれにあり、良くないことだと思う場合には生きている意味を喪失してそれを自覚することで終焉への道が見えてきます。
自然なことだと思う場合には人生が飽きることは転換期、変化の転機として違うことや新しいことを始める機会になります。
その際は動力源となり、行動の動機作りにて自分の意志と信念を明確に再確認することもできます。
“生きている感”という刺激を得ることもでき、「飽きたなぁ」とは一切思わない時間へ突入する前段階。波グラフでいう下降から上昇する時のような始まりの合図になります。
飽きることをどのように認識するかによって、末端へ向かう合図にも、新しいことへ挑戦する起爆剤にもなります。
しかし、「人生飽きたな」と思う場合は末端へ向かう認識が多いかもしれません。
なんせ、「人生」という言葉を使用していますので、「もうこの人生つまらん」というようなお疲れお暇なお手上げ状態。
「今日の飲み会つまらないから飽きたなぁ」とは違う、人生。重みがあります。
飽きが来たことで人生に良き流れが見えない、向上が見られない、栄光が再度旋律を走ることは考えられない、「この飲み会(人生)はもう盛り上がらない」という落胆。
人生に飽きるとどうなるのでしょうか?
人生の主観が自分ではなくなります。
じゃあ誰?と。
人生に飽きる理由
人生に飽きることで起きる“主観が自分ではなくなる状態”。ここに人生に飽きる理由が見出されますので、飽きることを嬉しい理解として捉えるための前座として詳細を深く見ていきましょう。
人生に飽きることは、飽きたと思わない人生をこれまでに経験しているかと思います。
すると、人生に飽きたと思わない人との大きな線引きが見られます。
人生に飽きた人は、つまらない、興味ないなどとは全く思わなかった人生の経験があり、過去の栄光の記憶を主体にして生きている可能性がある。
現状の自分を何かのために評価・判断していることと、その評価基準に過去の飽きていない良き状態を天秤にかけている状態です。
しかし、過去の栄光があるだけでは人生に飽きる人もいれば、飽きない人もいます。
その違いは、過去の栄光が自分で作ったものか他者から与えられたものかです。
人生に飽きるのは、過去の周囲によって作られた楽しく嬉しい記憶が刺激として強く脳内に残り、同じように作ってもらえる環境が今ないことが理由の一つです。
“他者が作った喜びの刺激に執着する”
これが人生に飽きて落胆させる理由です。
さらにいくつかの理由がありますので、順番に見ていきましょう。
人生に苦労がなく、自らの力で生きる経験が乏しいと人生に飽きやすくなる
どんな過去の栄光でも自らの力で得たものであれば、刺激にはならず知恵になります。
知恵が動機や動力になり活力を見出す源になるので、人生を飽きても再び動き出すことができます。
しかし、刺激が他から与えられた場合、自力でなんとかしようとする思考が育まれていません。
言い方を変えると自立しておらず、苦労も悩みも他によって解決されたり、生きるのではなく生かされる状態となり、自らの意見も他や本やテレビの情報を述べるような希薄と空虚になり、自分を否定されるような経験がないことで肯定や受容にて自分の価値を見出すこともなくなります。
他が存在を見出してくれることで困ることなく育ち、自らが価値を見出すために他者を利用したエゴを持つこともなく、純粋で汚れのない辞書や教科書のような人生に則ることで飽きてしまいます。
自分で楽しみを作り出せないと人生に飽きる
お絵描きをした時、周囲に褒めてくれる人がいます。
しかし、ある日お絵描きをしたら褒めてくれる人がいませんでした。
絵を描くことが自分のためでなく、自分の価値を見出す肯定感のために褒めてもらうのでもなく、ただ褒められると心地良いからという場合、飽きます。
何も言われずに白いキャンパスを渡されたら何をすればいいかわからなくなり、その時間に意味を見出せず、楽しみを自ら作り出せず飽きます。
自分の思考なく他があれこれと何でもすることで、自らの思考だけでなく表現力も創造力も育まれず、楽しみは他によって与えてもらう以外がわかりません。
飲み会がつまらない時に自ら盛り上げようとは思わず、さらに自らのために楽しい時間にしようと思うこともなく、待っていて何もないので、「飽きた」となります。
変化を求めず、成長意志がないと人生に飽きる
人生に飽きる大きな理由となるのが、成長意志がないことです。
成長意志のなさは変化を求めることがなくなり、他の影響なくして自ら変える認識がありません。
生育環境にてその認識が育まれていないので純粋な人が多く、本当に純粋に自分のことは自分で変化させると思っていなかったりします。
待ちが多く受信的で消費的になり、変化する場合は自らではなく他が変化すると認識していることで、とても飽き性になります。
他の変化があればそれによって飽きないことができますが、全ては他次第で人生が飽きるかどうかも決まります。
ここで、人生に飽きる理由全てに含まれている“核”となる理解が見出されます。
人生に飽きるのは、自分がないから。
※自分を評価・判断するのは、自分を見出す材料を欲するためです。
※人生に飽きてどうでもいいとなった時は、人生どうでもいいと思った時。それは実は大切な合図だった をご覧ください。

人生に飽きる意味とタイプ

飽きるとは
飽きることで、退屈、興味がない、つまらないという感情を抱きます。
そんな飽きる退屈からの、“興味がない”と“つまらない”のそれぞれからわかることがあります。
興味がなくなって人生に飽きた場合、自分で自分を愛していない
興味とはこういうものです。
興味とは、“関心からポジティブな情動によって惹かれる気持ち”
※興味には状況的興味と個人的興味がある
詳しい話は割愛しますが、好奇心や動機となる喜びや満足や納得によって興味を示し、その興味が継続することで深く自分の喜びを求めるための興味に変わっていくことが心理や学術的には知られています。
どんな興味にも自らの利益があり、人との関わりに自分の利益(喜びなど)が見出せない(またはない)ならば人に興味などありません。
その興味を人生にしてみると、寿命までまだ先があるので、「喜びがない」と決め付けることはできず、自分の喜びを生きている中で見出すことができないことがわかります。
自分を喜ばそうとすることで行動する動機が作られ、活力や心惹かれる気持ちを抱く興味となるため、人生に興味がなくなって飽きるのは自分の喜びを見出せない状態です。
人生に興味がないことで飽きた場合には、自分で自分を喜ばせない=自分で自分を愛していない状態が考えられます。
つまらないために人生に飽きた場合、自分の意見や考えがない
退屈のもう一つの理由となる“つまらない”。
つまらないとは、詰まるの対義語。
詰まるとは、思考や行動が行き詰まり、納得する、決着するという意味。
つまらないとは納得しない、納得できない状態やその様を表す。
人生につまらないと感じる場合、行き詰まるまで考えていない・行動していないがために納得できない状態を表します。
自分の意見や考えを持っていないことが考えられ、行き詰まるまで考えたり行動したりすることができず、納得したくてもできなくなります。
すると人生がつまらない時の対処ができず、その状態が続くことで人生飽きたとなります。
いくら行動したとしてもそれは自らの意見や思考ではないため、一時的な満足や納得はあっても行き詰まることでの満足や納得とは違い、“つまらない”と思ってしまいます。それを続けることで変化が起きず、人生に飽きるという結果をあえて作る状態になります。
人生に飽きる人のタイプ
人生に飽きる人にはさまざまに飽きる要因がありますが、全てに共通していることは、“自分がない、“他”である社会性(常識やルール)や人に生かされている”です。
そのように思わないために一生懸命新しいことに取り組んだり、馬鹿にされないようにしたり、お金をたくさん稼いだり、肩書を得たり、評価を貰えるようにする人もいますので、人生に飽きたと言う人には人間性の違いがあり、タイプが見えます。
人生に飽きる人のタイプ
- 飽きることでの喪失や空虚の自覚を拒むために、外的な評価や価値を求める人
- 他者に執着して依存して、他者がいないと生きられない人
- 純粋にエゴなく苦労なく生かされ、導いてくれる人やルールがないと待つ人
上から、刺激や生きている意味を求めるタイプ、他にすがり利益を求めるタイプ、無害な純白無知タイプという具合です。
私は刺激や生きている意味を求めるタイプとして生きていまして、喪失と空虚を自覚してしまい人生どうでもよくなった類です。
タイプ分けすることで自分を理解する一助となりますのでお伝えしました。
※つまらないことで飽きる場合は、人生がつまらない理由は明確に一つ、普通だから。それを変えていく話 をご覧ください。

人生に飽きた時の対処法

人生に飽きた時の対処法
これまでの内容から、人生に飽きた時の対処法は自分を愛することと、自分の意見を持つことです。
そこには、自分がないという共通の状態がありますが、自分がないとは何もおかしなことでも悪いことでもありません。
「自分がないからこそ私達は成長する機会に気付く」ということをお伝えしたいのが内容の主旨です。
人生に飽きたことはスタート、転機を意味します。
人生に飽きたことは、自分を知り始める合図です。
他によって生かされる時間が終わり、これからは自らの意志と意見を持って自分のために生きる時間にできる、そんな解釈です。
「人生、何だか飽きたなぁ」
これは、「何だか生かされるのつまらないなぁ(興味ないなぁ)」ということです。
対処法と言うよりもこれは事実であり真意です。
生かされるの意味は人それぞれです。私を例にすると、社会の常識やルールを観念化して、思い込んだ自分を正当化して自らの存在を主張するように(=他の存在や評価のために)生きる、すなわち社会に生かされていました。
ただ生存することや生き繋ぐ活動ではなく、社会を作ったり新しいものを創造したりと、新しく世界を広げる認識を持ち、社会のためや他者のため、もちろん自分のために生きることが、生かされる状態を終えた後の人生として始められます。
生かされることを終えるには自覚が必要です。それが“人生に飽きた”という感情であり、新しい人生を始める人生の転機を意味します。
※何もかもに飽きた時の改善は、何もかもに飽きたらわかることがある│改善は人生の一掃と気楽な始まり をご覧ください。

人生に飽きた時にすると良いこと
私は飽き性なので何をしても直ぐに飽きます。しかし、それは自然なことだと思っているので飽きたらそれをサインとして次のことをします。
その際に大切なのは、新しい人生を作るとしても“飽きない”ことです。
- 遠い目的を持って活動することは飽きない
- 創造して楽しむことは飽きない
- 自分や他者を敬い(尊重や尊敬)愛することは飽きない
- 新しい自分を知ること(成長)は飽きない
自分が主体で物事を発見したり、創り出したり、目的へ向かったり。自ら行動することは飽きません。
行動するからには必ず“目的”があります。その目的を遠くに設定することで飽きるまでの時間が長くなるので、一生かけて達成できるかどうかの大きな目的があると飽きない人生になります。
遠い野望という感じですが、人それぞれですので野望がなければないで必要ありません。創造して楽しむことで自分を愛して喜ばすことができます。
このように自分を軸に行動することは飽きず、生かされる状態ではなく生きることになります。
飽きた時の環境を活用する
人生に飽きることは生活に余裕があることを意味します。
一日のご飯を食べることに切磋琢磨する状態では、飽きたなんて悠長なことは言えませんので、生存維持に問題のない環境が既にあると思います。
そのため、飽きるというのは絶対的な余裕のある環境にて起きる日本に居るからこその賜物で、「人生に飽きることができる」という言い方が正確かと思います。
人生に飽きた時は余裕がもたらされる環境を活用しない手はありません。
自らを喜ばせるように仕事を全て辞めちゃうとか、貯金を全て寄付するとか。
自分にとっての喜びであり創造ですので、新しい自分を見るためには人それぞれにすることが変わります。
挑戦的なことをせずとも、全く違う分野の世界へ飛び立つことも飽きることがない自らを喜ばせる行為です。
“新しい自分を知る”ことです。言い方を変えると“成長”でして、学びや経験が大切になります。
あらゆる共通になるのが新しい自分を知る時間はとても楽しいです。子供の頃を思い出してみてください。得意・不得意は関係なく自分の新しい理解や能力や認識を知った時、私達はキャッキャ言いながら笑って成長を育みました。
そんな時間を再び始めましょう。
同じ分野で挑戦してもいつか飽きます。ビジネスマンとしてお金稼ぎをやり方を変えてするのではなく、全く別の分野に変えることが飽きないコツです。
苦手なことをする必要はなく、少し恋愛に興味があればナンパばかりをする日々を過ごしてみたり、お金持ちであれば学生のようにアルバイトをしてみるとか、旅を始めるなどです。
知らない人に声をかけてみるとか、ホームレスになり恐怖と対峙できる精神性を学ぶなど、新しい分野に入ることは全く違うことを学び知ることができ、物事の見方は一変します。
その際の認識が“自分”であり、生かされるのではなく生きていることをまじまじと実感することになります。
せっかく人生に飽きたのであれば、何もかもを新しくするようにさらけ出すことも楽しい成長かと思います。
※飽きた際の対処法になりますので、自分のために生きる方法はあることの気付き│生きるのか生かされるのか もご覧ください。

人生に飽きた まとめ

人生に飽きることには嬉しい意味も悲しい意味もあります。
それは自らがどのように物事を認識するかどうかで決まるため、自由に切り替えることができます。
ここでは、人生に飽きたことが嬉しい意味として解釈されれば、とてもとても幸いです。
インドの釈迦(ブッダ)は、王子としてシャカ国に生まれたそうです。王子ですので当然のように生かされることになり、他が何でもして何でも言うことを聞いてもらえます。
飽きますよね。
飽きて王家を出て、悟りの最高位まで得て、その後は社会を作るように人々のために生き、仏教を創りました。
それはまさに、生かされていたことの自覚をして、生きる選択をしたことでの人生かと思います。
人生に飽きるというのはとても大切な合図であり、次の段階として新しい人生を始める転機という嬉しい意味があります。
そんな理解が深まる話であることを願い、人生に飽きたことの紐解き話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。