人生哲学

自由になりたい人は意味を知る│自由に生きる方法は解放ではない手放し

woman swimming underwater

私達が自由を求める時、一人一人に“自由”があると知ることが一番初めの理解になります。

自由になりたいと願う時、それは自由を求めているのか、現状の不平不満をなくしたいのか。

両者は全く別物を目の前に用意します。

ここでは自由に生きる方法をお伝えします。

一人一人の自由があるために、誰しもがお金で自由になれるかと言えば、なれる人もいれば、なれたと思い込む人もいれば、なれない人もいます。

“自由”の意味を知ることと、自由に生きる“自由人”を知ることで、一人一人の中にある自由に生きる方法が見えてきます。

知ることで広がる自由な世界を見ていきましょう。

自由になりたい

ここでお伝えする自由になりたい際の理解は、“自由の意味”を知ることです。

それは、現状の自分のしたいこと、するべきこと、進むべき道を見せるための“目的の明確化”を促します。

自由の意味

自由って何でしょうかね?

お金や名誉、安心や安泰があれば自由でしょうか?

えぇ、自由だと思います。

では、お金や名誉がなければ自由ではない?

えぇ、自由だと思います。

自由とは本当に自由です。それは縛りがないことを意味します。

自由とは、他からの束縛や抑制なく、自分のおもうままにすること、その様

辞書には上記のように書いてありました。

しかし、ここで疑問があります。

“自分のおもうまま”にすることは自由でしょうか?

 

自由と解放の違い

自分のおもうままを自由だと思うか否かで、自由の意味は二つに分かれます。

それは、現状自由ではない状態から自由を求めるか、自由ではなくない状態から自由を求めるかの違いです。

哲学には消極的自由、積極的自由と言う思想があります。

自由の二つの意味

  • 消極的自由・・・他からの縛りや抑制がなく、他者による干渉がない状態とその範囲
  • 積極的自由・・・自らの状況や状態を自覚して意志を持ち、自らが主体的選択をして創り出すことでの自由

消極的自由を“解放”、積極的自由を“自由”と言い換えることができると思います。

  • 解放とは、英語で[Liberty]
  • 自由とは、英語で[Freedom]

解放と自由のどちらを求めるかは、「現状の不平不満をなくしたい」か、「自由になりたい」かの違いになります。

英語の[Liberty]も[Freedom]も現在では同じように意味が解釈されていますが、語源を辿ると[Liberty]はラテン語の「社会的・政治的に制約されていない」「負債を負っていない」という意味から、『自由』という意味になりました。

一方、[Free]は古インドヨーロッパ語や古ドイツ語が起源となる『好む、愛』の意味です。

※Wikipedia 参照

この語源が、自由になりたい理解を後々明確にしますのでお伝えしました。

 

自由になりたい理由

「自由になりたい」と思う際に求める自由とは、「この状態をなくしたい」という現状を基準にした願望として、“解放”を求めます。

そのため自由になりたい理由は、今の縛りである、抑制、制約、規律順守、思考圧迫、押し付け、干渉に嫌気があり、「ちょっともう苦しい」と。

これを“支配”と言います。

自由になりたい理由は現状の他からの支配による息苦しさ、辛さが考えられます。

支配されることで“縛り”という自由の無い様が作られ、まるで檻に入れられてコントロールされているかのような狭さを作られます。

時間的・空間的縛りとして、時間・寿命・住む場所・生活環境・行動範囲などの支配も及び、あらゆる環境に抑制や干渉があり、自らの意志が尊重されていないような、またはそんな意志を忘れてしまった状態があります。

自由になりたい場合、求める“自由”とは“解放”のことである理解をすることが大切になります。

そして、自由と解放は全くの別物であることを、自由に生きる方法と共にこれから見ていきましょう。

 

自由に生きる方法

解放として自由に生きる方法

現状、「自由ではない」という自覚がある場合、解放を求めます。

その際の自由に生きる方法はとてもシンプルです。

お金です。環境変化です。

すごく現実的な話ですが、お金があれば、生活環境が変われば解放されます。

私達人間のほとんどは社会性を利用して生きています。社会ではお金があれば人はへこへこと何でも言うことを聞きます。

「急に口が悪い?!」と思うかもしれませんが、これはただの事実です。

子供でもお金を持っていれば、笑顔で喜んで接客したり、関わってきます。もちろん全員ロボットではないのでそうでない人もいます。

お金があれば社会性の中では選択肢を増やし、嫌な仕事はしない、好きな時に好きなものを食べて、お金で動く人を利用して、娯楽にひた走ることができます。

あらゆる自分にまとう縛りの紐を解くように、お金によって紐を外すことができます。

お金によってです。

ここでわかるのは、縛りを解くためにお金を利用する(または環境を変える)=自ら縛りを取らないということです。

外的に利益として見出されるお金や権利、保障や価値、周囲の反応に評価、恐怖の無い様に安泰、生活に困らないためにご飯を何不自由なく食べて、住む快適な空間を得て、平均寿命まで生きられる可能性を上げます。

これを自由と呼ぶかどうかは人それぞれですが、解放のことです。

解放とは自らが他によって支配されていたものを、自らではなく他というお金や権利や環境などによって支配を無くすこと。言わば、自由を邪魔する外的なものを外的なものによって撤廃する行為です。

自らの意志を持って環境を変える場合は解放とは違います。自らを主体にお金を作ったり環境を変えるのか、お金や環境に委ねて解放を求めるかに、積極的自由と消極的自由の違いがあります。

若干トゲトゲしてお伝えしているように感じるかもしれませんが、そんなことはありません。解放とは最高に心地良いもので、本当に気分が良いものです。

住む場所を田舎にして、自転車通勤にして、ネットビジネスを始めて、株に手を出し、不動産賃貸を始めて、収入源を広げて。その内に労力なくお金が入ってくる。

お金を得て数年、いや数十年した時に気付くかもしれません、あることに。

「もう飽きた」と。

解放とは言わばゲームです。奴隷が主人を倒して自らの人生を始めるきっかけ作り。

「飽きた」というのがスタートの合図です。

本当の意味での自由に生きる時間が始まります。

 

自由に生きる方法:支配を解く

ここからが本題です。

「解放か自由か」。これは一人一人の選択ですので、何が正しいも間違っているもありません。

解放を求めることで人生の酸いも甘いも知り、経験が増します。そして、何を本当に求めているかの真意が明確になる必要な時間です。

しかし、解放を求めずとも初めから自由を求めて生きる方法もあります、全て選択です。

お金はあればあるで大切です。なければないで別の方法があります。

自由に生きる方法とは、“選択”を自覚することです。

それは、自らの人生を自らが選んで生きている認識を持ち、現実を自ら創る創作になります。

自由に生きる方法:

選択を自覚することで認識を自ら作り、現実の創作者になる

必要なことは意志を持って選択することです。

極端な例を出しますと、今生きていることは選択です。私達はいつでも自由に死ねます。

口とか鼻とか塞いじゃう。ご飯食べない。寝ない。修行僧のようですが、本当に自由です。

 

自らの支配を解放する

選択を自覚することで自らの支配を解放することができます。

他からの縛りによる支配があると同時に、私達は自らを縛り支配する癖があります。

  • 解放は他からの支配から解かれることです。
  • 自由とは自らの支配を手放すことです。

自らの支配とは、“拒否”、“否定”による我の押し付けです。

拒否を選択する時は自覚しません。なぜならば自らの弱さを認めたくないからです。

現実を自分のおもうままに、都合の良いように、嫌なことは起きないように、見たくないものに封をするように、あらゆることを制限のある見方でしか認識しない。

嫌なことが起きたら認めない。それは現実を我欲のままにしようという押し付けであり現実を支配しようとする自分。

その自分は既におもうままにしようとする自らに支配されています。

他者から嫌味を言われたくないと思うのは好きにできます。しかし、他者の口を封じることは他者の支配になり、嫌味を言われた事実を拒否するのは現実の支配になり、嫌味を言われないように努力することが解放です。

自由とは、嫌味を言われてもフンフフーンのことです。

自由に生きる方法 :

起きることをそのままに、自らも現実も支配しない

※拒否と否定をしない、起きることはもう起きた、以上

自由に生きるためには、何も支配しない縛りのない状態を作ります。それは他からのものだけでなく己のものも。

現実をコントロールすることはできません。しかし自分をコントロールすることができます。

そして、そのコントロール概念がなくなった時、本当に自由になります。

 

自由になることを求めて次の段階へ向かう

解放をしようとしまいと、“自由になることを求める”ことが重要です。

それは、目的を明確にして行動する意味です。

目的がなければご飯を食べることもないように、目的がなければ自由になりたいと思っても実際になることはありません。

そのため、自由の意味を知ることが大切で、解放を求める経験があってもなくても“自由”を求める意志を持って、縛りをなくし拒否をしない、現実をそのままにします。

起きることにあらがわない。

それができた時、あらゆることを自らの意志を持って選択して現実を創造する段階に入ります。

すると、自由を求めることがなくなります。

自由を求めることは“自由”という何か対象を求めるように思えるかもしれませんが、自由とは何もないことです。

 

自由には時間と空間の概念がない

あるのは“今この瞬間”のみです。その瞬間瞬間の“点”が選択の連続によって線となり、( ゚ ρ ゚ )ボーっと流れていきます。

支配をしなくなる状態では、何もかもを拒否せず受け入れますので、お金も名誉もあればあるで最高です。なければないでどうしたと。

それは“執着”がないことを意味します。

別に執着してもいいんです。しかし、執着すると解放はできても自由にはなれませんので自由になる際には執着をなくします。

自由とは縛りと執着のない自分自身を意味します。

何もない自由というものに何かを求める時、他者の存在によって見出される利益を求めることになります。

何もない場所で何かを見出すには、同じ社会に存在する“他者”を利用するほかありませんので、価値や利益を他の反応や評価によって見出しますが、必ず主体は自分であることが自由の条件です。

才能は価値になり賞賛になり、金になり名誉になります。

自由とは本当に自由な状態なので、「お金だ、やったーワーイワーイ」。しかし時間の概念がないのでその瞬間に終わり。お金を見出しても執着しません。

あればあるで最高、なければないで何でもいい。一瞬一瞬を生きる認識によって選択を自覚し、執着の無い様を作ります。

過去にも未来にも執着しないので、未来に期待せず、過去の栄光にすがらず、今お金が欲しいと選択すればお金を作る行動をします。

そこにあるのは、自らの意志で自らの行動を選ぶ“責任”です。選択の自覚は嫌なことがあっても何があっても責任を持ちますので、後悔や現実を拒否することはありません。

執着のなさは時間と同じく空間の概念をなくします。

「この場所だから、この仕事場だから、この家だから、この人と一緒だから」などの認識が制限や抑制にはなりません。

自らの縛りと支配は思考によるものがほとんどです。自分ルールでフィルターを作り、そこに世の中の常識やルールを適応して、他の目を気にして羞恥を拒みます。

あらゆる理由と言い訳を作るために、時間と空間の縛りを利用しますが、自由になりたい場合はそれがなくなることを受け入れる必要があります。

言い訳することはできなくなります。

そのため、自由とは誰しもがなりたいものではありません。

 

自由は与えられると絶望にもなる

自由は一人一人に自らの意志を持って認識して選択を自覚することで得るもの=創るものです。

しかし、自由をもし与えられると困る人もいます。

それは自由には何も縛りがないからです。言い方を変えると、道しるべは自ら見出せなければ存在しないこと。

制約に制限、抑制に縛り、支配は人によって必要なものです。自ら現実を創造することができなければ途方に暮れてしまいます。

それは信仰と似ていて、規律や信仰にあるルールによって進む道を明確にできます。

さらに信じる矛先が絶対的であればあるほどに安泰は揺れることのない保障となります。

突然、「すいません、全部なし、もう自由だよ、羽ばたけ」バラバラバラと崩れるようになくなった時、大変です。

檻に入れられた鳥を突然解放して、飛び方もわからず鷹に一瞬で食べられるみたいな。

縛りと支配は人それぞれに大切なもので、そのために“消極的自由”という哲学の定義も存在します。

自由が良いか悪いかは本当に人それぞれです。そのため、自由の意味を知ることが最も大切な自由に生きる方法です。

※自由に生きる人の特徴は、自由人とは何者?│特徴と性格に自由になろうとしない人間性 をご覧ください。

自由人とは何者?│特徴と性格に自由になろうとしない人間性自由を求めることは時に厳しく、時に涼しく、時に優しく。それはもう何でもいいと。 自由に生きて良いことがあるのか、最高なのか、それと...

 

自由に生きる方法:飽きない

自由に生きる方法はもう一つあります。

それは“飽きない”ことです。

これは自由の根源的な意味となり、Freeの語源が意味する“愛”を物語る理解です。

自由についてをお伝えしてきましたが、実際に自由になった時にあることが起きます。

自由に生きる人は、人生に飽きることがありません。

理由は簡単でして、何もないのが自由だからです。

何もないとは何でもあるということでもあります。白紙のキャンパスを何も言われず突然渡されます。

「え、どうするの?」と困る人がいれば、「ヒャアッホー」と喜び、絵を書いたり、丸めて野球を始めたり、折り紙にしたり、仮面を作ったりと遊ぶ人もいます。

自由に生きるとは遊び喜ぶことです。

常に自らが選択しているので、選択の中でベストなものを選んでいる自覚があり、喜びを選んで現実を創っている状態です。

さらに執着がないので、「あっちにしとけば良かった」と思うこともない。

自らの支配が解けていない状態では、常に喜びや利益は“社会性”や“他者”という“他”の存在の上で成り立ちます。

「価値を見出さなければ意味がない」と思うかもしれません。それは既に社会性に支配された縛り。
「幸せじゃなければダメだ」と思うかも。それも既に支配下。何も悪いことはありませんが縛りはちょっと邪魔。

自由な中での幸せとは苦しみも含まれます。自らの選択があるので苦しむことも意味と理解のある必要なもので、より幸せになるための一つの材料です。エゴも良いし、愛も良い。

重要なことは自らが選択しているかどうか。

 

自ら創り出すことで飽きることのない自由がある

現実を選択して創るには、必ず発信的になり、能動的になります。

受け身では他に頼ることになり喜びが少ない、そしていつか飽きます。

つまらなければ飽きます。飽きるのは興味がなくなるからです。

自ら選択していなければ、興味など初めからありません。強制の基では楽しみはあっても減ります。

時間も空間もありません。場所がどこだろうと、時間がなかろうと自由になれます。

大富豪でも自由な人がいて、自由でない人がいます。自由になるために仕事に熱中する人もいますが、仕事なんてしなくても自由になります。何でもいいんです。

スーパーの店員さんで自由な人をたくさん見かけます。自ら選択して働いていることを知っています。

サラリーマンで自由な人をたくさん知っています。自ら選択して能動的に仕事を楽しみます。

それは、仕事に生きるのではなく仕事を遊びに利用している状態です。

牢屋から出てきた人と出会いました。彼は言いました、「牢屋は自由なんだよ、っ戻りてぇ」と。

牢屋という空間に囚われず、現実を拒否していない彼は、自ら選択して生活を楽しみます。

誰でも自由になれます。飽きないのが自由なのは、自由が愛だからです。

 

自由とは愛

「遊ぶのはわかるけど、どうして飽きないのか?」が自由の意味に隠されます。

自由になりたい場合、他も自分も支配せず、執着せず、意志を持ち選択を自覚します。

自覚することでより明確に自分を喜ばせる選択ができます。

そこに意志がある時、その行為は自分を大切にする行為=自分を愛することになります。

自由とは愛、それは自分を愛することです。

自分を愛することは飽きることがありません。この世で一番大切な人を喜ばすことには興味しかありません。

私達は誰しも自分のために生きています。

人を愛することも、人を助けることも、全て自分が満足と納得するからです。

現状を見て、受け入れて、そこでどうやったら遊べるか、喜べるか。考えます、行動します、創ります。

待っているのはもったいない、他者に褒めてもらうのは何でもいい、賞賛も何でもいい、とにかく作って造って創ります。

何もないところに自らの愛がドンッ。

それが自由に生きることです。

 

自由に生きる人達

最後に私が旅をしていて出会った自由に生きる民族をお伝えして終了します。

海外を五年ほど周っていたもので、たくさんの人達と出会い暮らしました。

多くの幸せな人達がいましたが、その中でも“自由人”は別格な人生を送っていました。

それは私が西アフリカのマリ共和国で出会った民族、“ドゴン族”です。

絶壁に住む民族は私が出会ったどの人達よりも自由でした。

その村、一つの井戸を村人約二~三百人で共有します。食べるものは一つ、芋。

毎日同じ生活をします。老人は日陰で( ゚ ρ ゚ )ボー。男性は集まってペチャクチャ話す。女性は田んぼで芋を潰す。たまに男性は畑で働く。

ご飯は男性は男性全員で、女性は女性全員で、子供は子供全員でそれぞれ分かれてみんなで食べる。

お店なし、電気・ガス・水道なし。

規律があり、することもない場所ですが、そこには時間も空間の概念もない人達がいました。

あんなに楽しそうに過ごす人達を見たことがありませんでした。ご飯食べる時は海賊かと思うほどゲラゲラ笑い、話し続けます。

一人一人が自信満々で何事にも興味を持って関わります。

村にある唯一のテレビをバッテリーに繋いでバンバン叩きながらサッカー観戦。小さな画面の周囲に誰も見えないほど近付き、ギャーギャー騒いで観戦します。

みんな常に笑顔で、一瞬一瞬を楽しみます。

「なんでこんなに毎日楽しそうにしているんだろう?」と疑問でしたが、誰しもが生きている意味を自覚して、自らの環境を受け入れているからでした。

そこには長老がいます。長老は何でも知っている人、それはこの世の誕生から知っている別概念のぶっ飛びジジイ様。

あらゆる規律がある小さな村には、代々の教えとして自然崇拝がありながら、キリスト教もイスラム教もさまざまに、「村から出ていきたければご自由に、宗教もご自由に」でした。

目的と意志を明確に持ち、選択を自らさせる村ではみんな自由に生きていました。

あんなに幸せそうな人を見たのは初めてでした。

毎日が同じように流れているようで、一人一人には一瞬一瞬の新鮮な己の認識があり、楽しみを見出す遊びの人生があり、制限も縛りもない世界の中で今日も自由に大笑いするのでした。

※自由を教えてくれた民族との話は、思い込んで自由に生きた末路は絶望と希望│本当の自由を知ったアフリカのあの日 をご覧ください。

自由に生きた末路は絶望と希望│本当の自由を知ったアフリカのあの日何も知らずに“自由”だと思い込んで生きていました、あの日のあの瞬間まで。 私は海外を約5年間旅していた時があります。 その旅...

 

自由になりたい まとめ

自由になりたいと思う時、
「どうして自由になりたいのか?」
「自由とはどういう意味か?」
「自分は何を求めているのか?」を知ることが大切です。

自由とはわかりにくいものですが、解放との明確な違いがあるため、線引きと段階を見ることが自由に生きる方法です。

自由になるためには自由になる意志が必要です。それは解放か自由かを選び、解放であれば金。自由であれば今この瞬間と自分自身に着目します。

自由になるとは、元々自由であることに気付くことです。

私達は誰しもが自ら現実を創っています。しかし、その選択や認識が見えなくなることでそのことを忘れてしまうことがあります。

子供は自由です。常に遊びを見出し楽しみます。そこには、自らが選択して創作する意志があります。

それが答えです。

いつでもどこでも自由になれる、縛りと飽きのない人生に過去も未来も時間も空間も執着もありません。

あらゆるものを手放す世界は何もなくて全てがある、全部自分次第な自由とは、そんな自分自身のことです。

それが合うかどうかは人それぞれですので、自由の意味を知ることで自由に生きる方法がわかりやすくなれば幸いです。

それでは、自由になりたい際の自由に生きる方法の話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

奇妙だけど核を突く人生物語の本

人生が始まるストーリーを電子書籍にて販売中!

少しばかしおかしな人間なもので…少しばかしおかしな経験をしました。

自分を探し出すまでの軌跡を綴った自伝を書き綴り、電子書籍にしました。

アラスカの森で起きた、私自身が奇人となるまでの変貌ストーリーです。

一風変わった刺激物として、ふざけた人生を大真面目にお伝えしています。

楽しく読める内容となっている実話ですので、ぜひご覧ください。

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です