心理と特徴

自由に生きた末路は絶望と希望│本当の自由を知ったアフリカのあの日

何も知らずに“自由”だと思い込んで生きていました、あの日のあの瞬間まで。

私は海外を約5年間旅していた時があります。

その旅の最後となる瞬間は、自由をはき違えた結果としての末路が待っていました。

末路の時は消沈による落胆と絶望、それはアフリカの大地でした。

「終わった、はは」と力なくつぶやく私の“自由に生きる時間”は、本当に自由に生きる人達によって終焉を教えられ、同時に光を見るように“自由とは何か?”を教えられました。

自由に生きる末路に待っていたもの、それは“本当の自由”を知ることでした。

そんな自由をはき違えた人間の末路と、新しい始まりとなる本当に自由について、私の経験が自由を築く一助となることを願います。

それでは、旅の経験による自由に生きる真相をご覧ください。

自由に生きる末路

自由に生きていると思っていた道筋

旅をすると嫌でもさまざまなことが起きます。

海外を旅していた時、約2年の歳月をかけて一歩一歩段階を踏んで“あるもの”に近付いていました。

それは当時の私にとっては求める宝物であり、“自分を知る”という“目的”への近付きです。

その目的を明確にしたのは私がオーストラリアに居る時、太陽を食べるサンゲイジングという人体実験をしていた時です。

※初めにお伝えしておきますが、私はそういう人間ですので、気楽にテキトーにご覧ください。

その実験をしている際、約2000年前のアフリカに居たリーダーの言葉を知ります。

人間は太陽を食べて生きる生物である

by 名もなき戦わないドゴン族の長

「ドゴン族…一体何者なんだ?!」と私は衝撃を受けました。

そこから私の目的は“ドゴン族”という言葉を得て、自由に生きる時間が始まりました。

 

自由に生きる軌跡

さまざまなことがありました。

オーストラリアから南米チリへ向かい、ペルー、ボリビアと北上する中で多くの出来事を味わい、お金を稼ぎ、人に泊めてもらい、宿泊施設やテント泊をしながら、“旅”と称して自由に生きていました。

ヒッチハイクで移動し、山道を何十kmも歩きながら導かれるように村々を巡り、人と出会い、断食をし、まるで修行のような時間を過ごす時もあり、シャーマンと生活したり、路上パフォーマンスをしたり、さまざまな日々を過ごします。

そして、出会えば出会うほどに、起きれば起きるほどに、ある道に導かれているように進んでいき、それは全て“ドゴン族”に続く線の点と点を紡ぐ時間でした。

目的を持って自分のおもうままに、やりたいように生きている。そんな自由。

良いこともあれば悪いこともあります。北上を続けてバスジャックに遭い、中米で強盗に遭い、メキシコで全ての荷物がなくなり…常に出来事は起きます。

生きる術を経験しながら絵を描いて旅するようになり、自由に旅の資金を作れるようにもなりました。

そんなことから無駄に自信をつけ、「どこでも生きていける、自由なんだ」と思っていました。

そんな時に“イボガ”という植物のことを知り、それがドゴン族が使用している植物であることも知ります。

さまざまなことがありながら、オーストラリアから始まった自由な人生は約2年の月日をかけて集約されます。

全ては西アフリカ、マリ共和国、ドゴン族でした。

意志と目的を持ち、「選択している以上は全ては自分がしたいからしている」。そんな自由に生きる時でした。

 

マリに入ってからの過酷な自由度

目的に近付いていき、マリ共和国に入ってからは極端にあらゆることがきつくなりました。

全ては自分で決めている旅であり目的のためなので、嫌だと思うことは否が応でも起きるが、きついとも辛いとも思うことはありません。

「自由に生きていると思っているのでそこに苦労はない」と思っていましたが、マリという国では自由に生きることの過酷さが露呈し始めます。

マリに入国するためのバス移動は42時間かかり、夜の砂漠でバスから追い出され、砂漠でテントを張って寝ていたら突然の豪雨。豪雨は氾濫する川を作り、テントごと流されます。

荷物と画材道具とテントを死ぬ思いで守り切り、ガタガタ震えながら高台の大型トラックの下に潜り込んで朝を待ちます。

靴は流され白肌が目立ち、ボロボロな姿でマリに入国です。そこからドゴン族の近くの町までさらにバス移動。

大型バスと大型トラックの正面衝突で血だらけの人を見ながら進みます。お腹痛くて野糞ピーピーはもう止めません。一心不乱、ドゴン族しか見えていません。

自由だと思っている時間は、自由を求めるように血反吐を吐いて進みます。

そしてついにドゴン族の最寄の町に到着します。ヘロヘロ

 

自由に生きる時間は自由を求める時間?

最寄の町についに、ついに到着しました。しかし町民から伝えられます。

「この町を出ると部族同士が周囲で戦っているから、町を出る時は歩かないで車などで移動した方が良いよ」

自分のおもうようにできない現実がこれまでも薄々、いえ、ガンガン感じていましたが、ここで現実がモロに覆い被さります。

まず、どこに行くかもわからない。
「どうしよう?」

とりあえず、町の中で“イボガ”のあるドゴン族の集落を探すことにしました。なぜならばドゴン族は100以上の集落に分かれて、世界遺産にもなっている400Km続く絶壁の麓に点々と暮らしている民族だからでした。

私は町に到着するまでも常に、イボガの詳細を探し続けていましたが一切の手掛かりなし。

イボガについての情報が少なく、出稼ぎで町に来ているドゴン族の人々に出会っても知っている人はいませんでした。

・・・

そして最寄の町でも探し続けて数日が経ちました。

するとある日、ドゴン族から出稼ぎで来ているバイクの運転手、元々観光案内をしていた男性に出会います。

今は戦いが始まってしまい観光客は誰も来なくなってしまったようですが、数年前までは世界遺産にもなったことで観光客で賑わっていたようで、一部の集落では宿泊施設もある(あった)という。

出会った男性は内情に詳しく、イボガという言葉を以前に聞いたことがあると言いました。

「実際にどういうものかわからない。ドゴン族の集落一つ一つには長老というリーダーがいて、一部の長老なら知っているかもしれない。ちょうどドゴン族に寄る用事があるから聞いてあげるよ」

男性は最高に素敵な人でした。道が開き、自由に生きる時間が再開されるような気持ちになります。

翌日に男性が情報を教えてくれます。
「尋ねた集落は誰も知らなかった。でも集落同士で繋がりのある人がいるから、どこにイボガがあるか聞いてもらっているよ」と。

そして待つこと3日。

「わかったよ!ある集落の長老がイボガを知っていた、集落から離れた家屋でそれを飲むらしい」

「来たー!」と歓喜に溢れる私は目的が近付くことに喜びます。

直ぐに集落の一つへ向かうことに決め、男性がバイクで送ってくれることに。

私の自由に生きる時間は目的へ向かってブンブンと加速します。目指す場所・物は私にとって宝物であり“自由”そのもののようでした。

そのため、自由に生きる時間は自由を求める時間になっていましたが、私にはそんなことは見えていませんでした。

※マリという国の経験話は、不真面目に生きることを教える国がある。ふざけた人生は最高だった をご覧ください。

不真面目に生きることを教える国がある。ふざけた人生は最高だった「不真面目に生きるってこれかぁ」 何度ふざけていると思ったことでしょうか、アフリカはマリ共和国。 マリを旅した際、常にさまざまな...

 

自由に生きる末路

バイクの後部に乗り、砂地を進みながら集落を幾つも越え、途中からは砂漠で進むのも困難な中、バイクを押して進みます。

そして夕日が綺麗に輝く中、目的の集落に到着し、長老に手土産と共に挨拶をします。
※現地の文化のようなものがあり、手土産も植物という

長老に挨拶をして、「イボガ」を探している旨を伝えると、「わかっていますよ」と言われます。

長老は年齢不詳、白髪に白髭のおじいちゃん風で、目が黒目しかありませんでした。

えぇ、宇宙人でしょう。

長老は言葉数少なく、手土産を子供のようにキラキラした目で受け取って下がり、「あとはよろしく」と言わんばかりに、長老の後ろに居た側近風年齢不詳のおじいちゃん男性に任せます。

この男性、長老に合っていた目の前の私でも居たことに気付きませんでした。そして、目は黒目。はい宇宙人です。

男性は言いました。
「今日、あなたがここに来ることは朝のお告げでわかっていました」

はい宇宙人。知ってる。ここヤバいとこ。

「植物を探してやってきました」と伝えると、「えぇ、イボガですね、ありますよ」と答えます。

「やったー!!」と喜ぶ私は、これまでの道中は自由への軌跡だったと確認するように頷きガッツポーズ。

男性は喜ぶ私に伝えます、「イボガというのは植物の木から取れる水分です、それはこの集落の外れにあり、1年に小さなカップ1杯分しか採れません」「それは年に一度、選ばれた一人だけが飲むことになっています」

「そんな貴重なの?!」と驚く私は恐る恐る聞きます、「それは私がいただけるものでしょうか?」

男性は、「朝のお告げで今日来る者に渡せということだったので、飲むのはあなたです」と言いました。

宇宙人最高か。

「全てはこの時のために2年間があり、全ては繋がっていたんだ」と深く現実を噛みしめ、自由に生き続けた結果、そして確実な自由を手に入れるような気持ちで感謝します。

早速男性と共に集落の外れに向かい、大きな木の麓に到着します。男性は木を一瞬で登り、木の中腹にある穴に糸を付けたカップを垂らして水を採ります。

集落には規律と仕来りがいくつもあり、その木にはその男性以外は登ってはいけないということでした。

ほんの一口ほどの量が採れ、今年分は終了です。

集落の人は、老人の一部しか飲んだことがない水のために興奮気味で、「何が起きるんだ?!」とどんどん集まってきます。

私はイボガについてはほとんど何も知らず、植物から取れる水分を飲むことで自分という存在を確証する作用がある儀式的なものということしか知りませんでした。

何度も何度も、「これは本当にイボガですか?」と確認し、「うむ、イボガだ」と答えられ、私のこれまでの2年間はこの水を飲むことで終着点に辿り着きます。

その数分後、私の自由に生きる人生は終わりました、一瞬で。

 

自由に生きる末路は絶望

集落に戻ると夕日も沈み藍色の空に無数の星が見え始めました。

集落には男性の家、女性の家、子供の家が分かれており、それぞれの場所でそれぞれがご飯を食べたり、会話をしたりして過ごします。

私は男性の家に招かれ、集落の男性が大勢集まっていました。

水を採取した人と長老のダブル宇宙人が水をカップに入れて、私に渡します。

私はみんなより一段上の段差に立っており、祭壇の上に居るかのようにみんなを見渡し、興奮状態で水を受け取ります。

再三の確認で、「イボガですよね?!」と言うと、「イボガ」ワッ!

「イボガ」と言うと、みんなが「イボガ」ワッ!と騒ぎます。

「イボガッ!」と叫ぶと、「イボガ!イボガ!」、なんとイボガコールが始まります。

「いっき、いっき!」と言われているかのように、大勢を集めた真ん中で私はイボガを空に掲げ興奮は最高潮、イエー!ノリ良過ぎだぜー!

「ついに来た、ウル」と自由に生きてきたこれまでを、そしてここに来るまでの道中を感慨深く感じます。

そして、ゴクッといっき飲み。

ワー!!!と大騒ぎの中、私は待っています。待ちます待ちます。
「何がどうなるのか?私に何をもたらすのか?自由とはどんな味なのか?!」

・・・

・・・

何もない。

大勢が、「どうしたどうした?!」となっている中、何をどう待っても何もない。

宇宙人がやってきて、「味はどうだった?」と言われ、「うん、苦い木の水分、まずい」とそのまま答える。

私は何も知らない。しかし、飲むことで確実に起きることがあるのは、過去の儀式体験やシャーマンとの生活にて身を持って理解している。そういう植物のはずだ。

なのに何も起きない。ただのまずい泥水を飲んだシンプルな気持ち。

はっ。我に還るように気を持ち、「これはイボガだよね?そうだよね?そうなんでしょ?!!」と再度確認すると、宇宙人は言いました。

「なんじゃイボガって、ガハハハッ!!」

・・・?

チーン

チーンのスーン

・・・はへ・・・?

大勢が、「何だよイボガって、アハハハハ!!!」

ゲラゲラゲラ、ガバガバガバ、ゲホゲホゲホ、ヒャアッハッハー!

笑い声のエコーが凄まじすぎる。祭壇の上の私は藍色の空と星を眺めながらツーン、静かだなー。

「この人達、イボガ、知らないんだ…ツーン」
「はは、これ何の時間?ホワーン」
「私は何しにここへ?スーン」
「これまでの苦労って何?チュポーン」

「はい、終わり」と澄んだ目は空虚の死んだ魚の目。

自由に生きる時間はこれで終わりだと悟った瞬間、まるでたらいが落ちてきてドーン、ガッシャンガッシャン。
はい、チャンチャン。お風呂入って寝る時間よ。

旅が終わった。自由に生きる時間は、自由に生きていると思い込む浅はかな自己満足。

末路は全てを綺麗に終わらせました。

 

自由に生きる末路は真実を教える

全てを笑い飛ばす彼らを無視するかのように、空に見入って消沈する私は無心で星を見つめていました。

そして次の瞬間、自由に生きていたこれまでは、自由だと思い込んでいたことに気付きます。

それはいつまでも大笑いしている彼らを見たからでした。

「あれっ?何してたんだ?」と記憶喪失を取り戻すような、これを知るためにここまで来て、これまでの軌跡が繋がっていると理解した瞬間。

「自由に生きるって、この人達のことだ」と思いました。

私とは本当に全てが真逆のように見える。自由に好きなように行動して、国を出て、経験して、数えきれないほどの人と出会い、目的を持って自分で選択して自覚して認識して生きる私。

ここには店もない、電気もガスも水道もありません。

食べ物は芋しかない。シャワーもない、娯楽もない、ベッドは土、周囲は争い、危険もある。

好きなように行動できず、国も出られず、経験もできず、人と出会えず、あらゆる縛りと制限の中、規律と抑制の中で生きる彼ら。

全く違うのに私はこの人達のように自由ではない。目的が自分の求めるものと違ったことで落胆し、終わったとまで思い、目的を見失ったことで先が見えない不安を覚え、目の前で楽しむ人達の現実すら頭に入ってこず無心。

守られていた。自由という言葉や言い聞かせの思い込みに。

「私は自由をはき違えていた」と思った瞬間、大笑いしているみんなの顔が目に入り、声が耳に入り、喜びが体と心を包みます。

みんなテキトーだけど、私のためにしてくれて、目の前の起きたことをただ本気で認識しているんだ。

自由に生きていると思っていたのは、自分自身ではなく自分の外側にある環境、時間、空間、お金、利益、価値、評価、全て内側ではない“他”の存在によって見出される“自由という何か”を手に入れたから。

それは、社会性の常識やルールを脳にインプットし、自分の意見でもない思考を基に物事を見て、照合して、比較して見出す、「これをやれば自由でしょというルール」に則る縛り。既に縛り。

「自由になる、自分のおもうようにする」という自らが自らを支配する縛りにあるのは、“自由に生きている思い込みの自分”でした。

自由に生きる末路は、本当に自由に生きる人達によって気付かせてもらえる、本当の自由への道でした。

※自由に生きる人の特徴は、自由人とは何者?│特徴と性格に自由になろうとしない人間性 をご覧ください。

自由人とは何者?│特徴と性格に自由になろうとしない人間性自由を求めることは時に厳しく、時に涼しく、時に優しく。それはもう何でもいいと。 自由に生きて良いことがあるのか、最高なのか、それと...

 

本当の自由とは

本当の自由とは

自らを支配することで“自由という形”を得ようとします。

自由に生きることを思い込むことで、私のようになります。

それは、自分一人ではなく必ず“他”を巻き込むこと。

「おもうままに、自由になるために」
社会性の他の思考や意見、常識や考え方、そして他者の存在や反応や評価や体裁などの“他”を基準にして、“自由という何か”を形作るように取得して納得します。

  • 会社に縛られて自分の能力が出せないから起業する、ネットビジネスに走る、株に手を出す
  • 満員電車で嫌々通勤するのは自らを苦しめる我慢だから、在宅ワークできる会社にする
  • 都心のストレスに疲れたから、田舎に行って野菜でも育てて、自然の中で暮らす
  • 自分を見失ったから郊外でカフェでも始めて、自分らしさを取り戻す

何も悪いことはありません。しかし、他の縛りからの解放はあっても、自らの縛りをなくす本当の自由かどうかは別の話です。

 

本当の自由とは自分と環境を受け入れること

教えてくれた本当の自由とは、自ら選択して自分自身と環境を受け入れることです。

それによって、自らが自由になります。

そこに“他”は何もなく、あるのは己の意志と認識と選択の自覚。

ドゴン族には規律があり、選択するほど選択肢がありません。ほとんどの人が芋を育てて集落の中で暮らします。

しかし、全て選択をさせています。

その後一ヵ月ほどドゴン族と一緒に生活をしたのですが、集落にはあらゆる宗教があり、何を信仰しようが自由です。

さらに、神道の八百万の神々と同じ文化があり自然崇拝を代々引き継いでいますが、それも自由に選択して一人一人が受け入れるかどうかを決めます。

老人を敬う自然な認識がありますが強制はありません。集落を出ていきたい人は出ていきます。出稼ぎに出ている人もおり、長老の孫は首都の大学のために家を出ていました。

ちょうど帰ってきたために会えましたが、孫の彼は大学で勉強して、集落のために働くと自らの意志で決めていました。

受け入れることで、どれほど環境が狭かろうが執着しない強さを持ち、現実をありありと観る眼にて事実を拒否しない。

それは他からの縛りを自ら解き、自らを支配して縛らない本当の自由。

私のような自由の思い込みは、目的が果たされなかった瞬間直ぐに過去の時間と労力に着目し、損得勘定をして自らの思考で縛り付けます。

過去でも未来でもない“今この瞬間”に集中することで、起きたことを本気で認識して大笑いする人間性が自由の象徴かもしれません。

一切の執着の無さと、あらゆる選択を自らの意志を持ってする。さらにそれを自覚することで得る本当の自由は、空間である場所や環境、人間関係や仕事関係、生活模様などは一切関係なく、いつでもどこでも自由になれる生き方です。

 

本当の自由は自由になろうとしない

自由になるためには段階があると考えます。

私を例にすると、自由に生きていると自信を付ける段階があり、思い込みの時間は、「自由に生きる」ことを求める状態です。

その後、自らの意志と選択の自覚はあるが、他を巻き込むという条件付きで“自由という形作りをする”状態があります。

それは言わば、解放。自由ではない状態から抜け出す段階です。

その後、これまでが思いこみであることに気付き、自分や環境を受け入れることで一切他に干渉せず、他からの縛りも自らの縛りもない自由があります。

この状態では自由の定義も何もなくなり、人それぞれに何が自由かを思考的に決めることで“自由になろうとする縛り”を作るため、感覚的にしか自由になろうとすることがありません。

それが喜びを求め、自分を愛する状態。生きてるだけで丸儲けというやつです。

その状態、現実を拒否することはなく、あるものをあるように、そのままをそのままにする“ありのままの自分”と言うのかもしれません。

アフリカの遠い地。

本当の自由とは今を本気で認識して選択することであり、旅だろうが同じ場所に居ようが関係なく、いつでもどこでもなれる完全に縛りのない自分自身のことだと教えてくれる民族がいましたとさ。

※自由に生きるための詳細は、自由になりたい人は意味を知る│自由に生きる方法は解放ではない手放し をご覧ください。

woman swimming underwater
自由になりたい人は意味を知る│自由に生きる方法は解放ではない手放し私達が自由を求める時、一人一人に“自由”があると知ることが一番初めの理解になります。 自由になりたいと願う時、それは自由を求めてい...

 

自由に生きる末路と本当の自由 まとめ

自由とは何もなく全てあります。それは自らの意志が全てを作り、現実を創作している認識を持って今を生きることかと思います。

そのため、実際には本当も偽もありません。自分で自由と思わず、自由ではないとも思わず、そんな自分そのものが自由。

自由に生きる思い込みをすると末路はたらいドーンです。

そこで終わりになるか気付きになるか、私が気付けたのはあの状況を受け入れたからです。

そのため、一連のことにもたらいが落ちることにも意味があり、全ては自由を知るための経験となり繋がりがあります。

受け入れるかどうかは自分次第ですので、奇怪な宇宙人と関わる経験が自由を知る一助となれば幸いです。

今日ものんびりゆったり、キビキビあせあせ、どっちでもなんでもいい自由は気楽です。

本当に何もかもなんでもいい、そんな自由がある話でした。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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