生き方

人生が辛いのは当たり前。でも辛いと幸せになれるよって話

人生は辛いと思う仕組みを知ると、人生は辛ければ辛い、辛くなければそのうちに辛いと気付く。

どの道人生は辛く、辛いのは当たり前かもしれません。

そして、人生は辛いことが当たり前になることで、嫌なことではなく良いことであることに気付きます。

そんな話をここで一休み、聞いていかれてください。

人生はおそらく誰しもにとって辛いものです。しかし、辛いの度合いや加減が人によって違うので、耐えられる辛さに差があり、「あんたのは辛いじゃない、私のが本当に辛いって言うんだ」と思うかもしれません。

そんなことを考えると、人生が辛いかどうかは自分がどう思い、理解し、判断し、評価するか、自分の認識次第で決まります。

それならば、「人生、くぅ、つれぇよ、あぁ辛ぇ」と思えれば思えるほど最高です。

そんな話、気楽に見ていきましょう。

人生が辛いのは当たり前

人生が辛いのは当たり前?

はたして人生は辛いものなのでしょうか。

人によっては辛そうではない人生を送っている人もいます。

世の中にはいろいろな人がいます。

本当に強い人は強そうに見えないように、本当に凄い人は凄そうに見えないように、本当に辛い人は辛そうに見えなかったりします。

ですが、弱い人は力を誇示するように、凄くない人は凄く見えるように振舞ったりするように、自分の認識がわからない人は辛いとできるだけ感じるようにします。

一体何をもって辛いと言うのか、基準はあるのでしょうか?

ありません。全て自分次第で辛いかどうかが決まります。

人生は辛いものかどうかは本人にしかわからないので、完全に自分次第です。

 

何を当たり前だと思うかによって辛さの基準が変わる

日本で生きていると日本の社会性という常識を基に認識が作られます。

そのため、”辛い”という基準も常識を基にルール設定です。

「んー、幼少期から虐待ね…辛い!」
「ふむふむ、母親が10人いると…少し辛い!」
「異議あり!それは辛いことではなく、むしろ楽しいことではないでしょうか」
「ふむふむ、じゃあ辛くない!」

常識とは法律ではないので、こんなものです。

実際に辛いと思っているかどうかは本人以外には決められません。

常識や”当たり前”と言われる基準がルール設定されていることで、「親からご飯を与えられない」と子供が言えば、「それは他の人と違うから辛いな」となるかもしれません。

ですが、他の国にいけばそうはいきません。

ボリビアにはボリビアの、ラオスにはラオスの、マリ共和国にはマリ共和国の常識があり、日本でも住んでいる環境や関わる人次第で常識はコロコロと変わります。

すると、「親からご飯もらえない?!だからどうした?」
「一体何が言いたいんだ?」と、辛いと思っていることを理解すらしてもらえないかもしれません。

自分の認識次第で辛いかどうかが決まるので、辛いと思えば辛い、辛くないと思えば辛くないと本人のみが決めます。

その基準は何を”当たり前”だと思うかにて作られます。

 

人生は辛いも辛くないもない

自分で勝手に決めるのであれば、辛いと思うか、辛くないと思うか、どっちも思わないか、またはどっちも思うか。

4つの選択肢の中から選びます。
「私は辛いって思うことに決めた」「辛くないって思うことに決めた」と。

何もかも自由です。

本当は辛いも何もありません。現実は生きている自分がいて、自分の人生があり、自分の認識があり、何をどう見て、思い、感じ、考え、想うか。そして、どう判断して、評価して、理解するか。

認識によって人間性や在り方となり、性格となり価値観となり、考え方となり生き方になります。

 

認識を他者に作られると人生が辛いのは当たり前になる

人生が辛いも辛くないもないのは自分の認識次第だからですが、認識が決められていたら話が変わります。

自分の意見なく認識を作られることで、意志と覚悟を持って辛いか辛くないかを決めることができません。

それが“子供の宿命”です。

子供の時には何もわからず、親や周囲の人間によって育ててもらいます。

その引き換えに、育てに関わった人の認識をインプットすることになり、自分の認識ではなく他者の認識を自分のものと思い込んで生きることになります。

それは人間組織の自然な形で、言い方は教育や洗脳などさまざまですが、歩き始めた赤ちゃんが、「ヘイヘイ、おいらはビリッ、おむつなんか要らないぜ、ポイッ」なんてことをすれば、「はいはい、しっかりおむつ付けましょうね、ぺりぺり」と履き直される。

子供の時は意見を作るための情報がないので、他者から教えてもらうことで作っていきます。

そして、ある程度情報が集まるにつれて”自我意識”という自分のことを自分で認識する意識が芽生え、意見や価値観や人間性を構築していきます。

その際にこれまで同様、「ああしなさい、こうしなさい」「言うことを聞きなさい」「あれはダメ、これはダメ」と強制されると、自我意識があるので自分を否定されることとなり、自分の意見と意志があるのにそれをさせない抑制や干渉のコントロールになり、自我を尊重することができなくなります。

すると、したくないことをさせられる強制労働や奴隷のようになり、「人生は辛い」と思う認識が作られます。

人生が辛いと思うのは、自分の人間性や在り方である認識を否定され、したいことができず、やりたいようにできず、したくないことをさせられる憤りと不納得の蓄積による我慢の限界突破にて起きる。

 

親や他者に強制されることで人生が辛いと思うのは当たり前になる

小さな頃は良かった。

「あの子はとても素直で、愛らしくて、真面目でね…今となっては、フゥー」

子供を私物化することで愛ではなく自分の正当化として子供を利用します。

自分の思い通りに育て、思い通りの子供にしようと強制して、人格も人間性も自我を持っている様も否定します。

自我意識が芽生える前の子供は何でも言うことを聞きます。言われたことをするのが楽しいからです。

しかし、自我が芽生えればそんなものは楽しくもなんともない、ただの強制であり否定であり干渉であり抑制です。

子供や人間一人一人の人格や認識を尊重する許容がなければ、押し付けや決め付けにてグイグイ強制し、言うことを聞かなければ脅したり同情させたりと、子供の愛や純粋に尊重する気持ちを利用してコントロールしようとします。

認識の基盤が作られる幼少期にそのような環境があれば、人生は思い通りにいかないことが”当たり前”になり、憤りや不納得を感じながら生きる常識となり、人生が辛いと思うことが当たり前になります。

 

人生辛いのが当たり前の意味

憤りや不納得の根底には、「自分はこうしたい」「こうあって欲しい」という意見があります。

そんな意見の根底には、自分を喜ばせたいと行動する動機となる”意志”があり、意志がない子供はいません。

意志があるからこそ”自分を喜ばせたい”と自分を敬い大切にする意識を持ち、「おいらはこうしたいって明確に思っているんだよ」と強く自分を確立します。

そんな意志が強ければ強いほどに、周囲から認識を作られて強制されることで、憤りや不納得感が強くなり、人生が辛いと思う機会が増えていき、人生が辛いことが当たり前になっていきます。

そして、意志を消さずに自我を押し通せば通すほどに、周囲からの強制や、どうしようもできない出来事を経験する時に”認めない”という現実を拒否する認識を作ります。

物事を受け入れず認めないことで、より憤りや不納得は強く感じ、人生が辛いと思うことが増えていきます。

そのため、幼少期の環境と同時に、現実を拒否する人間性があり、意志が強いことで、人生が辛いのは当たり前になります。

人生辛いのが当たり前になる理由

  1. 幼少期に干渉や抑圧のある環境で育つ
  2. 現実を拒否する人間性を持つ
  3. 意志が強い

現実を拒否する人間性は、幼少期からインプットされる他者の認識に拒否感や違和感があればあるほどに作られるため、周囲の影響にて自分らしく居られない環境が、人生が辛いと思う認識の基盤になります。

 

意志があってもなくても人生は辛い

人生辛いのが当たり前なのは、幼少期からの環境にて自分らしさが発揮できないことが大きな要因になりますが、それ以上に意志の強さが人生の辛さを強くします。

そのため、意志がなければ人生は辛いと思うことはありません。

親や周囲の人の言うことを聞くのが当たり前だと認識すれば、そこに憤りや不納得はなく、初めから自分の意志がないことに違和感なく従いながら生きていきます。

それこそ辛い人生だと思いますが、それに気付かなければ辛いと思うことはありません。

しかし、単純に自分の意志や意見がないことに気付いてしまった場合、話が変わります。

生育と共に、経験が増えて知恵が増えていきます。そして、老化と共に肉体活動が落ち着き、肉体的で物質的な外観から、思考や精神といった内観への認識に自然と変わります。

「年を取ると落ち着いていく」と聞くことがあるかもしれませんが、肉体の可動域が変わることで喜びを感じる認識が変わるために、体を動かして腰をフンフンしていれば良かったことがただ辛く喜びではなくなり、物理現象的に落ち着きます。

認識の焦点が内観になると嫌でも自分を観ることになり、自分なく生きていたことや、何のために生きているのか、自分は何者で一体何をしたいのかがわからなくなり、喪失感から人生が辛いものになります。

そのため、意志なく他者の認識をインプットして、違和感なく生かされていたとしても、遅かれ早かれいつか気付く日がやってきます。

意志があってもなくても人生は辛くなるのがこの世の仕組みであり、今の時代の定めなのかもしれません。

意志があってもなくても、共にそれぞれの認識から感じる辛さがあり、人生はどの道辛いもの。

※人生を辛いと思う理由については、人生が辛い理由に大きな意志|辛さの糧は全てを良きことに変える をご覧ください。

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人生は辛い方が良い

人生が辛いのは当たり前であり、人生は辛い方が良いという解釈をここからはご覧ください。

人生は辛い方が幸せになる

認識が自分の意志と意見によって作られ、そこに違和感なく調和があれば、人生が辛いのか辛くないのかは本当に自由に決められます。

しかし、幼少期の押し付けや強制があることで、無意識に恒常化した認識が作られるので、自由に辛いか辛くないかを決めるのは困難になります。

そのため、人生は辛いのが当たり前になりますが、辛くない人生を送っている人は一握りです。

その人達とは意志なく生きている状態で、人生が辛いことに気付く前ですので、爆弾への火柱がジリジリと燃えている状態のドガンッ待ちです。

どれだけ気付かないとしても、死ぬ間際には、「私の人生って…何?」と気付くのではないかと思うので、早めに辛くあればあるほどに良きことがあります。

もちろん生きていればの話ですので、どれほど辛くても生き続けることが前提条件になり、その経験や時間があることで人生は辛い方が幸せになる理解があります。

「”人生・辛いもの・Good”という具合に認識するといい感じ」とお伝えしたいのがこの内容の主旨です。

詳しく見ていきましょう。

 

人生が辛くないと幸せに制限が付く

「人生が辛くないなんて最高だ」と思うかもしれません。

しかし考えてみてください。

辛くないとは、憤りや不納得なく、自分の思う通りになることです。

「最高かっ」
いえ、聞いてください。

一度人生が辛い経験をした上で乗り越えて辛くない認識になったわけではなく、その前段階で自分の思う通りになる”自分”とは、他者の認識で作られた自分であり、意志のない自分、それは一体誰でしょうか?という自分の思う通りです。

元々人間性として受け入れる許容が広く、「自分の意見があろうがなかろうがどっちでもいい」という認識があれば、それは確固たる意志なので精神性が高い人を意味します。

そういう人は別ですが、それ以外の場合で、人生が辛いものではないと認識している場合、自分がありません。

その場合、明確に共通して起きることがあります。

喜びを自ら作れないことです。

人生は辛くないと思っている場合、幸せに制限が付く

  • 喜びを自ら作れないために、周囲が言う喜びを求めることしかできない
  • テレビ、本、雑誌、インターネットの情報など、他者の認識を主観にした良い悪いの判断になる
  • みんなが良いと言うことをフォローして喜びだと思うので、幸せが自分のものではなく、みんなが言う幸せになる
  • 自分の意見・体感・理解・認識がないために、幸せの意味が見出せなくなる

「まぁ、悪くはない」

そうです、何も悪いことはありませんが、「それって本当にあなたにとっての喜び?幸せ?」という話です。

みんなが言う幸せとは一体何なんでしょうか?

一人一人に自分の意志と認識があり、過去の記憶と歴史があるために、みんな同じ幸せとは娯楽や納得になります。

言い方を変えると、ドーパミン効果やホルモン分泌による肉体的に誰しもが感じる喜びや、思考的な納得です。

お酒を飲んだり、たばこを吸ったり、注射や粉、観光地に行って、雑誌に載っている名所を巡り、おいしいとネットで評判のご飯を食べて、有名人が通うカフェでデザート食べて…

とても良い時間の使い方ですし楽しいことだと思いますが、喜びに制限が付き、「これすれば体がガタガタして喜ぶぜ、ほら」「みんながやっていることをすれば幸せなもんだろ、な」「みんなができないことをすれば認められて褒められるだろ、やろうぜ」とも聞こえます。

ここでの内容は、「本当に心から喜びを感じていますか?」という真意を大切にしているので、少しトゲトゲしてお伝えしました。

 

人生が辛いと幸せに制限がなくなる

人生が辛いと認識している場合、自分の意志があり意見があり、自我を持って、「こうしたい」「こうありたい」と抱きます。

そしてドーン!
「でもできない」「嫌なこと起きた」「人生辛い…」と。

自分の意志を押し通そうとすることは欲であり期待、これはとても大切なことです。

意見を他者に押し付けることで自分勝手やわがままになり、迷惑をかけて全く違う状態になりますが、意志を自分の中で押し通すことは自分を消さない自我の尊重であり、自分の経験や記憶を大切にする敬いです。

そんな強い意志を持っていることで人生が辛いと思うことが多くなります。

ですが、それは”喜びは自ら作る”という人間性でして、意志があるからこそ目的を持って、「私はこうしたいんだ」「私はこれが良いと思うんだ」と意見を持ちます。

言い方を変えると、喜びを自ら作る意志があることで人生が辛いと思うことが多くなり、それは他者の認識ではなく自分のみの認識を基に幸せを見出すことです。

人生が辛いと思うことは、意志を持って幸せを見出す人間性を意味する。
意志と辛い経験によって、より喜びを自らに与えようとする動機になり、幸せに制限なく、欲を大きく持つことができる。

自らが生み出し、感じ、作る幸せであれば、自分次第で制限なくいくらでも喜びを作ることができます。

 

人生が辛いことの良さ

人生が辛いことには、意志が強いことと、辛い経験によってより喜びを見出そうとする糧となり動機になる意味があります。

人生が辛いと思えないことは安泰と平和があり、とても良いことですが、辛さがなければご飯を食べられることの有難みが、「みんなは食べられないのに私は食べられるなんて有難い」という比較上の思考ルールの認識である”納得、不満足のなさ”になり、自分の意見ではなく記憶や誰かに言われたことの情報になります。

しかし、実際にご飯が食べられない経験にて、真意としてご飯が食べられることの有難みを知るため、他者との比較ではなく自分にしかわからない辛さと過酷さを理解した上で、食べられることでの喜びを感じ、リアルな体感と共に感謝の意味を知ることにもなります。

アフリカに行けば自分が辛いと思っていたことを見直す認識が作られるように、自分が実際に現地で生活することで本物の情報があり、知恵となり、真意の認識として、「今まで辛いと思っていたことって楽ってことじゃん」などと自分なりに身につけます。

辛いと思える経験があることで、物事の本物の情報を自分なりに理解し、真意の認識を身につけられる。

 

辛い経験にて欲を持てると幸せになる動機が生まれる

「もっと、喜びたい」
「もっともっと、幸せになりたい」

こう思っても実際に行動できるかどうかは、本当に心の底からの意見かどうかで決まります。

そのため、口で言っても行動しなければ他者の影響で言っており、意志なく、意見も認識もなく、何より行動動機がありません。

幸せになるからには、「幸せになりたい」と強く抱く行動動機の基が必要で、それが”欲”です。

辛いと思える経験は、どこまでも認識の幅を広げ、欲を持つことができます。

辛さがもたらす欲の効果:

  • 辛い経験があることで喜びをもたらす欲を持てる
  • 欲があることで意見と目的を持ち、行動できる
  • 欲があることで行動して喜びや幸せを生み出せる
  • 欲があることで行動を継続する活力を見出せる
  • 欲があることで自分を敬い、他者を敬う余裕が作られる
  • 欲があることで自分から他者の喜びを求める意志を持てる

実際に仕事がない状態や、食べ物がない状態を味わうことで、「仕事したい」「食べたい」と欲を広げることができ、欲によって自分を喜ばそうとする意志を拡大し、制限なく幸せを手に入れる土台になります。

 

人生辛いのが当たり前だと思うことが大切

欲は使い方を逸脱するとエゴの増殖行為として、他者に認めてもらうため、褒めてもらうため、生きている意味を見出すため、存在価値を見出すためなどど、自分を見失うために突っ走ります。

それはそれで本人にとっては大切な成長機会になりますが、それを防ぐ場合には、“辛い人生が当たり前”と思うことがとても大切になります。

当たり前だと思うことは事実を認める認識ですので、辛いことがあり、思い通りにはならない現実があることを認めます。

認めないことで、「私だけこんなに辛い」「どうしてこんなに悲劇の人生なの」「試練ばっかで嫌だ」「辛い人生なんて最悪だ」となります。

それは、自分を認めず、現実を認めない拒否となり、現実逃避の認識になります。

すると、”現実を認めない自分を認める”という認識になり、現実を拒否し続ける認識を当たり前だと思い、「人生が辛いことは嫌なことだ」となります。

せっかく辛いならそれを活用すれば大きな力になるので、そのためにも、人生は辛いものだと思える経験や、辛いものだと当たり前に認める認識がとても重要になります。

現状に辛いことがあれば、それは良いことです。

その状態を如何に自分のために活用するかが大切で、辛いと思う根底には必ず自分の意志があることを忘れないでください。

意志があるから人生が辛いと思うので、あとは己を大切にしたいのか、喜びたいのか、幸せになりたいのかの真意の確認にて、自分のためになる時間が始まります。

※人生が辛いことの意味については、辛い人生とは一体なにか│スピリチュアルは愛の勉強会を設ける をご覧ください。

辛い人生とは一体なにか│スピリチュアルは愛の勉強会を設ける自分で辛い人生を作り、自らを挑戦させるのは苦労好きなのか、成長を求めるのか。 意志を持ち、自分を消さない決意をしている人は辛い人生...

 

人生が辛いのは当たり前 まとめ

幼少期の環境はとても大切です。

「はい、箸でご飯食べてね」と言ってくる人は、初めは笑顔です。

自我が芽生えた時には手をお茶碗にぶっこんで、パンの白い部分を1㎝×1㎝に四角くギュウギュウするのと同様に、ご飯を四角くギュウギュウしてパクッと食べたいと思うかもしれません。

すると、笑顔だった人は怒ったり、悲しんだり、愁いや同情を使用して強制を試みます。

そのため、強制や否定をされている人がほどんどだと思います。

そんな経験によって作られる認識にて、人生が辛いと思える基盤が完成し、あとは意志の強さにて人生が辛いと思える機会は増えていきます。

意志が強ければ強いほどに意見を持ち、「したい」と思い、できないことへの憤りや、「こうあって欲しい」と思い通し、そうならないことへの不納得から辛い経験が増えていきます。

そんな経験があるからこそ、自分の思い通りにならない、目的を持って行動できないことのリアルな体感から欲を増やし、自ら喜びを求め、行動し、幸せを作ります。

辛ければ辛いほどに、その事実を認めて”当たり前”だと思った時に、幸せの制限なく喜びを求める時間が始まります。

それは、自分自身の縛りからの解放であり、経験によって自由を求めることが許された現実です。

幸せは辛さにて見出されます。

「人生が辛い」とは良い意味であり、大切な機会です。

そのため、人生が辛いのは当たり前という認識になることで、現実的な常識となり、嘘偽りのない事実として喜びと幸せを増やすことができます。

そんな常識にて、人生が辛いことを自分のために活用されることを願います。

それでは、人生が辛いのは当たり前という話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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