本当の自分

何者にもなれないと気づく大切さ│自然をもたらす何者でもない自分

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「名前が欲しい」と思った。

名前を貰うと喜び笑顔。数時間後には名前を持つ自分が何者なのかを知りたくなる。

自分の外側に情報が追加されればされるほど、何者かになりたいと欲するのが私達人間です。

「何者かになりたい」と自分探しをした私は、約五年の旅をしながら、「自分探しをすると自分を見失う」という事実を実感しました。

自分とは自を分ける存在。何者かになれるものかどうか?

ここでは、「何者にもなれない」と思う方に向けて、何者にもなれないことの大切な気づきをお伝えします。

何者にもなれない実感に意味がある。
何者にもなれない理解に意味がある。
何者でもないことに意味がある。

何者なのかのご自身の正体を知っていただくために、一休みホッとするほんの数分間、ここで過ごされてください。

何者にもなれない大切さを知る一助となれば幸いです。

何者にもなれない

何者かになる行為とは?

私達人間はとても意味深な存在です。

自分がおり、我と自我があり、肉体と脳と心があり、パーソナリティとアイデンティティがあり。

あるがまま、ありのまま、素のまま、仮面、偽り、演技。

一体何が自分なのかわかりにくいですね。

何者かになろうとすることには二つの捉え方があります。

  1. 自らを自らが認めて自分を理解する
  2. 自らを他に認めてもらい自分をかたどる

自分が何者なのか自己理解するのか、他者に認めてもらいたいのか。

①も②も狙い通りにできれば何者かになり、自らの行動にて願望を叶えた状態です。

どちらも、「どんな環境と基盤で何者かになろうとしているか?」の前提理解が必須になります。

 

何者かになるには社会・地球環境が前提

自らの思いや想いを持って何者かになろうとしたり、なりたいと願い行動する。

「それ、どこでやろうとしていますか?」

これを忘れると全てがこんがらがる可能性があります。

社会ではお金を使用し、スーパーに行けば食べ物がある。怪我をすれば病院に行き、法律に則り、社会性を持ち、ネットを使い、仕事をする。

社会で生きている場合には、「社会で生きている自分」になり、自分だけで存在することはできなくなります。

無人島に行けば話が変わります。そのままの自分、自力のみ。地球が基盤環境になります(社会も地球が基盤)。

地球の土、石、水、陽、金、エネルギー、循環、供給、分配による恩恵が常にあり、「地球で生きている自分」になります。

  • 社会の一部である自分
  • 自然の一部である自分

自分という存在は単体では生存していないことがわかります。

何者かになる際に環境を含めると、「何者とは?」の理解が生存を前提にしたものか、名誉や肩書などの表面か、死をもいとわないものかと、人それぞれに目指すものが変わります。

 

何者かになるとは自己満足

ほとんどの場合、何者かになるのは生きている生存前提で目指すと思います。

社会や自然を含めて何者になるかを目指さないと、「何者とは一体?」と目指すものがわからなくなる可能性があります。

何者かになろうとする人は頑張る人ですので、一つに力をフォーカスして目指す道をまっしぐらに進もうとします。

例えば芸人さんが売れるように頑張ります。実際に売れた時に知るのは、「どうして売れたかったのか?」「売れたから何なのか?」「何者かわかったのか?」のリアルな答えです。

評価や名声が欲しいのか、認めて欲しいのか、お笑いを追求する環境が欲しかったのか、何を結局したかったのか、自分とは何なのか。

何者かになることはその時その瞬間にしかわかりません。求めたものを得ても何者かになる行為は、全て一つに集約されます。

自己満足です。

自己満足は喜び楽しむ大切な時間。それ以上でも以下でもなく、得たことに満足する一時を味わえるのが何者かになることです。

 

何者にもなれない実感に意味がある

何者かになった人は自らの欲と願望を叶え、納得し、自己満足を得ます。

何者にもなれなかった人は欲と願望を叶えず、自己満足ではなく不納得と後悔になります。

不納得と後悔は事実の受け入れに対する反発であるために、何者でもない事実を拒否。何者かになれなければなれないほど、思った通りにならない憤りに不納得が蓄積していきます。

不安や恐怖が多くなり、自己支配が強くなり、思うようにしたいという欲と願望が強まります。

この時の自分を、「我(エゴ)」と言います。

我は自らを自ら認めて認識するのを拒否し、「自分」という存在を主張・誇示しようとするため、何者にもなれなかった自分を拒否したくなります。

何者にもなれなかった時、事実を受け入れるか拒否するかの選択が起きます。

「私は何者でもないんだ」という実感が現実としてあるため、起きるのは現実をそのままにするか否か、自然にするか否かの選択です。

  1. 自然にする選択…諦め、妥協、受け入れ
  2. 我を貫く選択…不納得、後悔、自責の念

受け入れの選択は、欲と願望が我欲であった認知と共に、我を手放すことができます。

何者かになりたい行動によって我や我欲が強まり、選択によって一斉に手放されると、何者にもなれない意味を知ることができます。

何者にもなれない意味とは、元々、そしてこれからも何者でもないことです。

これは何者にもなれなかった実感がある経験者のみが知れます。

 

何者でもない受け入れにて自然の一部になる

諦め、妥協、受け入れによって現実を飲み込み、拒否や抵抗をなくします。

あるものをあるままに、そのままをそのままにする状態。何者でもないと知ることで欲や願望に対する執着が手放されて自然体になります。

何者かになろうと欲と願望を持っていた状態は、自然を人工物にするように、そのままを自分の思うようにしていた気づきになります。

自然体になると現実に対する抵抗がなくなります。木が生えるから生える、ふむふむそうだねという、自然の一部として自分を認知する状態です。

自然の一部とは自然を敬うだけではありません。自らを自然と同じように認知することです。
※自然とは緊張も硬直もない、事実をそのまま見て、感じて、考えて、想うさま、拒否のなさ

事実をそのままにできる自分になれるのが、何者でもない実感による賜物。後悔があろうと受け入れて我を手放す機会作りとなるのが、何者かになろうとする行動です。

地球の自然と同じ状態になることで、自覚はなくとも自然の一部となり、我が手放されることで社会の一部として自らを捉える認識にもなります。

 

『自分を知りたい方へ』

自己理解は知識の習得だけでは本質になりません。
経験と実践を含めて理解がより深まるため、機会をここに提示します。

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※自分を本当に変えたい方のみご活用ください。

何者にもなれないと知る体験談

何者かになりたかった自分探し

何者にもなれない大切さがわかりやすくなればと思いますので、少し私の体験談にお付き合いください。

私は猛烈に欲と願望を持ち、「自分を知りたい、何者かを特定する」と自分の中に潜む自分を知ろうと旅をしていました。

「何者でもない」と知ったのは、自然界にボコボコにされたことがきっかけでした。

少しの間、森に住んでいた時です。

私は力なく、食料もなく、ハエが生んだ卵を食べて食中毒になります。

火が焚けない雨が続き、身体中泥だらけで地面を這う。森は人里から遠く離れていたために孤独でした。

寒さと食料のなさにて身体が動かなくなり、仰向けで雨に打たれます。

何もできない、独りで生きることもできない、力がない、弱い、自分を知らない。
「一体この人間は何なんだ、なにもできないじゃないか!」と思ったら涙が止まらず、ボロボロと泣きました。

これまでの森を歩む道中、腕は擦り傷で血だらけ。独りで自力で生きることすらできないという実感は、自然界にボコボコにされているようでした。

何もできないという事実を認識せざるを得ず、逃げて誤魔化せない歴然とした現実を突きつけられ、自然次第で生きるも死ぬも今一瞬で決まるとはっきりわかります。

「私は何者かである」「こういう者だ」と主張することの無力さ、虚しさを目の当たりにするほど強大な存在が自然でした。

事実を受け入れた瞬間。私は自然の一部であると明確に認識しました。

 

社会と自然の一部になると何者かわかる

川の水を飲み、川の魚を捕まえて食べ、虫を食べ、草を食べ、土の温かみを感じ、枯れ枝を燃やして暖を取り、寒さに凍え、野生動物に翻弄され、恐怖を味わい、襲われ、襲い、排泄し、呼吸し、疲労し、元気になり、生きる。

全て、例外なく全てが自然によって構成されているのが自分だと痛感します。

自分たらしめる何かは思考と肉体と心だけ。思考は自然の中では全て自然ありきになり、肉体も然り、心だけが残りました。

心が、私は何者でもなく、周囲の人々によってこれまで生き、社会によって育ち、喜びも悲しみも、価値観も観念も、自分らしさも生き方も、何もかもが自分以外の影響によって構成されていると教えてくれます。

心が、生きる基盤に社会があり、その基盤に自然があると教えてくれます。

「私は私のみで存在する」
こんなことは到底思えない体感でした。

何者でもないというのは、あらゆる「他」が組み合わさることで「自分」が作られている意味。

[自+他(人・物・事・社会・地球)=自分]である気づきです。

※何者でもない気づきの詳細は、人生を変えた経験を本に|ふざけた人生哲学 幸せはムニュムニュムニュ をご覧ください。

人生を変えた経験を本に|ふざけた人生哲学 幸せはムニュムニュムニュ幸せになりたかったのか、苦しみから解放されたかったのか。 目的を持たずとも、ただ目の前の道を歩き進むことは彷徨いではありません。 ...

 

社会の一部である気づき

社会の中では、肩書や名声や評価を欲しました。

会社員時代はとにかく頑張って評価を得ました。役職が欲しくて、給料を上げたくて働きました。

今もこのようにブログを書いて表現しています。
「絵描き、ブロガー、ニート、旅人」と何かしら名前を欲します。

何者かになろうとすればするほど上がいると知ります。もっとすごい人がいるとわかります。代わりはいくらでもいるとわかります。

しかし、[自+他=自分]だとわかると、そんなことはどうでもよくなります。

誰と比較することもなく、私は私を含めた自分(このブログでは、私と読んでくれる方、サイト環境を提供してくれるインフラ、企業、社会性)に集中します。

何者でもないとはとても気楽な現実の受け入れであり、自然な認識です。

社会の一部であるため、常に価値は他者のために提供したいと思えます。

他者のために何を表現し、どのように書けばいいかを考えるのが何者でもない私にとっての自然になります。

 

何者でもない自分とは?

肉体という個体があり、アイデンティティを認識すれ意識があるため、個性や独自性を持ち、感覚や感情を認識して、「自分は自分」となります。

「自分の命だから大切に」と教育され、躾され、お墓まで用意され、「死にたくない」と思うことが常識であれば、“個”への認識ができます。

「何者かでありたい」と思うのは当たり前かもしれません。

しかし、それが自然にできたものかどうかは見極めたいものです。

自然ではありません。

必ず誰かしら他である人や歴史や情報や学校や社会などの影響があり、そのままをそのままにする自然ではない人工になります。

何者でもないとは知ることです。

  • 経験によって知る
  • 自己理解を深める
  • 現実を現実として認識する
  • 拒否をなくす
  • 我を手放す

否定せず、抵抗を作らず、そのままをそのままにするためにも、知っていることが何者でもない自分を意味します。

自然も人工も共に大切であり、自然は自然、人工は人工とすることが「そのまま」であり何者でもない状態。

自+他として両方に拒否のないさまを表す自分となり、自らの意見も、社会の意見も含めて認識します。

 

「知る」ために経験が必須

自然な認識を持つと何者かになることはできません。社会の中で何者かになる際には他の影響があり、自然ではない何かになろうとする思考があります。

何者かになることも大切です。実際になってわかるのは自分が何者という確証ではなく、自分のできることとできないことの区分け理解、使命や役割の認知です。

何者かになっても何者でもないという気づきによって自分のすることがわかり、自己満足の時間は終わり、社会と地球のために生きる人生が始まります。

死んでも本人は困りません。困るのは周囲の人。自分とは自分ではなく、他が組み合わされて構成されています。

「何者でもない」という実感の経験があるからこそ、知ることができます。

※何者かわからない時は、自分がわからないこそのスピリチュアルな意味|本当の自分を知る機会 をご覧ください。

 

何者にもなれないのは何者でもないから

何者かになっても、何者でもなくても、我を手放すと遅かれ早かれ何者でもない気づきへ向かいます。

何者にもなれないのは私達人間は何者でもないからであり、その状態を自我と言います。

自我は自と我が分かれて共存。区分けできているのは我が手放されているためです。

何者にもなれないのは自然。大切なことは何者でもないと受け入れて我を手放せるか否かです。

何者でもない人には共通の特徴がありますので、何者でもない人になるためのご参考にされてください。

何者でもない人の特徴
  1. 他者と比較しない
  2. 他の影響による感情の浮き沈みがない
  3. 他者を否定、批判、非難しない
  4. 自らの主張や誇示がない
  5. 良い悪いの固執がない
  6. 自らを客観視する
  7. 自らを「この人」「○○さん」と第三者のように呼ぶ
  8. そのままをそのままにする
  9. 自然も人工も共に大切にする

※自然の一部として生きる人の詳細は、自然が好きな理由にある性格と心理│ナチュラルは人間もナチュラルにする をご覧ください。

自然が好きな理由にある性格と心理│ナチュラルは人間もナチュラルにするナチュラリズムかアニミズムか。 “好き”とは自らに喜びをもたらす行為であり、自らを喜ばす方法です。 その方法を駆使して自然を...

 

何者にもなれない まとめ

「何者にもなれない」と思えるかどうかは、諦めでも妥協でも受け入れによって完成します。

何者でもない自分を受け入れると自分がなくなり、これまでの頑張りを否定してしまうような気がするかもしれません。

不安や恐怖があり、過去の実績を無駄にしたくないと思う場合には、何者かになり続けることも大切。何者かになりたい理由と意味、我と自我の区分けも大切です。

どうして何者かになりたいのかの欲と願望を今一度確認し、自らの意思と意志を知られてください。

意思は思考による覚悟。
意志は心による覚悟。

あなたの何者とは一体何でしょうか?
個とは?
自分とは?

「何者でもありません」という答えは物事の考えを気楽にし、「ようはなんでもいい」という力の抜けた安心をもたらします。

何者でもいいんです、自己満足ですから。

大切なことは、「何者でもない」と受け入れられるかどうかです。

思えた方は本当にご苦労様でした。

何者でもない自分としての在り方は物事をスムースに前に進め、引っ掛かりや抵抗なく自然なさまが広がり、自他共に硬直や緊張のない緩みがもたらされます。

何者か?
何者でもないか?

「なんでもいい」という感じではないでしょうか。

何者にもなれないと思う際には、一度ご自身を見直す機会となれば幸いです。

それでは、何者にもなれない大切な気づきのお話を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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