生き方

我慢という執着の手放し【手放すと起こる素敵なこと5選】

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海外を旅しているとさまざまな国の文化、人々と関わります。

そこで思うのは、「みんな我慢して生きているんだな」ということ。

どんな環境であれどこか我慢しており、その裏には常に我慢しない人の影が見え、実はその人も我慢していたりします。

我は我の連鎖を生みます。

なぜならばまやかしであり、物事を流し、制し、守り、対処していると思える“正”であるため。

私たち人間は我慢を大切な生きる術として使っています。

「しかし執着、されど執着」

「必要だけど、手放せたらなぁ」ということで。

ここでは、我慢という執着を手放すと起こる済美について言語化していきます。

  • 手放すと起こることを知りたい
  • どうすれば手放せるか知りたい

「やめたいならやめれば?」というものではありません。

一方、「そういうことか!」と気づけば一瞬で手放せるものでもあります。

少しばかしですが、私自身が理解していることがお役立ちになればと幸いです。

我慢という執着の手放し

我慢のメリット

なんでも
なんでも
我慢は人間・社会関係の術として使う重要アイテムであり、生存維持における能力だと考えます。

それくらい誰しもが使っているもの、使いたいもの、使わざるをえないもの。

フランス人は典型的な我慢しない人たちだと私は認識しています。

一緒に働くことが多々ありましたが、彼ら彼女らは不満があれば直ぐに伝え、主義主張が強く、あっという間に辞めていく人もおり、意思の強さと文句の多さは随一の印象です。

我慢しないと物事も感情も上下変動の起伏が激しく、その変動に適応できる人とできない人が明確に分かれ、抑圧されない解放感はありながら、安定的な安息を望むのは難しい点があると思えます。

我慢は大切なアイテム、活かしようです。

子供の頃は自我の芽生えと共に誰しも精神性が低くなり、許容が低い状態です。

受け入れられない現実があれば泣き叫び、喚き、キレ散らかして足掻き、「これ買って!」「はいはいわかったよ」と周りを変えさせることで何とか許容内に収めたりします。

不器用ながらも自分なりに戦い、支配や迷惑、勝手に、感情のままに、時に素直さや愛嬌にてなんとかしようと切磋琢磨します。

しかし、受け入れられないどうしようもできない、何をしても通用しなければ、放心です。

もぬけの殻、ボー。

自己保持できないため、『我慢(という知性)』がニューアイテムとして見出されます

我慢すれば受け入れられなくても物事は流せる、許せなくても自分を抑えられます。

自己防衛の最たる手法になり、欠かせない生存戦略のアイテムになります。

例えば、

傷つかず、自分を護れる。

見たくない現実や事実に留まらず流せる。

不納得や不機嫌になっても周囲に迷惑をかけずに済む。

認識を変える社会性取得、“大人”という枠に入り、不都合を減らせる。

承認欲求を穢す存在や、無用なやり取りによる消費や労力を節制できる。

自力で生存する力がなくても、他の支配化に入り、安定的に安息を得る術になる。

知性の育みになり、社会的優しさにもなり、周囲への順応、従順した姿になる。

…などなど、防衛特化した利益性の高さが目立ちます。

受け入れられない現実が多い環境、争いたくない人、知性が高い人、周りに合わせる才能がある人ほど我慢は能力にもなっていきます。

一方、日本では美徳、他国では義務であり意義の環境もあり、我慢がすぎることも起きます。

因果は隠せなくなってきます。

 

我慢のデメリット

なんでも
なんでも
我慢しなければ不利益を被る、だからこそ我慢することで不利益を被らない利益を得ます。

副作用ありです。

どうしても起こるのが、『自分のために受動的になる副作用』

「仕方ない、こういうものだ」と飲み込んで自我をへし折り、アイデンティティを溶かし、正当化して自己保持に勤しむ可能性が出てきます。

表面的、物理的安息を得ながら、精神内部で小さな天邪鬼ができ、ストレスと疲れが増えやすくなり、人格そのものが変わってきます。

自分を消し、心に閉じ込めた本音や真意が内部で暴れ、溜まり過ぎた蓄電池のように爆発する時が迫る日々。

それを抑止するために発散行為が義務化され、邪気をまとい、快楽エンターテインメント、脳を飲み込んでくれる嗜好品が手放せなくなります。

認めたくない事実から目を背けるのが当たり前という認知の歪みも起き、満たされない自己愛が誕生します。

依存メンタルのことです。

我慢とは仏教では煩悩である七慢の一つ、我の慢心。

執着。

我慢できる人ほど我(エゴ)が強い意味です。
※忍耐力はエゴではないので別物

執着とはまやかしであり、幻想を生きるさまでもあり、顕著な因果となるのがこちらです。

物事の事実が見えなくなる(が見えていると思える世界にいる)。

※自己都合の認識に偏る、すなわち、傾聴、思いやり、素直さ、柔軟性、メタ認知、調和、協調、共有など、[自+他]によって成り立つものが思い込みでしか成り立たなくなる意

自己世界と現実のギャップが大きくなります。

我慢して相手のためにすることは、自分の見たい世界を貫いていると思い込む術になり、問題を直視せずに済む戦略になります。

事実を見えなくし、自分のみが見える世界を押し通す我の固執。

我慢とは我慢を手放すことで初めて美徳性がわかります。

執着を手放すことで、我慢するしかない状態から我慢するもしないも選択できるようになります。

嫌々耐える状態から、自発的に耐える選択ができる時、我慢は自分のためではなく誰かのために使用でき、受動ではなく能動的な行為になります。

それはまるでマハトマ・ガンディーのように。

そんな手放しは新しい世界へ誘いますので、起こることを詳しく見ていきます。

 

我慢を手放すと起こること5選

我慢を手放すと起こること➀:真正なる優しさ

なんでも
なんでも

我慢を継続できた人の美しさは、手放した時に花開きます。

本当の優しさを手にするためです。

誰かのために耐える、与えるために頑張る献身性、忖度のポジティブな一面の提供として光ります。

忖度がネガティブに偏ると、過剰に相手のために自分を抑えるという受動的な犠牲が起きます。

しかし、相手のために能動的に耐える

そんな目的や意思があると必ず自発的な選択があります。

例えば、母が子を想う、大変ながらも生活を楽にするために掛け持ちで働く。

他を想う気持ちがあるからこそ、耐え続けることに笑顔も見える。

「あなたの喜ぶ顔が見たいから」と働く献身さ、貢献、与える気持ちは相手に届きます。

「嫌々あなたのためにやっているの」という気持ちも相手に届きます、返って来るものは天と地ほど別物。

我慢できるからこそ、執着を手放した時には目的を持って我慢という力を活かせます。

この力を忍耐力と言います。

忍耐力には喜びを作る意志があります。

我慢してきたからこそできる育み、意志の礎による献身性、優しさです。

 

我慢を手放すと起こること②:能力と才能発揮、解放

日常生活ではシンプルに重荷になる行為。

「電気代節約のためにエアコンを使わないぞ」「あれぇ、熱くて頭働かないから仕事できません、へなへな」がなくなるさまが手放しです。

なんでも
なんでも
我慢は自らを抑える働きがあるため、どうしても本領発揮が難しくなります。

周りの目を気にして、否定されないように傷つかないように目立たないように、周りに合わせて個性を潰して自我をへし折って…。

我慢を手放すとこの重荷、抵抗、邪魔、出遅れる原因がなくなります。

例えば、試験勉強しているが自宅では毎日両親の喧嘩、怒鳴り声があり、勉強に集中できないけど我慢して頑張る。

こういう在り方は逆境や窮地に立たされた時など、一歩出遅れて取返しがつかなくなる可能性もあります。

私を例にすると、アラスカの森で熊に襲われた時。

あまりに知識がなかったために森でのサバイバル生活は恐れ怯え続けており、毎朝の熊の雄叫びを聞いては、「ひぇええぇ、土に潜っててぇな」と先行きも何も明日生きていることすら見えませんでした。

食料消費を抑えて、白米を一日二口なんて食事だったので我慢しかしていないと思えるほど。

しかし、自分のための経験であり、生きたい意志があると明確に認識したことで執着は軽くなり、熊に襲われた時はひるみながらも生きる気力を爆発させて難を逃れました。

自分を抑圧していたからこそ、手放した時には大きな解放、躍動、なんでもできるのではないかと本気で想えるほどの発揮が起こります。

これまで知ることのなかった本来の力、初めは自分でも驚くことと思いますが、心は知っています。

抑圧のない状態はアイデンティティの一致、軽さと力強さ、もう、飛びます。

 

我慢を手放すと起こること③:感情コントロール

なんでも
なんでも
我慢を多用する上で見過ごせない因果の一つは、自制できていると思い込めるので自制の育みをしなくなることです。

我慢への執着は感情コントロールができないだけでなく、自制から遠く離れます

怒りを上手に扱えないと封印して怒れなくなる、または激昂してアウトオブコントロールになるなど喜怒哀楽が激しくなります。

嫉妬もします、許せない怨念も生みやすくなります。

我慢を手放すと感情コントロール、特に怒りと悲しみの感情を自制できるようになります。

感情が自制されない場合、一人は好きだけど直ぐに寂しくなるという矛盾ができます。

しかし、我慢できることは知性と自力の蓄えであるため、これまで自立の基盤を整えるために役立っています。

手放されると自立に冷静さが加わり、動じない余裕ができ、孤独を楽しむ始まりを切ることも可能です。

感情に支配されないと欲望にも支配されにくく、妄想や空想にハマり、断れず壺を買うなんてことはあり得ないくらい、しっかり客観視できる状態になります。

すると、もし縛られている場合にはここで大きな線引きが起きます。

期待しなくなり、依存心や執着心が減り、「はい離婚!」「もう終わりや!」「あーきらーめたー!」と何か吹っ切れる解放が始まります。

人生の遊び、戯れ度が拡大される狼煙が揚がっています。

 

我慢を手放すと起こること④:ささやかで大きな幸せ

なんでも
なんでも
手放すことは強制ギブスを取り外す感覚があります。

大きく飛躍するような軽さ、普通に生きられることがどれだけ気楽で、シンプルで、有難いことか強く実感できます。

我慢してきた人ほど日常の些細な微笑み、ささやかさを噛み締め、喜びが溢れるほど見出せます。

例えば、友人に騙されて保証人になり、肩代わりに借金返済かれこれ10年。

完済した時の感覚はパァ。

「今月これだけ余ってる!簡単に貯金が増えていく!UFOキャッチャーやっていいの?!」なんて驚きの連続。

普通に買う、普通に働き、普通にご飯を食べることが大きな喜びであると気づける経験が爆発的に始まります。

長年、嫌い合った夫(または妻)と別れ、独り暮らしになった時の解放感。

独りでご飯を食べられる、作りたくないのに作らなくていい心の軽さ、嫌なことを自らに強いない心のドアの開きは、空間に邪魔がいないというだけで涙が出てくる、肌が艶々、目に生気が戻っている。

我慢したからこその恩恵であり、かけがえのない経験の蓄積をドバーンと解放させて生じる化学反応、長年をかけた遊びだったりします。

「社会と労働環境が整っている日本という国は天国だー!」と事実が見えてきそうです。

 

我慢を手放すと起こること⑤:自分スタイルの始まり

なんでも
なんでも
手放すと起こることで特にお伝えしたいのは、自力の高まりです。

依存や執着心をなくすことは、自責・自力・自律の高めなどいわゆる意思のなさ、めんどうを優先する怠惰、自己肯定感の低さに甘んじた正当化などから離れる在り方。

自立という意味もありますが、それは既に前述の通り。

さらに追加して起きるのが、自分スタイルの見出し、確立していく道の歩み、日々の充実の約束

「これが私のやり方、在り方、考え方、生き方である」と。

ここで我慢しない人、もとい、我慢するもしないも選択できる人は凛とするカッコよさを手にします

ブレない歩みを一歩一歩進めるさまには、一歩踏みしめる際の重みが際立ち、動じない強さがあります。

我慢知らずで幸せそうに生きてきた在り方も素敵だと思いますが、その確たるさまや凛とするさまは比べ物になりません。

ジッと相手の目の奥を見るように、人を見抜き見極める力はこれまで育んでいる

人を利用しようとする人や中途半端に関わろうとする人が入る隙間はありません

変な人が寄ってくることも、利用されることもなくなり、「如何に自分が楽しむか、人生をどう歩み、謳歌するか」

何をしてもいい、年齢なんて関係ない、事業を始めても、旅を始めて世界を広げてもいい。

解放、それは起きたことを無駄なく活かす創造の始まりです。

 

我慢を手放す方法

手放すためのポイント

なんでも
なんでも
おさらいとして、我慢とは自己を護りながら貫いていると思える自己保持法。

自我を保ちながら正しいこと、または他のためにしていると思えるあやふやさがあり、成長や向上ではなく、不変による困らない(困っても困らずに何とかできる範囲に収める)知的技法と言えそうです。

「私は長年この会社のために我慢して働き続けてきたんだ」なんて具合です。

そんな内情で見つめたいのはこれ。

自分を変えず、かつ困らずに安泰を得ようとする執着心。

我慢を頑張る人ほど、実際には頑張らないために頑張っている、という見方もできます。

不安をなくすために頑張る結果、我慢する。

※ユング心理学で言う、シャドーと向き合わないための逃避策

ポイントはこれです。

不安をなくすのではなく、安心を得られるように考え方をシフトする。

 

我慢を手放す方法➀:安心へのシフト

これまで:不安にならないため、不安から逃げるため、不安をなくすために頑張っていた

これから:安心を作るため、自分を喜ばすため、自分を大切にするために頑張る

目的を、不安をなくすためではなく安心を作るために変換

これはこれまで我慢してこなかった人はできません。

我慢の利点を知りつつ、汚点を自覚できるほど使い続けてきたからこそ、次のフェーズ『安心作り』にシフトできます。

以上から、我慢を手放すとは厳密にはこのことを言っています。

我慢を手放すとは、自発的に安心を作る自分になる(またはその意識にシフトする)

このためにさらに具体的な方法があります。

 

我慢を手放す方法②:期待されても安易に応えない

他人から期待された時は見返りをしっかり払ってもらう、払わないなら期待に応えない、または期待そのものを減らすことです。

※これは自分が期待する時は見返りを払う、または減らすことも同義です。

・車を借すならガソリンを多く入れて返してもらう、またはプリンを奢らせる

・不安解消のために買い物に付き合わせているなら、ちゃんとパフェを奢る

・飲食店でご飯を食べたのなら、机や椅子は元の状態に戻す

・親にご飯を作ってもらったのなら、感謝する

・子にご飯を作っても感謝されないのなら、自分が子供の時は感謝していたか見つめる

他人に頼る、甘える、願う、欲する、心配する、干渉するのは時と場合に応じて大切ですが、期待するならそれ相応の対価を払うのが前提であり、人間の自然な返報性と因果応報です。

対価を払わない、または払われないと現実が歪むため、許容がなければ誰かが損や我慢しなければならなくなります。

安易に相手の要望に応えない、期待に沿わそうとしないことは現実を歪めないためにも大切です

そして、自らも見返りを払わないなら期待しない。

それでも期待してしまうのであれば、自分のための行為だと明確にわかると思うので、自分を見つめる材料になります。

期待の見返りを払う、または減らすことは不安をなくそうとするのではなく、自発的に安心作りにシフトするための準備活動になります。

ぜひ、お役立ちになればと思います。

 

最後に:我慢という執着の手放し

我慢するもしないも自分の選択になった時、初めて相手のために耐える美しさが表れます。

手放して初めて美徳になります。

社会ではなくてはならないアイテムである一方、執着して頼りすぎることの副作用は多大です。

我慢以上に育んで磨きたいアイテムはこの世にたくさんあります。

どうしようもない人間が近寄ってきた時、嫌々関わり自らのエネルギーを消費するよりも、笑顔であしらって手の平で転がしてあげたっていい。

芋虫をキッチンから裏庭の木に安全に送ってあげてもいいのと同じ。

優しさはアイテムになります。

叱って二度と関わってこないようにする、そんな厳しさもアイテム、たくさんあります。

我慢は執着そのものです。

気づいた時にはハマっている泥沼でもあり、その泥沼を神秘的なキラキラした世界だと思い込めるのも我慢できる人の技になります。

しかし、実相は常に因果をまとうため、継続が長いほどに報いは大きくなってしまいます。

といっても、我慢も大事なアイテムです。

重要なのは、する・しないを自分の選択にして活用できる状態にすること。

「自分のためにしている、相手のためにしている」と明確に認識し、目的を持って、意思を持って、現実を見て行為すれば自他両方のためになる力です。

如何に執着ではなく、活かすアイテムにできるか。

全ては『自分』にかかっていますので、自己を高めるきっかけになることを祈ります。

それでは、ありがとうございました。

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