エッセイ

【自分を愛するって何だろう?】相手を知ろうとする心。

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

子供に聞けばいいと思った。

「自分を愛するとは何なのか?」

この答えを知っている典型は子供、幼い頃の私自身は知っていた。

じゃあ「子供」って何なのかがわかれば、「自分を愛する」ことの意味もわかるかも。

なんて思ったりする。

みなさんはどう思いますか?

自分を愛するとは何なのか…。

ここでは、「“自分”というのは“自分だけ”ではないんだなぁ」を深掘りしていきます。

  • 自分を愛することについて考えたい

愛してやまない己の姿、それは千と千尋に出てくるムシャ食いつくす豚なのか、自分勝手だとわかっていないオーバーキャンディーキッズなのか。

それとも…あれか。

一つの考え方として楽しんでいただければ幸いです。

自分を愛するということ

自分を愛するとは

試しに子供に聞いてみた。

「あのぉ、自分を愛するってどういうことなの?」

「え?ワキャキャキャー、バチャバチャバチャ、バチャバチャバチャ」

噴水から水が出たので即座に遊びに戻った、夢中だ。

もう聞いたことなど頭にない。

ということで、遊びに戻らなそうなタイミングで聞いてみた。

「自分を愛するってどういうことなの?」

「えー、わかんなーい」

なんと。

「あぁ、答えだ」と感じた。

私自身に置き換えても、もし保育園児だった時に同じ質問をされたら、「わかんないと言うだろうな」と想像できる。

忘れていた、わかった気になっていない等身大の自分を。

ということで、「自分を愛するとはわからないことだ!」

となっては私が進まない、面白くない。

これではまるで答えを出しているようで曖昧ににごし、かつ自信満々にそれが正しいと思っている哲学教授のようだ。

そもそも子供を見ていて感じるのは、「今ここ」を生きていること。

それは幸せの基盤かもしれないが、「愛する」は何か違う。

もっとこう抱きしめるような、慈しむような、幸せそのものでもあるが、違いがある。

風が吹いた時、「あぁ気持ちいいなぁ」と感じるのは“今ここ”だけど、風と自分そのものを認識して自然と涙が出てくるような。

花を見て「綺麗」と頭が思うのか心が感じるのか、それとも花を愛で「綺麗」と眼をトロンとさせるのか。

一体何なのかわからない。

ただ言えそうなのか、愛するには対象と媒体を把握した上での“認識の成り立ち(融合)”がありそう。

そんなことからこんな考えが出てくる。

自分を愛するとは、相手と自分を共に理解した認識

深掘りに入りましょう。

 

愛する対象は自分?相手?

恋愛にはロマンがある。

妄想や空想、期待と希望に溢れた夢物語、ピンク色がフワァー。

そして他人利用やエゴの戯れ、いわゆる虚しくて見てられないままごとにもなる。

一方で、愛には現実がある。

妄想ではなく現実

現実には悲しみも歓びもなんでもあるが、虚像や虚しさはない、というより存在できない世界に思える。

頬をバシンと叩かれてハッとするようなリアリティがあり、事前の誓約やルールはなく、自分と相手の融和、組み合わせ、決め合いによる成り立ちが都度都度ある。

そこには夢も希望もロマンもあるが、ちょっとそっぽ向いていたら、「はいちゃんとこっち見てね~キュ」と顔を元に戻される。

千差万別の形ができる。

相手次第で愛の在り方、表れ方、具象が変わり、愛とは何なのか?の見方も変わる。

明確なのは自分一方だけではなく、自分と相手の両方で成り立つこと

すると疑問になるのは、愛する対象は何なのか?

「自分か?相手か?」

『汝の隣人を愛せよ』とキリストの教えあり。

身近な人も愛する大切さがありそう。

自分を愛するというお話だけれども、愛する対象は自分だけではなく自分と相手の両方が考えられる。

それがいい、ということではなく、おそらくそういうもの。

これが意味するのは、自分以外の他をしっかり認識する自分がいること。

この“他”が人であればその人をしっかり感じ、考え、判断し、見つめるその認識。

その認識は自分でしかない。

ということで、相手を認識することはそのまま自分を意味する。

自分をしっかり感じ、考え、判断し、見つめることができれば己を愛せるが、相手のことがなんのこっちゃわかってない、わかっているつもりが無意識に存在する。

「あぁ、なんて可愛い犬なんだ」と笑顔でナデナデしても、触られている猫からすると、「フンッ」と溜め息。

自分は喜べる、けれども相手はそうではない、または違和感。

「私の子は私がよくわかっている」なんてのは典型。

これでは自分を愛せるけれども、愛すれば愛するほど関わる周囲が困る

行き過ぎると相手を歪め、我慢させ、抑え付け、破壊する。

けれども本人は無自覚で、愛しているので良いことをしていると思える。

愛でてるその花は本当は苦しんでいるかもしれない、触っているその木は違和感でいっぱいかもしれない、可愛がっているその犬はずっと心臓当たりがギュウってなっているかもしれない。

こうなると、他と関わらないようにした方がよさそう。

しかし、一人で生きている人も生きられる人もいない、人間にそれはできない。

『自分を愛する』とは自分だけでなく対象である自分以外の“他”の認識があって成り立つのかもしれない。

すると思うのはこれしかない。

知ろうとする気持ちが大切なんだ。

自分の子供を知らないのに、知ろうとしないのに愛することは困難。

それだと子供がいる以上は自分を愛することに制限がかかり、制限しなければ自分はいいが子供を苦しめてしまう仕組み。

己を愛したいだけなのに、はぁ、難しい。

 

自分を愛するとは相手を知ろうとすること

こう考えると、「愛する」というのはとっても不思議。

自分をしっかり認識していれば“自分だけ”を愛せるが、一人では生きていけないこの世では自分だけを愛する行為が周囲に苦しみと嫌悪を売りかねない。

それは森の中で自給自足をしていても同じ。

相手は人だけでなく植物、鉱物、菌、水…と対象は無限にあり、“自分だけ”という限定的な愛し方をすると既に周囲に迷惑をかける

自己利益を得ることだけを考慮した結果、地球破壊しているように。

それを避けようと常識的に正解を振る舞い、批判されない言動で制御する人も当然出てきましょう。

気づけばアイデンティティはなく、見失いながらそれに気づくこともなく、心は消える。

愛も何もない、あるのは脳内のみに映される疑似的情報ワールドキャンディーポップ、それっぽい張りぼて。

それでは孤独は絶対NGになるため、不安と恐怖回避のために誰かを欲し、周りの目を気にして結婚を求める。

シニアで出会いを求めるのは家事をやって欲しいから、ってのが本当にいるらしい。

一方、「相手を大事にしている」と思っても、相手をしっかり認識できていなければ自己世界に縛られる。

相手をしっかり認識していると理想を思うのは自由だけれど、現実として実際に相手を知らなければ自己満足でこれまた対象を困らせてしまう

自分を愛するにも、自分だけを愛するにも、相手を知ろうとする自分(対象をしっかり理解する認識)が要りそう。

そんなことから、自分を愛するとは相手を知ろうとすることだと思う今日この頃。

 

自分を愛するとは知ろうとする心

相手を知ろうとする気持ちが自分を愛する

私自身、対人関係でやってしまったと思うのは、相手を自分の目線で知ろうとした場合

「私のやり方でこの人を知った、知ろう」では成り立たない。

経験上、それは知ったつもりになるだけで愛を遠ざけてしまう。

ここで言う『相手を知ろうとする』とは、相手側の目線で知ろうとすること。

隣人が目の前のリンゴを何色に見えているかはわからないので、これが意味するのはこちら。

➀知ろうとする好奇心

②相手を受け取る気持ち

言い方を変えると、自分の古い価値観や在り方を手放し、相手を知り、受け取ること

と、こんなことから、知ることそのものだけではなく、知ろうとする“心や気持ち”に「自分を愛する」がありそう。

 

知ろうとする心、気持ち

愛には抱きしめたくなる“想い”がある。

それは能動的で情熱的で活動的な気持ち。

好奇のこと。

同時に冷静に見つめようとする“理解”がある。

それは俯瞰的で静的で総合的な見方。

見極めのこと。

自然を愛するから己の価値観を手放してアニミズムを学び、知ろうとする気持ち。

魚釣りを愛するから魚を知ろうとする、海を知ろうとする気持ち。

人間を愛するから海外を旅して人々を知ろうとする気持ち。

何かを知ろうとする好奇心は、それを愛する気持ち。

その愛する気持ちが自分を愛する行為。

猫をただ触りたいのか、その猫を知ろうとする気持ちがあるのか、天と地ほど違う。

どうしても我が子を愛せない、それは知ろうと思わない、知りたくない気持ちがありそう。

または、理解がない、見極めがない、知ったつもりになると自分だけを愛している状態。

愛には好奇の心、気持ちがあり、対象を知ろうとする能動的な行動が出るのが自然かなと。

そのためにも、自分と対象を見つめ、心を整え、余裕を作り、静かに待つ、そんな陰の側面も大切になると思う。

知ろうとする心には好奇と見極めがあり、その行為をしている時がまさに自分を愛している状態になる。

今日はそんな日だ。

 

知ろうとする人は自分を愛している

ちょっとまとめると、

好奇と見極めを持って対象を知ろうとする、そこに自分を愛するがある、という見方。

※細かく言うと、知ろうとするそこには相手の受け取りと自己の手放しがある

例えば、本を読むのが好きな人。

その行為が好きなら好きだけれども、自分を愛しているかどうかは中身が重要かなと。

本の世界、著者の価値観、書き方などに好奇がある人は、その本を、書いた人を知ろうとする。

すると読んでいる内に著者の見ている世界に入るような感覚、それは「私がこの人を読んでいる」ではない感覚になる時がある。

木を触っている時もそう。

「私はこの木を知っている」ではなく、木の気持ちを受け取り、木の認識を感じ取るように触っていると、気づけば木の世界、木のエネルギーに包まれてフワァー。

涙が止まらないこともある。

これにはタイミングや対象の見極めも大切

全部同じ木ではない、愛せる木があれば愛せない木もある、キリストじゃないからみんなを愛せない。

メンタルに余裕がなければ、好奇を感じない木であれば、自分を愛するがなくなってたりする。

すると、相手を愛していると思っていたのに自分を愛していないから、“愛しているつもり”になってしまう。

だから好奇だけでなく見極め、それは自分も相手も両方を静かに見つめる心が欠かせない。

音楽もそう、対象はなんでもそう。

初めは音楽を純粋に愛していたのに、「価値になるように、社会でウケるように」なんてことばっか考えていたら着ぐるみで寝ている、張りぼて化、自惚れ。

「私は音楽を知っている」になり、気づけば音楽を愛していない、なんてなる。

自分を愛していない状態だ。

「知る」人とは知ろうとする人のことだと思う。

知ろうとすることにおそらく終わりはない。

知ろうとする人は、「私が知るんだ」ではなく、「この人を知ろう」になり、認識の対象は明確に相手、そして継続される。

相手に飲まれない、あくまで自分が主体で相手と融合する。

これを、「受け取る」と言うのかな、きっと。

知ろうとする人は受け取れる、受け取る人は自分を愛する、自分を愛する人は相手を愛する。

これを理想ではなく現実にする、その現実を生きている状態がまさに愛する、ということなんだろうな。

だから現実にできている人はあんなに強いんだ、どうりで輝いて見えるんだ。

すごいなぁ。

 

子供が典型、赤ちゃんは見本

やっぱり子供かなと。

感覚的には5歳以下がわかりやすい気がする。

幼少期のあの人達はとにかく知ろうとしており、さらにそれを思いっきり楽しんでいる

幼児になると超越している。

外界の現象を受け取り、相手を知るだけでなく自分を知ろうとしている。

自分の指がブニュブニュ動く、ケラケラケラ!

「手を見ながらムンッと意識した、そしたら指が動いた、キャーウケるー!」なんて思ってんのかな。

こんなにも自分を愛せるのかというくらい愛している、まさに見本だ。

私自分を思い出すと、カマキリとの睨めっこは相手を知りたいから。

だから1時間くらいお互い微動だにせず見つめ合っていた。

これが大人になったら相手が人間になるのかな。

違うか。

子供を観ると、子供時代を思い出すと、どれだけ自分を愛していたかわかると思う。

そこには自分の価値観を押し付けず、現象や対象をそのまま受け取り、「へぇ~」とニコニコしながら納得している姿がある。

釣りの練習を自宅の前でしていた子供の頃、「釣り竿を後ろに思いっきり振りかぶってから前に放るんだ」と考えてビュンとやったら、そのまま後ろにドヒューンとルアーが飛んでいった。

自宅の屋根の上にひっかかり、屋根に登ってルアーを取りに行った時、「釣り竿って面白いなぁ」と笑顔だったことを思い出す。

「うわぁ、失敗だ、クソ」なんて微塵も思っていない。

なんせ自分を愛していたから、ってことなんだなぁ。

「そんな心持ちで人と関われば、その人を心から愛せるんだ、きっと」

と思う今日この頃です。

 

最後に:自分を愛するとは知ろうとすること

知ろうとすることが大事なのは、失敗できるからだと思う。

何が事実かなんてわからない、何が「知る」なのかわからない。

でも、知ろうとすることには能動的な気持ち、心からの想いがあり、愛する対象ほど努力が努力ではなくなるほど頑張れる。

そしてたくさん間違える、失敗する。

受け取れるかどうか、自分を手放せるかどうかに重きがあるので、「知ったつもり」にはならない。

間違いを大いに認められ、見直しでき、静かに待ち、また行動できる。

自分を愛するとは知ろうとすることだと思う。

「知りたい」から知ろうとする気持ちがあり、行動へ向かい、受け取り、最終的には受け入れていく。

初めから受け入れられればいいが、それはおそらく無理だと思う。

知りもせず受け入れたら自分がいなくなるか壊れる、はたまた意図しない支配が起きる。

自分を愛することに支配はなく、見失いも壊れもない。

好奇の躍動と見極める静けさがあり、両者の融合がある。

両者の成り合いなくして自分を愛するはなし。

そこにあるのは自分だけを愛するという別事象。

自分を愛するとは自分だけでも相手だけでもなく、自他共に愛すること。

私とカナブン、あなたと森、彼と木登り、彼女と料理。

さまざまな対象との成り合いに自分という相手がいる。

だから愛とは認識なんだ。

認識は意識、意識には階層もある。

無意識も次元領域も含めて私たちが存在しており、愛はそんな存在を現実として表している。

そんな見方、楽しんでいただけたら何よりです。

ありがとうございました。

今回からエッセイ始めました。

    COMMENT

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です