エッセイ

【どっちを選ぶ?】執着がなくなる時の選択『冷めるor感謝』

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ひらひらと舞いながら宙に向かっていく。

それは解放のお告げ、宴の始まり。

ある事柄に対する執着がなくなった瞬間はお祭りだ、と思いきや、その前に静けさがやってくる。

静かな夜が訪れる時、私たち一人一人には選択が迫ります。

その選択によって執着の価値がこれでもかというくらいわかります。

ここでは、執着がなくなる時に起きる通過儀礼と恩恵を深掘りしていきます。

  • 執着がなくなる時に起きる選択を知りたい
  • 執着がもたらす恩恵について考えたい

せっかくの手放しをものにするか否かは私たち自分自身にかかっています。

エゴを活かして仲良くなるために、一つの考え方としてお楽しみいただければ幸いです。

Youtubeもありますのでぜひご覧ください。

執着がなくなる時に起きる共通点

執着がなくなる前提:冷める(諦め、無関心)

なんでも
なんでも
まず初めに、これが起きたら執着を手放す算段に入ったというサインがあります。

あらゆる事柄、物事、人、出来事に対する執着がなくなる時。

冷めます。

ツーンのスーン、目が棒線一本のスーン。

例えば、恋愛。

「いろいろあったわ、ふっ」「なんかもうどうでもいい」「冷めたぁ」

仕事であれば、「もうこの会社やってられん」「合わないな」「転職しよう」

お金であれば、「金金言うの疲れた」「引き寄せとかもう好きにして」「普通に働こう」

自己啓発であれば、「結局経験が必要ならこういった思想はいらんな」「同じこと言ってるだけだ」

まず冷めます。

目が覚めたのと同じ、夢から醒めます。

これまでは夢という名の妄想や空想、自分の頭の中を見ていた。

脳内で構想したデータの集まりと自分の欲と願いを望んでいた。

頭は膨らみ、データの扱う量も速度も求められるため熱量が凄まじく、疲れやすく、ストレスを溜めやすく、自分を見失う可能性もあります。

情報蓄積とフィルタリングと取捨選択の嵐真っ只中の頭の中にいたため、何かを変えたくても変化はできず、できるのは変化したという思い込み。

理想から抜けて、パッと現実を見ます。

「現実はこれか」と冷静に見つめる、脳内の熱膨張が収まって冷えたさま。

そこには諦めや関心をなくす手放しがあり、自分の脳内データと欲(理想)をギュウッと握りしめて離さなかったのを、パッと離して緩めた情景が見られます。

この冷める状態にあるのは、相手(対象)を認めたということです。

相手を認めるからこそ理想から抜けて現実を見れるため、冷めます。

諦めや無関心とは、対象そのものを認めて初めて成します。

 

例外:冷笑、呆れ、嫌う

執着を手放す、それはギュウッと握りしめていたものをパッと緩めた時。

なんでも
なんでも
諦めや無関心にて冷めますが、似て非なるもの、天と地ほどかけ離れて違うものがあります。

それが、冷笑、呆れ、嫌うことです。

「へっ、なんでこんな所で私は働いていたんだ」

「引くわぁ、なんでこんな人と一緒にいたんだろう」

「考えられん、二度とこんなどうしようもないことしたくない」

鼻で笑い、相手を見下し、自分を正当化する内情があり、相手だけを悪にして自分を正義にする比率が高まるほどこうった情景ができやすいです。

そもそもエネルギーや周波数が同じだからこそ対象と関わるため、相手となる人や物事や職場などを嫌うというのは、そのまま自分の状態や状況を嫌うことを意味します。

何より、呆れや嫌う行為には見栄(プライド)、自分の欲や観念への絶対的固執があり、相手を一方的にダメだとする上から目線と無知があります。

新卒で入った会社を私は嫌いでしようがなかったのを思い出します。

何か酷いことをされたらこういう見方になるのは当然かもしれませんが、その認識は執着をなくすのではなくより強めているため、自分をいじめています。

「冷めた」と一言で表しても、道行きは天国と地獄に分かれるので、この見極めは大大大重要事項。

冷笑は地獄、冷めたのは天国、全く別物なので明確に線引きしておきます。

 

執着がなくなる時に起きる共通点:苦しみの咀嚼

なんでも
なんでも
実際に冷める状態になることで執着がなくなるスタートを切ります。冷めるに至る過程には共通して起きることがあります。

感想を言えるほど苦しみを味わうことです。

とある執着があり、それによって生まれ、感じ、味わった苦痛や辛さをムシャムシャと噛み締め、味わいます。

大いに嫌なこと、辛い気持ち、悲しみ、虚しさ、そして寂しさをムシャムシャムシャ。

これでもかというほどムシャムシャムシャ。

白米をいつまでも咀嚼していると、どんどん甘くなっていくようにムシャムシャムシャ。

しかし、200回以上噛んだら歯が当たるだけで噛む意味もなくなっている、のに噛み続けていたらこれはもう執着、カツカツ。

苦しみは味わい続けると恐怖心に飲まれる、または麻痺させることで苦しみではなくなり、刺激物として苦痛にハマり、不幸を欲し、執着が逆に強くなる方向へ走ります。

執着がなくなる時に起きるのは苦しみは苦しみとして味わい、痛みや悲しみ、寂しさに虚しさをちゃんと吟味すること。

「この苦しみはこんな味だったな」と感想や評価できる状態までムシャついた領域です。

これだけ味わうからこそ自分なりに事物を理解して把握でき、相手(対象)を認められます。

執着を手放す算段に入り、冷める状態に入ります。

 

執着がなくなる時の選択

執着がなくなる時、大きな選択がある

なんでも
なんでも
その事物・出来事・人・自分に対する執着をなくす軌跡には、段階があります。

過去のご自身の執着事を見つめると、そこにも段階があると思います。

苦しみがある
↓
味わうか拒否するか誤魔化すかの選択がある
↓
※味わって冷める
↓
※感謝して解放
↓
次に進む自由な状態

実際のところ執着とは【自分への執着】が全てです。

執着の対象が他人でも物でも出来事でも、実際は全て自分に対する執着。

脳が作っている見え方に限定(執着)する=自分の脳内に引きこもっていると、自分の外側の“他”に執着しているように思えます。

他に執着している= [自分に執着している+自分の認識に執着している]のダブル

冷めた状態は[自分の認識に執着している]が緩まった段階であり、対象への固執がなくなり、自分への固執が残ります。

  1. 冷めた状態で終わる=自分の認識の固執が緩くなった+自分そのものには固執している
  2. 感謝へ向かう=自分の認識の固執が緩くなった+自分そのものの固執も緩くなった

両者の執着度合いの違い、これは本当に大きな分かれ道になります。

 

選択➀:冷めて終わる

なんでも
なんでも
感謝にわざわざ向かうかどうかは人それぞれです。

冷めて終わることは社会的に見ればとってもいい状態だと思います。

冷めたというのは認識の固執が緩まり、これまでの偏った見方や感じ方、観念や信念の固着がフワッとするさま。

抑圧、我慢からの解放です。

「うあー、終わったー!」という歓喜とエール、自分らしさを発揮できる始まりとなります。

「次はいい人見つけるぞ!」「いい会社で働くぞ!」

心機一転、大きな飛躍となるチャンス。

執着という失敗や経験を情報として理解し、内面ではなく外面の波動を高めることができます。

頭を縛っていた紐が解かれたことでの解放があり、より条件を明確にして正解を絞りやすく、掴み取るテクニックも上達し、得ていく利益が増えます。

スナイパースキルアップ、的を射貫く時に赤丸中点に近くなるように、ズキューン。

この世には人も会社もいくらでもあるので次へ次へと向かい、『より良いもの』を得る力が身に付きます。

こういった積み重ねは稼ぐ力にも、モテる力にも、選ぶ力にもなり、一般的に言われる成功する力にできます。

筋トレすると波動が高まるのと似ており、継続的にすることでエネルギー状態を保ち、活力的に行動が増え、知能も高まり社会的に生き方が上手くなります。

「じゃあとってもいいね」

なんでも
なんでも
と言いたい所ですが、気になる点もあります。

波動の高まりや失敗からの学びが本質ではなく外的であり、一時的であることです。

冷めて終わると、外的理解や利益が目立ちやすく内面に目が行きにくい、社会的にはプラス事が多い一方、知らぬ間に自分への執着が潜在下でどんどん増えます。

新たに環境を変えたり、関わる人を変えたりといった変化は起こせますが、一度高まったエネルギー状態を保持する行動をしなければ波動は元に戻り、気づけば同じ執着が勃発している可能性もあります。

そして、在り方や性格や肉体などとにかく自分への執着が強くなるため、自分への固執固着が起き、強烈に離せなくなるものができます。

そんな自分を目の当たりにする時が来るのかどうか、これは年齢経過と共にわかっていきます。

 

選択②:感謝(許し)

実際のところ、冷めただけでは執着はなくなっていません。

握りしめた拳をフッと緩め、中でギュッとされた病的で真っ青な胞子と黒い煙が宙に舞った状態。

まだそこら辺に漂っており、手はまだモワモワしているので再び執着可能です。

この状態で、「ありがとう」と心から想う、心から感謝する、心から許すと、パァ~っと胞子は手の届かない領域へ散ります。

さようなら。

とっても穏やかで安らかな気持ち、静かな心とこれからの始まりを物語る躍動、ワクワクが宴の始まりを告げます。

辛く、寂しく、虚しくなるが、それらを味わった先には解放、自由と始まりがある。

執着がなくなる時、感謝があります。

なんでも
なんでも
感謝に向かう場合、本質的に波動が高まります。

穏やかで静かなる冷熱、内なる光がグツグツと煮えたぎる。

本質的に波動が高まることは、経験値を吸収して変化、成長でき、精神を熟し、人間性を高めます。

大人になるイメージです。

内面からエネルギーが高まると、この高まりを忘れたり抑圧してしまうことはありますが、二度となくなりません。

精神の深まりであり、心そのものが大きくなり、魂を磨いた表れです。

調和、共同体意識の高まり、認識の広がり、孤独への強さ、利他の心、人を愛する許容が大きくなります。

執着していたのが人であれば、その人への尊び、幸せになってほしい願い、祈り。

執着していたのが物であれば、その物への有難さ、大切にさようなら、または大切に使ってくれる人に譲る。

執着していたのが出来事であれば、その出来事からの学び、重要性や意味を噛み締め、今後の糧にする覚悟や重んじ。

こういう人といると周囲が笑顔や学び、成長や気づきをもらえるため、重要な人物になります。

でありながら、分け隔てなく誰しもと関わってくれるので特別感がなく、普遍的で、自然で、凄みがわかりにくいながらもわかる人にとっては明確という不思議な存在です。

人によってはこうなります。

「この会社上手くいったから、あとはあげる」

「お金はもういいんだ、ホームレスになるよ、じゃあね」

「これからは森にこもる、二度と連絡とれない、というかスマホ持ってないんだ、ハハハ」

人里離れて自由を謳歌する、人間離れして宇宙人になる、社会性をぶん投げてふざける。

人によっては社会貢献にて人助けや仕組みの改革など、利他の心に基づく活動が増えもします。

とにもかくにも自然体で、他者への影響力があり、かつ人里から消えたり、人助けに奔走したり、自由に生きるさまが見られます。

そんなさまは多くの執着を作り、多くの執着をなくしていくほどに際立ちます。

エゴの有難みを知るからこその在り方です。

 

執着がもたらす恩恵

なんでも
なんでも
感謝があることは本当の意味でその事柄に対する執着がなくなった表れです。

これによってはっきりわかることがあります。

執着があるから執着をなくせる

一方、冷笑や呆れや嫌うことでも執着の意味が表れます。

執着があるから執着が増える

さらに、冷めて終わることでも執着の意味が表れます。

執着があるから執着が偏る

執着とはエゴが作る囚われた心です。

この世に肉体を持って生まれた以上は肉体に執着するので、厳密には執着がない状態はありません。

しかし大事なことは、肉体を持つから肉体を知れるように、お金を持つからお金を知れるように、自分の付属物にすることで執着になりますが、それは『知る』ための仕組みになっています。

執着を持つから執着を知れる、執着を知るから感謝でき、感謝できるから執着をなくす選択ができる。

・執着(エゴ)は自分をみすぼらしく、外面を貧しく弱らせ、内面を虚しく穢すための材料

・執着(エゴ)は自分を逞しく、外面を豊かに強化し、内面を美しくするための材料

執着を知る人はみずぼらしさも逞しさも、貧しさも豊かさも、共に大切であることを知っています。

どちらを味わうかは私たちそれぞれの選択です。

そしてこの選択ができる状態こそ、他によって楽しいと思わせられる、「これが楽しいんだよ」とインプットされた従順ではなく、自ら楽しむことができる彩りです。

執着はこの世に“自分”という個性を見出し、楽しむための多彩な色を作り、面白さとなる多様性を構築します。

執着に飲まれず如何に使うか、活かすかが重要であることを物語ります。

飲まれれば多様性を押し付けるという、まさに執着のど真ん中で執着を欲する喜劇の始まり。

それもまた飲まれなければ演劇として楽しめる。

執着がもたらすもの、それは面白味、楽しみ、おかしさ、おふざけの原料。

貧しさも豊かさも共に味わえる、この世はなんて辛くて楽しいワンダーランドなんでしょう。

 

最後に:執着がなくなる時

執着がなくならなければ苦しみにも気づかず、虚しい洞窟はどんどん暗くなります。

自分を見失い、エゴに飲まれ、別人のように我を忘れ、精神が弱り、メンタルが虚弱化し、頑張り、我慢し、強がり、見栄を張り、誤魔化し、嘘をつく。

それに苦しみがあるからこそ執着を知れます。

しっかり苦痛を味わうからこそ執着を手放す算段に入れます。

執着を味わうから自分を見失うなどのネガティブな影響をはっきりと体感し、反省や改善など向上の糧にできます。

そして執着がなくなるから本質的に波動が高まり、心が大きくなり、魂が磨かれ、その実感がもたらされます。

人それぞれに選択ができ、そのために人生という時間を与えられている私たち。

執着があるもないもどちらも大切であり、ないためにあるがあり、あるがなければそもそもないがないというややこしさ。

どの道執着はあるに越したことはありません。

なぜならば、人生が面白おかしくなる。

みんなにはみんなの選択、そのための理解、許容があるため、ロボットのように同じことをするなんてあり得ない。

人生十色千差万別、お金持ちもホームレスもノーマルも味わえる面白さ、これぞまさに執着があるからこそ。

執着がなくなる時にはっきりわかる楽しさ、有難み。

それこそまさに解放の先にある自由。

人生って、いいもんですね。

そんな考え方、何かのご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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