エッセイ

「執着は使える」人生を自分で決めちゃう【執着に飲まれない方法】

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突然ですが、「人生は自分で決めたらだいたいそうなるよ」と言われたらどうします?

信じます?

疑います?

どうしてこんな怪しいことを申しているかと申しますと、この世は執着(またの名をエゴ)で構成されているためです。

そもそも執着はなくすも増やすもできながら、根本的にはなくならない。

そのため、執着(エゴ)は良い悪いではなく、活かすか否かです。

執着は使えます。

それは“見方を変える”ために使えます。

ここでは、「人生の見方を執着を使って変えちゃいましょう」という内容をお伝えしていきます。

  • 執着の使い様を知りたい
  • 人生を楽しい見方にしたい

認識を広げる=認識の執着を手放すために、一つの考え方をお楽しみいただければ幸いです。

Youtubeもありますのでぜひご覧ください。

執着の使い方

執着は使える

執着とはエゴによって囚われた心のこと。

なんでも
なんでも
飲まれる状態です。

何かに心が囚われると、自分で自分のことがよくわからなくなります。
※さらに囚われるとわからないことがわかっていない

囚われる対象が誰か他者であれば、その他者のことがよくわからない、かつ、わかっていない自分もわからないという目が回るグルグル~。

執着とは簡単にお伝えすると、わからないことがわからないという無知の知がない状態です。

そしてこの世。

この世はわからないことだらけ、むしろわからないことしかないんじゃないかと思えるほど。

わかっているつもりになればそれはもう全部執着。

わかるとは何か?

「1+1=2」ではありません。

自分が経験して実感したものです。

執着がなくなるとは『知る』状態であり、誰かがそう言ってたと字や音を『インプットする』ではなく、『経験して理解する』こと。

経験を経験として吸収、整理し、力にできる人ほど、執着を知るために手放す選択ができるようになります。

あくまで選択可能状態です。

「執着はない方がいい、ある方がいい」とこれも執着なので、あるもないもどっちもあるのが執着を知る状態です。

そしてこの『執着を知る』状態こそが本質だと考えます。

そこにあるのは執着に飲まれないということ。

荘子にこんな言葉があります。

「物を物として、物に物とせられず」

「物物而不物於物」『荘子』山木篇

物を使いこなし、物に使われない(支配されない)、ということです。

孔子の論語にはこのような言葉もあります。

「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」

(孔子『論語』)

自分の心のままに振舞っても、道徳や社会の規範から外れることがなくなる意味。

欲を抑え込むのではなく、思うままに動いても道を外れない。

欲が「主人」ではなく、自然に選んで行動に移せる状態であり、「選択を現実にできる」という意味合いに思います。

なんでも
なんでも
飲まれない状態になると執着が使えます。

あったらあった、なかったらなかったでなんでもいい。

どちらも選択できる状態に自分をもっていくことが大切であり、自然です。

本題に入っていきます。

 

執着を活かす

なんでも
なんでも
飲まれないと物事の見方が変わります。一般的な見方とは別になります。

例えば、結婚式で感動のスピーチをする算段がある、執着。

感動シーンで良さげな音楽を流し、涙を促す映像を流す、執着。

親御さんとハグ、執着。

娘さんを幸せにします、執着。

死ぬまで一緒にいます、執着。

結婚式だったのか、執着式だったのかもうわからない。

仕事するのもそうです。

この会社に入りたい、執着。

働かないと生活できない、執着。

給料もらわないと家族を養えない、執着。

取引先の人と打ち合わせがあるから行かないと、執着。

仕事しに出勤しているのか執着しに出勤しているのか。

ひねくれあげている見方に思えますが、ひねくれあげています。

一般的にこの世はほとんど執着で構成されているため、飲まれない見方はアウトオブノーマルであり、おふざけ、ひねりパンダ。

そうです、パンダを見て思い浮かぶのは隠れた獰猛さ以上に、周囲は執着だらけだなと。

先ほどの仕事の執着で言うと、釣りバカ日誌の主人公が飲まれていない人のわかりやすい見本だと思います。

あと、芸人さんは執着に飲まれない見方を披露する人が多いです。

それを台本で決めていたら執着ですが、その場で即興する人はまさに飲まれていないさま、執着を活かしています。

執着に飲まれない見方とはこんな感じです。

緊迫したハラハラシーン、あの子を助けるヒーローはやってくるのか?!

ドカーン!

ドアが吹っ飛び、やっぱり助けに来てくれた…

ドアの向こうにあるのは夏のバカンス、キラーンと眩しい太陽とビーチ、エメラルドグリーンのオーシャンで泳ぐのは肌が艶々なブタ、ピチャピチャ。

基本的にふざけているように思えますが、執着に飲まれない状態とは、物事をどう見るか自分で決めるということ。

飲まれなければ見方は自然と独自のものになります。

飲まれれば社会や国がデザインした大衆の見方になり、そこに自覚がないほどそのまま執着の多さを表します。

 

デフォルト:基本的に執着に飲まれている

なんでも
なんでも
この世は執着でできているため、飲まれている状態は生まれた時から独自性みたいな人を除いてデフォルトです。

この前提を把握することが、『飲まれる状態』からの脱却、足枷外しになるかと思います。

さて、文明の進歩と同時に増殖してきたのは、穢れと邪だけでなく執着菌。

元々執着物のごとく構成された私たち、「自分、私、俺」というのが既にそれであり、肉体を持つ以上は既に執着の中です。

そこにさらに社会やテクノロジーなど多岐に渡る『自己保持するための他』が増え、装飾するように外部に執着が増え、「せっかく買った高級車が、あああ」とそれによって内部の執着も増えていきます。

時代はまさに執着期、過去最も濃いグレー色した虚無を持って生きる私たちです。

この執着菌が増えたことで際立つ影響が起きました。

・自分で自分のことを決めなくなった

・自分のしていることに誇りを持たなくなった

・日々、頂いているものの有難みがわからなくなった

何も知らないということ。

何も知らないことを知らないということです。

これは当然だと思います。

私がそうですが、先人の恩恵と欠陥に乗っているだけでは、大きな人間が植え付けてきた情報を基に生活することしかできず、さまざまな事を知っていると思い込むのはいささか自動的。

歴史の教科書がどんどん内容変更していくように、間違った解答でも試験では〇をもらえてきました。

そういう訳のわからない世界におり、そういった正否関係なく、他人が作ったルールや見方を持っていないと生きられないほどか弱く未熟な私たちはそうせざるを得ない時期があります。

それによって生存を図り、身を守れるのでとても有難いものでもあると思います。

ただ、そのままでいたら執着まみれ。

見方は決められたルール一辺倒、自分の見方で何も見ていない、飲まれていることにも気づかない、人によっては「今日も何も考えず居酒屋だ!」なんてことが起こり続けます。

そんな人生は何色か?

大前提、私たちは執着物であり執着菌であり、認識を飲まれた社会生物ヒト科ヒト属ヒト。

執着科執着属執着(ヒト)くらいでちょうどいい。

飲まれていると自覚することが初めの一歩。

物事は既に飲まれないフェーズに向かっています。

 

執着に飲まれないために

執着に飲まれない方法

なんでも
なんでも
執着はしていいと思います。

この世にいる以上、肉体を持っている以上、どの道何かしら執着しています。

重要なのは、執着に飲まれないこと。

飲まれなければ自分で見方を決められ、その決められる状態が執着を活かすさま。

飲まれないための方法はシンプルです。

自分の執着に気づき、自ら執着するか否かを選択すること
※自己観察

誰しも数えきれないほどあると思いますが、特に大きなものに気づくと、あとはそれに囚われ続けるか否かを観察できます。

この観察状態が自分で見方を決める時間(余裕)になります。

例えば、間食をやめられず、ダイエットのためにジョギングしたい人がいます。

ある程度やっても続かず、その事実も見ないように誤魔化してなかったことにする、ポテチパリパリ。

もう執着だらけだとわかります。

例えば、ミニマリストで家を持たない、車が家だと言う人がいます。

合理的でホテル代も浮く、どこでも住める、自由な在り方。

これも執着だらけだとわかります。

例えば、転職を繰り返し、一定期間経つと辞める人がいます。

人が合わない、仕事がつまらない、少しすると飽きる。

これまた執着だらけだとわかります。

そんな自分に気づいて観察すると、継続して執着するものに関して自分で決めているか否かを確認できます。

初めからダイエットなんていらなかった。

なるべく人と関わらない環境を選びたいから損得主義と正当化が合うんだ。

いろいろな仕事による経験ができて、多種多様な人と関われるから面白いんだ。

なんて具合に、自分で決めていれば飲まれていないので執着を活かしています。

活かしているか飲まれているかは、精神状態もメンタルも全く違うステート、何より波動が違います。

  • 飲まれると   …波動が低くなる
  • 執着を活かすと …波動が高くなる

自分で決めずに執着を継続しているものがあれば、そこにある事実を見たくない知りたくない強い執着があります。

それでも継続したいなら、それはそうせずにいられない理由があり、執着したいのかもしれない。

それを自覚して把握すれば飲まれません。

とにもかくにも気づいて、観察して、選択することが自分のためになります。

自分で執着しているのか、何かにさせられているのか。

自分の意志の有無の違いです。

 

自分で世界を作ることができる

なんでも
なんでも
気づき、観察し、選択すると、飲まれずにいられるため、あとは『決める』です。

自分で世界を作ることができます。

世の中の見方を変えられます。

昔シムシティというゲームがありました。

街を自作していくもので、道路や施設をデザインし、人口増加や減少、災害など自然現象を含めて街を進歩、退化とさまざまに変化させる、自分次第のゲームです。

ある人は直ぐに街が崩壊、事件が増えて治安が悪くなったり、魅力がなく人口減少したり、逆に人口が増えすぎて圧迫したり、問題を野放しにして被害が止まらなくなったり。

ある人は街の発展が目まぐるしく、活気があって人が集まりやすく、自然豊かで幸福度が高く、自然との共生ができてお金も人も巡る巡る。

人生もこれに似ていると思います。

自作自演できます。

お金がないという世界にいれば、自分を貧しいと悲観します。

一方、お金がなくても毎日ご飯を食べられることを噛み締め、幸せを感じられます。

自分で決めていれば貧しさを悲観してたとしても、自分がしたいからしているとわかるので悩みではなくなり、その中で些細な豊かさを探す時間が増え、より幸せになることもできます。

自分で決めるので、何をどう捉え、どう感じるかを自分で作ることになります。

そして本来、私たちは自分で作っています。

例えば、私はカナブンが好きなのですが、顔面目掛けて突っ込んでくる頻度が高いので嫌な気分になります。

その嫌な気分は執着があるからでして、「痛い思いをさせられた」「なにもしていないのに攻撃されるなんておかしい」「なんでこうなるの?」と思う私がいます。

全て無知が故です。

どれだけ観察してもカナブンがぶっ飛んでくる理由はわかりませんでした。

ただ、理解しようしたことで自分なりの見方ができ、全く嫌な気分にならなくなりました。

「お、来たなブンブン、避けちゃうもんねぇ、ヒュイヒュイ」

楽しい。

人との関わりもそうです。

自分の固定観念や決め付けなどに飲まれたり、相手に飲まれると無知の沼。

相手を知らなければ執着は増え、いつの間にか苦しく、痛い。

自分で見る、感じる、考える、そんな見方があると飲まれないため、どう関わっていくかを楽しいものに変えられます。

 

人生を楽しいものに決める

なんでも
なんでも
これは私が最近やっていることでして、「生きていることは楽しい」という見方にすると日々にどれほどの幸せや恩恵が溢れているか視える化できるので面白いです。

もちろん、「あ~あ、人生って楽しいよなぁ」と自演して宝くじを買って待つようなことをしても何も起こりません。

自分で決めたからには自分で作るのがこのプロデュースの肝です。

私の場合を例にして、ご飯を食べる時。

腸が弱いのを知っている前提で、食べたいものを食べると決めています。

魚、ごぼう、味噌、ビフィズス菌、イモ類、あと玄米などに強めに執着します。

腸活に執着してまして、ご飯を食べる時は味わうことに執着し、食事を今日も頂けることを思う存分噛み締めるようにしています。

すると自然に感謝が湧き、幸せな気持ちに毎食しつこいくらいなります。

「生きることが楽しい」の自作として食事があり、何に執着しているか自覚しているので、さまざまなことが見えやすくなります。

「私は野菜を一つも育てていないのに、くぅ」

「私は何もしていないのにスーパーがあるなんて、くぅ」

「殿様でもないのに、今日もこんなに贅沢なものを頂けるなんて、くぅ」

「魚の油に野菜の味、芋の味も組み合わさり、菌までもらえて身体にもいい、くぅ」

「あぁ、なんて美味しいんだ」

「なんて幸せなんだ」

「ありがとう」

「今日も味わっていいの?!」

と楽しみが終わらない。

これを人間関係に置き換えることもしていまして。

関わる人、出会う人がいれば、関わりに執着しているのでその時その時を大事にする意識を持っています。

できるだけ楽しい一時にしたいので、会話を試みたり、話しを聞いてみたりを促進し、楽しい場に執着。

気に入った人達の場所があれば、たくさん行くように執着。

飲まれていないのでいっぱい執着しちゃう。

自分で決めたことを自分で作っているさまは人生ゲームのようで面白いもんです。

自分で決めちゃうと、そこにある執着はもはや執着でありながら執着でない。

これこそまさに執着していないと言うのかもしれません。

まぁどっちでもいいですね。

 

最後に:執着は使える

「執着って何なのか?」

考えるとさまざまな見方が出てきます。

ロジカルに見出すものもあれば、感覚的に見出すものもあります。

執着があるから感謝でき、成長があり、波動の高まりがあります。

一方で囚われがあり、悲観があり、コンプレックスがあり、事実の湾曲になります。

執着に良いも悪いもありませんが、飲まれるか飲まれないかで使われ様、活かし方が出てきます。

飲まれなければ執着とは実に面白おかしいものだと思います。

常識や固定化された見方から離れ、一人一人の自分たらしめる『個性』を表す原料になります。

執着に飲まれるとロボットのようにみな同じに見えてきます。

しかし、飲まれなければ独自性の集まりであり、一人一人に人生があり、感情があり、物語りがあるとわかります。

人生を表す上で欠かせないものであり、この世に色を付けるデザイン。

それが執着。

ようは使い方、活かし様。

そんな考え方がなにかのご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

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