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【信じる力は誰しも貯蓄中】自分を信じる方法はスピリチュアルな意識

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自分を信じるとはとても小さなこと。積もり積もった時、大きな力になる。

私達は誰しも日々さまざまなことを経験しており、どれほどの経験値が貯まっているか計り知れません。

「その貯え、いつ使う?」

そんな疑問が浮かびます。

自分を信じる人はこのことを知っています。自分を信じられない人は知りません。

両者の違いは知ることだったりします。

ここでは、自分を信じるための少し違った捉え方を見ていかれてください。

  • 自分を信じる人と信じられない人の違いとは?
  • 自分を信じるとはどういうこと(体験談)?
  • 自分を信じる方法とは?

これらを紐解き、「日々の経験は見えない領域に貯まっているから、あとは使うだけだ」と、スピリチュアル的に知っていただく内容となっております。

私自身の自分を信じる体験談も含めて、「信じる」行為の深みを見ていきましょう。

自らの信仰を見つめる一つの考え方となれば幸いです。

自分を信じる人と信じられない人

自分を信じる人と信じられない人の違い

自分を信じる際に必ず存在する、これでもかというぐらい明確なものがあります。

自責です。

自らの思考や行動を認めて自覚することです。

周囲がサポートとして奮い立たせられますが、最終的に道を進む際には、「本人がどうしたいのか?」の責任と意志が必須になります。

「自分を信じてみよう、エイエイオー」なんて言われても、困っちゃうのが信じる行為です。

「自分」として生きている以上、責任を持って、意志を持つのが普通と思うかもしれませんが、これは恐怖を知らない子供時代に終わってしまう儚いものだったりします。

現実的に不安や恐怖を知り、傷つけられることを知り、思考情報を蓄えて知らぬ間に恐怖回避を優先していきます。

「困らないように、嫌なことが起きないように、怖れと直面しないように」

「自」以上に「他」にフォーカスが向き、期待や執着や依存、他責に他律に他力になっていきます。

おそらく、これが私達の生活環境では自然なプロセスだと思います

知らぬ間に自らの意志を持った、「これをしたい!」という気持ちがなくなり、「したいけどできない、なぜならば」と他の存在や影響に着目した恐怖優位の考え方になっていきます。

ここで、自分を信じる人と信じられない人の違いが浮上します。

自分のコントロールできる範囲を見ているか、自分のコントロールできない範囲を見ているかです。

 

自分を信じる人はコントロールできる範囲にフォーカス

自分を信じられなくする要因が、不安や恐怖など嫌なもの、拒否したくなるものです。

邪魔ですね、しかしどこにでもあります。

誰しも不安や恐怖を拒否していきます。自分を信じる人は恐怖が怖くない、ということではありません。

怖いものは怖い、嫌なものは嫌です。

もちろん中には仙人のような動じない人もいますが、それは特例。

多くは自分を信じるために恐怖と対峙して、克服したり打ち勝つために、戦える(または許容できる)フィールドを選んで挑みます

なんでもかんでも対峙できるのは仙人くらいです。

戦えるフィールドは人それぞれ、些細も大それたも違う、「自分にとって」があります。

「自分にとっての戦える(許容)フィールド」

これが自分のコントロールできる範囲の物事です。

 

自分を信じられない人は自分のコントロールできない範囲にフォーカス

一方、自分を信じられない人は、「自分にとってのフィールド」ではないところで戦おうとする傾向があります。

自分のコントロール外に対する着目

自分次第ではなんともならない物事や出来事です。

「給料よ上がれ」と思う時、「あの上司が評価してくれるか?」「今の会社では難しそう」というのがフィールド認知のないコントロール外です。

能力を高めるために本を読んだり、新しい分野を学んだり、資格を取って副業を始めるなどが、自分のコントロール内です。

フィールド認知がないと、背伸びしたり無理が多くなり、失敗経験が蓄積し、「無理、できなかった、既に経験してダメだった」と思える観念が構成されていきます。

認めたくない経験が増えれば増えるほど自分を信じられなくなり、自から他にフォーカスして、期待や執着が強まります。

すると行動しなくなり、できない理由や言い訳のボキャブラリーが増えていきます。

それでは、自分にとってのフィールドとは何か?

これが、自分を信じる仕組みの始まりとなります。

※危ない人を信じない大切さは、【特徴と見抜き方を厳選】人当たりがいい人の裏顔は信用できない をどうぞ。

 

自分を信じるとはフィールド認知拡大計画

膨大な計画を発足いたしました。

と言ってもやることは非常にシンプルでして、「私には何ができて、何ができないのか」を自覚すると自分にとってのフィールドを知れます。

知れば知るほど拡大していき、自分を信じられるようになります。

例えば、「鳥って可愛いなぁ、よし、庭で鳥観察を日課にしよう」と思った時、自分のコントロール外であることが始めると直ぐにわかります。

「あれ、今日は来ないな」

自分次第では何ともできないコントロール範囲外の物事です。

フィールド認知がないと、「なんか来ないから飽きちゃった」と思いやすく、失敗経験として脳内に蓄積します。

「庭での鳥観察はコントロール外だから、自ら公園や山に行ってみよう」と行動へ向かえるのがフィールド認知。

これをするためにフィールドを知っている必要があるので、自分のできる・できないを認めます。

他次第の物事ではなく、自分がコントロールできることを知ると、信じられる自分が作られていきます。

 

自分のできることを認め続けると信じるのが当たり前になる

「できるできない」を認めます。

特にできることを見つけたり、できないことの中で少しでもできる点を見つけると、フィールド認知は急速に拡大します

例えば、私はご飯の中に入っている虫を見つけるのが得意です。

これは森でキャンプしていた時にハエの卵を食べて食中毒になり、死にかけた経験があることから始まった経験測です。

見つけられずに食べた失敗を認め、自分のできることにフォーカスしてご飯内に虫が入っているか確認する行動へ向かい、少しずつ見つけられる経験を増やしてできることを認めていきます。

「虫を見つける自分」を自然と信じていきます。

今では探そうとしなくても無意識に虫を捉えるようになり、「勝手に虫を見つけてくれるから大丈夫」と絶対的な自分への信仰があります。

どんな些細なことでも、「認める」小さな積み重ねによって、自分にとってのフィールド認知が広がり、信じるのが当たり前になっていきます。

信じる力は知らなかった才能開花にも繋がっていきます。

「お金」でも同じです。少しずつ貯金してできることを認め、「お金を貯められる=お金をたくさん持つ自分」を自然と信じていく仕組みです。

 

『自分を知りたい方へ』

自己理解は知識の習得だけでは本質になりません。
経験と実践を含めて理解がより深まるため、機会をここに提示します。

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※自分を本当に変えたい方のみご活用ください。

自分を信じる意味を知る体験談

上述の内容がわかりやすくなればと思いますので、私自身が自分を信じる理解を深めた体験談をご覧ください。

自責を教えてくれたおじさん

私が小学二年生の時のお話。

学校終わりに学童保育へ友達と二人で向かっている時でした。

道が狭く人の少ない林に囲まれた道路をテクテク歩いていると、道路のど真ん中に5㎝×5㎝ほどの石を見つけます。

「蹴りやすそう」と思った私は、ダッシュして石の元へ向かい、そのままタターと蹴り飛ばしました。

すると前方から車が来ており、蹴った石はタタンカンカンと猛烈な勢いで車の方へ弾けていきます。

「ヤバい!」と思ったのも束の間、向かっていく石は前方から来る車の直前で地面から弾け、ピューと上空へ。

バンッ

車のフロントガラスに勢いよく当たり、車は減速しながら私達二人を通り過ぎて止まりました。

「逃げろ!」

友達の一言ではっとして、とっさに逃げました。

自分のしたことを認めず、恐怖から逃げる。責任を持たないさまそのものです。

しかし、心をギュウっと掴まれているように苦しくなり、車の元へ走って戻ります。

車には50歳代頃のおじさんが乗っていました。

フロントガラスは石の衝撃によって傷がついており、おじさんの前に行って、「ごめんなさい、オロオロ」と考えられないほど泣きながら謝りました。

するとおじさんは静かに言いました。

「きみは一度逃げたね、なのになんで戻ってきたの?一緒に逃げた友達はもういないじゃない」

「ずみばべん(すみません)、怖くて逃げたけど、良くないと思った、ウウウ」

おじさんはとても心優しい人で、怒らず叱ってくれました。

私は幸運にも許してもらい、この件は幕を閉じました。

私にとって重要な経験となり、「認める大切さ」を身を持って感じ、おじさんの寛容と親切心と人間力によって、自責の大切さを学ばせてもらい、信じる意味の理解へと繋がっていきます。

 

認める経験は信じる力になる

私は石を蹴る際に必ず周囲を見るようになりました。

誰かを傷つけてしまう行為だと自覚するようになり、「あ、ヤバい」と思った時に直ぐ逃げるのではなく、「まず、したことを認める」が先決になりました。

まるで逃げてから戻って謝るまでの距離が短くなるように、自らの思考や行動を認めれば認めるほど、認められる物事か否か(責任を持てるか持てないか)の許容がわかっていきました

認める経験は自責の育みになると共に、自分にとっての戦う(許容)フォールドを知る認知を広げていきました。

「私にはこれができる、これができない、これが認められる、これは認められない」

認められないとわかれば、初めから立ち向かいません。

「信じるとは、自らを認める経験によって、責任を持てる許容を知ることなんだ」と理解していきました。

できるできないの自覚が増えると、「これだけならできるかもしれない」とできない中でのできる可能性も見えてきます。

「突然リーダーになるのは無理だけど、私のできる一人一人の人間性や能力把握ならできるかも」という具合です。

自分にとってのフィールドに詳しくなっていくと、コントロールできないことに関心を向けず、自分次第の範囲にフォーカスしていき、より認める経験が増えて向き合える物事が増えていきます。

より認められる行動に集約されると成功体験に繋がりやすく、認める経験の蓄積は信じる力(責任と許容範囲を知る自己理解)になっていきました。

 

自分を信じる方法:スピリチュアル

自分を信じる方法①:信じる貯蓄を使う

「これは私にできるかな?」と初めはわからず、不安になるのが当然です。

子供の時はわからなくても行動します。責任を持たずとも意志があり、恐怖から逃げる以上に喜んで笑う選択を迷いなくします。

成育や経験と共に責任を持つ必要性が増え、あらゆる制約やルールや縛りの中で、意志以上に恐怖のない状態を望むようになります。

恐怖心が煽られて、向き合いたくなくなり、行動できなくなります。

しかし、経験してわからないことをわかろうとできるのが私達人間です。

経験は全て自分を信じる力となります。

それでは物事を知る経験を増やしましょう、という内容ではありません

ここでお伝えしたいスピリチュアル的な考え方は、日々知らぬ間に経験しており、全て信じる力になる材料が貯蓄中ということです。

自分を信じられないとは、信じる力の貯えを使っていない状態だと考えます。

自分を信じる方法とは、この貯えを使うことです。

 

貯蓄された経験を認めると、自分を信じられる

スピリチュアルな理解を含めると、意識に基づく経験測という考え方があります。

顕在的でも潜在的でも私達は意識体として存在するため、認めていなくても経験は経験として蓄積されています。

方法は、自分のコントロールできることにフォーカスして、「私にできるのはこれ」という自覚を増やします。

貯蓄した経験は認められるのを待っています

認められて初めて存在でき、見えない貯蓄は信じる力として具現化します。

まるで、五日前に何を食べたか思い出すと、その時の美味、幸福度、心地良さをもう一度体感できるような。忘れるとなくなってしまったかのようなイメージ。

経験は意識内に常に存在していますが、認めるか認めないかによって経験値になるか否かが変わり、認めると経験値として吸収されます。

認める範囲が広がると、自分の世界は自分で創造しているとわかり、自分を信じるのが当たり前の状態になります。

 

自分を信じる方法②:主人公意識

認める際に主人公意識を持つと信じやすくなります。

主人公だと思えれば思えるほど、目の前の物事も出来事も人生も、全て自ら創造していると思って疑わなくなります。

ここに社会性や地球上のルール、三次元概念の常識、肉体駆使の言動制限など、さまざまに自分以外の他による制約や制限があり、控えめな主人公認識が構成されます。

中には、「私が主人公なんてめっそうもありませぬ」と強めのお控えがあり、主人公でない場合は自然と他の影響が主体になるので、認める行為がなくなって責任が持てなくなってしまいます。

認めるのではなく得ようとし、自分のコントロール外へのフォーカスが強まります。

私がこの世を創造している、私がここにリンゴがあると認めたから存在している

このように思えれば、自分を信じるのが当たり前になります。

しかし、注意点があります。

 

注意点:他を排他しない

この世を二分化すると、[自分 or 自分以外の他]になります。

私達は毎日あらゆる経験をしていますが、自分一人だけで経験できるものがほとんどありません。

「ダンゴ虫さんは触るとコロン」と知る経験は、ダンゴ虫がいるから、土があるから、地球があるからできます。

この他と関わる前提環境で生きている私達は、経験を認める際には他との関わりも同時に認める大切さがあります

注意点は、「自分だけ」と限定して認めようとする場合、知らぬ間に他を排他してしまうことです。

上述の体験談では、おじさんとの関わり、叱ってもらったこと、フロントガラスの傷も認めた上で、最終的に自分を認められます。

「ちぇ、なんだよおじさん」と認めないで自分だけ認めると、うぬぼれや勘違い、主人公認知は思い上がりで限りなく狭い世界を作り、主人公だと思えば思うほど裸の王様になってしまいます

例えば、「スピリチュアルな概念では善悪などない、宇宙規模で捉えればこの世の善悪は思考による一過性ルールに過ぎない」と思う場合。

何をどう解釈しても自由だと思いますが、それだけ(またはそのルールを貫く自分)を主張するとこの世の既存善悪ルールを否定・排他する可能性があり、自覚がないので排他する自分を認める責任を持てなくなります。

すると、都合の良い見方をするようになりながら、気づけなくなります。

自分を信じるとは、自己都合の思い込み世界を広げる悪徳にもなり、本人にとっては満足や納得を得やすいですが、一歩間違えると限りなく生きる世界を狭めてしまいます。

※この状態になりやすいスピリチュアル信仰は、【見極めポイント】スピリチュアルの危険性は大切なことを教えてくれる をご覧ください。

 

自分を信じる力 まとめ

自分を信じることは悪徳にも善徳にもなります。

どうせならば善徳にしたいものですので、認める行為は一切排他なしが良き塩梅。

これは自他共に疑わない意味です。

信じるとは疑いをなくすことであり、自分に対してだけでなく他に対してもなくすポイントがあります。

他との関わりによって自分が存在することや、経験できる事実があるため、自分を認めるとは自他共に排他しない(または他を忘れない)意味。

他を忘れずに自を認める時、敬いがあり、愛があります。

愛を認知した時、自らを信じる行為は希望を見る姿勢をもたらします。

どれほど絶望であっても、希望を見据える信じる力。希望を持って光を見つける自分を自然と認めています。

自分を信じることは、希望へ誘う勇気と認識であり、経験を認めて自らのできることと向き合う力です。

私達には一人一人できることとできないことがあります。

自分にとってのフィールドを知るか知らないかは、経験を認めるか否かにかかっています。

あらゆる経験を経験として活かすためにも、「自分のできることは何か?」を自覚する大切さがあり、理解の深まりの先に信じる力が付帯されます。

貯蓄され続けている信じる力、ぜひ使っていきましょう。

信じる力を使ってより経験値を増やす好循環。そんな信仰リッチを作る一助となれば幸いです。

それでは、自分を信じるスピリチュアルな考え方を終了します。

最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。

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