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優しさと狂いのインド一人旅。人生観が変わる理由は狂った僧侶

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インドで一人旅をしているとさまざまなハプニングが起き、それは時に修行とも呼ばれ、人生観を変えます。

ハプニングは経験となり、旅の珍事となり、そして[狂う?or変わる?]の選択が起きます。

狂う場合には人生観は変わりません。

しかし、狂った現実を飲み込んだ時、人生観は変わる不思議な魅力がインドにあります。

インドにはさまざまな修行者がおり、人それぞれに苦しみの解放を求めますが、苦行の価値観とは離れた日常生活に人生観の真意があります。

日常生活で人生観が変わるという、なんともありがたい気楽な奇人の集りが恒常化。

それはインドならではの混沌であり、さまざまなことが入り混じりながらも調和する、受け入れの気持ちへ誘う人生を考えさせられる環境です。

私がインドを一人旅する時、ヒンドゥー教僧侶との出会いがありました。

僧侶から学んだことはインド人の慈悲と優しさ、のはずでした。

しかし、ハプニングを挟むことで修行の時間となり、危うく悟るところであり、危うく人生を終えるところでした。

体験して実感した、インドでなぜ人生観が変わるのか、そして変わるのか変わらないのかの違いを知りましたので、お楽しみください。

インド一人旅での人生観の変化

人生観を変える出会い

2016年2月、私はインドにて一人旅をしており、瞑想の修行をするために、ある瞑想施設に向かっていました。

その施設のある街はインドのカーンプル。

大きな街ですが、街から離れ、郊外を離れ、ガンジス川沿いの村の集落に辿り着きます。

集落の家は土と動物の糞で作られており、昔ながらの作りの家がちらほらと点在し、広く田園が広がる畑一面の場所。

集落を超えてガンジス川沿いに向かうと、そこに瞑想施設があり、宿泊をさせてもらいながらの修行でした。

街の宿泊場と警察との兼ね合いにて宿泊することが困難だった私は、瞑想の施設に入れる数日前だったのですが、施設の近くへ向かい、その周辺でテントにて宿泊することを決めました。

集落を抜けて、施設をガンジス川近くに見つけます。

辺りは田んぼと川と数軒の家が立ち並ぶのみ、自然しかないその場所で、「テントをどこに張ろうか?」とトボトボひとりで歩いていると、畑を耕している一人の男性を見つけます。

男性はのぺーっとした背の高いインド人。

ヒンディー語も集落の言葉も話せない私は英語で話しかけますが、その男性は言葉を話せない人でした。

私がノートを出して書く素振りをすると、どうも書くこともできないようです。

ジェスチャーでテントのことを説明するが、「何だこれは?」と不思議そうに、テントと三角形を表すジャスチャーをしている私を見ています。

ジェスチャーで合わせた手を顔の横に置いて“どこかで寝たいこと”を表すと、「あっ!わかった!」という顔で、私を手招きしてある場所へ連れて行ってくれました。

それは近くに建っていた家の牛小屋の隣、畑仕事用の鎌や荷車を置く小屋。

小屋に場所を作ってくれて、「ここで寝ていい」と促されます。
※後に知ったのですが、その場所はそのおじさんが寝ている場所

小屋に荷物を置き、「ラッキー、テントじゃなくて寝る小屋を与えられた♪」と喜んでいると、そこに現れたのが私に人生観を教えてくれるヒンドゥー教の僧侶おじいちゃん。おじさんの雇い主でした。

僧侶のおじいちゃんは長い白髪をグルグルと頭に巻き、長ーい白髭を生やし、オレンジ色の布で体を捲った“いかにもヒンドゥー教僧侶(略称、以下グルジー)”の風貌です。

グルジーは牛小屋の家の持ち主でもあり、雇い人のおじさんから私のことを聞き、見ず知らずの私に、「家に部屋を準備しましょう。食事も用意しますからゆっくりしていってください」と英語で話してくれました。

畑仕事をしていたおじさんと出会ったことで、グルジーとの出会いがもたらされ、私の人生観は少しずつ変化していく道を辿ります。

 

人生観を変える日々

数日の滞在の後、私は施設の瞑想修行が始まり、グルジーの家を出て施設に宿泊させてもらいながら修行に取り組みました。

そして修業を終え、挨拶のためにしばらく振りにグルジーの家に向かいます。

再度、家での宿泊を招いて頂き、グルジーとのインドでの日々は人生観を変える時間となっていきます。

グルジーと共に牛の世話をしたり、神様への祈りを一緒にしたり、ガンジス川で清めをして過ごします。

食事は同居のおばあちゃんに野菜で作ったおいしい料理を振る舞って頂きます。

その後、結婚式に参加するということで私も招待してもらい、結婚式にカーンプルの街へ戻り、グルジーの知り合いの家で宿泊をさせてもらいながらい、盛大で豪勢ないくつもの大きなパーティに何日もかけて参加させてもらいます。

見ず知らずの日本人が、大家族や知人何百人以上も居る中に紛れ、僧侶の隣に座るので常に一番前のど真ん中にいる、100%「ん?誰?」となる不思議な状況を作り続けます。

さまざまな経験は人生観を変えていきました。

それは人生の価値観という意味で、自分の人生の見方や捉え方である脳内の思考力を育む状態でした。

さまざまなことを経験させてくれたグルジー、最後のお別れの際に、インドで人生観が変わる意味を教えてくれる経験が待っていました。

それを別名「修行」と言う。

そんなことは、その時まだ知りませんでした。

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インドで人生観が変わる体験と理解

僧侶との別れは人生観を知る

私は瞑想の修行を終え、僧侶とのさまざまな経験の時間を終え、再び一人旅としての移動を再開することにしました。

最後の見送りとして、グルジーが街にあるバス乗り場まで車で送ってくれます。

ガンジス川近くの僧侶の家から街へ向かうために、グルジーの車である黄色くて小さいインド製のマニュアル車に乗り込みます。

インドでの車の運転は、人生観を変えるか二度とインドに来なくなるかの選択をさせます。

初めに、助手席側に乗り込むグルジー。

「あっ、こっちじゃない」と運転席側に周るグルジーを見て、普段は運転してもらうので、自分で運転していないとわかります。

私は、「運転しましょうか?」と聞くが、グルジーは、「No problem」と言い、運転をしてくれるようです。

鍵を差し込むと、ガッタンガッタンと車が揺れ、エンジンを掛ける前にエンストするという初めての状況に驚きます。

グルジーに再度、「運転しましょうか?」と確認するが、「No problem」と言います。

なんとかエンジンがかかり、土で作られた集落の一本道を走ります。

速度が10km/h。

とても遅い運転で、集落をゆっくり抜けていきます。あまりに遅いので、集落の人々が家から出てきて、物珍しそうに私達の乗っている姿を見てきます。

私が集落の人でもそうします。過去外国人が一人も来たことのない集落を、ゆっくり動く小さな車にインド人僧侶と日本人が収まるシュール。

そしてエンスト。

エンジンをかけようとしてさらにガッタンガッタン。

グルジーは、「久しぶりの運転だから、慣れてきた」と言い、運転を変わるかを再三聞いても、「No problem」だそうです。

一本道なので、途中で反対側から来た車が路肩で停まり、こちらの車が通り過ぎるのを待っています。

ゆっくりと通り過ぎますが、グルジーは待ってくれていた車の運転手とすれ違いざまに目も合わせません。

そして、クラクションで軽く感謝のサインと思ったら、「フアッアアン!!!!!」と力いっぱいクラクションを叩き鳴らします。

助手席の私でさえ、「うるさっ!」と本気で思うほど鳴らすグルジーは運転に集中しまくっている状態で余裕はありません。

その様子が一切顔に出ていないのでわかりませんでしたが、ここで、「結構手一杯」であることを知ります。

これは既に人生観を変える時間に入っています。

グルジーにはグルジーの人生観があり、私には私の人生観がありますが、これからその人生観は崩壊し始めます。

何とか集落の田園地帯を抜け、ここから片側3車線の大通り。

この大通りを真っ直ぐ行けばバス乗り場に到着してお別れですが、インドの交通事情は常識を超えています。

さすがに、ここからはグルジーの運転では危険過ぎるので、私は強めに「グルジー、ここからは私に運転をさせてください!」と言いますが、「No problem」です。

「いえ、どうしても運転をしたいのです!」と、心配からのお願いではないように理由を変えて責めますが、「No problem」

仕舞には、「ダメじゃ!私が運転する!」と言い始めます。

“どうしてもお客さんには手を掛けさせない”というインドの慣習があるようです。

私は諦めました。

あとはこの大通りで何も起きず、無事にバス乗り場への到着を願うのみの精神修行スタート。

 

インドでの車の運転にある人生観の解説

ついに大通り、ここから私の人生観の理解も加速されます。

僧侶はゆっくりと右折して大通りに入りました、“ガッタンガッタン”

いきなりのエンストです。

後ろからの車がクラクションを鳴らして怒っています。が、グルジーは全く焦りません。
全ての動作がゆったりと、一つ一つを目視確認し、エンジンを駆け直して出発です。

少し速度が早くなります。

私は、「おー早くなった!」と安心しますがここはインド、100km/h以上の速度でビュンビュン飛ばす車しかありません。

クラクションの波が止まることなく後ろから鳴り続け、猛スピードで追い抜いて行きます。

追い抜かれる際に、通り過ぎる残像がほとんどないほど一瞬で追い抜いて行きます。が、グルジー全く焦りません。

私は集中できず終始後ろを振り向きながら、追突されないか心配です。が、グルジーの周りには車がいないかのように、グルジーは焦りません。

これは私の人生観、単純に死にたくないんです。

命に執着して、今の生活に依存していることを教え、追突されればどうなるか容易に予想できてしまうこの状況では、私の人生観はネガティブな思考に苛まれています。

私は隣にいるグルジーの様子を見て、「焦る必要はない」と想い目を瞑ります。

瞑想の修行をした後なので、ここで精神を落ち着かせ、インドでの日常修行に集中します。

クラクションが鳴り響き、クラクションの音のみが余韻で残ります。このクラクションの音も私の中から消えていき、平静が心の中に生まれるのでしょう。

「全てがゆったりとしていく」……“ガッタンガッタン”、エンストです。

車の揺れで目を開けると、そこは交差点。

この交差点、片側3車線、両側6車線、左右からは片側2車線、両側4車線。

信号がありません。交通整理の警官も誰もいない、インドの日常のようです。

交差点のど真ん中は、車がグッチャグチャ入り乱れ動きません。

誰も道を譲らないのであらゆる隙間がなくなっていき、メチャクチャ。

クラクションが鳴りやまない交差点、一向に進まない車。

なんと、グルジーも猛烈にクラクションを押しています!

「とりあえず鳴らしとく」というレベルではなく、他のインド人同様に猛烈に鳴らしまくっているグルジーの人生観は私には何も理解できない、もう許容オーバー。

そして、急に運転の様子が変わり、隙間に突っ込んでいきます。

瞬間的に車のエンジンが「ヴォン!」とうなりながら前進。そして、ガッタンガッタンとエンストで停まる。エンジンを駆け直してクラクションを鳴らしまくる。
「ヴォン!」「ガッタンガッタン」「ファーンファンファン!!!」

その後も繰り返し続く一連の動きと運転の光景。

どういう心持ちなのか、もうわかりません。

グルジーは瞬間的な運転が好きなのでしょう。超短距離では、猛烈に早く感じます。

交差点のカオス、ほんの少し隙間が生まれればそこに突っ込むインドの車とバイクとリキシャー。それを繰り返しているグルジーは他の車を少しずつ抜いていき、いつのまにか交差点の中心にいます。

「何回エンストしているんだ?」と疑問もあるが、巧みの運転技術で少しずつ前進、周囲の車のクラクションの矛先は私達の車に対してなのか、もうわかりません。

そして、ついにカオスを抜け出します!

「30km/hで抜け出した!」と思ったら、抜け出た車線は一番早い追い越し車線。車線変更をする概念はなく、再び10km/hで走るグルジー。

やはり、グルジーの周りには車がいないかのように焦りません。

この時、私は修行の成果から気づきます、「グルジーの人生観で観ている世界に、ビュンビュン追い抜く車はいない」と。

グルジーは絶対に焦りません。

私は後ろで事故が起きていないか、焦りながら後ろをキョロキョロ見ていましたが、交差点での所業を観たらもう焦る必要などありません。そして気づいてしまったので、もう焦らない。

ここで私の焦りや心配事に対する人生観は変わりました。それは自らの意志で物事を理解して、自分の意見として人生を観た瞬間でした。

100km/hでビュンビュン行き交う道路の一番早い追い越し車線を10km/hで走るグルジー。それをお構いなしにクラクションと共に抜いていくインド人。

気のせいか途中から一度もクラクションを聞いた記憶のなくなる私がいます。

ここインドには不思議なことがたくさんあり、人生観を変える観方があります。

 

インドで人生観が変わる理由

その後もゆっくり運転して走り続けた車は、無事にバス乗り場に到着し、修行は終わりました。

当初の焦りが嘘のように、平和となっていく車内。

そんな車内と車外とのギャップを感じ、この世の創りを少し知ったような気がします。

そこには、自分の人生観を持って物事を自分の眼で認識しているグルジーの姿があり、起きている物事に集中できない私の、他の存在を主体とする人生観の認識がありました。

人生観を自分の眼とするために、全ての主観と主体を自分にして、周囲や他者の影響を受けずに今という瞬間を認識して生きる人生観への学び。

インドで知る人生観 : 経験することで自分の眼と頭で認識を作り、物事を受け入れることで自ら生み出す人生の観方、俯瞰性。
※今この瞬間に起きていることにのみ適応できる人生の観方

今目の前で起きていることを受け入れると、俯瞰しているように自分や物事を観察します。

すると、自分の人生観としての観方を自分の眼と頭で生み出します。

今起きていること以外の過去や未来は、脳で思考をして予測や空想をしなければ作り出せないので、物事を俯瞰したり観察したりができません。

その為、思考的に人生観を変えることは一時的なものとなってしまい、元の生活に戻れば、以前の強い記憶を優先して人生を生きて人生観は変わらずに戻ります。

しかし、元の生活に戻ってもインドでの経験や物事を受け入れて、今という瞬間を認識する生き方をすると、自分の眼と頭で物事を観察して理解していきます。

人生観が変わるか変わらないかの違い : 起きる物事を受け入れるかどうか

 

インドの人生観を変える体験 まとめ

私達がバス乗り場に到着した時、お互いに顔を見合わせて笑っていました。

そこにはさまざまな想いが含まれます。

そしてグルジーは私に、「No problem」と言ってきました。

人生観によって観ている世界が違い、そこに少し参加できたような気がした瞬間でした。

何かを感じ、理解する。

瞑想の修行を終えた後だからこその体験であり、瞑想による区分けと集中と冷静さがなければ、成果を得られない時間であり、修行は続いていたのかもしれません。

人生観を理解していなければ心配と焦りが止まらず、最後の「No problem」の意味も理解していなかったかもしれません。

むしろ、「No problemじゃないわ!」と僧侶に突っ込んでいたところです。

最初から最後まで良い経験を与えてくれたグルジーは、自宅の隣に宿泊施設を自費で作り続けています。
昔は海外を講演しながら周っていたそうですが、今では、ガンジス川沿いの集落の一番奥の外れで、カースト制度で学校にも行けない人達を雇い、野菜や牛を飼い育てながら生活をしています。

グルジーに宿泊施設のことを聞くと、いつも楽しそうに、「ここには外国人でもインド人でも、誰でも自由に宿泊できる場所を作るんだ。ここにはいつまででも好きなだけ居て良い。そして食事も全て無償で提供するのだ。みんなが喜ぶ場所をここに作るぞ私は!」と教えてくれました。

その集落や村には外国人は来ません。私がこれまでで初めての外国人だったようです。それでも外国人が来ることを信じ続け、誰でも無償で宿泊できる施設を作ることを現実として叶えています。

現に私という外国人が訪れていますから、グルジーの想いは次々と叶っていくと、心から信じています。

起きる現実は自分の人生観によって決まるのかもしれません。

何をどのように認識するかが重要で、インドは苦行荒行に限らず、さまざまに修行と捉えられる環境が日常にあります。

グルジーのように焦らないのは、グルジーを焦らせる存在がグルジーの周囲にはないと認識している人生観です。

自分の人生を焦らないものと俯瞰して観ているので、焦るような現実は引き寄せられないことを知っているのかもしれません。

喜びを認識する人生観があれば、喜びが目の前に現れ、自分が喜ぶ結果が伴うという仕組みです。

グルジーが、「これはまずい」と自身の修行状況(運転)をネガティブに受け取る人生観があると、焦ることが目の前に現れ、グルジーが焦る結果として車の事故が起きそうになったり、起きたりする結果が伴います。

「No problem」の微笑みから学んだことは、インド人の寛大さと受け入れの人生観を物語る、日常にある修行の成果でした。

インドでの一人旅では、インドならではの人生観を変える時間があります。

インドの僧侶が運転する機会があれば、私は乗りません。次は絶対に乗りません。

グルジーに「No problem!」と突っ込まれそうですが、絶対に乗りません。

狂うか受け入れるかによって、人生観が変わるかどうかが分かれます。

思考的に記憶するのか、受け入れるのかによって人生観が変わるかどうかが分かれます。

ぜひ、インドでの日常生活を自分の眼と頭で観てください。変なことばっか起きますが、抵抗することを諦めて、受け入れてみてください。

きっと楽しいことがあると思いますよ。

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

POSTED COMMENT

  1. ゆうた より:

    北斗さんの旅の話どれみても笑えます😂

  2. くれるん より:

    すごい。心があったまるというか

    なんか すきだなあ 

    人に話しかけることができるのは 尊敬。

    コミュニケーションをジェスチャーでもしようとおもうのも

    ほんとうにすごいと思う

    人と人との繋がりが強いというか、

    ほんと尊敬しかない(語彙力はもともとない)

    うちもそうなれるように いやそうなりたいなあという

    思いが湧き上がってくる。

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