心理と特徴

【鬼の厳しすぎる愛】本当に怖い人の特徴は優しい【体験談】

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ガタガタガタガタ…。

と、と、止まらない震え。

泣くこともできない過呼吸、息がうまくできない。

「怖い」と言うことも、考えることもできない。

なんせ、目の前に鬼がいる。

私の子供時代の大半を占める思い出です。

「怖い」とはどういう感情なのか?

いろいろあると思いますが、おそらく本当に怖いのは死ではありません。

それでは一体なんなのか。

ここでは、本当に怖い人の何が怖いかを紐解き、表れる優しさという謎に迫ります。

  • 本当に怖い人の怖さを知りたい
  • 怖い人がなぜ優しいのか理解したい

「鬼の目にも涙」の真意とは。

鬼を洞察し続けてきた人生。せっかくの経験なので、人間理解を深めるご参考になればと思い、共有します。

幾分か、世間から浮世離れした内容ですので、一つの考え方として気楽にご覧ください。

本当に怖い人の特徴

【体験談】本当に怖い人の怖さとは?

初めに、私が体験した恐怖との対峙、その際の気持ちをサラッとご覧ください。

父は、私がこの人生で出会った中で最も怖ろしい存在です。

熊に襲われたことがありますが、それを凌駕する怖さ。

「どうしてそんなに怖かったのか?」

私の中にある恐怖心を際限なく引き出す人でした

例えば私が子供の頃、鬼の形相でキラッと尖った〇丁を突き付けられ、怒鳴られ続け、過呼吸で失神しかけたことがあります。

この時の怖ろしさは、「こ〇される!」と思った危機ではありませんでした。

自己コントロールが完全になくなり、パニックにて何もわからなくなった状態。

自己を喪失する真っ只中をまざまざと体感し、完全なる孤独を味わうことに対する、「怖い」

まるでそこにいた自分がパッと消えてしまった。

私はそこにいるのにいないことを痛感させられる。

何がどうなっているか、どうすればいいかもわからず、ただ自分がいたはずなのにいないことで完全な孤独を感じ、対処もできず、かつその恐怖を引き出され続ける。

「地獄ってこんな感じかな」と。

当時はわかりませんでしたが、この体験を今洞察するとわかるのは、恐怖とは自己内部にしかないことです。

ガチ鬼が怖いのではなく、自己内部に巣食う恐怖心がベロベロベロと留まることなく引き出され、それに抗うことも何もできない状態が怖い。

自分を見失う過程をまざまざと見せつけら、喪失感と危機感、無知と虚無を味わいながら、一切防衛できないリアル体感。

この状態の継続によって恐怖心は止まることなく私を包み、内部に浸透し、心が灰色に染まっていく過程をただ見続けなければなりませんでした。

泡を吹いて、やっと終焉です。

 

本当に怖い人の特徴:心を失う危険性を味わわせ続ける

上述の体験談において、凶器や脅しはあまり重要ではありません。

「怖い」と脳が答えを導き出す材料にはなりますが、リアルな怖さの体感「感じ」ではなく、幻想と想像域の脳内巡りである「思い」ですので、脇役、サラダのキュウリみたいなものです。

リアルな怖さとしてお伝えしたいのは、恐怖を感じる心そのものを野ざらしにして、失わせる危険性を味わわせること。

イメージは、心臓辺りに手を突っ込まれ、心をビチョと取り出し、それをバチャと投げられ、そのまま放置、絶対に近づけないようにされる。

そこは山ヒルのいるジャングル。

心に近づく山ヒルは土足でのぼり、血を吸い込むように生気を吸いながら中に入り込んでいく。

本当に怖い人の大きな特徴は、この状態でも心を取り戻させません。

かといって、心を失わせもしません。

心を喪失しかける恐怖を見せながら、抑えつけて何もできない無力を感じさせ、かつ完全に失わせない。

これを継続すると私たち人間は自己防衛によって失神、意識を抜いて無感情に、別の意識を介入させて多重人格になったり、闇落ちしたり、抗えない現実から逃れるための手法があります

本当に怖い人はこれをさせません、一切逃げさせません。

ただただ目をひん剥けて現実を見せてきます。

 

ポイント:本当に怖い人は、悪にも幻想(エゴ)にも逃げさせない

本当に怖い人には徹底的な厳しさがあります。

「どんな野蛮人なんだ?」と思えますが、ちゃんとした目的があります。

「向き合いたくないことと徹底的に向き合わせる厳しさ」

誰しもに常日頃から鬼になるなんてことはありません。

鬼になると社会性忘失の狂った鬼人ですが、鬼の皮を脱いでいる普段は、関わる人々のことをよく観ています。

そしてある一定の人にのみ鬼になります。

現実と向き合えると思われた人であり、成長を望まれた人、選ばれた人

いざ鬼になれば、厳しさは留まることを知りません。

絶対に現実から逃げさせません。

その際のポイントは、悪にも幻想(エゴ)にも逃げさせないこと。

心を手放して諦めると、悪に身を投じて怖さを嫌がる現実から逃げる(怖いのを喜ぶようにしたり、無感情になる)、そんな闇落ちができます。

が、させません。

それならばと、脳機能を駆使して対処する方法があります。

誤魔化しや嘘です。

「はいはい、怖いの受け入れました、これでOKでしょ」
「今のって夢だよね、そうそう、あぁ、お酒でも飲もう」
「直ぐに、直ぐにあれを打たなきゃ、腕に打たなきゃ」

脳を味方にしてエゴを強める方法。恐怖と向き合って泡を吹くまでガタガタ震え続けるのではなく、現実を誤魔化して幻想に入り込めます。

まるで自分に嘘をついていると気づかせないように嘘をつく、そんな逃げ道にもなり、自己都合の世界に身を隠せます。

しかし、相手は鬼。

鬼ごっこのプロ、というレベルを超越した正真正銘のオーガ。

本当に怖い人は誤魔化しや逃避策、エゴの幻想逃避を一切認めません

体育座りで下を向いていれば、全身を全開にさせられる。

恐怖心との対峙から逃げさせないために、とにかく現実と向き合わせ続けます。

ただシンプルに、自己内部に巣食う恐怖心と向き合わせ続ける意です。

 

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本当に怖い人は優しい

一旦怖い内容はここまでです。

ここからは、優しさに向かいましょう。

本当に怖い人=怖さを与えられる人

ここでお伝えしたい本当に怖い人とは、『鬼の役割を持った人』のことです。

徹底的に恐怖を与えるプロ

地獄の番人であり、赤とか青とかのあれ、獄人に罰を受けさせる仕事をしているあれです。

仕事内容は恐怖の与えですので、誰しもに同じことをしても意味がありません。

恐怖は外側ではなく内側にありますので、その人自身が恐怖を作っており、それぞれに気持ちや味わいを持っています。

例えば、私にとっての恐怖は誰かに脅されたり死に近づくことではなく、人との繋がりがない世界です。

一方、ある人は朝目覚めることや、毎日変わらない一日が過ぎていくさまに恐怖を感じます。

怖さとは拒否する心であり、「嫌だ、見たくない、認めたくない、心配、危険、痛い、寂しい」など、自己に起こっている現実と向き合わない状態の気持ち。

これを与えられる人とは、その人にとっての拒否や拒絶する心を知っている意味。

心とは一人一人にある愛と恐怖、陰陽二極化の一元体です。

本当に怖い人とは、心の裏側(恐怖)を取り扱える人であり、心の裏側をよく理解できる人です。

心の表側をよく理解できる人は、反対に天使

表でも裏でも心を理解できる人は心と深く関わり、大きな心を持ちます。

教科書を把握するとは違い、その人一人一人のことをよく見て、感じて、考えて、捉えて、相手側の立場にならないと理解できません。

共感や繋がる頻度を増やして知っていきますが、心がなければ頭で理解しようとするので、相手の外側である言動に着目して、わかったと思い込んで何もわかっていないなんてことになります。

裏側の担い手なので光を見ない立場にいますが、鬼は大きな心を持ち、人の心をよく理解できます。

怖さを与えられる人とは、他者の心の裏側を知ることができる人であり、恐怖という向き合いたくない現実と向き合わせる人。

他者の心を知るために心同士をたくさん繋げられる、そんな心の大きな人。

これに優しさの所以があります。

 

本当に怖い人は優しい、けど優しいと思われない

鬼は縁の下の力持ちです。

裏方であり、目立たない立場で、人間に欠かせない基盤作りのサポートを司ります。

嫌われやすい立場であり、一歩間違えれば社会的に排他され、[悪人や罪人]と勘違いされやすいです。

私たちは恐怖を嫌がり、愛を好みます

嫌なものは悪、ダメ、要らないと捨て。

好むものは善、OK、欲しい、もっと欲しくもなっていく。

心は恐怖と愛が両方あって一つに成り立ちますが、社会的に恐怖は排他したくなるもの、していいもの、と決めたもの。

天使はいいけど悪魔はダメ。

実際のところ、鬼の仕事は恐怖の増長ではありません

恐怖を減らす増やすも本人にしかできないので、本当に怖い人ができるのは本人が本人の恐怖心と向き合う機会の与えです。

これを機会と捉えるか、地獄と捉えるかは自由。

恐怖心と向き合う先にあるのは、怖ろしい気持ちや味わいたくない感受ですが、起こったことを誤魔化すでも逃げるでもなく、幻想を現実に正すための修正であり成長です。

不安と恐怖を抱くならば、それと向き合うことで何に不安を抱いているか知れる。

すると自己内部を理解でき、怖れなくなると同時に、進化するための抵抗が撤廃。

本当に怖い人は、人間の不変・退化・怠惰の基となる原因を教え、現実と向き合う機会を与える優しい人。

優しさはエゴではなく、混じりっ気なしの愛の裏側を味わわせる思いやり、自己の成長材料を与える厳しさ。

ちょっと厳しすぎますが、心の裏側をまじまじと理解させる他者のための働き。

正真正銘の思いやり、真の優しさです。

ただの危険人物ですので、後々に何が事実かを人それぞれに気づいていく、なんて具合がよき塩梅かと思います。

 

別枠:心のない怖い人は全く優しくない

心があるからこそ真に相手の恐怖を理解して与えられますが、心がないと優しさはなくなっていきます。

悪意を持って人を傷つける類、関わると危害や損害を被ります

相手の恐怖(心の裏側)を理解できないため、フィジカルな痛みや危険を追加していく傾向があります。

心がないと悪意とは何かがわからず、気持ちや真意を感じなくなるため、手加減や限度なく相手を傷つけます。

心のない人に恐怖も闇もありません

あるのはエゴという幻想、他立であり無責任、虚無であり無自覚
※細かいですが無知(悪)ではなく無自覚(エゴ)

『一方的な利用』です。

鬼の優しさとはかけ離れており、既に自己を失いながら誤魔化し、他者によって刺激や利益を得て心の喪失から逃げ続ける人。

闇の領域に行けず、恐怖心と向き合わないための誤魔化しや納得という逃避に走った人間。

この怖い人は優しくありません。

何も与えず、与えられるものもなく、貰うか奪うに偏ります。

現実を見ることができないために人は物と同じになり、感情移入や共感ができず、物を使い捨てるように人を使い捨てます。

目つきが鋭くなり、冷酷、虚無、生気のない目の据わり方をします。

本当に怖い人の目は、吸い込まれるような力強さがあり、人の心を一瞬で抜き取ります。

鬼の働きの休憩中は目が据わる人もいますが、生気のない据わり方ではなく、無心になった目が特徴です。

(何も考えていない無興味の目ではなく、いろいろ考えているだろうけど一切何を考えているか読み取れない目)

 

結局、「怖いとは何なのか?」

心のない怖い人の方が、鬼よりも怖れる人が多いかもしれません。

なぜならば、心のない怖い人は“生死や痛み”をちらつかせるからです。

「痛いのは怖いぞ」
「怒鳴られたらすごい怖いぞ」
「死ぬなんてもってのほかだからな」

怖いってなんなんでしょう。

暗闇が怖い、虫が怖い、人が怖い、暴れる人が怖い、怒鳴る人が怖い、偉そうな人が怖い、優しい人が怖い、何を考えているかわからない人が怖い。

どうして怖いのか知ることは、自己内部にある拒否の紐解きであり、「どうして認めない?どうして認めたくない?どうして認めなければと思っている?」の答えにあったりします。

この答えを現実と言います。

恐怖を増やすも減らすも自分次第。

「怖い」とは、現実を知りたくない拒否。

無知

仏教では無知を悪と説きます。

悪とは恐怖、愛の裏側であり、愛とは現実そのものを意味します。

一度怖れを味わい、自己理解を深めると怖れは手放され、現実という心の表側にコロッと切り替わります。

本当に怖い人は無知という怖れ、無知を貫こうとするエゴをまざまざと引き出し、見せつけてきます。

味わうのは物理的ではなく精神的恐怖

無知がなくなれば怖くなくなるため、逃げられないようにしてまで無知を知らしめてくれることは、重要な機会なのかもしれません。

そんなことから、「本当に怖い人はとても優しい」という内容でした。

 

まとめ:本当に怖い人は優しい

本当に怖い人のする行為は徹底的な厳しさ、狂うほどの影響力があります。

ちょっとやりすぎ感は否めませんが、心があるかないかで影響力の活用有無は極端に変わり、心ある恐怖与えは後々の効果が考えられないほど大きいです。

恐怖と愛が一体であるため、怖い人は優しさも内包する。

そんな鬼は善の世界からやってきた派遣社員、という考え方でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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