パァーとなったのは魂か、それとも脳みそか。
高めのステーキを食べて目を瞑れば光を見る、けれどもそれは魂とは違う。
私たちは物質との繋がり、如何に脳が電気的に満たされるかにフォーカスする社会を生きていそうです。
一方で、魂との繋がりは『心』を満たします。
心が満たされると生きることへの姿勢が雨の日のカエル並みに高まり、深く濃い充足に満ちてピョンピョンしていればなんでもよくなります。
私はその感覚をしばらく忘れていました。
生きることを真面目風に考える日々、子供心を忘れ、「魂ってなんだっけ?」と目が点。
そんな私は最近、屋久島に一ヶ月いました。
そこでは魂との繋がりがあり、奥底に眠る“何か”を思い出すきっかけになりました。
ここでは、魂との繋がり、その感覚についての洞察を物語っていきます。
- 魂と繋がる感覚を思い出したい
普段の生活ではなかなか認知しずらいですが、自然に還ると誰しもが味わえるものだと思います。
魂との距離感をより身近にするためにも、奇妙なお話ですが楽しんでいただければなによりです。
魂と繋がる感覚

体験談:縄文杉の手前で涙が止まらない
「縄文杉はなんとしても観たい!」
どこから出てきたのか、そもそも縄文杉を観に屋久島に来た訳ではなかったが、突然思いがめぐった。
朝5:00のバスで山へ向かい、一人歩く山中。
「結構長いんだな」
結局5時間かかって縄文杉に到着。
この時、既に私は魂と繋がっていた。
事が起きたのは到着する手前、30分ほど遡ります。
…
縄文杉へ向かうルートの途中、『大王杉』という素晴らしい巨樹がそびえ立つ場所にいた。
「ここまで来ればあと少しで目的地だ」と思いながら大王杉を観ていたが、先の考えなど即座に消え去り、目を奪われるほど圧巻の情景が広がっていた。
私は木の壮大さに拝みの反応をした。
ここに来るまでの道中、どの木々も凄すぎる。
生命みなぎり、人間同様にパーソナリティを感じられ、一本一本違うのがはっきり見える。
「人間と違うのは動けないということだけだ」と本気で想った。
「大王杉、なんてスゴイ木なんだ」と感慨深く思いながらその場を去る私。
縄文杉への最後の道のりを進もうとした瞬間だった。
明らかにエネルギーが変わった。

初めは空間が変化したのか、いる世界が変わったのかと思った。
「磁場か?」
「私の意識が変わってる…」
「あぁ、なんだこれ…ボタボタボタ」
涙が溢れ出ていた。
ボロボロと止まらないほど溢れた。
涙を流しながら歩き続けた。
この状態は縄文杉の少し手前まで続いた。
手前でパタッと消え、元の意識になった。
領域が戻ったようだ。
だが、少し弱くなったが、縄文杉の周辺でもエネルギーが似た状態に再び変わった。
「知っている、またこの感覚だ」と思う私は嬉しくてしようがない。
そしていざ縄文杉を見た私。
大王杉辺りで抱いたものとは違う反応だった。
心の奥底から、じんわりと濃く凝縮された感謝が湧き出た。
自然と拝んでいた。
先ほどのような際限なく出てくる涙ではなく、感謝の念からの涙が出ていた。
そんな一連、一体何があったのか?
それは魂との繋がり、魂の感受。
深掘りに入りましょう。
魂と繋がる感覚

大王杉辺りで変化したエネルギー。
あそこで私はパァー。
意識が変わったのをはっきり実感しました。
魂と繋がった瞬間です。
それはこんな感覚でした。
・悲しみと歓びを一緒に味わっている感覚
・身体全体がブルブル振動しているような感覚
・高揚して意識が身体から浮いているような感覚
・弾けそうなほど胸が躍りながらも、とても冷静な感覚
・心臓にいる小人がコンテンポラリーダンスをしているような感覚
・その場にいる木々と心が繋がっている感覚、お互いに見合っている感覚
・切り株も、朽ちた木も、生きている木も、全てが愛おしく見える感覚
・切り株も、朽ちた木も、生きている木も、全てを慈しむ感覚
・朽ちた木に苔が生え、小さな植物が植生する、そんな死と生に魅了される感覚
ブルブル、キュンキュン、フワァ、パァーなんて具合です。
愛おしさと慈しみで満ちており、生きていることと朽ちることの融合がどれほど美しく魅力的かを実感せざるを得ない。
スーパーマリオの無敵状態ティンティンティティンのような、「なんでもできるぞ!」という気持ちがありながら、とても冷静。
落ち着いて、穏やかな気持ちで情景を、人々を、自分を見つめることができる。
そして何よりその場の自然と、私の場合は特に木々と繋がっている感覚がありました。

魂との繋がりは、ヨガ哲学や精神的な考え方では『真我』と言われたりします。
『本当の自分』と聞くこともあるかもしれません。
カッコよく言うと、「神が宿った」状態でして、自然に戻れば八百万の神々が宿っているためです。
自然に戻るのは人それぞれ、水になった、岩になった、風になった、火になったなどさまざまにあり、魂の帰属する性質がわかるように思います。
私たちは人間としての肉体を持っているので、
魂と繋がる感覚とは、人間として自然に戻った感覚。
よく言うと、人間として神を宿す感覚。
ちょっとカッコよすぎましたね。
今日はそんな日だ。
※魂にレベルがある見方もあるので、魂レベルの段階(人生のステージ)に8つのステップ|最後は宇宙行?!をご覧ください。
魂と繋がると愛で満ちる

『心が愛で満ちる』
愛があると、『他』との繋がりを顕著に感じられ、私の場合は木々植物との繋がりがはっきり。
そして繋がっている対象のことを知りたい、知ろうとする気持ちが無意識に芽生えます。
知ろうとする気持ちが自分を愛し、自分を愛することがそのまま対象を愛することに続きます。

縄文杉と関わった私は、奥深くから湧き上がる感謝の念を抱くことになりました。
それは“あの木”を全身全霊で知ろう、感じようとしたからだと思います。
訳もなにも考えることなく、「ありがとう、本当にありがとう」と心から湧き上がる想いで、手を合わせたのは本当に無意識の行為でした。
多くの人々の多様なエネルギー、汚れも喜びも全てを受け取りながら、自らは神聖なものを与え続ける。
そこにはたくさんの痛み、お役目があり、何千年もそれを続けているさま、その偉大さへの気持ちだったかもしれません。
魂と繋がる、それは他と繋がる。
他と繋がる、それは他との貰い・与えの繰り返し。
他との貰い・与えの繰り返し、それは心が愛で満ちるさま。
あの時、胸の真ん中ちょっと上辺りがブルブルと震えながらキュンキュンし、高揚し続けました。
さらにハートチャクラが全開になってフワァ、愛と癒しが猛烈に巡る感覚がありました。
過去、私が魂と繋がる状態を思い返すと、「癒し」があるかどうかはその場の環境で違います。
屋久島であり木々植物だったからこそ癒しになったように思うため、他の環境、例えば海で繋がればまた別の気持ちがあると思います。
場所によって癒し、場所によって生命力、安心、自尊、創生、静寂、神秘。
共通しているのは、愛の認知。
それは『現実』という気持ち。
私たちは自然物と同じように地球の一部であり、宇宙の一部であることを感じます。
この時、人によっては植物と会話することに、デデン。
ちなみにこの状態になった途端、感覚的に引き寄せられることが増え、有名かどうか関係なくエネルギーの強い木、鹿との遭遇が連発し、鹿が休んでいる最中の家にもお邪魔することになりもうしたとさ。
※魂が成長すると起きることがあるので、【魂の成長とは遊びへの気づき】成長すると真面目orふざけるをご覧ください。
魂と繋がるために

魂と繋がる前提
あそこの磁場が凄まじいのか、木々が粒子レベルで高エネルギーを放っていたのか。
山、木々、菌、植物、虫、それらが織り成す共生と継承、創造とエネルギーの生み出しがあるのだと思います。
そこで融合するが故に魂と繋がります。

私がどうこうしたのではなく、あの環境、あの山、あの木々、あの場を管理している人々、継承してきた記憶の数々、ご先祖の存在や心持ちなどの賜物。
「屋久島だから」だと思います。
魂と繋がることは魂があれば誰しもでき、そのために屋久島などの素晴らしい環境がある。
ただ、あの場所にいた人々がみな一様に繋がっていたのか?
考えると疑問が残ります。
そこで明確なのは、繋がるために欠かせない前提があること。
『自分の心と繋がっているかどうか』

魂と繋がる前提には、自分の心と繋がっていることが条件だと考えます。
魂と心は別物。
※魂は記憶の保管庫、心は魂(真我)と自我を繋ぐパイプ
自我へのパイプが通り、あとは場所次第で魂と繋がれる、なんて仕組みです。
私を例にすると、山に入ると心が繋がります。
海に入ると、土を掘っていると、風に吹かれていると、火を観ていると…。
あらゆる自然界の中で身を委ねると心が繋がります。
これは誰しもに内在する仕組みだと思います。
自然界は真正なる現実そのもの。
自然の中に入り、シンプルにその場をその空間をその感覚を堪能すると心は繋がります。
ただ、自然を無視したり利用したら、入らずに自分に入れようとしたらステージはガクンと崩れちゃう。
主義的になったら、ルールで固めて頭ガチガチだったら、写真を撮るなど結果だけ求めていたら、どこかに心を置いてきています。
まずは自分の心と繋がる。
あとは融合できる場所があれば魂はムニュムニュプァーというお話。
世の中には素晴らしい場所がたくさんあるので、いろいろ行ってみたいものですね。
※宇宙と繋がるお話は、「宇宙と繋がるとどうなるの?」繋がっている人の特徴&簡単な方法をご覧ください。
繋がりの遮断

死んだ目と誤魔化した心の虚像を糧にした社会人類の中で繋がったら、瞬く間に魂がねじり切れてローリングパンッ。
とんでもない異臭を放ちながら苦しみもがき、死ねないのに死に続ける。
そんな怪奇を防ぐためにも、魂との繋がりは環境次第で完全に遮断されると考えます。
自分を護るためです。
この時、「ほえ、魂って何ですか?( ゚ ρ ゚ )」と目が点の状態。
この場合、繋がりの認知などないほうがいいので、「魂って何?うさんくさい」と言うくらいがちょうどいいように思います。
魂は繋がることで悲しみも歓びも一緒くた、そこには愛もありながら影の恐怖もあり、共に受け入れる受け入れないもなくそのままをそのままにします。
言い方を変えると、現実そのものなのでそのままをそのままにする以外がない。
しかし、歪み曲がった恐怖とは真正なる恐怖ではなくエゴ、現実を現実ではなくする『無理矢理』
怖がらせるのが目的のホラーになります。
現実を歪めるような環境では魂と繋げることはできませんし、心を繋げることもご法度。
例えば、誤魔化しや我慢、嘘偽りの多い環境。
ましてや自分自身がこの状態であれば、心や魂を繋げようとする意識は、自らを化け物じみた半溶けスライム霊にしかねません。
環境によって繋がりは遮断するのが大切だと思います。
※こんな人もいます。【魂がない人の特徴13選】魂を見失うと起きる人間離れ
魂を意識すると好転する

自分の根底にあるものです。
根っこであり原初にあるものは変わることのない核、アイデンティティの原形。
最も意識していたい根源です。

このことをここ何年か忘れていました。
例えば、私たちが住んでいる地球の原形にあるのは、生命でありエネルギー。
根幹に膨大な生命力があり、地底から活動し、太陽の力を活かして循環し、菌も植物も人間も生存できています。
核となる生命がなければ、周囲に太陽などの力があっても受け取れない、活かせない、巡らない。
これと同じく、魂は私たち一人一人を動かす核だと思います。
心よりさらに深く、濃く、奥底にあり、生命の源であり、他と繋がる無意識。
私たちは誰一人として孤立しておらず、孤立することすらできない大前提、常に無数の縁で結ばれている大前提があります。
魂を基に生存し、存在していることを意識すると、思う思わない関係なく繋がっている人は繋がっている感覚がささやかにあります。
今一人であれば、どこかに出会うべく人がいると教えてくれる感覚。
今辛くて悲しくても、いつでも温かい光と喜びが同時にあると教えてくれる感覚。
今苦しくて死にたくても、全てを受け入れるほど大きな力が自己内部にあると教えてくれる感覚。
それは奥底に流れる光のせせらぎ、金剛のアイデンティティ、自分の原初、最も重要な源。
魂を意識すると光を見る気持ちになる。
その意識が自己のリアリティを拡大してくれることと思います。
※魂についての小難しい内容をお好みの方は、「魂とは具体的に何なのか?」魂を哲学するためのスピリチュアルをご覧ください。
最後に:魂と繋がる感覚
意識することの大切さ。
私は、私たち人間は意識体だと思っています。
意識することは繋がることを意味します。
小指を意識してピュンピュンと前後に動かせる。
これと同じように、目を瞑って魂を意識すると何か感じるものがあると思います。
それは光であり闇、生命の歴史であり流れ、無数の記憶であり現実。
その感じる気持ちを『愛』または『自分』と言うのだと思います。
魂と繋がることは心を愛で満たす許し、「人生やっていきますよ」の合図。
自分らしく他と関わって生きる始まり。
それは自分のためだけの人生ではなく、自他のための人生の始まりです。
なんせ魂に「私だけのもの」は成り立たず、一つでありながら他と繋がっている全てでもあります。
物理概念ではなんのこっちゃですが、事実はいっつもそんなもの。
だからこそ、「けっ、こんな所で繋がってられっか」と唾を吐きたい場所にいてはなりません。
今後のための修行であればいかしていますが、そうでなければいかしていません。
環境の見極めは欠かせない。
環境によって魂が繋がる、それほど大きな事柄です。
ぜひ心を繋げて、環境を宝探し。
宝が見つかった時、パァーって。
そんな人生遊び、楽しそうですね。
最後までありがとうございました。



















いーなーいーなーって、読みながらずっと言ってたよ^^
北斗さん、沢山の木達と繋がれたんだ*・゜゚
みんな生きている。木達は可愛いね、
とっても素敵な体験、素敵な記事、ありがとう。
継承っていうのは、すごいことなんだね。
私は、私の在り方は、継承されてここにいるんだ。私の周りは、素敵な人ばかり。
みんな、私に優しく、強いです。
死んでったみんなもご先祖様も、私の中にいる。私、嬉しいです。
北斗さん、涙が出るよ。ありがとう。