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自己満足は徳を積む意味がない?【自分に正直になる法則】

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徳を積むカルマ作りは宇宙の芸術です。

既に在る仕組みを組み合わせた作品であり、幸福の探求に欠かせない原料と言えるかもしれません。

そんな徳、積もうにも企みや意図があるとどうなのか。

エゴであり、“良いこと”をしようと思った時点で、“善いこと”ではなくなってしまいます。

すると自己満足では徳を積む意味はなく、むしろ悪行にすらなりかねない。

ここでは、徳を積む意味をなくす行為を明確にして、自分の喜びが大切である考え方をお伝えします。

  • 自己満足だと徳を積む意味がないのか知りたい
  • 徳を積む本質的な意味を考えたい

自己満足でもなんでも、行為(カルマ)に大切なのは、「自分を何者だと思っているのか?」だったりします。

若干意味深な内容になりますが、徳積みの理解を深める一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

自己満足は徳を積む意味がない?

何者かになると徳を積む意味がなくなる

他者に喜んでもらうために、お助けするために、お守りするために…。

他のために善行することを、徳を積む、徳が高いと言います。

陰徳…人に知られないようにひそかにする善行。隠れた、よい行い。「陰徳を積む」

陽徳…陰徳に対して、あらわに行なう徳行。おおっぴらに人に知られる善行。

※コトバンク引用

徳を積むことは、善行する心の在り方を表します。
※善行という行為そのものではなく、それをする心の在り方

※徳を積む詳細は、徳を積むとはスピリチュアルな『神のサポート&恩返し』│心理・仏教・神道にある徳の性質 をご参照ください。

なんでも
なんでも
徳を積む善行、自分を何者にもしない人ほど積むことができます。

何者という何か外枠、名札、肩書、地位など、固有名詞で自分を名乗る、思い込む、決める状態。

徳を積む行為を邪魔します。

典型的なものがこちらです。

徳積みの邪魔
  1. 損得勘定
  2. 善悪二元論
  3. 不平等、差別意識
  4. 自己顕示、自意識過剰
    (特別感、自惚れ)

自分を何者かにする状態には必ず“我(エゴ)”があります。

例えば、私はボランティアで貧しい人々を助けたい、実際にそのための行動をする。

その時、「私はこれで良い人だ」と思った瞬間に自分を良い人という何者かにしました。

「私は優しい、これは良い行為だ、これがダメだからこれが正しい、ボランティアとは社会的に認められているから善行だ」

とにもかくにも、自分を何者かにする際には他の情報、常識、観念、比較、区分け、他からの評価判断など、徹底的に“他の肯定”が要ります。

条件付け:[他によって自分を決める ⇒ 何者かになる]

何者かとして善行することは素晴らしいと思いますが、善行を積むことで自分を何者かにしようとする場合、それはまるで意味が変わってしまいます。

善行にて徳を積む ⇒ 善行という何かによって自分を何者かにする

これによって大切なことがわかります。

 

エゴに基づく行為は徳を積む意味をなくす

なんでも
なんでも
徳を積む行為を別の目的にした場合、本人が何者かになれる意味はあるのですが、徳を積む意味ではなくなります。

徳積み行為によって自分を何者かにする場合、

例えば、私は優しい人間だ、寛大で、余裕のある人間だと思いたいがために周囲に善いことをする場合。

良いことにはなりますが、善いことにはなりません。

良い悪いは社会的に決められた評価判断、区分けと比較による一過性の儚く脆いルール。

善行とはルールではなく心の在り方であり、自分と真っすぐ向き合って悪を知り、含め、超えた先にある自然風景。

後輩に飲み代を奢った時、感謝されなかった、ご馳走様と言われなかったから嫌な気持ちになったら、それは良いことをしたかったのだと目的がわかります。

自分は先輩として正しい行いをした、寛大で良い先輩だ、認めて欲しかっただけなんだ、余裕があると見栄を張ったなど、人それぞれの意図もわかります。

徳を積むのではなく、自分を他によって何者かにしようとすることですので、元々の議題が違います。

他によってあえて自分を認めたり、見出そうとする意識をエゴと言います。

エゴに基づく、エゴを増やすための行為になってしまうのが、他によって自分を何者かにしようとする意図的な行為。

悪行になってしまうため、徳を低くする意味になります。

 

自己満足でも徳は積まれていく

なんでも
なんでも
エゴ意識がエゴを増やすことを目的にした場合、徳を積もうとすればするほど徳は低くなってしまいます。

このことで重要ポイントがわかります。

徳を積むことで欠かせないのは、『自分ができることを最大限行おうとする“気持ち”』

シンプルに、真っ直ぐ、自分ができることで喜びや価値を作る気持ちが実行動を生み、徳を積みます

例えば、後輩にご馳走する時、ご馳走様と言ってもらえないと奢ったかいがないのでガックリするのは当然だと思います。

ちょっと高尚な人であれば陰徳にて、何も言われずともご馳走できたことに喜んで終わります。

そこまで行かずとも、シンプルに自分が、相手が、みんなが、その場の雰囲気が、何かしら誰かしらが喜んだだけでも徳は積まれます。

問題はその際に、「おいおいなんだよ」と自分を何者かにしようとする目的である場合、せっかく積んだ徳があっても悪行を追加してしまう。

シンプルに自分として、「やりたいからやった」であれば。

「奢ると自分が嬉しいから奢ってよかった」であれば。

意図があっても、「なんか良いことをした気分だ」と感じれば。

「おいおいなんだよ」がなければ。

徳を積む善行です。

 

【徳を積む=自分に正直になる法則】

なんでも
なんでも
善い行いをする際、どうしても必要なものがあります。

本当に善い行いをしたいかどうか

その気持ちがあるかどうかです。

善行は自分も喜び他者も喜ぶため、社会的にも道徳的にも倫理的にも大正解花丸。

しかし、実際にそれをしたいかどうかは人それぞれです。

誰も賞をくれませんし、お小遣いもありません、褒めてくれるかもわかりません。

善行とは行為そのもの以上に、気持ちが重要です。

善い行いをしたい気持ち、そこにある自分が喜びたい気持ち、相手を喜ばせたい気持ち、誰かのためになろうとする気持ち、世のために働きたい、貢献したい気持ち。

真っ直ぐに、役立ちたい、助けたい、守りたい、ためになりたい気持ち。

自分が喜びたいでもなんでも、自分に正直になって善いことをしたい気持ちが徳を生みます。

大いに自己満足でいいんです。

私が心温かくなるからボランティア活動をしたい、私の愛が引き出されるから捨て猫を守りたい。

「私が喜びたいから」という自己愛はとても大切です。

徳を積む行為は如何に自分に正直になれるか、そんな法則と言えるかもしれません。

 

徳を積む本質

徳を積むファーストステップ

なんでも
なんでも
「自分を何者かにする」は徳を積む見極めワードになります。

何者かになることは人それぞれ大切だと思いますが、何者かになるためには必ず“他の肯定”が要ります。

すると無意識に、「他の肯定を求めるために何をするか?」を意図します。

これを自覚していれば、元々“徳を積む、善行”が目的ではないとわかりますが、着目したいのは自覚していない場合、目的の認識が薄くなってしまいます。

「私はこの仕事をしたい」と願いながらも、「本当はできる自信がないからやらなくていい」と思っているのと似ています。

私たちはメンタルブロックや固定観念があるため、真意が本当に真意なのかは自分と向き合わないとわからなくなっている可能性があります。

このことから、如何に自分に正直になるかが徳を積む上での条件になります。

自分に正直に、「私が喜びたいからこの人にプレゼントをあげたい」と彼女の誕生日に、自分の大好きな干物三点セットをあげる。

「あげられてよかったぁ!」

「私が好きなものを与えられて嬉しい!」

「この人を喜ばせたかったんだ、やったぜ!」

初めは自分に正直に、自己満足、自己愛を満たすため、自分を喜ばすために他に働きかける。

徳積みはここから始まります。

 

徳を積むセカンドステップ

なんでも
なんでも
初めは自己愛を満たすためでもなんでも、「喜んでもらいたい」という真っ直ぐな気持ちが重要です。

この次に着眼したいのが、「自分は喜んでいるけれども、お相手さんは?」

「これは相手のためになっているかな?この人は本当に喜んでいるかな?何がこの人の喜びなんだろう?」

他者側の気持ちを把握する認識に入っていくことで、善行は深まります

それはまるで自分に他者を含めるさま、または他者に自分を含めて物事を捉える在り方です。

知性、調和、協調、共感性、寄り添い、他者認識力。

他者を他者側から理解する力です。

自己満足に特化して始まる行為であるため、初めに失敗は必須です

「誕生日に干物って、別にさ、あれだけどさ、なんなの?」と相手がむしろ嫌な気持ちになっていた…。

自己愛を満たすことはでき、相手を嫌な気持ちにさせた。

徳を積む、善行する気持ちがあった場合、罪悪や申し訳なさ、反省する心持ちになると思います。

自己中ではなくただ他者認識力がなかっただけです。

徳を積むことには必ず罪悪と反省、自己疑心と自問自答、失敗の積み重ねがあります。

「本当にこれでよかったかな?」
「これが世のためになっているのかな?」
「あぁ失敗した、結果的に嫌な気持ちにさせてしまった」

徳は自らの行為の結果を見つめて、自らの在り方をどうするか向き合いながら行動する先にあります。

そのため、自己満足の気持ちはとても大切でありながら、その後に相手側を見つめたり、結果や影響の鑑みを含めて、徳を積む行為が構成されていきます。

 

徳を積むサードステップ

なんでも
なんでも
徳積みの行程、レベル上げにはおそらく終わりはなく、次へ次へと進んでいきます。

与える影響や、他者側の理解が深まってくると、徳積みには厳しさも入ってきます。

叱咤激励という言葉があるように、激しく叱咤し、励ますことも善行です。
※叱咤だけで終わると自己中になる懸念アリ

相手のことを考えるからこそ甘えではなく、怠惰の増長でもなく、説教や厳しさが大切になり、ポジティブ主義に偏ることの怖さも理解していきます。

そこには尊重があります。

相手を敬うからこそ厳しさは生まれます。

相手を心から思いやるからこそ厳しさに温かさも生まれます。

厳しいだけではなく、温かさも含めて尊重があるため、相手を心から想う愛の気持ちがあります

自己満足を求める自己愛から始まり、徳積みは徐々に他者側を本当の意味で心がける気持ちにて、自他を調和させた愛に入っていきます。

過酷で辛い経験を味わわせる、相手にとっては憎く恨ましいものになるかもしれません。

しかし、「あの経験ができたから今の自分がある、こんなに感謝しきれないことはない」と本人が気付く時がある。

その気付きは見えなかったけれどもずっとそこにあった気持ち、真意、厳しさの中の温かさをついに見れる自分になれた時。

相手はずっとずっと愛だったとわかるかもしれません。

もちろん、人によっては利己的に相手に辛い思いを味わわせた人もいる、その場合には気付きも何も憎くなることが真意そのものかもしれません。

善行には時間と空間の縛りがありません。

本人が亡くなった後でも、100年後でも、1000年後でも、想いは消えない、事実は消えません。

善行は想いであり気持ち。

自分に正直に自らを動かし、他のために貢献する働き。

善行をした人との繋がりは消えず、繋がりが多ければ多いほど、見えやすく豊かさやお返しが表れ、慕われ、愛され、守られ、幸せと余裕が顕著になります。

繋がりの数が少なくても善を想った人がいれば、その人との繋がりは本人が気付く気付かないにかかわらず潜在的に存在し続けます。

繋がりは心の温かさ、豊かさ、涼やかさ。

あらゆる存在確証として自分を保持するソースになり、保持できるほどに安心感が強まり、余裕や幸福に続いていきます。

ちなみに、徳を積むレベルは尊重を超えると、自他を同一視する“共同体意識”になり、他者の喜びが自分の喜びになる愛を深めます。

さらにその先に向かうと“自由”の領域に入り、意識することなく自然な行動が世のため人のためになり、「私は善行している、徳を積んでいる」と自意識することがなくなっていきます。

 

徳を積む注意点&本質

自分の喜びを中点に徳を積み始めることができます。

それが自己満足でもなんでも、だからこそたくさん失敗し、他の認識を広げて徳積みが向上していきます。

なんでも
なんでも
これまでの内容から本質としてお伝えしたいのがこちらです。

徳を積むとは自らの意識を高めることに意味がある。
※我欲や欲求不満の満たしではなく意識

徳を積む際、自分の喜びがあり、相手にも喜びがあれば素敵です。

しかし、状況によって相手が喜んだかどうかわかりません。

自分のした行為の結果を鑑みない場合、内省も反省もできず、向上困難。

例えば、通りがかりで野良猫がいたので、エサをやってそれっきり。

その後どうなったのか?

ましてや自分が食べていた菓子パンを与えていたら…。

自己満足のみで結果や影響を鑑みない、対象を一切配慮しない場合、自分勝手で利己的な行為、いわゆる悪行になりかねません。

世間的に良いとされていても、我欲、承認欲求、欲求不満の満たしは、悪(エゴ)を積んでしまうので要注意です。

例えば、人助けに募金で協力した場合。

そのお金がどこでどう使われているか、もしかしたらその国の腐敗作りに協力しているかもしれない。

お金を払うからこそ人々のマインドを縛り、現地ではとんでもなく酷い状態になっている、そんな例を私は海外を旅して幾度も見てきました。

お金を渡すことには大きな責任があります。

ましてや、それが見えない対象であればなおのこと、どう責任を持つか、考え、行動し、知り、見つめる大切さがあると思います。

ここで、自分に正直になって、本当にそれをしたいかどうかが真に問われます。

自分の“できること”が徳積み、世の中に良悪の答えはなく、答えがあるのは自分の中です

自分なりに考え、行動し、迷いなく選択し、覚悟した時、徳積みは本質に入ります。

それが意識の高まり。

善いことを誰か、何かのためにしようとする気持ちが本物であれば、必ず意識が高まり、波動(エネルギー)が高まります。

波動の高まりは存在するだけで周囲にプラスの影響を与えるため、生きているだけで善行です。

本気で心から迷いなく行動したものは、全て紛れもなく自分のできる善行であり、エネルギーを高めるという宇宙全体への貢献。

『一日一善』

「今日は一つでも誰かのためになるぞ」という気持ちが既に善行。

それが心から、本気であればあるほど徳を積みます。

本気だからこそ、一つもできなかったら猛烈に反省するかもしれませんし、自然に一つも二つもできるようになっていくかもしれません。

自分のできることを本気でする行為、その気持ち、意識に善があり、徳がチャージされていき、因果応報で返ってくる特典付き。

世の中の仕組みって素晴らしいですね。

 

徳を積む意味がある・ない

自分のできることを最大限行う気持ち、心の在り方が徳積みです。

許容を超えてしまうと、影響や結果をどれだけわかろうと努力してもわかりません。

結果がわからなければ相手が喜んだかどうかわかりませんので、失敗したかどうかもわからず、ファーストステップで止まってしまいます。

しかし、そこで自分が喜びたい大切さが再び現れます。

自分の喜びなくして他に喜びは与えられません。

自分が喜びたい純粋で真っ直ぐな気持ちがあり、誰かのためになろうとする行動。

自分を何者かにしようとするエゴの企みなのかどうか、それは本人のみぞ知ることです。

本気な人ほど本当に悩み、これでいいのか模索し、自分のできることにまっしぐら、実践しながら失敗を積み重ねていきます。

自分に正直に、本当に誰かのために行動したいのか。

真意と向き合えば自分のできることが見えてくる。

徳を積むとは自分に正直になる法則なのだと思います。

そんな考え方、自らの行為を見つめる一つの考え方としてご参考になれば幸いです。

ありがとうございました。

『心理とスピリチュアルの学び場』

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※これは長期的に本気で変わりたい方専用です。

POSTED COMMENT

  1. くこそつ より:

    いつも素晴らしい記事をありがとうございます
    m(_ _)m
    話が変わりますが、著書も先ほど最後まで読ませていただきました📖
    本当に赤裸々に、またあるがままに書かれていて…そこによく見せようとかいう雑念が入る余地もないことがよくわかります。またシドニィシェルダンのようなまるでジェットコースターのような展開で内容は単調にも関わらず内面描写が随所に散りばめられていて一気読みでした(^-^)
    私も本は書いていませんがピアノで思ったことをYouTubeであげています
    みてやろうか、という気になっちゃったりしたら一度ご覧くださいm(_ _)m

    https://youtu.be/CtOByfL85MQ?si=9zWPC_38HKHvVMkd

    • 北斗 より:

      こんにちは。
      書籍まで読んでいただき嬉しい限りです。
      ありがとうございます♪

      Youtube拝見しました。
      興味深く、見させていただきました。
      率直に、「私も将来的にピアノをやるのではないか?!」と感じました。
      海外を旅していた際に私も独学で演奏しており(ピアノではないですが)、
      よくバスキング(路上パフォーマンス)をしていました。
      その際の自他共に喜ぶ状態を思い出し、心豊かな気持ちになりました。
      感謝です。

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