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自らを信じる美しき姿が、カリースパイスを取り過ぎて肌まで黄色くなるように。
物事は食べ物でも運動でも在り方でも、過剰になると異形を極めます。
その一つに自信過剰があります。
自信過剰な人には自然と違和感を覚え、「うざい」と思わざるを得ないさまがあるかもしれません。
「どうしてうざいと思ってしまうのか?」の紐解きによって、違和感の正体と大切な自信の理解がわかります。
ここでは、自信過剰な人をうざいと思える大切さをお伝えします。
- 自信過剰な人はどうしちゃったの?
- うざいと思わざるを得ないのはなぜ?
- 自信過剰な人によってわかる自信とは?
自信過剰な人への違和感は、自信をグニャグニャに変形させてしまう可能性をなくす気づきに繋がります。
自信に潜む人間のハマりがありますので、うざいという感性の表しがご自身のためになる考え方となれば幸いです。
Contents
自信過剰な人の心理、うざい理由
自信にハマった自信過剰な人
自信とは自分を信じることです。
宗教を信じるかハマるか、自分を信じるかハマるかのように、信じるとハマるの違いが私達人間には起きます。
自信とは大切な自らの信仰ですが、信仰の意味をはき違えてしまうと自信にハマることがあり、それが自信過剰な人です。
自信にハマると周りが見えなくなり、一つの認識に集約される
ハマるとは妄信。事実も真意も見えない状態であり、見ようとしない状態でもあります。
自信という自分を信じる状態や行為にハマると、自信という本来の意味などどうでもよくなります。
必要なものは一つだけ。一つに認識を集約させてあとは見ない、見えない、見る気もない。
一つの認識とは、自分に自信があると思える利益です。
自信の妄信者は自分を信じられる利益に浸かろうとする
自信過剰になる人は自信がないからこそハマるまで妄信し、自分を信じようと行動する動機があると考えられます。
とてつもなく自信がない人であり、
とてつもなくそんな自分を嫌がる人であり、
とてつもなくそんな自分を変えようと一生懸命になる人です。
妄信できるほどの動機が前提にあり、自分を信じたい欲求が強くて爆発しそうなほどにあり、行動力となります。
自信を持つために行動する中で、ある時に自信を得る体験をし、その感覚や気持ちが利益となり、ハマり浸かろうとします。
自信がない人が自らの行動にて自信を体感した時、かけがえのない経験となり、ハマることを善とする妄信が起きます。
自信過剰な人の心理は誰しもにとってうざい
自信にハマった妄信者は周りが見えず、見えているのは自信があると思える利益です。
完全に自分中心に物事を捉えるようになります。
自己中心の認識は人間として当たり前であり、ないと自己犠牲や自己否定になるので重要なものです。
しかし、自信過剰な人には特徴として、自信があると思える利益を得るために必ず他者への干渉があることです。
他者を含めた上で自分を中心にする認識です。
これを自己中、自分勝手、わがまま、過干渉、プライド、執着、比較、優越、他者の蔑み、調子に乗っていると言います。
「うざい」と思わないのが不思議かもしれません。
干渉によって自信があると思う利益を得る心理
うざいポイントとなるのは、他者を利用して自らに自信があると思える状態やさまを得ようとすることです。
他者によって自信があると思えるようにすることが、自信過剰な人の利益となります。
利益を得るために干渉が必須になります。
干渉には比較があり、自らを優越させ、他者を劣等させる目的を持ちます。
自らが他者のためになっていると思える自己満足、他者なしでは行動動機を失うために離れない執着、他者によって自分を信じられている事実は見ない自己都合の思い込みが起きます。
人の意見は聞かなくなり、都合の良いように人を利用することも起きます。
他者とは違う人間なんだと思い込む独自性や万能感、線引きしてプライドを強め、自らの能力を過大評価して疑わない脳内ゲームがひとりでに始まります。
思い込みにて自らを信じ込もうとする妄信に繋がる、ハマりポイントです。
思い込みも信じ込みも人それぞれに大切なものですが、問題はそれらのさまを他者に押し付けたりと干渉して、自らの利益に変換しようとする行動です。
迷惑な他者利用行為となってしまうので、うざいと思う理由を作ります。
自信過剰な人がうざいのはエゴの調子乗り
自信過剰な状態はエゴとは何かを明確に表してくれます。
エゴとは、自らで自らを認めるのではなく、他によって自らを認め、価値や意義を見出し、自分という存在を認識する意識です。
自信がないとは自らを信じられない状態ですので、信じるために自分以外の他へ向かいます。
他との関わりや、他という人や物やルールや社会によって信じられる材料があれば、他によって自信があると思える利益になり、エゴが働きます。
満たされない承認欲求を自らではなく他にて満たすようにし、他から肯定してもらい、他から反応してもらいます。
他によって自分を信じる材料となるのが、他からの肯定、高評価、好反応、上下の上、勝負の勝、優劣の優です。
例えば、高級車に乗ることで世間的な評価を受けるアドバンテージが付き、自分が評価されていると思い込むのが容易になり、周囲からお金がある成功者などの見方をされて、自分を認めたり信じやすくなります。
物でなくても世間的に綺麗と言われる顔や、肉体という造形に価値をもたらすルールがあれば、他からの評価や反応にて認めたり信じたりできます。
エゴとは自らを防衛させ、思考を活用し、成長を促す機会作りになる欠かせないもので、他によって肯定を得たり、自信を得たり、自意識を高めたり、思い込むのは私達に大切です。
しかし、他への干渉や執着が激化してエゴが過剰になると、他からの評価や反応による成功体験はドラッグに成り変わる危険性を秘めます。
自信を得るためにエゴが過剰になると調子に乗り始めます。タコ踊り状態です。
調子に乗ると周りが見えず、利益に浸かるエゴの過剰者になる
タコ踊りくらい調子に乗ると、エゴは大いに跳ね飛びダンスフォーフォーです。
あらゆる装飾、造形、見栄え、外面を評価され、他によって自分を信じられる時の感覚と気持ちを得て、利益と言う名の甘いシロップのお風呂に浸かります。
抜けられません。自信にハマりました。
うざいと思われます。しかし、周りが見えないのでうざいと思われていることにまだ気づきません。
その内に気づきますが、「他人なんか関係ないね」とシロップ浸かりを継続させるかもしれません。
誰しもが思います、「自分の家のお風呂でやって」と。
エゴは大切ですが、エゴに飲み込まれると自分で自分を見て・感じて・考えて・想う認識がなくなりかねません。
自信過剰な人をうざいと思える大切さ
自信過剰な人は一連の枠組み
「うざい」と思うことはネガティブな印象かもしれませんが、とても大切な意味があります。
自信過剰という、自らではなく他から得る自信があると思えるハマりは、目指すべきものではないと思います。
しかし、自信がない人にとっては誰しもが通過する一連と考えられます。
「うざい」と一線引く捉え方は、これから通る、または通った状態を客観的に知る機会になります。
自信過剰は自信を持つための一連のステップ
自信とは、「ある」「ない」のどちらの認識もなく、あるのが当たり前のデフォルトと考えられます。
成育後の生存過程にて自信がなくなると自信があるないと認識を始め、私達は標準状態を目指して自信を育み、他を利用したり、自ら認知できるように学んでいきます。
その一連に自信過剰状態があると考えられます。
自信がなくなってから、自信を持つための一連をまとめてみましたので、こちらをご覧ください。
- 自尊を穢されて自信がなくなる
(自己否定や劣等感優位)
↓ - 他によって自信を得る
(他への干渉やエゴ、ブランド物や造形執着)
↓ - 成功体験による利益漬け、エゴ過剰によるハマり、調子乗り
(自信過剰)
↓ - 自分によって自信を付ける
(自信満々)
↓ - 自信があるもないもない
(自尊による自然な自信)
③がここでお伝えしているものです。
⑤の自信があるもないもなく、標準状態のように自尊によってもたらされる自然な自信であり、幼少期には誰しも持っていたと考えられます。
一度自尊がなくなった経験があると、取り戻しながらあらゆる経験をし、大きな成長と共に自尊の戻りと自信の育みになるという考え方です。
自尊が穢されていない人は一連のステップなし、飛び級
自信過剰になるからには自信がない状態が前提に必須です。
自信を自らのみでなくすことは困難ですので、この世に生まれてから今日までの歴史の中で、他者からの言動・行動・影響、教育や躾や人間関係によって自尊を削り取るように穢し穢され、自信がなくなっていくと考えられます。
自尊を穢されない人は愛を持って肯定され、関わられ、自分らしさに抵抗や抑制なく羽ばたけるように育てられた人ですので、存在しますが伝説ポケモンくらいに思ったほうがいいです。
自尊の穢れがないと自信はあるもないもないという自然なままであり、上述の一連のステップはなく、いきなり最終という飛び級です。
それはラッキーという見方もありますが、自尊を取り戻すように経験によって育み、成長していくことで、最終的にはより大きな自尊と自信になることもできるので、どっちが良いも悪いも本人にしかわかりません。
私達は虫のように自信のステップを登る
自尊とは自らの意識であり心です。
心とは愛であり恐怖です。
自尊が穢されると心を閉じたり、傷を負って精神に損傷をきたします。
精神への傷は価値観や観念に影響を与え、自分の在り方や考え方、生き方にも影響を及ぼします。
そんな中でも一生懸命に生きていくのが私達人間です。
自信過剰な人は一生懸命な結果として行動し、自らを演じ、偽り、誤魔化し、思い込み、他を利用し、蜜を抽出し、喜び、タコ踊りです。
どんな形でも、他を利用してでも、自らによって自信を付けようとも、行動によって自らを変えていきます。
まるで虫のように、方向を変えても同じ方向へ突き進もうとするように、奇妙な赤青の蛍光ライトを死ぬまで目指し続けるように、緑色の不健康そうなゼリーを目指すように、自尊を取り戻して自信を付ける道を歩み続ける習性のように。
自信のステップを歩み続けるための行動は、ハマる時もあります。
私自身ハマりまくりです。思い出しても恥ずかしい限りで、全く周囲が見えておらず、自己世界に陶酔してシロップをカブトムシのように舐め続けていました。
ハマると現実に気づきにくくなります。しかし、どんな状態でも自信を得るために利益を求めるのが私達虫、いえ人間なのかもしれません。
※根拠のない自信の詳細は、根拠のない自信があるのはなぜ?根拠があったら自信ではない魂の意志 をご覧ください。
自信過剰な人はうざい まとめ
うざいと思えることはとても重要です。
自信過剰になる時もあると思いますが、事前に知識があればなっても気づくことができます。
自信にハマってエゴを過剰にする時間を減らすために、自らによって自らを信じるための行動や育みへ向かう切り替えがしやすくなります。
他によって自らを信じる材料を増やし、自らによって自らを信じる材料を作ります。
他への干渉や執着のエゴは材料増やしになる大切な一連、最終的には自らが材料を作ることで自信満々になります。
自信満々でもエゴが加わることで良かれと思った干渉が起きます。本人がどう思おうが、干渉される側にとってはエゴと執着であり、エゴとは直ぐに他を入れてちょっかいを出そうとします。
自信過剰でも自信満々でも、エゴがあるかどうかにて本当に自信があるのかわかります。
自信がある人は他に干渉せず、興味がなかったりします。
しかし、自信があるもないもない絶対的なものになった時、使命や役割として他者と関わる行動になる人もいます。
他と関わっても干渉しない人は、その人の世界を強引に変えようとはしません。
他に干渉するかどうかは、その人の世界を敬い尊重する関わり方かどうかでわかります。
自信とは個の際立てであり、能力や価値観、価値や存在確証の見出しを表すのかもしれません。
それらの見出しはわからないから見つけようとします。
わかった時、自信があると認識する必要がなくなり、あるもないもどちらでもよくなります。
自らへの信仰を意味する自信。自分を知り、自らを確立していけばいくほどに、真実を知っていけばいくほどに信仰する必要がなくなります。
他による理解ではなく、自らがどれほど自らを知っているかのバロメーターになる自信。追い求める際には自信過剰にもなるものです。
そんな時のためにも、「うざい」と思う認識を大切な気づきにされてください。
自信過剰な人によって気づく、自信の理解が深まる内容となれば幸いです。
うざいと思えることに意味があり、自信過剰な人がいることに意味があり、他によって自を知れる私達の環境はなんともありがたいものですね。
それでは、自信過剰な人は当然のようにうざいお話を終了します。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。
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