物事を信じるか信じないか。
信じるためには疑いを払拭し、信じないためには疑い進行形で。
どちらも疑いが大切な行為であり認識。
疑いを持ちやすい題材に、“スピリチュアル”があります。
見えにくいしわかりにくい、何をどう信じればいいか謎極まりないので否定したくなる。
私自身、スピリチュアルに興味も関心もない生活をし続けていたので、信じていませんでした。
しかし、あることをきっかけに信じる。そんな経験がありました。
過去を振り返るとわかる、スピリチュアルを信じることと信じないことの心理と違い。
私事ですが、スピリチュアルとの関わり方の一助となれば幸いですので、信じる信じないの狭間にある気付きスイッチをご覧ください。
Contents
スピリチュアルを信じる人

スピリチュアルを信じる人とは
A:「ねぇ、あそこに飛んでいる白いウナギみたいの何かな?」
B:「え、ウナギ?どこにも飛んでないよ、嘘じゃん」
C:「Aが飛んでいるって言ってるんだからきっと何かいるんだよ、あぁ、きっとね」
三人の会話。「それ、龍じゃね?」というのは置いといて、
変なものを見たAは信じるも何もありません。ただ本人にとっては事実、それだけです。
Bは信じない人。
Cが信じる人ですね。
信じるって難しいです。見えていないのに信じる場合、信じる対象はウナギではなく、ウナギが見えている人、または飛んでいるけど見えないという現象や出来事です。
少しわかりにくいかもしれませんが、信じる対象は自分にとって“疑いをなくせる事”です。
見えないのに、「ウナギがいるんだ、絶対に!」なんてことはできません。それは自分を信じたい別の話。
「いえ、ウナギみたいなのです」と言われ、チーン。
「いや、龍だろ」チン、チーン。
自分の中に確証たらしめる材料がなければ信じることは困難です。
スピリチュアルとは、見えない概念や波動認知による体感感受での認識が多いため、信じる材料を見つけることは、物理的で実存的なこと以上に難しいです。
スピリチュアルが事実として認識できれば、Aさんのように信じるも信じないもありません。
信じる人とは事実として認識していないけど、信じるに値する材料を持っている、または信じたい思いがあることを表します。
スピリチュアルを信じる人=信じられる人
信じる人は、信じられる材料を起きた現象や出来事に当てはめることが上手な人です。
上記の白ウナギの例だと、
「過去にUFOを見たことがあるから、それ的なやつかもしれない」
「白いウネウネが飛んでいるってyoutubeに載ってた」
「脳科学にスコトーマやRASってのがあったな。たしか情報の取捨選択があるから人によって違く見えているんだ」
など、自分にとって信じるも信じないもない、事実そのものである理解を基に信じるという具合。
スピリチュアルを信じる人は、多少なりスピリチュアル経験や、体感理解した記憶があるからこそ信じる材料を見つけられるとも考えられます。
言い方を変えると、信じられる経験がうっすらでも無意識でもある人。
スピリチュアルを信じる人は、大衆的な人ではない人が好き
スピリチュアルは大衆的と言われるものではありません。海外は場所によって大衆的ですが、日本はスピリチュアルの意味をも独特な理解なので、より一般からは離れたものだと思います。
大衆向けな普通とは違う人、それは変人や不思議な人、特異で独特な人、ポップ寄りではない人が好き。
そういった人は、スピリチュアルを信じやすくなります。
おそらく、信じる本人が大衆的ではない。
スピリチュアルを語る人はまさに大衆的ではないので、同調や同感意識も芽生え、その人のことを疑いたくないと思うことでも信じやすくなります。
このように、信じられる材料がたくさんあればあるほどに信じることが容易になります。
スピリチュアルを信じやすい人
信じる=信じられるか否かは、スピリチュアルな理解や認識がどれほどあるかで変わります。
スピリチュアルは霊性や霊能力、チャネリングやリーディングやヒーリング、オーラ霊視、占い、陰陽道、シャーマニズム、星読み、宇宙など、物理的で学術的な内容もありますが、多くは波動や魂の認知なる“体感感受”です。
そのため、思考以上にどれほど感覚や感性優位かによって信じられる材料が多くなるので、信じやすい人の特徴が表れます。
あくまで傾向ですが、一覧にまとめたものをご覧ください。
- 感覚や感性優位
- 女性
- 右脳の利用頻度が高い
- 思考の使い方が端的で局地的
- 固定観念が少ない
- アート、心理、数学、哲学など創作と洞察好き
- 子供(または子供っぽい)
- 素直で柔軟
- 恐怖が苦手
- 愛が好き
- …
魂レベルや精神性云々のスピリチュアル的なことは、見方を偏らせるので抜きにします。
スピリチュアルを信じやすい人は女性が比較的多いです。
女性は男性の“理論脳”とは違い“感覚脳”であり、右脳と左脳の連動が上手なために認識幅が広く、物事に気付きやすい特徴があります。
認識が多いことで信じられる材料探しも容易となり、体感感受のスピリチュアルな認識と合わさることから、思考以上に感覚や気持ちなど“今”にフォーカスする子供や女性は信じやすくなります。
信じることが良い悪いは人それぞれなので、これは信じる材料が多い人という意味です。
※信じる対象が人の話は、人を信じる方法に本当の信じる意味がある|自覚が鍵となるトラストな話 をご覧ください。

信じる人の心理
私達人間は何かを信じる際には、信じるに値する経験や記憶が必要です。
また、「疑いたくなく」と思うことで信じやすくなります。
信じるとは結構難しいもので、如何に信じやすくするかが信じるために大切です。
ですが、スピリチュアルとは科学的に立証されたり、物理的に確証できにくいもので、物事の本質や体感と言った内側や潜在的な事柄が多いので、信じやすくすることも難易度高め。
信じやすくする材料がなければ、思い込む、自分を正当化する、信じない人を蔑む、自分を優越にして差を作るといった、信じるとは全く別物に成り変わります。
すると、信じるどころの騒ぎではなく、依存、ハマる、のっとられる、危険なにおい。全く話が変わってしまう。
スピリチュアルという信じにくい事柄は、信じる人(依存ではない)に強く表れる心理があります。
それは人、他者や自分自身を疑いたくないと思う気持ちがあること。
人を疑うとは、否定・排他・攻撃性のある反応でして、恐怖を内包する心理を表します。
そのため、恐怖を抱える自分に違和感があり、恐怖の反対である愛に調和がある。
言い方を変えると、愛を持って人を思う。
同時に、何かしらスピリチュアルを体感する経験を実はしており(幼少期や自覚のない潜在状態、または過去世で精通など)、信じるも信じないもない事実の認識がある。
まとめると、二つの特徴的な心理があります。
- 人を思う愛の気持ちが強い
- スピリチュアルを事実として理解している認識が実はある
※信じるではなくハマる人の詳細は、スピリチュアルにハマる人に知って欲しい│特徴と心理に心鷲掴まれる共通点 をご覧ください。

スピリチュアルを信じない人

スピリチュアルを信じない人とは
次は信じない派です。
信じないことは自分の記憶や経験に素直で誠実であることを意味します。
上述にてお伝えしたように、信じるに値する材料がなければ、思い込みや依存にて信じるとは別物になり、自分を見失います。
すると、我欲の解消や苦痛をなくす利益のために、スピリチュアルを利用することも起きます。
スピリチュアルを信じない人は明確に過去の記憶と経験によって価値観を作り、物事を見て・感じて・考えて・思い・想う認識をします。
そのため、他の意見に揺さぶられ、翻弄されることが少なく、軸を持って基盤を強く構成しています。
根を張ってムムムという強さですね。
信じる理由がなければ私達人間は信じることはできませんので、信じないとは極自然なこと。
信じる方が少し特殊。
ただ、疑いが入ることで二つのタイプが表れます。
スピリチュアルを信じないタイプ
疑いの作用、信じない二つのタイプを作ります。
- 自分を敬い、否定しないタイプ
- 人を思わず、否定するタイプ
タイプごとに詳細を見ていきましょう。
1、自分を敬い、否定しないタイプ
信じないことは疑いが晴れないことでもありますが、信じるも疑うもない状態でもあります。
わざわざ、信じるvs信じないと対極してバトルする必要はないので、スピリチュアルという概念や認識に対して自らの認識を持って向き合います。
「信じられる材料がない。じゃあスピリチュアルは信じない」
シンプルぅー。
自分を信じる気持ちが強く、自尊や自信があり、敬いの気持ちがある人間性。
信じる材料を持っていないだけであり、自分を信じているので、それを他者に押し付けることはせず、否定しないタイプです。
2、人を思わず、否定するタイプ
もう一つのタイプは、疑ってやまない状態です。
言い方を変えると、疑いたい。なので、否定したい。
信じられる材料がなければ疑いは晴れませんが、疑いを晴らす気はなく、疑うことに喜びを感じている状態も人によっては考えられます。
否定する心理は物事を拒否して、人を拒否する在り方です。
自分を信じていれば他者に押し付けることはありませんが、他者を信じず、自分をも信じられないことで、物事の認識は大多数の安泰に身を委ねることをします。
社会性、常識、大衆意識、統一思想、合理主義といった時代の流行りに従います。
従うので疑心も何もない従順意識を持ち、大多数の中で保身を得ることを邪魔される場合には攻撃すらします。
人を思う気持ちがない恐怖優位の心理で、自分も他者も思わず、大多数や大衆に身を準ずるというルールにハマる状態です。
言い方を変えると、スピリチュアルを信じる人が思い込みや正当化に走った時の依存やハマる状態、その大衆版。
スピ版ハマり vs 大衆版ハマり
お互いに排他や攻撃性を持ち、戦いは勃発します。
※スピリチュアルを信じたくないごもっとも話は、スピリチュアルが嫌いで苦手│好きでもどちらでもない人が知る理由 をご覧ください。

信じなかったスピリチュアルを信じるようになった経験

私が子供の頃、家族の中に独自で占いを学んで創り出している人間(以下“彼”と称します)がいたので、訳わからない感が強まり、否定することすらありました。
そのため、私自身はスピリチュアルに興味はなく、信じてもいませんでした。
月日が経ち、彼はもう占いをやめていた頃、私にあることを話してきました。
「あの数日間、あることが起きたんだよ」
それは遡ること約半年前の話でした。
彼は病と中毒と精神崩壊にて精神病院に担ぎ込まれる。いきなりセキュリティマックスの病棟、「もう命はないと思った方がいい」と病院からは言われる状態、先は短いようでした。
お見舞いに行くと、何重にも頑丈なドアを超えていかなければ病室にすら届かず、まだ子供だった私は、「ヤバいとこだ」としか思えない場所。
意識はほとんどなく、廃人となった彼。
一ヵ月ほどした時、病院から家に電話があり、危篤宣告。
あと数日の命と医者は私に伝えました。
そして数日後、再度病院から電話、ジリリリリ。
電話に出ると医者はパニックでした。
「すいません!今すぐに病院まで来てください!説明ができませんので今直ぐ来てください!」
「もう死んだ」という連絡かと思っていたのですが、状況がわからない。わかったのはただ事ではない何かが病院で起きていること。
直ぐに病院へ向かうと、彼に会う前にお医者さんに別室へ連れていかれ、起きたことを伝えられました。
「数日、もって三日の命だと判断して、危篤の連絡をしました」
「ですが、今直ぐにでも退院できる状態になっています」
「は??!!!」
意味が…。子供だからとかではなく、私は意味がわかりませんでした。
「私達も全く理解ができないのですが、病気も症状も治っています。何故かは全くわかりません」と医者は続け、一緒に彼の元へ向かいます。
すると、お見舞いで見た彼とは完全なる別人の元気で笑顔な人がいる。
「おぉ、よく来たね」ニコニコ、いやヘラヘラ。
笑って話している彼に、医者も戸惑いを隠せず。
彼は、「もう元気だから、このまま家に帰っていいかい?」と言い、医者は、「いや、状況がわからないので、もう少し様子を見させてください」と。
その一週間後、彼は、「ここにいたら元気な人間でも死んじまう」と強引に出て来ました。
その様は完全なる健常者として認識している証拠でした。
本当に完治してしまった。
それから約半年したある日、彼は突然言ってきました。
「あの数日間、あることが起きたんだよ」
それは危篤状態の三日間のことでした。
「臨死体験したよ」
なぬー?!
スピリチュアルを信じるきっかけ
臨死体験と生き返った事実。
それは当時の私には想像を遥かに超えた世界の話でした。
スピリチュアルを一切信じてもなく、興味もなかった私ですが、なぜか臨死体験の詳細を聞いている時、話にのめり込んでいました。
聞いていて楽しくてしょうがなかった。もっと知りたくてしょうがない気持ちがあった。
私にとっては、その話とその時の心情が信じるに事足りる、有り余るほどの材料でした。
魂が抜ける時、異世界へ向かう時、飛ぶ感覚、向かう場所、出会う人、案内人、そして死後の世界、帰路、現世へ戻る約束、今世死後のスケジュール、あの世での仕事…。
スピリチュアルな仕組み、あの世の制度、ルール、学校、行事、社会性、まるでこの世のように存在する異の国は物質概念のない創造世界。
創造しながら生活し、他者との生活は個と個ではなく、世界と世界の繋がり、神が宿る言葉に龍の世。
まるでワンダーランド、夢の国のおとぎ話でした。
しかし絵本を見ている時とは全く別の感覚。心躍る躍動ダンスは物静かで無表情な私を質問攻めにさせていました。
医者の慌てる顔を見て遊んでいたそうで、自分の肉体への戻り方がわからず若干パニックになった。しかしその次の瞬間には元に戻った。
「まだ死ぬのは早い」と生き返ることになった経緯には、白いおじいさんとの約束があったという。
彼自身もどうして病気が治ったのかはわからないが、魂状態になった時、死後の世界を案内してくれた白いおじいさんと約束して、この世に戻ってきたそうだ。
そこに何か病気を治した理解があるのかもしれないけど、何もかも訳がわからない。でも、本人にとっては事実。
そして、私にとっても現に死んだ人間が生きている事実が残った、そして治らないと言われた病気が一瞬で消えた事実も。
この出来事によって、私はスピリチュアルを信じるようになりました。
ですが、あくまでスピリチュアルに入るきっかけとして信じたのみで、その後は実体験によって信じることは事実として経験していきました。
※スピリチュアルを信じざるを得ない体験は、普通の私がおかしくなったスピリチュアル不思議体験|世界が広がる物事の見方 をご覧ください。

スピリチュアルを信じる人、信じない人 まとめ
私が信じなかったことと信じたことを共に経験してわかったことがあります。
それは、信じることと信じないことの狭間。
間にあるものは気付きのスイッチ、自らの認識を広げる遊び心の大切さ。
信じることに確証も何も要らず、あるのは喜びを広げて楽しもうとする制限解除の心意気でした。
信じたい人は信じる。頑張って。
信じる材料がなければ信じられない。そりゃそう。
信じたくないから否定する。ご自由に。
生きるのを楽しみたいから、信じないを外してみることが、信じないと信じるの狭間です。
信じないを外す動機は、楽しみたいから、認識を広げたいから、制限したくないから。
こられは全て、自分の世界は自分で創りたいからです。
信じられる材料なんて要らない。
要るのは自分の認識と創作熱意、自分の世界は自分で創る意志。
信じるも何も本人にしか事実かどうかはわかりません。そのため、大切なことは如何に自分の世界を認識することに喜ぶかどうかではないかと私は理解しています。
今以外は全て“他”。
他から確証を得るのではなく、スピリチュアルを信じるも信じないも自ら創ることが今を創造するこの世の仕組み。
それをスピリチュアルと言うのかもしれません。
信じることも、信じないことも推奨しないこの内容。
スピリチュアルとは本質を創る体感であることから、自分自身の意志を把握する一助となれば幸いです。